『願いの果て、結ぶ祈り』   作:OKAMEPON

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第四話『狂いゆく心』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 地下遺跡を進むに連れて、闇はより一層深く重厚な質感を持ってルフレ達を呑み込んでいった。

 所々に点された灯りではとてもではないがその闇を遍く照らす事は出来ず、却って闇は何処までも深くなる。

 姿の見えぬ怪物達が虎視眈々とこちらを窺っている様にすら思える不気味な闇の中を、松明やカンテラの何処か心許無い灯りだけを頼りにルフレ達は進まねばならなかった。

 

 奥へ奥へと進んでいく中で、かつてこの遺跡で命を落としたのであろう者の遺品らしき手記から、この地下遺跡全体がかつて『フォルネウス』と言う名の錬金術師のアトリエ……研究施設であったと言う事と。

 そのフォルネウスは……闇魔法を極めた者達にすらも倫理的感情的に受け入れ難い程の悍ましい「何か」を造り出そうとしていたと言う事は判明した。

 

 フォルネウスが研究していたものの内の一つは、その記述からしてほぼ間違いなく『屍兵』の事であるのだろう。

 この世界を脅かし、そしてルキナ達の「未来」が絶望の内に滅びる事となった要因となった、生命への冒涜に等しきあの存在は、この地の狂気の坩堝の中から産み出されたのだ。

 最早幾千年も前にとうに死んでいる人間に恨み言をぶつけた所で、何の意味も価値もなく虚しいだけだろうけれど。

 彼がその様な狂った研究に没頭しなければ、「未来」はもっと悪くない方向に変わっていたのではと思ってしまう。

 

 ……尤も、そうなっていたとすれば。

 この時間に生きるルフレが、「未来」からやって来たルキナと出逢う事自体も起こり得なかったのだろうけれども。

 

 それよりも気になるのは、フォルネウスのもう一つの研究であったと言う『完全なる生物の創造』の事だ。

 ギムレーがこの地下遺跡で生まれたと言う事を考えると、それはギムレーの事なのだろうか。

 しかし、果たしてギムレーの様な人智を越えた怪物を、人間の手が作り出せる事など、本当に有り得るのだろうか。

 今となっては既に、錬金術はかつての隆盛を喪い見る影も無い程に衰退し、その秘奥の多くは時の流れの中に消えてしまっている為、フォルネウスの時代の錬金術の力と言うものは、歴史家ではないルフレには今一つ分からぬ事である。

 人の手によって新たなる生き物を産み出す事など本当に可能であったのだろうか……とルフレは思ってしまうのだが、逆にそれは絶対有り得ない事だとまでは言い切れなかった。

 フォルネウスのその研究の結実がギムレーそのものであるのかどうかは分からぬが、彼のその研究が何かしらの形でギムレーの誕生に関わっている可能性が高いのは確かであろう。

 

 フォルネウスの研究そのものにルフレの『異変』を解決する力があるとは限らないが、ギムレーの誕生に関わる彼の研究の何処かには何らかの鍵が遺されている可能性はある。

 漸く見え始めた光明に、ルフレは少し安堵の息を吐いた。

 

 そのフォルネウスの研究室の中心部分は、その手記によると、ここよりも更に地下深くにあるらしい。

 既に五層は降りてきているのだが、まだまだ先がある様だ。

 ここまでの規模の研究施設を与えられていた事を思うと、そのフォルネウスと言う男は狂気的な思考に支配される前は余程優秀な錬金術師であったに違いない。

 彼が最初から狂っていたのか、或いは何かを契機として狂気に魅入られてしまったのかは分からないけれども。

 類い稀なる才があったが故に、狂気に侵されながらもこの世の理を冒涜する様な研究を結実させる事が出来たのだろう。

 

 そんな風にかつてこの遺跡の主であった男の事を考えていると、視界がまるで絵画をその上から乱暴に絵具で塗り潰そうとするかの様に一気に歪んだ。

 

 急激に景色が変わり大量の視覚的な情報が叩き込まれた事による、悪酔いの様な気持ちの悪さと不快な酩酊感に襲われ、ルフレは思わず一瞬目を瞑ってそれらを耐え凌ぐ。

 そして、目を開けた次の瞬間に見えたのは。

 

