その日、カルネ村にほど近いトブの大森林の中で、ルプスレギナ・ベータはひとつの小屋を見つけた。
カルネ村の周辺の散策はルプスレギナの日課である。
そのため周辺に潜む村の脅威になりそうな生き物や魔獣には特に注意を払っている。
だが、
丘の斜面に張り付くように作られたその小屋は、草木に埋没していて山の一部と化している。
ナザリック地下大墳墓の壮大で美麗な建築物に親しんでいるルプスレギナから見れば、それは小屋というよりゴミ置き場、あるいはゴミそのものにしか見えなかった。
ルプスレギナの影が薄くなり、やがてその姿が完全に消える。
不可視化の魔法を使ったのだ。
火をつけたらよく燃えるだろうと思いながらルプスレギナは、ガラスのない枠だけの窓から中を覗き込もうとして――、
「誰だい、そこにいるのは?」
小屋の中からしわがれた声をかけられた。
ルプスレギナは不可視化の魔法を使っている。
そんな彼女を感知できるのはナザリックの者たちを除いて他には居ない。
他に感知できるものが居たら、それはナザリックにとって
ルプスレギナは大きく殺意を膨らませながら、声を発した存在を慎重に確認した。
それは年寄りの人間の女だ。
腰は曲がり杖をついて、歩くのもやっとという枯れ枝のような老女である。
ルプスレギナは
魔法を使いそうな気配はない。
手に握りしめられた粗末な杖以外に武器らしきものはない。
薄汚い小屋の中にも脅威を感じさせるものはない。
不可視化をしたルプスレギナに声をかけたことを除けば、脅威になりそうな要素は何もみつからなかった。
(
戦闘能力が皆無に見えるのは、何らかの探知阻害をしているのかも知れない。
至高の御方は、そうして敵を
老婆はルプスレギナの目を欺くだけの力を持っているのだろうか。
そうだとすれば、この枯れ枝のような老婆はルプスレギナが勝てない相手だということになる。
ルプスレギナは緊張で全身の体毛が逆立つのを感じた。
それから次の自分の行動を検討する。
ルプスレギナの不可視化を見抜く存在がここにいた。
少なくとも、その情報は手に入れた。
僅かでも情報を得た以上、すぐにナザリックに情報を持ち帰るのが
しかし、ルプスレギナの戦闘メイドとしての
内なる好奇心を抑えられなかったという部分もある。
気付かれている以上、無言でいるのも悪手だろう。
相手に襲い掛かるのは敵意を確認してからでいい。
「いやー、ちょっとここいらを散歩してたんすよ。そしたらこの家? 小屋? ま、とにかく、ぼろぼろの建物が目に入ったから見に来たっすよ」
相手の力量が分からないという不安があったためかも知れない。
ルプスレギナは普段よりも多弁になった。
「……そう。そうかい。こんなあばら家にお客さんが来たことなんてなくてねぇ」
ルプスレギナの言葉を
「とりあえず、お茶を出すから、そこに座っておくれ」
「いやいや。別にお構いなく」
ルプスレギナは辞退したが、老婆は湯を沸かし茶を用意しようとする。
外の世界は湯を作るのにも酷く手間がかかるようで、老婆はあれやこれやと小屋の中を行き来した。
すぐに湯が用意できるナザリックとは雲泥の差だ。
そんなナザリックを作り上げた至高の御方の偉大さをルプスレギナは改めて感じる。
「こんなものしかないけれどねぇ……」
粗末なテーブルの上に老婆はよろよろと欠けた湯呑みを置いた。
湯呑みの中には薄く色のついた湯が満たされているが、どうやら毒ではないようだ。
勿論、ルプスレギナは手に取るつもりも飲むつもりもない。
老婆の方を見やると瞳が白く濁っていることに気がついた。
「もしかしてお婆さん、目が見えないっすか?」
ルプスレギナの問いに老婆は薄く笑いながら頷いた。
この地方を治めているリ・エスティーゼ王国の王子が、前にこの周辺で狩りをしていたとき、彼女のせいで獲物を逃がしてしまい、従者に顔を酷く打ち据えられたらしい。
それから次第に目が見えなくなっていったのだと言う。
「ご挨拶をしようとしただけなんだけどねぇ……」
老婆はしみじみと語るが、ルプスレギナには何の感慨もない。
外の人間の身の上話など、ナザリックの住人にとっては無価値だ。
「よっこらしょっと」
ルプスレギナの真向かいの椅子に老婆が腰掛ける。
「もう足腰が弱っててねぇ……腰を降ろさせてもらうよ。お嬢さんも座ってくれていいよ」
ルプスレギナは立ったままで座ろうとはしなかった。
元から座る気もない。
「目が見えないのに、どうして私が居るのが分かったんすか?」
ルプスレギナは最も重要な質問をする。
