FEとして13作品目のこのゲームが、私の初FEです。
◆◆◆◆◆
その選択を、僕は決して後悔はしていなかった。
何度あの時間に巻き戻ったとしても、必ず同じ選択をする覚悟がある程度には。
あの時、あの瞬間。
世界で唯一人僕だけが選び得る『選択肢』が僕の前に示され、そして僕は僕自身の想いに──信念や願い……そんな心の織り成す全てに従って、それを選び取った。
その選択の先に自らに訪れる結末もまた、全て理解し受け入れた上で。
振り返ってみればきっと、僕と言う存在の道程は、そして生まれながらにその身に刻まれていた宿命は、決して幸福なそれであるとは言えなかったのだろう。
生まれ落ちた瞬間、否……今となっては名も顔すらも思い出してやれぬ母の胎に宿ったその瞬間から、何れ邪竜ギムレーへと成り果てる存在であると定められていたのだから。
母に連れられ逃げ出した所で、その事実からは……運命からは逃れられなかった。
一度はその宿命に絡め取られ邪竜へと成り果て世界を滅ぼし、大切な友も仲間たちも……守りたかった全てを、『僕』はその手で壊し滅ぼし貶めた。
それが『僕』自身の望みであった訳はないだろうが、しかし堕ち狂った邪竜として絶望を世界に振り撒いたのは紛れもなく『僕』である事に事実としては変わり無い。
そして、狂いきった邪竜が『過去』へと渡ってきた事で、僕と『僕』は混じり合い、邪竜のそれに吹き飛ばされる様に僕自身の本来在った筈の記憶は砕け散って消えてしまった。
僕の経験や思い出──所謂『記憶』と呼ばれるそれを綴った本のページに上からインクでその内容を塗り潰してしまったかの様に。僕の記憶は、それを思い出せなくなっただけと言う訳ではなく、完全に壊れてしまっていたのだ。
邪竜としての意識や記憶に塗り潰されなかっただけマシなのかもしれないが……。空っぽになってしまった事が良い事なのかと言われれば、恐らくそうではないだろう。
しかし、それまでの自分を構築していた筈の『全て』を喪い何も無い空っぽになってしまった僕ではあったが、そう時を置かずにクロムに拾われた事は、世界にとってはどうであれ、僕自身にとっては紛れもなく『幸運』そのものであった。
僕とクロム、互いが背負う宿命や血統の枷を思えば、その出逢いは神の悪意とも呼べる様な……そんな皮肉なものであったのかもしれないけれど。
何時か世界を滅ぼす身でありながらも、終生の友を得たどころか、この世の何よりも愛しいと思える人に巡り逢えて。
何時かその全てを滅ぼし壊す事だけが『ルフレ』と言う存在の生まれながらの宿命であったのだとしても、僕にとってはその出逢いは紛れもなく何よりも尊く愛しい奇跡であった。
無論、彼等を……そして彼等が守り未来へと託し行く世界を、この手で滅ぼす事など到底容認出来る訳はない。
それが自身の宿命であるのだとしても。ならば、何をしてでもその宿命ごと全て覆そうと……そしてその為ならば何を差し出すのだとしても惜しくはないと思った。
この命も、この心も、この魂も。
僕と言う存在を形作る全てを賭けてでも、対価にしてでも。
僕は……僕の大切な人達の未来が欲しかった。
皆が、笑って、泣いて、選んで、足掻いて。
……そうやって少しずつ積み重ね守っていく世界を、そして何時か彼等の大切な存在へと託されていく世界を。
僕は、守りたかった。壊したくなんて、無いのだ。
だからこそ、邪竜を完全に滅ぼす事が出来るのなら、この身が何時かの未来で『災禍』となる可能性を断てるのなら。
それを、その選択を、迷う事などある筈も無かった。
例えその先に待つのが、邪竜と僕自身との存在の消滅……絶対不可避の『死』であるのだとしても。
その選択で、皆の未来を、そして例え遥か彼方の千年後の世界であってもその先も……皆の未来から続く永劫の彼方の遠未来に至るまで、邪竜の齎す滅びと絶望から守る事が出来るのならば。僕には、邪竜と共にこの世から消滅するその道を選ぶ事に躊躇いなど無かった。
それは、別の未来で邪竜と成り果てた『僕』が世界を滅ぼしてしまった罪滅ぼしと言う訳ではない。
その程度の事で滅んだ世界の全てに対する贖いになる訳はなく、如何なる罰を受けようとも一生赦される事など無いその罪は、僕が永劫に背負わねばならぬものだ。
だからこれは罪に対して課せられた罰などではなく、僕自身の選択、僕自身の意志に依るものなのだ。
逃れ得ぬ『死』、自身の消滅への恐怖が無い訳ではない。
何時か邪竜に成り果てるかもしれない存在だと知りながらもそれでも変わらずに僕に手を差し伸べ続けてくれた友の、その想いを裏切る事への呵責が無い訳でもない。
かつて自分の世界と未来を滅ぼして全てを奪ったその張本人であると知った後もその想いを変わらずに向けてくれた何よりも愛する人に、別離の苦しみと喪失の涙を与えてしまう事へ、心の痛みを覚えなかった訳でもない。
それでも。この命が、この身が、この存在が。
世界を滅ぼし大切な物も愛した者もその何もかもを破壊し絶望させるしか出来ない……強大な力を持ちながらも歪み狂った竜へと成り果てる未来しか無かった筈の、この僕の全てが。