 

 壊れた様に狂喜の哄笑を上げる、全くその顔にも声にもルフレには覚えが無い……。

 しかし、酷く忌々しさと同時に懐かしさに似た感覚を感じる男の姿であった。

 その声は何処か不鮮明で所々しか聞き取れなかったが、『成功』だとか『神の血』などと言っている事だけは分かる。

 ローブの間から覗く狂気的な眼差しが、以前見た幻覚の中の、何かの向こうからこちらを物の様に観察してきた巨大な人間の目と重なった。

 その瞬間、いっそ痛みすら感じる程の、燃え盛る炎の如き強烈な怒りと憎しみに感情が支配される。

 

 

 程無くして幻覚は掻き消えて、再び現実が戻ってきた。

 しかし、未だ耳にあの男の狂った哄笑が残っている様な気がして、その幻聴を振り払う様にルフレは頭を振る。

 …………この地下遺跡に足を踏み入れてから度々見ているこれらの幻覚がギムレーの記憶であるとするならば、あの狂った目をした男が、この地下遺跡の主であった錬金術師フォルネウスなのだろうか。

 そして、幻覚と共に感じた怒りや憎しみは、かつてのギムレーのものであるのだろうか。

 

 ……幻覚で見たフォルネウスの姿を思い返した所で、今のルフレには、特には何も感じない。

 強いて言えば、既に正気を喪っているかの様な姿のフォルネウスが無気味であり近寄り難い存在に思えた程度だ。

 しかし幻覚の中では、確かに『ルフレ自身が』その感情を感じていた。

 ギムレーのものであったのだろうその感情と、自分自身の感情との境目が消失していたのだ。

 今となって同じ光景を思い返してみても、どうやってもその感情を追体験出来ない事から、その『異常』がよく分かる。

 しかし極めて質の悪い事に、その時その瞬間ではルフレはそんな自分の『異常』を認識出来ないのだ。

 今こうして思考している自分自身を全く信用出来ないと言うのは、ルフレにとって酷く恐ろしい事であった。

 

 それは、かつて自らの意志に関わらず邪法によってファウダーの操り人形にされ、クロム達を害してしまうかも知れなかった時よりも、より一層恐ろしい事だ。

 あの時は、邪法により身体を操られてしまう事こそあれど、その意識は邪法に侵される事無く自分自身のものであり、邪法から解放されれば全くの元通りの状態に戻れていた。

 

 しかし、今のルフレは、果たして「元通り」になれているかどうかすらも、何も分からない。

「今」と「以前」の自分が、果たして同一性を保てているのかどうかも分からない……確かめようが無いのだ。

 

 自分の意識が、その思考が、その認識が。

 そうと自身では理解出来ぬままに狂い果て変質しきってしまうのだとすれば。

 今この瞬間に思考している自身が『正常』であるのかなんて誰にも分からないし、そもそもそれが『ルフレ』自身であると言っても良いのかすらも、……自分には分からない。

 確かにここに在る筈の『自分』と言うものすら何一つとして信用も信頼も出来ないのだ。

 知らぬ間に心が変質してしまう事程、恐ろしい事は無い。

 

 果たして、今の自分は本当に『ルフレ』なのだろうか。

 自分の事を『ルフレ』だと錯覚している『ギムレー』なのではないだろうか……。

 その恐ろしい考えを、ルフレは否定出来ない。

 

 もしも『自分』が『ルフレ』であるのなら、果たして『ルフレ』が訪れた事など決して無い筈のこの地下遺跡に対して強い既視感を……既知感を覚えるのだろうか? 

 会った事も無い、顔も知らない、名前すらついさっき知ったばかりの男に対して、その者が息をする事すら赦し難い程の憎悪を抱く事など有り得るのだろうか? 

 この身を襲う異変ですら。ギムレーの力によって姿を歪められているのではなく、本当の『自分』が本来在るべき姿に戻ろうとしているだけなのではないだろうか? 

 

 

 ……果たして。

 今の自分は、本当に『ルフレ』であると。

 そう言える様な存在なのだろうか……? 

 

 

 ── この『僕』は、一体『誰』なのだろうか……? 

