◆◆◆◆◆
ルキナは……。自分の腕に口を当てて、傷口から零れていた血を十分に口に含んだ。
そして──
その身を苛む痛みから身動きの取れなくなっているルフレの顎をそっと右手で軽く持ち上げて、上を向かせた。
突然のその行為に驚いたルフレが固まっているその隙に、一気に自身の唇をルフレの唇へと押し当て。
その勢いを保ったまま、咄嗟に硬直したルフレの唇を舌で押し開く様にして抉じ開けて、その口腔内へと強引に舌を滑り込ませる。
反射的に押し返そうとしてくるルフレの舌を、舌で押さえ付けて。
情事の前に交わすかの様な深い口付けをする要領で、ルキナは口に含んでいた自身の血を口移しでルフレへと与える。
ルキナが口移しで与えようとしているそれが何なのか理解した瞬間に、ルフレはルキナの身を引き剥がしてその口に流し込まれた血を吐き出そうともがくけれど。
そうはさせないとばかりに、ルキナは抵抗するルフレの身体を押さえ付ける様にして左手でその身を抱き締めて、ルフレの抵抗を殺す。
せめて呑み込まない様にとルフレが舌を動かして抵抗しようとするのを、再び自身の舌で封じ込めて。
そして、耐えきれなかったルフレの喉元がゆっくりと動き確かに嚥下した事を確認してから、ルキナはやっとルフレの身体を解放して口を離した。
血混じりの唾液が細い糸を引く様に口元から垂れる様に落ちたのを乱暴に腕で拭って、ルキナはルフレの様子を見守る。
最初の内はただ苦しそうに咳き込むだけであったけど。
次第に、顔を覆っていた鱗はボロボロと崩れ落ちるかの様に消えて行き、それとほぼ同時にまるで時を巻き戻しているかの様にルフレの変異は掻き消されて行く。
喉奥に少し血が残っていたのか、ルフレが噎せた拍子に僅かにその口元から血が溢れてきたその時には、その姿はすっかり元の状態にまで戻っていた。
しかし、ルキナを見詰め返すルフレのその表情は暗い。
「ルキナ……どうして……」
何かを耐える様に問うその言葉は、何処か辛そうであった。
「私は……。あなたがこのまま壊れてしまう事を見逃す訳にはいきませんでした。
例えそれが、ルフレさん自身の意思に反する事になるのだとしても……。
貴方が、血を獲る事を忌避しているのは分かっています。
それでも……貴方が望まぬ身体の変貌に苦しみ、その心を苛んでしまう位なら、私の血なんて幾らでも飲んで貰っても良いんです……。
それでルフレさんの苦しみを取り除けるなら、私はただそれだけで良いんです……。
貴方を喪ってしまうかもしれない事に比べたら……」
ルフレの意思を踏み躙ってしまった自覚があるだけに、答えるルキナの声も苦しいものであった。
それでも、その選択は、そしてその心は……どうしても譲れなかったのだ。
そのルキナの答えに、ルフレは苦しそうにルキナを見詰める眼差しを、何かに迷う様に静かに揺らす。
一度、二度と、ルフレは浅く息を吸った。
そして、その唇を噛み千切ってしまいそうな程に、噛みしめて……。
何かを否定する様に、小さく頭を横に振るけれど。
「僕は──…………いや、良い。
それが君の望みならば、【僕】はそれを受け入れるまでだ」
その瞬間。
『何か』が決定的に変わってしまったのを、ルキナは理解を越えて肌で感じた。
しかし、一体『何が』変わってしまったのか理解出来ずにルキナが戸惑っていると。
その戸惑いを置き去りにするかの様に、ルフレは唐突にその左手でまだ傷口が開いたままのルキナの腕を取り、そこから垂れている血を右手の指先で拭って舐め……そしてこの世の存在とは思えぬ程の妖艶とした恍惚の微笑みを浮かべる。
あれ程までにルキナの血を拒もうとしていたとはとても思えぬその行動に、ルキナが困惑のあまり動けずにいる中で。