大切な人達に、そしてそんな皆と出会えた愛しいこの世界の為に使える事は、何にも代え難く『幸せ』な事で。
それを選べると言う事自体が、ここに居る自分が何よりも恵まれた生を歩む事が出来た証であると思えるのだ。
邪竜へと成り果て狂った『僕』の存在を想えば、尚更に。
だからこそ、後悔は無かった。
邪竜と共にこの身が溶け崩れる様に消え行き、そして完全に世界から存在が消し去られてしまっても。
僕の胸に後悔なんて欠片も無かったのだ。
だけれども──
『無』へと還っていく全てを自覚しながら、逃れ得ぬ自分の死を静かに感じ取りながら。
最後に浮かんだのは、愛しい人の声と姿であった。
愛しい人の元へ還る術など無いのに、ここで邪竜と共に完全に消え行く事だけが自分に出来る全てであると言うのに。
僕は、願ってしまったのだ。
また、もう一度。
ルキナに、逢いたいと。
だが、それは──
◆◆◆◆◆
死者は甦らない。
それは、この世の誰もが覆す事の出来ぬ絶対の摂理だ。
かつてルキナ達が生きていた絶望の未来……そこで蠢く無数の屍兵の中には生前の意志を僅かに残した者も稀ながら居たと聞くが、しかし彼等が生前のその人それその物であるのかと問われればやはりそれには否としか言えなかった。
例えその屍が動き回る事があるのだとしても、それはその人が甦ったとはならない。
死によって肉体から引き剥がされた魂が別の何かに宿りこの世に干渉する事があるのだとしても、それでもやはりそれを甦ったとは言えない。
そして死が覆せざるものであると言う摂理は、存在の本質が肉体のみに担保されている訳ではない存在であっても変わらない。
例え肉体の滅びが存在の滅びとは直結しない神の如し存在であっても、それでも『死』その物を完全に超越出来る訳ではないのだろう。
人の取り得る如何なる方法でも、そして神の如き竜の力を借りてすらも、『死』を与える事が叶わなかった……まさにこの世の中で最も『死』から遠い存在であった邪竜ギムレーですらも、同一存在の手による『自殺』によって、消滅と言う形の『死』を迎えた。
死したギムレーが甦る事は未来永劫有り得ない事であり、そうであるからこそ彼はその身と魂を世界の為に捧げた。
……その選択の結末が、自身の死である事を、承知の上で。
死者は甦らない。
故に、世界の全てから拒絶され排除されるかの様に、その骸を……一筋の髪すらも遺す事も叶わずこの世から完全に消滅した彼と、この世界で再び巡り逢う事は叶わない。
彼の人としての心がギムレーの心に打ち克つ事があれば……と神に等しい竜はそう告げていたけれども。
それは、砂海に落とされた小さな砂金をたった一度掬った砂の中から見付けられる可能性と等しい程の、そんな現実的ではない確率としてしか存在し得ない『もしも』でしかない。
もしも再び彼に巡り逢う事が叶うのだとしてもそれは、死者の世界や来世と言う……在るのかどうなのかすら誰にも分からない「先」でしか叶わぬ事なのであろう。
そもそも死者の世界や来世なるものが実在するとして、欠片すら遺す事無く消えてしまった彼の魂が果たしてそこに辿り着けるのかと、……そうもルキナは思ってしまう。
『死』と言う結末がその先に待つ事を、彼は誰よりも理解していたであろう。
しかし、己の命の終わりを見据えてすら、彼の意志は僅かたりとも揺らぐ事は無かった。
それどころか、その身が世界に溶ける様に消えていく中で彼が浮かべていたのは、僅かな寂しさと痛みと……そしてそれ以上の『幸せ』が混ざりあった穏やかな笑顔であった。
……その事がルキナには、どうしようもなく寂しく哀しい事である様に思えてしまうのだ。
ルキナとて、世界を救う為であるのならこの身もこの命も捧げる事を迷わないであろう。
しかし、避けられぬ死を目前として、ああも満ち足りた様な心からの笑顔を浮かべられるかと言えば、それは否である。
邪竜を道連れにこの世から消滅する事を、『幸せ』な事であるとは……ルキナにはきっと思えないであろうから。
彼に自殺願望があったと言う訳ではないのは分かっている。
その身を捧げたのは、ルキナ達を想うが故である事も……分かっている。
彼のその優しさを疑った事は、一度も無い。
だが、しかし。
彼は、彼と共に明日を生きたいと願うルキナ達の願いを、それを確かに知っていても尚、選ぶ事は無かった。
彼は、彼が最善と想う『未来』の中に、ただ一人……他ならぬ彼自身は決して含めなかったのだ。
例え邪竜を討ち滅ぼす事は叶わないのだとしても、千年後の子孫達に災禍を押し付けるだけなのだとしても。
それでもルキナ達は、彼と共に明日を生きたかったのだ。
誰もが皆、そう願っていたのに……。
いや、ルキナ達がそう願ってしまったからこそなのか。
彼は、その命を使う事を決めてしまっていた。
ルキナ達は、彼に自ら死を選ばせる理由にはなれても、彼が死を選ばない『未練』には、……なれなかったのだ。
それが、どうしようもなく寂しく、遣る瀬無く哀しいのだ。
……死者は甦らない。
それは分かっている。……それでも。
再び彼に逢いたいと、そう願い。