 

 

 本来ならば考える事もないであろう筈のその疑問に、ルフレ自身は返すべき答えを持っていなかった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 地下に降りて行けば行く程に、より昏く深い……身も心も凍らせてしまうかの様な悍ましい静けさが場を支配していた。

 上層にはあった、かつて命ある者がそこに存在していたからこその僅かな温もりの様な名残すらもここには無い。

 生きている灯りの数も格段に減り、頼りなく揺れるカンテラの灯りは足元の闇すらもろくに祓えなくなっていた。

 時折、闇の中でも変わらず蠢き続けているのであろう屍兵達が立てている微かな物音は聞こえるが、それは息苦しさを覚える程の静寂の中に掻き消される様に消えていく。

 

 しかしその静けさの中に、無数の命の怨嗟の声が……その身を切り裂かれ生命の尊厳も魂も何もかもを冒涜された哀れな者達の断末魔の叫びが今も尚響いている気もするのだ。

 無論、ルフレ達を除けば命ある者など存在しないこの場所でその様なモノが聴こえてくる筈も無く。

 それはただ単にルフレがかつてここで行われていた非道な実験の数々に思いを馳せていた事による幻聴なのだろう。

 しかしもしかすれば、今も尚この地にその魂を縛り付けられ死して尚も永劫に最期の時を繰り返している無数の犠牲者達が居るのかもしれない……。

 だがもしそうであるのだとしても、死者の霊魂を視る才は持たぬが故に、ルフレがそれを目にする事は出来なかった。

 

 或いは……ギムレーの記憶の中のそれが、ルフレがそれを意識するしないに関わらず、勝手に想起されてしまっているのかもしれない。

 ……そんな考えを後押しする様に、階層を進めば進む程、明確に言語化出来ぬ強い既視感や既知感と共にギムレーの記憶と思わしきものの幻覚が現れる事が増えた。

 

 こちらを観察する狂った目。繰り返される凶行。

 恐怖、拒絶、否定。憎悪、怒り、破壊衝動。

 

 断片的にルフレの前に姿を現すそれらは、昏く狂暴な負の感情に彩られていて。

 繰り返し繰り返しその感情に染められていく内に、果たしてその感情がかつてのギムレーのものであるのか、或いは今この瞬間の『ルフレ』自身のものであるのかの境があやふやになっていく。

 それは同時に、自分自身の存在の、「確かさ」さえも揺らいでいく事も意味していた。

 目に映るものが果たして現実であるのか、それとも記憶が映し出す幻影なのか、それすらも定かではなくなる。

 次第にギムレーの記憶から零れ落ちた影である筈のその幻の様な光景は質感を持ち始めて、何時しかそれが幻覚であると言う認識を喪ってしまいそうな予感すらあった。

 

 そも、記憶とは絶対ではなく嘘を吐くものである。

 有りもしない経験をさも現実であったかの様に記憶してしまう事などよくある事であるし、寧ろそれを躍起になって確かめようとすればする程に、記憶の「確かさ」と言うものは曖昧になってしまうものなのだ。

 繰り返し繰り返し刷り込まれる様に再生されるギムレーのその記憶やその感情を、自分のものであると錯覚し始めてしまう事は有り得ない事ではないのだろう。

 しかも、ルフレは一度自身に関する記憶を全て喪っている。

 故に、記憶と経験を土台として存在するべき人格と言うものに関して、ルフレは他人の目にどう見えているのかはともかくとして、その安定性に関しては少し不安があった。

 無論、ルフレは『自分』と言うものに関して、クロム達やルキナと言う寄る辺を持っている為、そう簡単にそこが揺らぐ訳ではない。

 だがそれは自分自身の中に存在するものではなく、だからこそ存在する脆弱性がルフレにはあるのだ。

 そして、その脆弱性を突く形で、ギムレーからの意識への侵食は進んでいたのである。

 更には、ギムレーの影響であろうその異常は、記憶の「混線」だけに止まらなかった。

 

