「それからの彼女は授業に身も入らず、ただ虚無だった。そして、その日もまた、一輪の紅い花が押し潰されたかのように散っていたそうな────」
僕は、ぱたんと本を閉じて彼女に語りかける。
「······とまぁ、こんな物語だ。いかがだったかな?」
そうして振り返った先で、彼女は静かに涙を流していた。
「ふむ。······どうかしたのかね? この物語を聞いて悲しくなったのかい?」
そう質問をすると、彼女は泣きながらも顔を上げて別の質問を返してきた。
「──間違ってたらごめんなさい。この物語って······『私の』物語ですよね?」
「······ほう? 記憶を取り戻せたのかい!? そうさ。これは君の辿った物語だったものだよ」
微かに驚きながらもそう答えると、彼女は再びの涙とともに後悔を口にする。
「あの時······彼を無理矢理でも引き留めていればこんな事にはならなかったのに······」
そうして目を伏せた彼女に、僕は問いを投げかけた。
「結末を変えたいかい? この救い無きバッドエンドを······変えたいかね?」
「変えたい!! ──私はどうなっても良いから······彼を助けられさえするなら······私は悪魔に魂を売ってでも、あの結末を変えたい!!」
瞬時に返された答えを聞いて、多分だが僕の顔は喜ぶように、凄く悪い顔をしているのだろうと思いながらも、表情を変えずに願いの対価を思索する。
「······君の決意は良く分かった。結末を変えたいのならば後ろの扉から行くといい。──君の決意に免じて、今回の対価は、そうだな······ハッピーエンドで手を打とうか」
告げると同時に、パチンと指を鳴らすと、彼女のすぐ後ろに他とは微かに色の違う扉が出現する。すると彼女は扉を蹴破らんばかりの勢いで押し開けて、その先に広がる闇へと走って行った。
「さて、ここからは傍観するだけだ。──飽くまで僕は観測者だからね」
「はっ、はぁっ」
私は図書館の扉をくぐり、扉の先にある真っ暗な一本道を全力で走る。
道は来たときのものと同じく先が見えない程に暗く、しかし不思議とまっすぐ進めば辿り着く。そんな気がしていた。
「はあっ、はあっ、はぁッ」
どれほど走り続けただろうか。気道は乾き、腕や足には疲れによる痛みを感じる。
同時に、このまま辿り着けないのではないか。そんなマイナスな考えが生まれ、全身から少しずつ力が抜けていく。
瞬間、踏み込んだ足場が消えたかのようにゆっくりと体が前に倒れこむ。
反射的に受け身を取ろうと地面に手をつくが、疲れ切った腕では自重を支えきることは敵わず、私の体は勢いよく地面に叩きつけられた。
長い時間走ったことによる疲労と叩きつけられた痛みがごちゃまぜになり、私の意識すら持っていかれそうになる。
「まだ······諦めない。······折れてやるもんか」
プルプルと震える腕を支えに、なんとか自身の体を起こし、立ち上がる。
「······あれ?」
しかし、一歩を踏み出したと同時に再び崩れ落ちた。
これで終わるのなら、あの時にキスのひとつでもしておけばよかった。と後悔する。
──瞬間、カランという音とともに黒の空間に小さな赤い光が出現し、私はそれに手を伸ばす。
それは私の手に収まると同時にどんどん光を強めていき、視界を覆い尽くす。
ぽつり。と肌に冷たいものが触れ、私はいつの間にか失っていた意識を取り戻す。
そこはいつも見ていた町並み。あたりは薄暗く、空は暗雲に覆い尽くされている。
「······雨?」
私がつぶやくと同時に、ぱらぱらと雨粒が増えて、あっという間に纏っていた衣服をびしょびしょに濡らす。
「──不味い、雨降ってきた」
僅かに後方から聞こえた聞き慣れた声は、私の心に優しく染み込んでくる。
「キョウ······くん?」