彼と紡いだ絆が『奇跡』を起こす事を、待っている。
彼がその最後には手に取る事を選ばれなかった絆に、その『奇跡』を起こす力があるのかは分からないけれど。
その願いが叶う日、その奇跡が果たされる日を。
愚かな事かもしれなくても、待ち望んでしまうのだ。
しかし、この世の摂理を捻曲げる様なその願いは、果たして叶っても良い事なのだろうか。
この世の理を歪めなければ叶わない様なその願いの代償は、果たして人の身で贖えるものであるのだろうか。
……時を越え、既に世界の理を歪めているルキナには、その願いは剰りにも罪深い事であるのかもしれない。
それなのに、『奇跡』を、願ってしまうのだ。
死者は甦らない。
ああ、それでも。それを願う愚かさを知りながらも。
もう一度、彼に。
ルフレに、逢いたいのだ。
◆◆◆◆◆
祈りが満ち、想いが満ちれば、願いは叶うのだろうか。
その願いが到底叶う筈の無いものであったとしても……?
その疑問に応える神は居らず、されどもその折り重なった祈りは、確かに『何処か』へと届いた。
あの日……彼が邪竜と共にこの世から消滅して一年の月日が過ぎた頃、彼──ルフレは再びこの世へと還り付いた。
一度はこの世から弾き出されながらも消滅の定めを覆し帰還したルフレは、あの戦いの日からそのままそこに現れたかの様に、人々の記憶に最後に残る姿それそのままの状態で、一度全ての記憶を消し飛ばされてしまった彼にとっての始まりの地……クロム達との出逢いの地に、眠る様に倒れていた。
完全にこの世界から消滅した筈のその肉体に、その記憶に、その人格に、欠けたるものは何一つとして無く。
そして逃れ得ぬ宿命の象徴の様にその右手の甲へ烙印の様に刻まれていた邪痕は、跡形もなく消え去っていた。
それはまさに、この世から彼の運命を縛っていた邪竜の存在が完全に消え去った事の証左であった。
彼が掛替えの無い友と紡いだ絆は、世界の外へと弾き出され消滅する運命にあった彼を再びこの世界へと導き、その運命を見事に変えて見せたのであった。
一度完全にこの世から消滅した彼が、何一つとして欠ける事も無く還ってきたその様は、まさに『甦り』と呼んでも差し支えないものでもあろう。
……だが、しかし。
神の領域の者にしか赦されぬその『奇跡』を、幾ら神の如し邪竜の現し身であるのだとしても、その神へと成り果てる事を拒んだが故に只人でしかない筈の彼が起こした事。
それは本当に祝福するべき『奇跡』なのだろうか。
その『奇跡』は、彼が紡いだ絆の強さと、彼の帰還を信じ願う者たちの想いの強さが引き寄せた「祝福」なのか。
或いはもっと別の何かの結果であるのか。
それは、誰にも分からない。
神ならざる人の身では、見えざる因果の糸を正しく辿る事は叶わないからだ。
ただ、彼の帰還を願い再会を祈る人々にとっては、その『奇跡』が何よりもの福音である事だけは確かなのであった。
◆◆◆◆◆
少し悪い夢を見て目覚めた朝に愛しい人の温もりを感じられる事が、何れ程『幸せ』な事であるのか……。
何よりも愛しい……彼の穏やかな優しい声で名を呼ばれ、それに返事を出来る事が何れ程叶え難い事であったのか。
目で、耳で、そして彼に触れるこの指先で、そこに彼の存在を確かめられる事が、何れ程の『奇跡』なのか。
何も知らない幼子であった頃の、そして『使命』以上に大切で愛しいものを持たなかったかつての自分では、到底想像すら出来ない程の、そんな『奇跡』と『幸せ』を噛み締めながら。
ルキナは泣きたい程に愛しい日々を過ごしていた。
彼を待ち続けたあの一年。
数え切れぬ程、後悔と自責の念に駆られ、そして彼を喪ってしまった恐怖と……そして諦念に押し潰され。
信じて待つ事しか出来ぬと言うのに、少しずつ少しずつ彼の姿が記憶から薄れていく絶望に膝を折りそうになりかけていた。
記憶の中の声が、少しずつ不明瞭なものになっていく。
記憶の中で振り返る彼の姿が、そしてその表情が、まるで磨りガラスの向こう側に居るかの様にボヤけていく。
何度も何度も、決して忘れぬ様に無くさない様に、何時も思っている筈なのに、彼の事を想わない日は無い筈なのに。
それでも、彼は少しずつ遠くなる、消えていく。
無理に思い描こうとしてもそれは、自分の想像が描き出した虚像にしかならなくて。
そしてその虚像は記憶の中の彼の姿を隠してしまう。
忘れたくなんて無いのに、愛しているのに、それでも記憶は完全さを保てない。
それなのに、それがどうしようもなく苦しいのに。
彼を喪ってからの日々の記憶が、少しずつ積み重なっていく。
そしてその積み重なった記憶の中に、彼との記憶が少しずつ埋もれてしまうのだ。
生きると言う事はそう言う事で、死した者の時間はそこで途切れて記憶の中に置き去りになってしまい、少しずつでも遠ざかって何時かは『思い出』になってしまうのだけれど。
それでも、それを仕方の無い事なのだと割り切る事は出来なかった。
ゆっくりと底の見えない海の奥深くへと、もがきながら沈み行こうとしているかの様な日々だった。
もっと時間が経てば、彼が『思い出』になってしまう事を許容出来ていたのだろうか?