雫では足りなかったのか、腕の傷口に口付ける様にして血を飲み、その舌を柔らかく傷口の周りへと這わせ始めた。
鈍い痛みと共に感じる擽ったい違和感に思わず身を震わせたルキナは、困惑のままに呟く。
「ルフレさん……?」
しかし、その呟きにルフレは反応らしい反応を返す事無く。
まるで、独り言の様な何かを零すだけであった。
「ああ……やっぱり、君の血はこの世の如何なる美酒よりも、【僕】にとっては蠱惑的なまでに魅力的だ……。
君が、忌々しくも我が根源であるあの神竜の……その力の欠片を継ぐ末裔だからかな……? いや、違うね……。
君の全てを、その血の一滴まで、骨の一欠片まで、その魂に至るまで、君と言う存在を形作る全てを、喰らい尽くしてしまいたいと……【僕】だけのものにしたいと言うこの衝動は、そんな理由だけでは到底説明など付かない……」
そう言いながら、まだ微かにルキナの血が付いた右手で、【彼】はそっとルキナの頬を撫でる。
その指先は、柔らかな『人』のそれではあるけれども。
しかし『違う』と、ルキナの本能は痛い程に警鐘を鳴らす。
だが、腕を掴む手を振り解こうとしても、そう力を入れている様には見えないにも関わらずその手は小揺るぎもしない。
ルキナを見詰めるその眼差しは、まるでルキナの身を骨まで焼く程の熱を伴っているかの様に感じる程のもので。
ルキナの目の前のその【彼】は、ルフレではない何者かであると同時に、その無意識レベルでの僅かな仕草は間違いなくルフレのものに相違無く……。
……そして、その気配も何もかもがルフレのそれと限り無く同じであった。
だがそれでもルキナの本能が、それは『ルフレ』ではないと叫ぶ。
何処までも「同じ」なのに、決定的に『ルフレ』ではない。
「あなたは、一体『何者』なんですか……?」
「【僕】……? 【僕】は【ルフレ】だよ。
ああでも……【ギムレー】でもあると、そう言った方が良いのかも知れないね。
【僕】にとっては、もうどちらでも何一つとして変わらない事なのだけれど」
そう言いながら、【彼】はルキナの腕の傷口にそっと指先を沿わせ、ツッ……と撫でる様に滑らせる。
ただそれだけで、その傷口は痕形も無く消え去った。
ライブなどの癒しの杖を使った素振りすら見せない。
そもそも、何らかの魔法が行使されたのかどうかすらも、ルキナには判別出来なかった。まさに人智を越えた業だ。
目の前にいる【彼】の、ギムレーであると言うそれが事実であるならば、それはル
フレが完全にギムレーに侵食されきってしまった事を意味する。
そして、この存在がギムレーであると言うのなら、再びこの世に甦った邪竜が世界を滅ぼす前に、相討ちを覚悟してでも倒さなければならなかった。
だが、ファルシオンへと伸ばそうとしたルキナのその手は、まるで凍り付き彫像と化してしまったかの様にそこから僅かたりとも動かす事は出来ず。
ルキナの身体は、最早瞬き一つすら自らの思う様には動かせなかった。
己の自由に出来るのは、ただ口と舌だけしかない。
「どうして……」
そのたった一言を溢す事すら、剰りにも苦しかった。
どうして、何故。そればかりが、ルキナの思考を支配する。
だが、そんな答えを求めたとして一体何になると言うのか。
ルフレが……愛しい彼が、ギムレーに喰らい尽くされてしまった今。
そこにどんな理由や原因があったとしても、もう何の意味も無い。
ルフレを取り戻す事は、きっともう……。
「『どうして』……?
それは、こうして【僕】……いや、この世から消滅した筈のギムレーが甦った事について?
それともこの身が『人』の姿を喪っていった事について?
或いは……ここに至るまでの全てについてかい?