 ふと気が付けば、屍兵の襲撃に備えて何時でもファルシオンを抜き放てる様に警戒しつつルフレの横を歩くルキナへと目を向けてしまう。

 その視線が愛する者へと無意識に向けてしまうものであるのなら微笑ましいものであるのだけれども。

 しかし、そう言った視線を知らず知らずの内に向けてしまっている時にルフレの思考を支配しているのは。

 そんな愛欲によるものとはかけ離れている様な……。

 例えるならば、獰猛な肉食獣が獲物を定めそれを食い殺す瞬間を窺っているかの様なものであり。

 或いは幼子が捕らえた虫の足や羽を無邪気な好奇心のままに毟って虫籠に閉じ込めようとしているかの様な、ゾッとする程の残虐性と狂気的なものである。

 

 咽を滑り落ちる極上の甘露の如しその命の雫の味が思考を支配し、そして自然とその柔らかな肌へと牙を突き立てて肉を喰らいたい、と……そんな思考へと至りかける。

 その上で、それと同時に。

 この美しく愛しい宝物を、文字通り『永遠に』自分に……そしてこの世に繋ぎ止めて、そして自分以外の誰かがルキナを思う事が無い様に……そしてルキナが自分以外の誰の事も思う事が無い様に、誰の目にも触れぬ場所に閉じ込めて。そして自分とルキナ以外の何者も存在しないそんな閉じた世界で永遠を生きたい、と。

 そんな……正気を保っている状態では理解しようとしても到底不可能な程の狂気に満ちた思考が、極自然で正常な『愛情』としてルフレの内に存在しているのだ。

 

 ルキナの目が自分以外の何かに向く事があろうものならば、きっと自分はその何かを滅ぼしこの世から消し去らずにはいられないだろうし、ルキナを自分だけに繋ぎ止める為ならば世界なんて幾つでも滅ぼしてしまえるだろう。

 ……それは剰りにも異常な思考、異常な執着であった。

 

 ルフレは間違いなくルキナを愛しているし、その愛を喪う事など耐えられないのは確かだ。

 ルキナにもう一度逢いたいと、その一心で消滅の定めを覆してもいる。

 しかしそれと同時に、ルフレはルキナの『幸せ』を心から願っているのだ。

 自分の『幸せ』は確かに、ルキナと共に生きる事、ルキナの傍に居る事であるけれども。

 その上で、自分にとって何よりも優先させるべき一番の『幸い』とは、ルキナが『幸せ』である事なのだ。

 

 もしも、自分と共に生きる事がルキナにとっての『幸せ』を奪う事になってしまうのならば、ルフレはそこにどんな苦痛が伴うのだとしても……繋いだその手を離し、ルキナが『幸せ』になれる様にその背を押すだろう。

 況してや、ルキナを自分だけに繋ぎ止める為に、それ以外の全てを滅ぼしたいなどと思う訳もない。

 

 それなのに、その狂った思考は、狂ったままに狂気的な『愛』を高らかに謳うかの様にルキナへと向ける。

 しかしそれは、『ルフレ』の思考ではない、断じて違う。

 それがギムレーに侵食され壊れてしまったルフレの心の欠片なのか、それともギムレーがルキナに対してその狂った愛を向けているのかは分からないけれども。

 ルキナに愛された、ルキナが愛してくれた、『ルフレ』の在り方では断じてないのは確かである。

 

 しかしその自覚があっても、狂った部分の侵食は静かに、しかし確実に起きていて。

 今この瞬間の自分の思考が、自分の在り方が、自分の存在が、『ルフレ』本来のものであるのかはもうルフレ自身にも分からない。

『自分』のものでは無い筈の記憶に侵食され、『自分』のものでは無い筈の感情に蝕まれ、『自分』では有り得ない筈の思考に支配されてゆく。

 果たして、本来の『ルフレ』と呼べる部分が今の自分に如何程残されているのか……ルフレ自身にももう分からない、確かめられない。

 

 ……そして、紅茶に混ぜられたミルクを再びミルクとして取り出す事が不可能であるかの様に、『変質』が始まる前の『ルフレ』自身を思い出す事すら難しく。

 かつての『ルフレ』へと戻る事は、ほぼ不可能であった。

 そしてその不可逆的な『変質』は、ルキナの血を飲む度に、より進んでいる様にすら思える。

 ……ルキナの血によって元に戻っているのは見た目だけで、その肝心の意識などの中身は寧ろ『変質』してしまっている様な……そんな何か取り返しの付かない事を犯してしまっているかの様な。漠然としながらも焦燥とも恐怖とも付かぬ「何か」を掻き立てる不安ばかりが募っていく。