彼が『思い出』になってしまっても、信じて待ち続けられたのだろうか。
それは、分からないけれど。
少なくともルキナにとっては、彼を『思い出』の存在にしてしまうのは、何よりも恐ろしい事であったのだ。
それは、彼の死を、その存在の消滅を、……この命の旅路の中ではもう二度と巡り逢う事が叶わない事を、認めてしまう事になる様な気がしたから。
忘れまいと、『思い出』になどするまいと、そう足掻き願い祈り求め続けたからなのか。
一年と言う時間を要したものの、彼は……ルキナにとってこの世で最も愛しい人は、この世界へと再び還ってきた。
還ってきた彼に再会した時は、喜び以上にとうとう幻覚まで見える様になってしまったのではないかと言う恐ろしさに、ルキナは凍り付いてしまった様に動けなくなってしまって。
その胸に飛び込んで縋り付いてその温もりを確めたいと、そう思っているのに。もしルキナが触れた瞬間にルフレが消えてしまったらどうしようなどと、そんな不安に襲われて。
だけれども、ルフレがそっと伸ばした指先が、優しくルキナの頬に軽く触れたその瞬間に、そんな不安や恐怖なんて弾け飛ぶ様に何処かへと押し流されて。
次の瞬間には、ルキナはルフレを抱き締めて泣いていた。
沢山沢山、伝えたい言葉も、話したい事もあったのに。
言葉は嗚咽に混ざって意味のあるものにならなかった。
それでも、強く抱き合って互いの温もりを感じられるだけで、それまでの辛く苦しかった一年間がたった一瞬の出来事であった様にすら思えたのだ。
その温もりで、その存在の確かさで、祈り願い待ち続けたルキナの苦しみは全て報われた。
ああ……それ以上の幸いなど、愛しい人が確かに触れ合える場所に……この手の届く場所に確かに存在している事以上の奇跡など、この世にあるのだろうか?
あの日から決して満たされぬ事のなかった心の虚ろが、漸く埋まった様にすら感じていた。
幾千幾万の祈りと『奇跡』の果てに再び巡り逢えた二人には、最早言葉など無粋なだけであった。
ただ触れ合うだけで、ただお互いを見詰め合うだけで。
互いに、欠けた時間などただ一息で飛び越えられる。
互いに寄り添い合い、想いと言葉を交わして。
そして、あの戦いの日々では終ぞ言葉として誓う事の叶わなかった約束を結んで。
そうして愛し合う時間の、何と満ち足りた事か。
互いに互いの存在で、心と時間を満たせる事の幸せを、ルキナとルフレは噛み締める様に味わっていた。
だが……。
漸く手に入れた筈の穏やかで満ち足りた日々は、誰もが気付けぬ内に、少しずつ壊れて行こうとしていたのだった……。
◆◆◆◆◆
その『異変』は、最初は本当に些細なものから始まった。
最初は、そう……。少し硬質な音を響かせて、手の中にあった皿が割れてしまった事が始まりだった。
それは、食後に食器を洗って片付けている最中の事で。
拭いている最中だった磁器製の皿は、幾つもの皹を走らせながら三つ程の欠片に割れてしまっていた。
それなりに頑丈な磁器製だけれど、壊れてしまう事はそう珍しくもない。
横で食器を洗っていたルキナは、また買い直しましょうね、なんて優しく笑ってた位で、然してそれを気にする素振りなど無くて。
見えない所に皹でも入っていたのだろうか、と。
その時はルフレも大して気にする事は無かった。
しかし、それは始まりに過ぎなかったのだ。
その日を境とするかの様に、ふとした拍子に物を壊してしまう事が圧倒的に増えた。
一回二回程度ならまだしもそれが何度も何度も続くとなればルフレが違和感を自覚する事にそう時間は掛からなかった。
ルキナやクロムが鍛練時に壁や物を壊す事はよくあったけれど、それとこれとは話が違う。
無意識の内に金属製のスプーンやフォークを握り潰してしまうなど、普通は有り得ないだろう。
だが、まるで急に怪力を得てしかもそれを制御出来ていないかの様に、ルフレは様々な物を壊す様になってしまって。
しかも、怪力になっただけでは『異変』は終わらなかった。
最近は味覚にまで異変が起こりつつあった。
料理から味と言うものが消え始め、まるで砂を固めて食べている様にすら感じる様になっていって。
ルキナに心配をかける訳にはいかないから食事の時は努めて美味しそうに食べる様に振る舞っているけれど。
しかし、何を食べても何を飲んでも、全くと言って良い程に何も『味』を感じられないのだ。
塩の塊をそのまま食べてみてもジャリジャリとした食感しか感じられ無かった時は、思わず血の気が引いた。
