その日。僕、鈴木愛理が、平日の昼間ではなく、わざわざ混んでいる休日の水族館を選んだのは、単なる偶然だったかもしれない。
職場の同僚からもらった優待チケットの期限が近くて、あやめと都合を合わせて来ようと思っているうちに機を逃し、結局今日になってしまった。混雑が若干憂鬱だったとはいえ、もらった同僚に悪いし、まあ一人でも別にいいか、と思いながら、名古屋港の海風に晒された道を歩く。
だから、それは本来起こりうるはずのない出会いだった。
この僕が、有給まで使って繁忙期でもある休日の仕事を休み、静かな場所ではなく賑やかさの溢れかえる観光地にわざわざ出向くなんて。あやめのためならともかく、一人きりでの休みの過ごし方としては、到底取り得る選択肢とは思えない。
でも、最近は新しく出来た友達を連れて遊びに行くことも多かったから、ついそういう気分になったのかな。
ともかく、そうじゃなきゃ、社会人のボクと小学生の
話を戻そう。
入口の前の階段を上り、チケット売り場に並ぼうとした時。ボクはカウンターの前に、異様な眺めを発見した。
小学生くらいの子が、一人でチケットを買おうとしている。保護者でもいるのかな、と思ったけど、どうやらそうではないらしい。どことなく背伸びをした感じでツンと澄ましているし、セーラーテイストで纏めたコートや服装も随分とお洒落だけど、どっからどう見ても小学生。綺麗めの黒っぽい髪が、男の子か女の子かをよく分からない感じにしている。
そして、その足元に、猫。ちょっと大柄な、ベンガル猫がいた。
(……いや、水族館に猫連れて来ちゃダメだろ)
カウンターからは見えないからか、係の人は何も突っ込まずに、チケットとパンフを渡している。
それどころか、その周りにいる人全員が、そのヒョウ柄猫の存在に、気付いていないっぽかった。
……あんなに目立つのに?
そういえばだいぶ前に、別件だけどもあやめから似たような話を聞いたことがある気がする。自分には見えているのに、他の人には見えていなかった、という。
(あはは、まさかね……猫の幽霊なんて)
いくら猫好きでも、猫の幽霊はご勘弁願いたい所だけど、さらに驚いたことに、不思議なベンガル猫はあの子の連れだったらしい。目を丸くする僕の前で、その子は猫を引き連れると、混雑したチケット売り場から階段脇の方へ歩いてきて、何かを言い聞かせていた。
そこまで考えて、ふと先日、ハロウィン仕様の紫シチューを作った日のことに、僕は思い当たった。
あやめがアパートのエントランスで、ヒョウ柄の猫を見たとか言ってなかったか?
果たしてこれは、偶然か。それとも。
興味に駆られて見ている僕の目の前で、制服っぽい服を着たその子が、人差し指を突き出す。鼻先で匂いを嗅いだ猫は、すうっとカメレオンが変色するみたいに、その場から姿を消してしまった。
(えっ……えっ???)