【僕】にはそれを答える意味と言うものは無いけれど、他でもない君がそれを知りたいと望むなら構わないよ」
そう言った【彼】は……ルフレならば絶対にしない、しかしかつてのギムレーの様な全てを蔑む様なそれとも全く違う、表層的には優し気に見えるゾッとする様な微笑みを浮かべて。
何らかの魔法なのかギムレーの力なのか……ギムレーが指先一つも触れていないにも関わらず身動きの取れないままのルキナの髪を、彼は指先で軽く梳く様にそっと掬い上げた。
「さて、どこから説明するべきなのだろう?
うーん……やはり最初から、なのかな?」
指先でルキナの髪を弄びながら【彼】は穏やかに言う。
「全ての始まりは、そう……。
僕……君が言う所のルフレが、『ギムレー』と共に消滅する事を選んだあの時だ。
僕達は互いにこの世から魂の一欠片も残す事も叶わず、完全に消滅する。……その筈だった。
いや実際、ルフレもギムレーも、どちらもがもう殆ど魂の形を保てない程に消えかけていた。
……しかし、ルフレには『未練』があったんだ。
強い……そう、本当に強い『未練』だった。
消滅の運命を拒みながらも抗えずに共に消え行く筈だったギムレーの魂を、手繰り寄せてしまう程の、ね。
それでも……如何に消滅を拒もうとも、或いはこの世に残した『未練』に縛られようとも。
最早、神であってもルフレの消滅の運命を覆す事は不可能だった」
優しい顔のまま、【彼】は何処までも残酷な言葉を連ねた。
「それもそうだろう?
ルフレは自ら、己の死と引き換えにギムレーを消滅させる事を選び、そして実行した。
その事実を覆す事など、その選択を『無かった事』にするなど、如何なる神にも不可能であるとも。
……それでも、ルフレは諦められなかった。
君と再び出逢う未来を、君と生きる明日を、ルフレはその願いを最後まで諦める事も捨てる事も出来なかったんだ。
そしてその強い願いは、共に消滅間際であったギムレーとルフレの魂を結び付け、一つに混ざり合わせた。
元よりギムレーもルフレも、そこにある力の多寡こそあれど、ほぼ『同じ』ものだ。二つの存在が混ざり合い溶け合う事も、そう難しくは無かったのだろうね。
一つになった【僕】達は、どちらでも無い者になる事で消滅の定めを覆した。
要は、君が『帰って来た』と認識していた『ルフレ』は、初めから二つの存在が混ざり合った存在だったと言う事さ」
幼子が戯れに砂の城を崩すかの様な……そんな無邪気さすら感じる程に、ただの事実の様に淡々とそれを語る【彼】のその横顔に、悪意と呼べる感情ははほんの僅かな欠片すらも無い。
そこにあるのは、かつて見たあの邪竜の……この世に生きる全ての存在への尽きぬ憎悪と破壊衝動を隠そうともしないあの禍々しい表情とは僅かとも重なる事すら無くて。
しかし、ルキナの知る、ルキナが愛し、そして愛されたルフレのものとも重ならない。
この者がルフレではない事は、ルキナも理屈を越えた部分で理解しつつある。
ならば、目の前のこの存在は『何者』であると言うのか。
その言葉が正しいのであれば、目の前にいるこの存在は、ルキナがこの世で最も愛した男と、そしてルキナがこの世で最も恐れ忌み憎悪する存在が混ざった存在である筈だ。
それなのに、そのどちらにも重ならないこの存在は……。
「……あなたが、ルフレさんではないと言うのならば。
あなたは一体『何者』であると言うんですか……!?」
「【僕】は、君が知る『ルフレ』だよ。
それ以外の何者でもないとも。
君と重ねた日々の記憶も、君と全てを触れ合わせた記憶も。
そして君を『愛する』心も、その何もかもが。
君の知る『ルフレ』そのままだ。ただ……。
『ルフレ』であると同時に、『ギムレー』であると言う点は、確かにかつての『ルフレ』とは違うだろうけれど。
だが、その違いに一体何の意味があるんだい?
混ざり合いそしてこの世に再び還ってきたその時から、【僕】は『ルフレ』であり『ギムレー』なのだから」
だから大丈夫だよ、と【彼】は笑う。
だが、その笑顔は、何時もルキナの心に安らぎを与えてくれていた本来のルフレのものとは掛け離れたもので。
【彼】が自分自身をどう認識しているにしろ、ルキナが【彼】をルフレと認める事は不可能であった。
「違うっ! あなたはっ……、ルフレさんじゃない!!