何故それらの様な『異変』が起こっているのか。
密かに医師の診察を受けたりしても、その原因は杳として分からず。
万が一何かしらの呪術によるものならばとサーリャ達に尋ねてみても、呪術的な意味では至って正常であると言う事位しか分からなかった。
もしや一度完全に消滅しておきながらもこうして戻ってきた事で何らかの『不具合』を起こしているのかと考えてもみたが、果たして原因がそうであるのかは確かめる術はない。
解決する方法を密かに探すが、しかし何か手掛かりになりそうなものすらなくて。
今日も、何の味もしない料理を取り繕った笑顔で口にして、物に触れるその指先に常に意識を巡らせて壊さぬ様に細心の注意を払う事しか出来ない。
……ルキナには、自らの身にこの様な異変が起きているとは、どうしても言い出せなかった。
もう戦争も終わり、ギムレーは消滅し……その『使命』は果たされたのだ。
だからこそ、これまで『使命』を優先する事で喪われてきたものや、そしてギムレーに奪われてしまったものを取り戻すかの様に、ルキナには何にも苛まれぬ、穏やかで幸せな時を過ごして欲しかった。
そうでなくとも、ルフレが己れを対価としてギムレーを消滅させた事はルキナには深い心の傷を与えてしまっている。
ルフレがこうして帰って来て、そして共に時間を過ごす事でその傷痕も少しずつ癒えている様だけれども……。
それでもまだ、あの日の……ルフレの消滅と言う結末で終わった離別は、ルキナの心を縛り続けているのだ。
だからこそ、ルキナの柔らかな心の傷口を抉るかもしれない様な、そんな『異変』の事は、中々言い出せなかった。
自分だけで何とか出来るならそうしたかったし、それに……味覚を喪った事も怪力も、気を付けてさえいればルキナに気取らせずに過ごせるものである。
だからこそ、ルフレはそれを隠したままで居たかった。
このまま現状を維持出来るなら。
これ以上何も起こらなければ、隠し続けられるのだと。
ルキナにとっての自分は、依然と何も変わらない、『普通』のままで居る事が出来るのだから、と。
そんな事を考えて。ルフレはただただ沈黙を選んだ。
己の心すら偽る様に笑顔の仮面の下に不安や恐怖を隠して。
だが、そんな淡い希望は、呆気なく打ち砕かれた。
突如意識を喪いそうな程の激痛と身体中の違和感に襲われ、ルキナの目の前で受け身を取る事も出来ずに床に力無く倒れたルフレの、霞むその視界の中で。
ギムレーの消滅と共に、未来永劫の彼方まで、この世から永遠に喪われた筈の邪竜の刻印が。
その運命を覆せたと安堵するルフレを嘲笑い、それが決して逃れ得ぬ運命であるのだと突き付けるかの様に。
かつてそこにあった時のそれそのままに。
己の右手の甲に紅々と輝いていたのであった。
◆◆◆◆◆
最近、ルフレの笑顔に翳りが混ざる様になった。
例えば、共に食事をしている時。「美味しいですね」と言ったルキナの言葉に、前よりも僅かに遅れて頷くようになり、何を食べていても同じ様な笑顔しか浮かべなくなった。
例えば、ルキナの身に触れている時。まるで、儚く今にも崩れ落ちそうな砂の城に触れているかの様な、そんな触れ方しかしてくれなくなった。
何故、どうして、とは思うけれど。
でもそれを訊いてしまっては、何かが壊れてしまう様な、そんな気がして。ルキナは踏み込む事が出来なかった。
だけれども、そうやって確かにそこに在った『違和感』から自らの目を背けてしまったからなのか。
それらの異変は、決定的な破綻となってルキナの前に顕在してしまうのだった。
何時もの様に二人で他愛ない会話をしながら食事をして、そしてそれの後片付けをしようとルフレが席を立った。
丁度、その瞬間だった。
何の前触れもなく、突然にルフレは床に崩れ折れる様に倒れ、何かに酷く苛まれているかの様に苦悶の呻き声を溢す。
苦しそうに床を掻く様に震えるルフレのその右手の甲には。
ギムレーの消滅と共に消え去った筈の……この世界にもう存在する筈もない、邪竜ギムレーの『邪痕』が。
ぞっとする程に色鮮やかに浮かび上がり、血よりも深い不気味な紅に輝いていた。
ルフレが倒れたと同時に咄嗟に駆け寄りその身を抱き起こしたルキナであったが。
苦しむルフレを救わねばとそう思考する一方で、ルフレのその身に再び現れたその烙印の如き徴に射竦められたかの様に動けなくなってしまう。
一体何故、邪痕がここに……?