色々あって不思議なことは見慣れたつもりでいたんだけど、さすがに驚いた。
どうやらあの子には、透明になった猫の姿が見えるらしい。下っていく階段の方を、見送るように眺めていた子供は、やがてチケットを手に踵を返すと、すたすた水族館に入って行く。
「……ふぅん? 面白いじゃん」
何故だろう。何となく、喧嘩を売られた気がした。
ベンガル猫を連れ歩く子供なんて、そうそうない。それも、あんなに人語を分かっているかのように躾が行き届いてて、しかも透明化する猫なんて。
どういうからくりか分からないけど、あの日シチューを作っている間に「何か」が変わったように感じたのも、きっとあの子が僕の近くで、こっそり不思議な事をやらかしたからなんじゃないのか? 猫を透明猫にできる力の持ち主なら、何をできたっておかしくはない。
それを、目的も何も黙って、僕の前からこっそり去ろうとするなんて。ちょっと水臭いが過ぎる。どっかの世界に居た、恩着せがましくも変に遠慮がちなところのある、そういう誰かさんのことを、なんだか思い出して。
すぐに入れるチケットを持っていたおかげで、ちゃっかり後を追うことが出来る。
その子は、まだ入り口に近いところの、ベルーガの水槽の前にいた。真っ白な、人魚にも見間違えられたことがあるって言われている、イルカの仲間。
ぱかぁ、と口を開いて空気の輪を吐き出すベルーガの、まるで笑っているみたいな顔を見て、子連れ客の子供たちはきゃっきゃと大ウケしているのに、その子は張り詰めたほど泣きそうな顔をしていて、僕は思わず息を飲んでしまった。
白い光の反射する水槽の最前列で、身動きすることもなく、ぽつりと一人きり。艶やかな髪に降って来る水中越しの光が、天使の輪みたいに輝いていて、綺麗なのにとても寂しそうだった。藍色に憂いを帯びた瞳も、濃い肌の色も、まるでベルーガと対話している少年のようで、まるでその一角が一枚の絵みたいな美しさなのに。
深海に沈んで行ってしまいそうなその後ろ姿に、思わず僕は手を伸ばしていた。
「ねえ。どうしてそんなに、寂しそうな目をしてるの?」
「え……っ」
声を掛けるつもりじゃなかったのに。気が付いたら、そんな言葉が口をついて出ていた。
振り返ったその子が、驚きに声を詰まらせながら、星が零れそうな瞳で僕の目を見上げる。僕よりもっと鮮明な青をした、褐色の肌によく似合う瞳。しん、と僕らの周りにだけ、静寂が降りたみたいだ。
「……」
「あ、んた、なんでここに……」
小さな唇をぽかんと開いて、ボロを出したのは向こうが先だった。混雑している中で辛うじて聞き取れる小さな声だけど、たしかにそう聞こえた。僕を知っているも同然の発言だ。思わずほっとして、微笑みが出てしまう。どうして僕がこの子を知っていると言えるのか、何の確証もないのに。
「てことは、やっぱり君だったんだ」
「な、何が」
「この間、僕がシチューを作ってた時に、いたんだろ。うちの近くにさ」
まさかそこまでピンポイントで問い詰められると思っていなかったのか、男の子はたちまち耳まで赤くなったまま、ぱくぱくと口を開いたり閉じたりする。ちょっと特徴的な声だけど、聴いたら今度ははっきりと、男の子だと分かった。
僕の方は完全に面白がっているんだけど、彼はパニックのあまり必死みたいだ。こっちを睨んだまま、泣きそうなぐらいに慌ててしまっていて、なんか可愛い。
「な、何!? だったら何さ!? ボク別に、何も悪いことなんかしてないけど!? 証拠もないのに、変な言いがかり付けたって、あんたに払ってやる慰謝料なんてないからねっ!」
「ぶっ。い、慰謝料……んな大げさな。はあ、笑った。ごめんって。悪いことされたなんて言ってないだろ。むしろ、何かしてくれたんなら、お礼を言わないとと思って」
「……いいよ、お礼なんて。どうせ、あんたは信じないから」
明らかに向こうは僕を知り合いだと思っている様子なのに、本格的に不審者認定されてしまったのか、ふいっと顔を背けた男の子は、にじりにじりと距離を取りながら、連絡通路を通って南館へ走って行ってしまう。
おお、小学生のくせに、わざわざ混雑してる北館を避けて南館から回るなんて、よくわかってるじゃないか。……そういうことじゃないか。
***
(う、うそ……愛理にバレた……なんで……? ってか、なんで一人でこんなとこ来てるんだよ!?)