ルフレさんは、そんな笑い方なんてしないし、こんな事をする筈がない……!
あなたは、自分をルフレさんだと思っているだけの、ただの偽物です……!
返して……! 私のルフレさんを返して下さい……っ!!」
だが、そんなルキナの心からの叫びは、ルフレではなく……そして『人』でもない【彼】の心を動かす事は叶わない。
「【僕】は偽物じゃないよ?
君が『ルフレ』だと認識している『それ』と【僕】がズレているのだとすれば、それは今の【僕】の意識の多くを『ギムレー』だった意識の部分が占めているからだろうね。
でも、返せと言われた所でそれは不可能な事だ。
君は、ミルクティーを再び牛乳と紅茶に完璧に元の状態に分けられるかい? ……出来ないだろう?
【僕】とルフレの関係とは、詰まる所そう言う事なんだ。
ナーガだろうと、『ギムレー』自身だろうと、最早【僕】達を分かつ事など出来はしないとも」
果たして【彼】のその言葉が何処まで真実を語っているのかはルキナには分からないが。
しかし、身体の自由を奪われたままのルキナには、言葉を紡ぐ事以外に出来る事は何もない。
そんなルキナに、【彼】は楽しそうに続きを話す。
「さて、混ざり合ってこの世に戻ってきた訳ではあるけれど、『ギムレー』は強大だったが故に、消滅しかけた事によって喪った力は剰りにも大きかった。
だから、『ルフレ』の意識に隠れる様にして、ギムレーの意識は深い眠りに就いたんだ。
だからこそ、戻ってきたばかりの【僕】は、かつての『ルフレ』と何ら変わりがない様に見えた……と言う訳だろうね。
眠りの中で『ギムレー』の意識はゆっくりと力を蓄え、そして何れは『ルフレ』の意識を飲み込んでいただろう。
それでも、『ギムレー』の意識が目覚めて、こうしてルフレの意識を呑み込んで混ざり一つとなるまでには、もっと長い時間が掛かる筈だった……。
でも、【僕】がこんなにも早く、こうして表に出てこられたのは、ルキナ……君のお陰なんだよ」
本当に有り難う、と。
心からそう思っている様に嬉しそうに微笑みながら言う【彼】に、邪気と呼べるものは全く感じられないのに。
その笑顔は何処までも悍ましく、薄ら寒いものにしかルキナには感じられなかった。
「わたし、が……?」
自分が、ルフレの存在を殺す切欠になってしまったのかと。
信じられない、信じたくない。そんな思いで、茫然と呟いたルキナの頬に、【彼】はそっと触れる。
「そうとも、まさしく君だ、君に他ならない。
君はかつて神竜から力を与えられた者、初代聖王の末裔だ。
君には確かに神竜の力の欠片が宿っているし、更にかつて君はあの未来でナーガとの接触を果たした事で、完全なる覚醒とまではいかないものの、かなり強く神竜の力が発現している状態なんだ。
そして、神竜の力は、君の身体全てに宿っている。勿論、君の血や涙にも。
君と交わった事で【僕】に強い神竜の力が流れ込んできた。
そしてそれは、『ルフレ』の意識の影で深い眠りに就いていた『ギムレー』の意識を目覚めさせるのには十分だった。
『ギムレー』は、かつて神竜の血から造られた存在だ。神竜の血や力とは相性が良い。
君から得た力で目覚め始めた『ギムレー』の意識は、『ルフレ』の意識を呑み込む形でより完全に混ざり合おうとし始めたのさ。
身体が変異し始めたのは、『ルフレ』の意識の手綱を離れた肉体が、魂の在るべき姿に寄り添おうとしていただけだ。
君の血で元に戻った様に見えていたのは、『ギムレー』が力を取り戻した事によって融合が進み、【僕】となっていった事で、意識による抑制が効く様になったからだよ。
尤も当然の事ながら、『ギムレー』が力を取り戻すと言う事は、【僕】の意識としては『ギムレー』側の意識がより強くなると言う事でもあるのだけれど」
【彼】には、その言葉でルキナを嬲る意図などは、いっそ笑ってしまう程に、これっぽっちも無いのだろう。
隠しきれない喜びに僅かに綻ぶその表情に、そしてルキナを見詰めるその眼差しに、ルキナへの害意や蔑む感情の様なものはほんの欠片たりともない。
寧ろ『愛情』に似た熱を帯びた何らかの感情を向けている。
しかし、【彼】のその言葉は、ルキナの心をこれ以上に無い程に打ちのめし、無惨なまでに引き裂いた。
「そんな……私の、所為で……」
力無く項垂れそうになるが、【彼】の力で見えない拘束に雁字搦めになった身体ではそれすらルキナの自由にならない。
「何をそんなに苦しんでいるんだい?