そう考えても、事態を何も把握出来ていないのだ。
考えた処でルキナに分かる筈もない。
ギムレーの器である事の証、何れギムレーへと成り果てる事の徴。
だがそれは、その肝心のギムレーは、完全にこの世から消え果てた筈なのだ。
他でもない、ルフレがその身を捧げた事によって。
だが現にその不吉の兆は再びルフレの右手に刻まれている。
……今ここでルフレが苦しみもがいている事と、邪痕が再び現れた事。それはきっと深い関係があるのだろうけれど。
だが、一体何が起きたと言うのだ。
事態を全く把握出来ない事に焦り混乱しながら、ルキナはルフレを抱き起こした。
「ルフレさん! ルフレさん!! しっかりして下さい!!」
目を閉じ苦しそうに息をするルフレに、ルキナは何度も何度も声を張って呼び掛ける。
途切れそうになっている意識を繋ぎ止める為に、何度もその身体を揺さぶる。
そうしている内に僅かに開いた瞼の奥のその瞳は、まるで獰猛な竜の様に瞳孔が細く縦に割れていた。
人のそれとは異なるものに変じているその瞳にルキナが息を呑んでいると、まるでそれが何かの合図になってしまったかの様にルフレの身に更なる異変が起こり始めた。
ルフレの手の甲や目元の辺りが黒ずんだかと思うと、そこがまるで鱗の様に変じ始めた。
いや、それは鱗そのものだ。
恐る恐るそこに触れたルキナの指先に返ってくるのは、熱を持たぬ……人肌とは全く異なる硬質で異質な感触で。
それは、以前ジェロームの愛竜であるミネルヴァに触れた時のそれに限り無く似ていた。
漆黒と言うよりは限り無く黒に近似した濃く暗い紫色のその鱗は、ルキナにとっては何よりも憎く何よりも恐ろしい、あの悍ましい絶望の化身の如き邪竜のそれを思い起こさせるものであった。
いや……ルフレとあの邪竜との関係性を考えた場合、今ルフレの身に生えてきているこの鱗はあの邪竜のものなのであろうとは、容易に想像がつく。問題は、それが『何故なのか』と言う事と、『どうすれば良いのか』と言う事だ。
しかし神ならぬルキナにそれを把握する術はなかった。
そして、ルフレの身を襲う異変は鱗を数枚生えさせた程度では止まる様子は無く、鱗は周囲の肌を侵食する様に徐々に拡がりを見せる。
更にはルフレの柔らかな髪を掻き分ける様にして、小振りながらも左右に角が現れた。
このまま変貌が止まらねば、そう時を置かずしてルフレがギムレーへと変じてしまうのではないかと、そんな恐ろしい想像がルキナの中で頭を擡げてきてしまう。だが。
その最悪の想像を打ち払う様にルキナは強く頭を振った。
何を弱気になっているのかと。そう心に活を入れる。
今この瞬間、恐怖と苦しみに苛まれているのは、ルキナではなくルフレだ。それを支えるでも寄り添うでも或いは救うでもなく、ただ恐怖するなどあってはならない。
ルキナは無力だ。苦しみもがきながら少しずつ『人ではない何か』へと変じていくルフレの身に起きている『異変』を食い止める術など、何一つとして思い付かない。
呪術師であるサーリャを頼るにしろ、今すぐにどうこうする事は不可能だ。
……だけれども、苦しみ苛まれ続けるルフレのその傍を離れずに寄り添う事ならば出来る。
「ルフレさん……大丈夫です、私は……ここにいます」
ルフレがせめて少しでも安心出来る様に、ルキナはその身を優しく抱き止め、邪痕を覆い隠す様にそっと自身の右手をそこに添える。
どうか異変が止まるようにと願いながら。
ルキナは、ルフレに寄り添い続けた。
◆◆◆◆◆
意識を失いかける程の痛みも、少しずつ時間経過と共に和らいできて、ルフレにもどうにか動く余裕が出てきた。
しかし、現状は良いとは余りにも言い難い。
激痛と共に突如現れた鱗は、ゆっくりとだが確実にルフレの肌を侵食する様に増えていて。今や右手は完全に鱗に覆われ、指先は飛竜のそれよりも大きく鋭い鉤爪に変じている。
人間の手と言うよりは、竜のものと言うべきであろう手であるけれど、それは紛れもなくルフレ自身の手であった。
感覚もあり、自らの意思で動かす事が出来て、だが異形のものとしか言いようがないその手を、ルキナの右手は恐れる事無く優しく包み込んでくれていた。
鉤爪が僅かにでもその手に触れようものなら、忽ちその柔らかな肌を深く切り裂いてしまうだろう。
それはルフレの想像の中の光景に過ぎないと言うのに。
深く切り裂かれてしまった皮膚の下から溢れ出てくる蠱惑的な程に鮮やかな命の雫の色彩や、かつて戦場で酔いそうな程に味わってきたあの独特の鉄臭さ……いやきっとこの愛しいルキナのそれであるのだからきっとこの世のどんな美酒よりも芳しく香り立つのであろうその匂いが、まるでその想像が目の前の現実であるかの様にすら錯覚してしまう。
それがどうしようもなく恐ろしくて。
そしてその想像の中の光景が脳裏から離れず……そしてそれにどうしようもなく『惹かれて』いる自分が恐ろしくて。
その想像が本当に『現実』となってしまう前に、ルキナにはこの手を離して欲しいのに。
どうしてだか、その一言を口に出す事が出来なかった。
熱を持たぬ鱗に覆われた右手に伝わるルキナの温もりが、この異常な状況であってもどうにかルフレの意識を留めていてくれている様な気がしてしまったからなのかもしれないが。
ルキナの優しさに縋る内に取り返しの付かない所にまで堕ちてしまいそうな自分が、何よりも恐ろしい。
そして自身の変貌は右手だけに留まらず。
色彩こそ何時もの自分のものと変わらないが瞳孔がまるで竜の様に縦に細く割れている目とその周りにゆっくりと拡がる鱗、頭から生えてきている一対の角など。