頭の中で、八つ当たりと疑問がぐるぐるする。
そんなボクの気も知らず、愛理はのんびりとボクの隣で、その羨ましいぐらいスタイルのいい体を屈めながら、水槽を覗き込んでいた。
「おっ。タコだ。すごいな。この辺穴場だけど、結構見どころあるよね」
「……」
「ちなみにそのヒトデがいるところ、潮だまりって言うんだけど、満ち潮と引き潮の時の差で、海水が取り残されて出来るらしいよ」
「……ねえ、あのさ。ボクはいいって言ったのに、なんで付いて来んの? 今日デートだろ?」
「残念ながら、日程が合わなくてね。独り身同士、仲良くやろうぜ」
「何してんの。折角、仲直りさせてやったのに……」
あの日使ってしまった魔法を仄めかすようなことを言っても、愛理は黙って微笑んでいる。人のプライベートを覗かれて、危ないとか変なガキだとか、そういう風に思わないのかな。
思えば、前の世界で会った時から、そうだった。愛理は、何を考えてるのかよくわからない、のらりくらりとした奴で。そのくせ、妙にしつこくて、人の手を放そうとしない。
結局、ぐるりと見て回って、北館にあるイルカプールの水中が見られる水槽の前まで、戻ってきてしまった。広い大きな水槽の前に、地べたに座れる絨毯が敷かれている。
隣に座って、青いスクリーンみたいな水槽を見上げたままで、愛理は言った。
「ねえ。さっきはどうして、ベルーガを見てあんなに寂しそうな顔をしてたの?」
「……」
「別に、無理に聞き出そうとは思わないよ。ただ、なんていうか、ちょっと変なことが起こるのには慣れてて。あの猫、君のなんだろ。あやめに聞いたよ。ヒョウ柄の鞄背負った猫がいたって。水族館の入口で見たから、思わず追い掛けちゃってさ。
なんかあの時から、姿は見えないのに誰か近くにいるっていうか、……君を見た時も、初めて会った子って感じがしなかったんだよね。懐かしくて」
「……」
それはそうだ。ボクは愛理のこと、知ってるもの。
けれどそれは、この世界においては、ボクが一方的な知り合いだという事実に過ぎなくて。今目の前で、仲良さげに尾びれや背びれを突っつき合って泳いでいる、イルカみたいのとは訳が違うんだ。海の中では、それで仲良くやれるのかもしれないけど。
どうやって近付いたらいいのか、近づいてもいいのか。天使の善行みたいに、一回きりの関係じゃなかったら、近づいてくる人の何を信じてどう大切にしていったらいいのか、ボクには今でも自信がない。
上手く説明できないまま黙っていたら、愛理はゆるゆると溜め息を吐く。
「知らないんだったら、これから知っていけばいいだけの話さ。
君は、僕達のことを知ってる。そうだろ? そろそろ、そっちの名前くらい教えてくれてもよくない?」
マリンブルーのだぼっとしたセーターに、愛理は細い首を埋めて目を細めていた。
名前を教えて、どうしろって言うんだろう。友達にでもなる? こんなに年が離れていて、話せないことだって、いっぱいあるのに。
……でも、きっとそれは、サキを前にしたとしても同じこと。ボクは、ボク自身は、どうしたいんだろう。
「……ボクは、夜羽。夜に羽で、夜羽」
「やっと喋ってくれた。さすがに不審者で通報されたらマズいから、引き潮時を考えないとなと思ってたんだよね」
「その割には、あんたけっこうグイグイ来てたみたいだったけど」
「しょうがないだろ。そうしないと、また逃げられちゃうって思ったんだからさ。……何でかは分からないけど。君お得意の、その魔法で?」
思わず顔を上げて目を見開いたら、逆に愛理に驚いた顔をされてしまった。
「……ちょっとカマかけただけだったのに。君って本当に、魔法使いなんだ」
「えっ。いや、あの、その……!」
「ふふ。随分かわいらしい魔法使いもいたもんだ」
「か、可愛いとか言うなっ。……ボクは、格好良くなりたい。愛理、みたいに」
「僕?」
あ、しまった。こんなこと、言うはずじゃなかったのに。
案の定、愛理の顔がにまにまして、頭をぐりぐり手で撫で回された。
「このこのぉ。マセガキのくせに、随分素直なことも言うじゃないか。ん???」
「う、うるさい! それ以上撫でたら本当に通報してやるからな!」
「うわ、ちょっ、社会人一人がお守りについてる状況で、通報とか大声で叫ぶなよ! 誤解されるだろ!」