これさえ知れば後のことはどうでもいい。
老婆の命さえも。
「小さいころからね。誰がどこにいるかが分かるんだよ。気配、って言うんだろうね。分かるのは生き物だけだから……」
以前、絶対的支配者である
この世界にある
ルプスレギナがそう推測しているときも、老婆の話は続いていた。
「王子様たちに気づいたから、ご挨拶しないと失礼だと思ってね。そうしたら王子様たちを脅かしちゃったみたいでねぇ……」
老婆の話には気にも留めず、ルプスレギナは小屋の中を見回す。
廃材を組んで作った棚に、いくつかの食器が並んでいる。
その周りに干し肉が無造作に吊るされてあり、棚の周りには木の実や根が入れられた籠と水瓶がある。
寝床らしき一画には枯葉を敷き詰めた上に白とも茶色ともつかない色の布が畳んでおいてあった。
なんとも粗末な環境である。
「お婆さんは、ここで一人暮らしっすか?」
「この近くにカルネって村があるんだけど、そこに息子夫婦がいるはずだよ。孫が可愛くてね。しばらく会ってないねぇ……」
「どーして息子さんたちと一緒に暮らさないっすかー? ここじゃ大変じゃないっすか?」
ルプスレギナが老婆に話を合わせる。
「
そう言って老婆は皺だらけの顔で笑った。
「カルネってそう豊かな村じゃないからね。いろいろ理由をつけて村を出て、ここに住んだんだよ」
どうやらここは猟師が使っていた小屋のようだ。
老婆が移り住んでから誰も来ることはなかったらしい。
今日、ルプスレギナが現れるまでは。
「ひとりでこそこそ生きるくらいなら、この森でもできるからね。罠を使えば肉だって手に入るし」
場所を覚えているのだろう。
老婆は吊るしている干し肉を指さした。
「この力には助かってるけど……王子様を怒らせたのも、この力のせいだしね。……ややこしいもんだね」
茶で口が潤ったのか老婆の声は少し滑らかになっていた。
だが、それを聞いているルプスレギナにはなんの感慨もない。
人間の悩みなど興味の埒外だ。
「それで、目は今どうなんすかー? 全然見えないんすかね?」
ルプスレギナは老婆の前で手を振ってみる。
「前は影くらいなら見えていたけどねぇ。今じゃさっぱりだね。……ああ。朝と夜くらいは分かるから寝たり起きたりするには困らないよ。あとはちょっと動くと頭が痛くなるくらいさ」
「それは不幸中の幸いっすねー」
二人は笑い合った。
やがてルプスレギナの笑みが邪悪なものへと変わっていく。
この老婆を使って新しい遊びができると気付いたからだ。
老婆がカルネ村の住人ならば
だが、彼女は村人ではなく森の住人だ。
それはルプスレギナが守護する範囲外の存在であることを意味していた。
「カルネ村だったら場所を知ってるっすから、なんだったら息子さんを探してあげるっすよー」
苦労が刻まれた顔が一瞬だけ明るくなり、すぐに元に戻る。
「ありがたい話だね……。でも、いいよ。向こうだってカツカツで生きてるんだ。今更、
「まあまあ、そう言わずに。きっと息子さんだってお婆さんに会いたいって思ってる筈っす。なんだったら知り合いに頼んで、その目も治してあげるっすよ」
老婆は見えない目を大きく見開いた。
「な、なんで? そんなことを? そんなことされても、私も……息子だって払えるもんなんてないよ」
「うーん。縁ってヤツっすかねー」
「縁……かい?」
「それに人間とは仲良くやるように言われたっす」
「……人間?」
ルプスレギナは答えない。
だが、申し出が魅力的なことは間違いないようだ
老婆はすがるような表情を浮かべ、何度も口を開こうとしては閉じることを繰り返していた。
枯草のような老婆が思い悩む様はルプスレギナを楽しませる。
「……そんな親切な話……聞かせてもらっただけで十分だよ……。ありがたいけどねぇ……」
それでも老婆の口から絞り出すように出たのは断りの言葉だった。
その口振りには諦めきれない感情が溢れ出ている。
ルプスレギナはニヤリと笑った。
「それじゃ私が勝手にやるっす。そーっすね……ちょっと準備があるから明後日くらいに迎えに来るっすよー」
ルプスレギナは悪魔ではない。
故に相手の了解を得る必要がないのだ。
「そんなに早くできるのかい!?」
老婆は自分が申し出を断ったことも忘れ驚いた。
「だ、だったら、それまでにご馳走を用意しておくよ。この時期なら巣ごもり前の獣が捕まえらるかも知れないからね」
「気を使わなくていいっすよ。ちょっとしたサービスっす」