 

 もし、次にルキナの血を飲んでしまった時、果たして自分は自分のままで居られるのか……。

 凶暴な獣の様に、狂った竜の様に、ルキナをその壊れた『狂愛』で傷付け壊してしまうのではないか……。

 

 思考を切り替えようとしてもその不安と恐怖を振り払う事は叶わず、そしてもし自分の意識がそう変わり果ててしまえば、そうなった後では最早自分には何も出来ないのだ。

 ルキナを守る為にどうすれば良いのか、何が出来るのか。

 何れ程考えても、ルフレには最善の方法など思い付かず。

 

 ふと目をやった右手は、ルフレの思考を追い詰め逃げ道を塞ぐかの様に、『人』の形を喪いつつあった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 まるでそれその物が生きているかの様な……そんな気味が悪く本能的な部分に警鐘を鳴らしてくるその暗闇は、ルキナにとっては何処か懐かしく……かつての『絶望の未来』での夜闇と何処か似ている様な気がした。

 日の光すらろくに届かないばかりか、星明かりも月明かりも奪われた世界の夜は、まさにそこに在る人々を食い潰そうとするかの様な恐ろしいもので。

 その闇の中に蠢く屍兵達に、一体何れ程の命が刈り取られていったのか……その数はルキナにも把握しきれなかった。

 既に命を喪いながらも恐ろしき邪法により命ある者の理を捻じ曲げられ、肉体の牢獄に魂を囚われた数多の犠牲者達が。

 声無き声でその苦痛を、無念を、叫んでいるかの様な……そんな独特の気配と禍々しさを命ある者の本能が齎す嫌悪感に似た肌がひりつく様な感覚を、ルキナはあの『未来』で深くその身に刻まれたかの様に、よく知っていた。

 

 この地下遺跡の主であった者……フォルネウスと言う者が、『屍兵』の存在その物を産み出した者であると言うのなら。

 一体この遺跡の中には何れ程の数の屍兵が……その命を弄ばれ死すらも辱しめられた哀れな者達が。造り出されて幾千年以上の時が経った今も、死者の魂の在るべき場所へと行く事も叶わずに彷徨い続けているのだろうか……。

 深い闇の向こうに感じる悍ましい気配の数からすると。

 フォルネウスなる者にその命の在り方を歪められた者達は、あの絶望の未来を知るルキナですらも考える事すらしようとも思いたくない程の数に上っていたのだろう。

 この地が滅び、彼等の命を弄んだ狂った男が没してからも、千数百年もこの地に縛られて。

 そして、この地に眠るものによる災禍を憂いた神竜ナーガによって、世界から切り離され時の流れすら壊れたこの地で、何時終わるとも知れぬ永劫の苦しみの中に在るのだろうか。

 哀れとしか言い様のないその有り様ではあるが、……かと言って彼等を解放してやる為だけに一々屍兵と戦っている様な余裕はルキナ達には無い。

 

 元よりこの地を訪れたのは、哀れな犠牲者を解放してやる為などではなく、単にルキナにとって何よりも大切な存在であるルフレを救う為である。

 何れ程哀れな存在であっても、そして彼等がその永劫の苦痛からの解放を心から願っているのだとしても。

 それでも哀れな彼等の事が、ルキナにとってルフレよりも優先されるべき事象になる事は有り得なかった。

 避けられぬ戦闘ならば仕方がないが、今はとにかく一刻も早くこの遺跡の奥に行く事と、フォルネウスなる男が残した知識の断片を探し出して、ルフレを救う術を見付ける事だけがルキナの優先事項であるのだ。

 全能の神ではないが故に、救いを求める者全てに慈悲を向ける事はルキナには出来ない。

 

 ギムレーに蝕まれるかの様に『人に非ざる姿』へと変貌していっては、ルキナの血によって辛うじて元の姿に戻る事を繰り返しているルフレであるが、こんな姑息的なやり方が何時までも通用するとはルキナには到底思えなかった。