自分の身体である筈のそれは明らかに『人』を逸脱した異形のものへと変貌しつつあった。
もしこの変異が止まらなければ、行き着く先はあの邪竜の姿なのではないかと言う予感は、何れ程それを否定したくとも拭いきれるものではなくて。
自分の身を侵す……だが紛れもなく自分自身の肉体の一部であるその鱗も、そしてゆっくりと成長を続けている頭の角も、どれもあの邪竜を容易に連想させるものだ。
元よりルフレ自身も、もし自らの身に『何か』が起きるのであればそれはあの邪竜に関連するものであろうとはずっと思ってきていたし、そうは成り果てなかったとは言えルフレはあの邪竜へと至る存在であった筈なのだ。
あの邪竜の存在を抹消したのだとしても、ルフレがこうしてここに肉体を持って存在している以上はその血肉に刻まれている邪竜の因子自体を完全に抹消出来る筈はない。
そもそも、一度完全に肉片一つ遺す事無くこの世から消滅した筈であり、再び肉体を持ってこの世に戻ってきた今の自分が『本当の意味で』本来の自分と同一であると、そう断言出来るのかと問われればルフレにも自信は無かった。
もしかしたら、今の自分は見た目だけは元の『人』としてのそれを取り繕っているだけで、本質的な部分では以前とは全く異なる『何か』であるのではないかと。
そう、考えてしまう事は一度や二度では無かった。
それでも、そんな不安を誰にも明かさなかったのは、そしてその不安から目を反らしてしまっていたのは。
ルキナと再び出逢えた『今』が、そして戦時中では何れ程願っていても叶わなかったルキナとの穏やかで満ち足りた日々が、何よりも愛しくて。
例えそれが薄氷の上にある平穏であったのだとしても、それを自ら壊してしまいかねない真似は出来なかったのだ。
それは……聖王の軍師としては有り得るべからざる程に愚かしい行いであるのかもしれない。
それは誰よりもルフレ自身が分かっているけれども。
自分はギムレーを消滅させたではないかと。この身を捧げて、この命を捧げてでも、それを成し遂げたではないかと。
その苦難の果てに、この平穏な日々を、愛しい人との未来を望んで一体何が悪いのだと。
そう、自分自身を誤魔化してしまっていた。
『異変』が起こり始めてしまったのを自覚しても尚、何時か破綻する日が来てしまう予感を確かに抱きながらも、それを隠し続けてしまったのは。
詰まる所、ルフレが弱かったから……苦難の果てに漸く手に入れたものを喪う事を恐れてしまっていたからだった。
かつて自ら手離し諦めた筈の……それでも最後の最後まで捨てられなかった願いが叶ってしまったが故に。それを再び自ら手離す事は、それを諦める事は、ルフレにはもう……出来なかった。
ならばこの『異変』は、そんな弱く愚かな自分への罰なのだろうか……と、そうも思ってしまう。
だが次の瞬間には、頭を過ってしまったそんな弱気な考えを、ルフレは軽く頭を振って思考から追い出した。
例え事実これが罰なのだとしても、それを抗う事も無く諦めて唯々諾々と受け入れるべきではない。
愛する者の為にも、最後まで足掻いて抗い抜かなくては。
今はとにかく、この『異変』を食い止め、そして解決する手段が必要だ。
これが邪竜に関して引き起こされたものであるのならば、医者ではどうする事も出来ないであろうし、サーリャ達呪術師でも解決するのは難しいだろう。
この世で邪竜に対抗出来る存在があるとすれば、それは神竜ナーガに他ならない。
クロムが『覚醒の儀』を行った時に接触を果たした彼の竜は、自らの儀式を成し遂げその力を与えた相手であるクロムが呼び掛ければ応える可能性は高い。
虹の降る山にまで行けばクロムを介さずして接触する事が可能かもしれないが、ここからは遠過ぎる故に辿り着くまでに『異変』が最早手の施し様の無い段階にまで進行してしまう可能性もある。
ここはやはりクロムに事情を話して、ナーガへと呼び掛けて貰う事が最善であろうか。
しかし、王城に居るクロムの元へ行くのは、今のルフレの姿が万が一にも人目に付こうものなら怪物扱いされて大騒ぎになる事は間違いがないし、かと言ってここにクロムを呼ぶのも中々に難しいものがある。
どうするべきであろうかと、そう考えている間も緩慢にではあるが止まる事無く変異は進んでいく。
刻一刻と時間が奪われていくのを目にしていれば、さしものルフレとて焦らずには居られない。
自分は後何れ程の時間、『人』で居られるのだろう……。
「ルフレさん……」
囁く様なその呼び掛けに軽く顔を上げたルフレは、隠しきれぬ不安に微かに揺れるルキナの目に気付く。
よく見れば、異形の手に変じた右手を包んでいてくれているその手も微かに震えていた。
そこにあるのは恐怖ではないけれど、しかしそれと似通った不安の感情であった。
……それも当然だろう。突然、ルフレの身がこんな異形へと変じつつあって、しかもそれがあの邪竜への変貌を思わせるものであれば、あの邪竜を何よりも恐れ何よりも憎んでいるルキナが、恐怖と不安を覚えるのは当たり前の事である。
それでも、この手は絶対に離さないと、どうなっても見捨てたりなんかしないと、そう言わんばかりにその手でこの異形の手に触れてくれているのが、どんな言葉でも言い表し切れない程に愛しくて、尊くて。
── その存在の全てを食い尽くして自分だけがその全てを手にしたい程に、この世の何よりも、ルキナが愛しい。
そう思った次の瞬間、身体中の血と言う血が凍り付いてしまいそうになる程にルフレは恐怖した。
今一体、自分は何を考えた?