「コウ、どうかしたの? ──ま、いいや。とりあえずコウの家まで走るよ!!」
再び鼓膜を震わせるその声は、この世界を夢かと疑った私に、確かな現実であると理解させるには充分だった。
「コウ、ほんとにどうしたのさ。······とりあえず走るよ!!」
力強く繋がれた手から感じる彼の温もりは、悲しみしかなくなっていた私の心にそれ以外の感情(いろ)を取り戻させた。
「! ······うん!!」
涙声ながらに絞り出したその一言を、彼は疑問に思うだろう。でも、それでもさっきまで失っていた喜びの感情(いろ)は、私の中に隠しきれない程に大きくなっていた。
彼に引かれるままに雨の中を走り抜けて、運命の分岐点となるであろう私の家に辿り着く。
「······それじゃあまた明日。風邪ひかないよう体に気をつけてね」
サッと身を翻し、出ていこうとする彼の手を掴んで呼び止める。
「待って!!」
「······どうしたのさ? コウ、さっきから少しおかしいよ?」
さっきの外での事も相まって、彼からは疑問だけでなく、少しだけ怖がられている様にも感じた。
だが、その程度のことを気にしてられる状況じゃない。彼の生死がかかっているのだからと覚悟を決め、伏せていた顔を上げて彼の目を見る。
「······あのさ、両親が明日までいないから泊まっていってよ。雨も酷いし──私も寂しいし」
あの時は恥ずかしくて胸の内に隠していた言葉を紡ぐ。
正直な所、恥ずかしくてすぐにでも目を逸らしたい。だが、あの未来を防ぐためには一歩も引くことはできない。
「──駄目······かな?」
玄関が沈黙に包まれる。あの時の喪失感が頭をよぎり、同時に無限にも思えたあの悲しみが蘇り、だんだんと視界がぼやけていく。
それからどれくらいの時間が経っただろう。ドクドクと脈打つ心臓が彼に聞こえるのではないかという程にうるさく思う。
「······分かった」
一瞬にも永遠にも感じる沈黙の中、不意に彼は言って、外に向けていた足を中に戻した。
「······いいの?」
「ああ、泊まってくよ。······でも母さんに連絡だけさせてくれ。変に心配されたくないからさ」
そうして、彼が私の家に泊まることになった。
──結論から言うと、彼が死ぬことはなかった。
一応、事件自体は起こったのだが、死傷者は無く、犯人が捕まっただけだと翌朝のニュースでやっていた。
······犯行に使われた刃物も発見されたが、刃の部分が二つに割れていたとだけ報道された。
学校で聞いた噂では、通り魔が刺しに行った相手が武道あるいは格闘技のプロだった。とか、自衛隊の人だったとか様々なものがあるが、真実は分かっていないそうだ。
「······それから彼らは何事もなく卒業し、結ばれて二つの子宝と共に暖かく幸せな家庭を築いたそうな······」
物語が終わり、あとがきを読もうと残りのページをめくっていく。すると、あるページで手が止まった。
「ほう? 結婚式と家族の写真か。
······挿絵には最適だね。そういえば彼の名前──桔梗には『永遠の愛』とか『誠実』。彼女の花、千日紅には『色あせぬ愛』と『不朽』。それぞれ花言葉があったね」
本を閉じ、棚にしまう。
やはりハッピーエンドも悪くはないなと思いながらいつの間にかテーブルに置かれてあった紅茶をすする。
「それにしても、互いの心が離れぬように。と『名付けに用いた花のアクセサリーをエンゲージリングとして使う』というのも中々に特殊なものだよねぇ」
全くこれだから人間というものは面白い。くつくつと笑みを溢しながら次の本を手に取った。
「さて、次の客人は何時如何なる物語を持ってきてくれるのか──楽しみだよ」
そんなつぶやきは果ての見えない吹き抜けに吸い込まれていった────────