 現に、徐々にではあるが変異していく速度は早まり、血を飲ませなければならない間隔は少しずつ短くなっていく。

 ルキナの血を与えても元に戻れない時が来る予感は、ルキナの頭から常に離れない。

 

 後何れだけの時間が、自分達には残されているのだろうか。

 後何れ程……ルフレは『人』のままで居られるのだろうか。

 暗く後ろ向きな思考は、ルキナの不安と恐怖を駆り立てる様にぐるりぐるりとその頭を絶えず廻り続けていた。

 

 ルフレに自身の血を与える事自体には、ルキナには何の嫌悪感も忌避感もない。

 寧ろ、この身が愛しい人の為に役立てられるのなら、己の血など幾ら捧げても構わなかった。

 ……しかし、ルキナがそう思っていたのだとしても。

 ルフレ自身はそうではなかった。

 

 血を与える度に、ルキナの腕に傷が刻まれる度に。

 まるでその意思に反してこの世の何よりも罪深い事を成してしまった罪人であるかの様な、そんな苦渋と絶望と後悔と哀しみに満ちた目でルキナの腕を滴る紅い雫を見詰めて、その苦しみを隠せない表情で血を飲む。

 そして、いっそ過剰な程にルキナの傷口を癒そうとする。

 ライブ一つで簡単に跡形もなく癒えてしまう程度の傷なのに、まるで一生消えぬ傷痕をそこに刻んでしまったかの様な……そんな苦しみに満ちた顔をするのだ。

 ルキナから血を飲まねばギムレーからの侵食を抑えられぬ事は、ルキナが想像している以上にルフレを苦しめ追い詰めてしまっているのだろう。

 しかしそうと分かっていながらも、血を与える事しかルキナに出来る事は無かった。

 

 ルキナには、例えその身が完全に『人』の姿を喪い邪竜のものになったのだとしても、そこに在るのがルフレの心のままであるのなら、変わらずに愛を懐く事が出来る確信はある。

 例え抱き締め合う事が難しくなるのだとしても、その温もりを硬く冷えた鱗が覆い隠してしまうのだとしても……彼との間に子を成す事が叶わなくなるのだとしても。

 それでも、互いに言葉を交わせるのなら、その心を寄り添わせ続けられるのなら、共に同じ時を過ごせるのなら……。 

 ルキナにはただそれで良かったのだ。

 

 例え、ルキナの身など容易く切り裂ける鋭い爪があっても。

 鍛え上げた鋼ですら容易く砕ける程の牙があっても。

 その身が、熱を持たぬ硬い鱗に覆われていても。

 ルフレとしての姿形の面影を何もかも喪ってしまっても。

 ……その心が。ただその心だけでも、愛しているルフレのそれである事に変わりがないのなら。

 どんなに恐ろしい姿に変わってしまっても、邪竜の姿になってしまっても、ルキナはルフレを愛し続けられる。

 

 ……しかし、いや間違いなく、ルフレ自身はそうではない。

 今でも揺らいでいるその心は、万が一にでもその身がそれ程までに変わり果てようものなら、壊れてしまいかねない。

 自身を怪物であると恐れ貶め忌避し拒絶して、ルキナを守ろうとして遠ざけて……そして最後には壊れてしまう。

 最初に変異が起こってしまった時に誤ってルキナを傷付けてしまった事が、ルフレ自身が気付いているのか否かは分からないが、彼の思考を極端に追い詰めてしまっていた。

 

 何かに追い詰められていく様に次第に思い詰めた表情になってゆくルフレのその心の棘を抜く術が……一人孤独に落ちていくその手を引き上げる術が、ルキナには分からなかった。

 ルキナが幾ら何を言ったとしても、それはルフレにとっては自身の心を苛み追い詰めるものにしかなっていない様で。

 だからこそルキナには、これ以上ルフレが自分の心を傷付けてしまわぬ様に……せめてその姿形がこれ以上変容する事が無い様に、血を与え続ける事しか出来なかった。

 

 この深い闇の中の何処かにルフレを救う術は存在するのか。

 ルフレの心を、救ってやれる方法はあるのだろうか……。

 何度そう考えた所で、ルキナに出来るのは、可能性を信じただ進み続ける事だけで。淡い希望に縋るしかないのだ。

 