周りを見て焦る愛理の姿に、思わず笑ってしまった。
まったく。あんたなんて、とっくの昔から変人だよ。
そう思ったら、どうしてかわからないけど、何だか泣きそうなぐらいほっとして――伝えられないありがとうを心で呟く代わりに、ボクは愛理の隣に肩を並べてくっついたまま、口を開いた。
「……いなく、なるのかなって」
「ん?」
「ベルーガは、人魚のモデルなんだろ。ボクも消えて、……泡になって、いなくなるのかなって。大事な人を、見つけられないまま」
さっきの質問の答えだ、と察した愛理が、黙り込んだままでボクの肩を抱いた。
支離滅裂なことを言っているのに、いつもみたいにバカにする気配はない。涙ぐんだボクの頭を撫でたままで、愛理が優しく言うのが聞こえた。
「誰か探してるの?」
「ずっと……会いたい人が、見つからないんだ。絶対見つかるって分かってるのに、このまま会えなかったらどうしようって、不安になる」
「……。その人も、夜羽のこと、逢いたいって願ってるのかな」
「……わからない。ボクのことは大事にしてくれたけど、もうボクを覚えてくれてるかどうかは、わからないから」
「それなら、きっと見つかるよ。魂の奥底から、大事だって思った人の記憶は、そう簡単に忘れられるものじゃないもの。それに」
青い光がゆらゆらする水槽を地べたで見上げながら、わかったようなことを愛理は言う。涙を拭って見上げたボクに向かって、愛理はとっておきの悪戯っぽいニヤリ顔を浮かべていた。
「人魚のモデルになったのは、シロイルカのベルーガじゃなくてジュゴンだよ。だったら夜羽も、泡になって消えることはないね」
「……もしかしてあんた、それを伝えたくてずっとボクを追い掛けてきてたの?」
「だって、あの水槽の前で説明しようと思ったのに、ヨルハどんどん先に歩いて行っちゃうんだからさ」
「そ、それは! こっちだって、あんたに絡まれたらどうしたらいいかわかんないからっ……!」
思わず大声を出して突っ掛かると、愛理は隣から得意げな顔でボクを見下ろしたまま笑っていて、ムカついたけどボクまで普通に笑ってしまった。お人好しっていうか、何ていうか。自分の休みに来てるはずなのに、得体の知れないボク一人のために、よくそこまでする気になれるよね。
腕時計を見た愛理が、子供みたいにボクの肩を揺する。
「あ、ねえ。そろそろ最後のショーの時間だよ。上行ってみない?」
「は、はあ? ヤダよ。ここでまったり眺めてたらいいだろ。あんなでっかくて、人のゴミゴミした場所にわざわざ行かなくたってさ」
そういえば、確かに人の流れが、上のホールに向かっているような。
慌ててそう言ったのに、自分でも気付けないほど微かにそわそわしたボクの感情を見抜くみたいにして、愛理がいたずらっ子の顔で覗き込んだ。愛理の方が、よっぽど魔法使いなんじゃないかな。
「なんで? イルカショー、見に行こうよ。席取るなら今だぞ」
「い、いい。別に。そういう、ワーとかキャーとか言うの、ボクの柄じゃないし」
「じゃあ、僕に付き合って。大人になってから、水族館のイルカショーなんてそんなに見た事ないんだよ」
お前幾つだよ、って仕草で、見下ろした愛理が小首を傾げている。
子供のボクを連れてなら、という大義名分。言い訳がましく見えるけど、本当はボクのちっぽけなプライドを考えてのことだ、と分かる言葉に、ボクはしぶしぶ差し伸べられた手を取って立ち上がった。
「あ、あんたが見たいって言うんなら、しょうがないね」
「ヨルハはなんかないの? 他に見たいものとか」
自分が付き合ってもらうから、代わりに付き合ってやる、ってこと?
顎に手を当てて考えるボクの頭に、来る時に気になっていたアレが横切った。
「……観、覧車」
「ああ、外にあったあれか」
「い、いやなら別にいいけど」
「いいね。帰りに寄ろう。あれこそ、一人じゃ乗る気しないからなー」
あっさりと約束を請け負われてしまったことが信じられない気持ちで見上げたボクの腕を、笑顔になった愛理が勢いよく引く。
力強く尾びれで水を蹴ったイルカの群れが、一斉に上へと向かう。その後を追うようにして、ボク達は手を繋いだまま、冷たい風の吹くメインプールの観覧席へ走った。