【僕】はギムレーであると同時にルフレでもあるんだよ?
君を愛する気持ちに何一つとして変わりがある筈も無いさ。
力も完全に制御出来るから、肉体を君にとっては親しみやすいだろうこの姿のまま維持する事なんて容易い事だ。
【僕】と、君が知るルフレに、変わりなんてないだろうに」
本気で不思議に思っているのだろう。
【彼】は、首を傾げてルキナに問うた。
『事実』がどうであるにせよ。
少なくともルキナには、目の前にいる【彼】が、ルキナが愛したルフレと同じである様には、どうしても思えなかった。
ギムレーの意識に呑み込まれ混ざり合ってしまったのならば……ルフレ本来の意識を取り戻す事は、きっともう……。
しかしそうであると分かっていながらも、目の前に居るこの存在を、愛する男を食い潰した憎き存在だと割り切って憎む事も……ルキナには難しい事であった。
かつてのギムレーの様に、憎悪と破壊衝動に満たされた狂気を振り撒いているのならばともかく。
目の前の【彼】は少なくともルキナに対しては、かつてのギムレーが持ち得る筈もない……深く確かな『愛』と呼べる感情を、ルキナに向けているのだ。
そこに宿るものの性質は異なるが、その姿にどうしてもルフレの姿を重ねてしまう。
そして、ルフレとは確かに違う存在なのだろうとルキナに悟らせる程度にはルフレから乖離しているけれども、【彼】の無意識レベルでの小さな仕草や気配はルフレのもので。
だからこそ、この【彼】の中には、今この瞬間だって、確かにルフレも存在しているのだろうと……愚かな事であるのかもしれなくとも、ルキナは思ってしまうのだ。
もうルフレとは呼べないが、ギムレーそのものとも言い難い、どちらでもない……どちらにもなれない存在。
それが、【彼】と言う存在であった。
「……あなたは……ルフレさんでは、無いです。
あなたをルフレさんと思う事は、出来ない……」
力無く呟いたその言葉には、きっと何の意味も価値も……そしてこの現状を変える力も、無いのだろう。
【彼】は、自らが『何者でもないもの』に成り果てていようとも、何一つとして意に介す事は無いだろうから。
……これは、最後の最後でルフレの願いを踏み躙ってしまった自分への『罰』なのだろうか。
ルフレは二度と本来の自分自身に戻れず、そしてルキナは自らの行いの結果……助けたかった最愛の人を喪った。
自分の身勝手な願い……その『欲』の所為で、目の前の存在を、ルフレとも……ギムレーとすらも言い難い、そんな『どちらでもない何者か』にしてしまった。
それを『罪』と呼ばずして何とするのだろうか。
その『罰』は……何よりも重くルキナへと突きつけられる。
ルフレである事を否定された【彼】であったが、しかしルキナのその言葉に存在を否定された怒りを感じる様な事も、或いはその言葉を否定する事すらせずに、ただ頷いた。
「君がそう思うのなら、それで良いよ。
【僕】としては、【僕】が『ルフレ』であるのか、『ギムレー』であるのか、或いはそのどちらでもないのか……そんな事はもうどうだって良い事なのだから。
【僕】にとって必要なものは、ルキナ、君だけだ。
君の他には、【僕】は何も要らない」
そう言って、【彼】は。動けないルキナの身体を優しく……しかし何があっても抜け出せない様に、抱き締める。
囁かれる『愛』の言葉は、言葉だけでなら情熱的と言えるものであるのかもしれなくとも、それを聞くルキナの胸には後悔と絶望と嫌悪感しか浮かばない。