ルキナを食い尽くしたいだなんて、正気じゃない、どう考えてもおかしい、狂っている。
だが、それを考えていたその瞬間の自分にとっては、その思考は、その想いは、極自然なものの様でしかなかったし、欠片程の違和感すら抱いて居なかった。
それが、何よりも恐ろしい。
自分の思考すら信頼出来ないと言う事が、次の瞬間にはルキナを傷付け食らう怪物と化していてもそれを当然としか考えられなくなっている可能性が、余りにも恐ろしかった。
だから、半ば無意識の反射で。
恐ろしい怪物からルキナを守ろうと、己から引き離さなければと言う一心で、ルフレはルキナの手からそれを振り払う様に離れようとした。
しかしその拍子に、自分の身体の一部でありながらもその感覚を掴みきれていなかった凶悪な程に鋭い鉤爪が、ルキナの柔らかな腕を掠める様に傷付けてしまって。
鋭く裂けた傷口から血が溢れ出してしまう。
「っ──!」
そんな意図は欠片も無かったとは言え、ルキナを傷付けてしまったのは紛れもなく自分自身で。
その事を認識すると同時に、恐怖と焦りと混乱が同時に押し寄せてくる。
早く謝らなくては、早く手当てをしなくては、早く──
焦り動揺した思考は、無意味に空回りするばかりで。
せめてその血を止めなくてはと咄嗟に伸ばそうとした手は、再びルキナを傷付けてしまうかもしれない恐怖によって中途半端な所で固まった様に押し止められてしまう。
「大丈夫ですよ、ルフレさん。
少し、切ってしまっただけですから……。
こんな傷、直ぐに治ります……」
ルフレの焦りと恐怖が伝わってしまったのか、ルキナはそう言ってルフレを安心させる様に微笑み、そして止血の為にその傷口を押さえようとする。
だが、ルフレはそんなルキナの言葉も半ば届かない程に、その傷口に……そしてそこから滴り落ちる紅き雫に魅入られてしまったかの様に目を離せなかった。
── ああ、その紅が、ルキナが、欲しい……。
「る、ルフレさん……⁉」
ルキナの動揺した声が耳に届いたその瞬間、ふと気が付けばルフレはその左手でルキナの傷付いた腕を掴んでいて。
そして、その傷口から溢れ落ちる血に、口付けていた。
自分でも理解出来ないその行動に、一瞬前の自分が何を考えていたのかも分からぬ事に、ルフレは戦慄して。
口の中に広がる鉄臭い血の匂いと味に、思わず噎せてしまった。
人の血を……それも愛する人の血を啜るだなんて。
『人』としてはあるまじき、怪物の如き悍ましい行為に怖気立つ。
しかし、口の中に残る血の味と匂いに噎せていると、ルキナが驚いた様にルフレを指差した。
「ルフレさん、鱗が……」
そう言われて反射的に自分の右手を見ると。
あの異形のものと化していた筈の手は、鱗の一枚も見当たらないルフレ本来の『人』の手に戻っていて。
そして、慌てて姿見で確認した所、目元の鱗や頭の角も全て姿を消していた。
ルキナの血によって、異形化の進行が収まったばかりか、変異した部分も元通りに戻ったとしか言えないその状態に、ルフレも唖然とするしか無い。
「一体、何が……」
原因も何も分からぬままに突然始まった変異も。
そして変異した部分がルキナの血によって元に戻った事も。
今起きた何もかもが、ルフレの理解を越えた所にある。
だが、ルフレにはある一つの確信めいた予感があった。
『邪竜の呪い』と言うべきこの『異変』は、これで終わった訳ではないのだろうと言う予感だ。
突如現れた邪竜の刻印は、消える事無くその右手に刻まれたままなのだから。
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