 カンテラの灯りを頼りに、崩れた何かの残骸や折れて砕けた柱の残骸を、時には迂回し時には乗り越えながら進み、砂を踏み締める音と微かな吐息すらも静寂に溶けて消え行く中で、ルキナはルフレの様子を確認しながら進んでいた。

 鱗が生え始めた辺りで血を飲ませても良いのだけれど、一々そうしている時間は惜しいからと、ルフレはある程度変異が進まないとルキナの血を飲もうとはしない。

 それには言葉通りに時間を少しでも節約すると言う意図もあるのだろうけれど、それ以上にルキナの身を案じ極力痛みを与えないようにとしているからなのだろう。

 その思い遣りを汲んで、ルキナは右手が完全に変異してからのタイミングで血を飲ませる様にしている。

 しかし、それ故にそのタイミングだけは逃してはならないとも思っていた。

 変異の進行を見逃してしまえば、益々ルフレの心を追い詰めてしまいかねない。

 ルフレの心を守る為にも、そこだけは譲れなかった。

 

 そうしている内に、そろそろ血を飲ませねばならない状態にまでルフレの身は変じていた。

 

 ルフレに血を与えなければ、と。

 近くに屍兵が居ない事を確認してから、一旦休息を取ろうと声を掛け、物陰に身を寄せながらルキナは腕を傷付ける為に小刀を取り出す。

 しかし、ルキナが腕を軽く切って血を流そうとした所で、ルフレから「待ってくれ」と声が上がった。

 

「どうかしましたか、ルフレさん」

 

「……すまない、ルキナ。

 僕はもう、君の血を飲めない……。

 これ以上君の血を飲むと、僕は本当に『怪物』になってしまう気がするんだ……。

 段々、君の血を美味しいと……そう思い始めていて……。

 僕は、このままじゃ……きっと君を……」

 

 思い詰めた表情で何処か辛そうにそう語るルフレであるが。

 果してその言葉通りにして良いものなのか……ルキナには咄嗟に判断が付かなかった。

 そして、その一時の迷いを嘲笑うかの様に、ルフレが苦悶の声を溢しながら肩を抱く様にして、苦しそうに踞った。

 

「ルフレさん! どうしたんですか……!!」

 

 変異にこうも苦しむルフレを見るのは、この『異変』が始まった時以来である。

 何か新たな異常でも起こったのかと、ルキナも気を動転させつつ苦しむルフレの身体を抱き締めた。

 声を出す事も儘ならぬ程に苦しんでいるルフレの口許が、小さく『せ、な、か』と動いたのを認めて。

 一体何が、と焦燥感に駆られながらも、ローブ越しにルフレの背を労わる様に触れると。そこには『人』の背からは返ってくる筈のない感触が返ってくる。

 布越しに触れたそれはまるで、鳥の翼の様な感触で。

 ギムレーからの侵食が更に進み、その背には新たに翼が生えてきているのだと、ルキナは理解した。

『人』の身体には存在し得ぬモノが新たに生えようとしているから、ルフレはこうも苦しんでいるのだろうか。

 何にせよ、最早一刻の猶予もなかった。

 

 しかし幾らルキナが傷口から血を流しているその腕をルフレへと差し出しても、ルフレは力無く……しかしきっばりと首を横に振ってそれを拒絶するばかりである。

 そうこうする内に、背中の翼はローブを持ち上げ始める程にまで成長し始め、更にはギムレーの姿がそうである様に、翼は二対三対と増えて行き、それがローブの隙間からルキナにも見えてしまう。

 そして、まだ人間の手の形を保っていた筈の左手も、異形のそれへと急速に変わって行いこうとしていて……。

 それを見るルフレの表情は恐怖に近い感情に染まっていた。

 

 ……それでも、決してルキナの血を飲もうとはしなかった。

 口元を固く結んでルフレはそれを断固として拒む。

 

 だが……それと同時に、変異していく自身の身体を見詰めるルフレの目は、見るからに追い詰められていって。

 その心が軋み出す音が、耳に届いている様な錯覚にすらルキナは陥ってしまう。

 

 

 それ故に、ルキナは──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆




➡ルフレの意志を無視する

➡ルフレの意志を尊重する
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