「……ありがたいねぇ。こんな親切なお嬢さんなら、親御さんもさぞかし立派な人たちなんだろうねぇ」
「そりゃあ、なんてったって至高の御方っすから」
「……しこう?」
「とっても偉いってことっす」
「……そうかい。なるほどねぇ……ありがたいねぇ……ありがたいことだねぇ……」
老婆は何も見えない目から涙を零した。
ルプスレギナは老婆の頬を止め処なく涙が流れる様子を興味深げに見つめる。
枯れ枝ような人間の中に、よくもこれだけ多くの水分が含まれているものだと。
「そんじゃま、息子さんたちの詳しい話を聞かせて欲しいっす――」
老婆に聞いた名前を頼りにルプスレギナはカルネ村で聞き込みをした。
気分はビデオドラマの刑事である。
だが、その気分はすぐに終わりを告げた。
老婆の息子夫婦がすでに死んでいることが分かったからだ。
バハルス帝国の騎士団の襲撃を受け、夫婦は子供もろとも殺害されていたのだ。
息子夫婦にも帝国にも興味はなかったが、その話を聞いてルプスレギナはほくそ笑む。
「随分と機嫌が良さそうね?」
バレアレ家から出たところをルプスレギナは呼び止められた。
「あんらー。ユリ姉じゃないっすか? 村の中で会うのは珍しいっすねー」
そこにはユリ・アルファが立っていた。
ルプスレギナがバレアレ家から出るのを待っていたのだろう。
ルプスレギナは小声で話しかける。
「……もしかして、この村を滅ぼすことにでもなったっすか?」
スパンとルプスレギナの頭が軽快な音を放った。
「……お客様を出迎えるときの打ち合わせをするって言ったでしょ。まさか忘れていたの?」
「覚えてるっすよ。軽いじょーだんに決まってるじゃないっすか」
ユリ・アルファが疑わしそうにルプスレギナを見る。
彼女は手に小瓶を持っていた。
「……そのポーションは?」
「これっすか? ンフィーくんから貰ったっす」
「ンフィー? ああ。ンフィーレア・バレアレ様ね。まさか力ずくで奪ったりしていないでしょうね?」
「違うっすよー。使ったときの効果を確認するようアインズ様に命じられたっす」
「アインズ様のご命令であれば重要ね。それで、そのポーションを何につかうのかしら?」
「何って、そりゃもう人助けっすよ」
「……人助け?
ルプスレギナの明るい笑顔が邪悪に歪んだ。
まず老女の目をポーションで治療する。
自分の魔法でも治療は可能だが、ここは高価なアイテムを使ってみせたほうがいい。
それから老女をカルネ村に連れていくのだ。
息子夫婦の消息については知らない振りをして。
失明が治って光を取り戻し希望に満ちた老女が、息子夫婦の死を知ったときどんな顔をするだろう。
少し回りくどいが老女が絶望する様を想像するだけでルプスレギナの心が弾む。
暴力による蹂躙でないことは残念だが、心の支えが折れる様は良い見世物となるだろう。
ユリとの打ち合わせを終え、ルプスレギナはいそいそと老婆の住む小屋へと向かった。
その笑顔から邪悪さを完全に打ち消して。
「こんちわー。ポーション持ってきたっすよ。これで元通りに目が見えるようになるっすよ、お婆ちゃーん」
粗末な小屋の窓際で老婆は膝を突き寝床に突っ伏していた。
「おやーどうしたっすか? 転んだっすかー? 年寄りなんだから無理は良くないっすよー」
ルプスレギナが明るく声をかけるが老婆は立ち上がる気配を見せない。
身を屈めて老婆の肩に触れたが、その身体からは体温が感じられなかった。
老婆はこと切れていた
「ありゃー……死んじゃったっすか……」
ルプスレギナは立ち上がると小屋をぐるりと見回した。
料理の仕込をしていたのかテーブルの上には、見えない目で苦労して集めたであろう食材が並んでいた。
これはルプスレギナを出迎えるための準備だったのだろう。
急な発作だったのか、老婆の顔に苦しんだ様子はない。
眠るように穏やかな死に顔を見ながら、ルプスレギナは老婆の蘇生を一瞬だけ考え、すぐにその考えを打ち消した。
この世のあらゆる生殺与奪は絶対的支配者であるアインズ・ウール・ゴウンの権利だ。
個人の欲望のために、至高の御方の手を煩わせることはありえないしあってはならない。
もう一度だけ粗末な小屋の中を見回して、ナザリックの利益になりそうなものが無いことを確認する。
そしてルプスレギナは、物言わぬ老婆の亡骸にプレアデスとしての顔を向けた。
「カルネ村に住んでいた
それだけを告げるとルプスレギナは踵を返した。
小屋の外に出たルプスレギナはカルネ村に向かって歩き出す。
ここには初めから何もなかったような迷いのない足取りで。
(了)