何れ程求められた所で【彼】はルキナの愛しい人ではない。
……ルフレはもう、居ない。
最早ルフレを取り戻す事は叶わず、そしてどんな奇跡を以てしてもルキナの最愛の人は戻らない。
ルキナの愛した男はもう、この世に存在しないのだ。
かつて喪い……そして奇跡の果てに漸く取り戻した筈だった存在を、ルキナは再び喪ってしまった。
……他でもないルキナ自身が、ロバの背を折る最後の麦藁を乗せてしまった形で。
愚かで救いようのない、そんな欲望の末路だった。
絶望し、何もかもを喪い、最早全ての気力を喪ったルキナを、【彼】は抱き締めたまま愛撫する様にその背中を撫でる。
その表情は、ルキナには見えない。
だが、ルフレの様でありながらも決定的に異なる表情をしているのだろうとは思う。
それはあくまでもルキナの想像に過ぎないが、しかし半ば確信していた。
ルキナを抱き締めたまま、【彼】は歓喜に満ちた熱い吐息と共に、優しさに似た甘さを秘めた声で囁く。
「ああ……ずっと。ずっとずっと【僕】は……他でもない【僕】自身として、こうして君を抱き締めたかったんだ。
『ルフレ』の意識の影で眠りに就きながら、ずっと君を求めていた、君が欲しかった。
『ギムレー』として生きてきた長い長い……しかし何にも満たされる事の無い、ただ虚ろなだけの時間は、こうして君に出逢う為のものだったんだと、そう心から思う程に。
君のその血もその肉も、魂の欠片まで、全部【僕】のものにしたかったんだ。
君の全てを食べてしまいたい位に、『愛して』いるよ……。
大丈夫、安心してくれ、勿論君を食べたりなんかしないさ。
食べて満たされるのは、たった一時だけに過ぎない。
そんな事をすれば、君の声を聞く事も、君の温もりを確かめる事も、君と手を繋ぐ事も、二度と出来なくなる。
それじゃあ、何も意味がない。
【僕】は、君が欲しい。君との永遠が欲しいんだ。
『愛して』いるよ、ルキナ。君の為なら何でもする。
君の為に、世界を幾つでも滅ぼしてあげよう。
君が望むなら、とびきり甘い睦言を幾らでも囁いてあげる。
君以外の全てを、【僕】は滅ぼしてしまいたいけれど。
君がそれを拒むのなら……可能な限り我慢するよ。
【僕】には、君しか居ないんだ……。
だからどうか、【僕】を見て、【僕】を『愛して』くれ」
その目に宿るのは、狂気としか言えない……そんな取り返しのつかない程に壊れ果てて尚も止まらない『愛』だった。
かつてのギムレーの眼差しに宿っていた、常人ならばそれを覗き見るだけでも狂ってしまいそうな程の憎悪と怒りが、そっくりそのまま全てルキナへの壊れ狂った『愛』に置き換わったかの様だ。
尤も、それを『愛』だと呼んで良いものであるのかはルキナには分からない。
常軌を逸した執着とも呼べるし、或いはただの狂気であるのかもしれない。
何であれ、ルキナにとっては到底受け入れる事の出来ない『情念』である事は確かであった。
しかし、幾ら感情や意識ではその『愛』を何があっても受け入れ難く思っているのだとしても。
身体の自由をほぼ全て奪われ何一つとして抵抗する事の出来ぬルキナが、言葉だけで【彼】の心を翻意させる事が出来る訳もなく、この状態から脱する事も出来る訳も無くて。
故に、ルキナは成す術もなく【彼】を受け入れるしかない。
憎き邪竜とも愛した男とも言い難い……哀れな怪物である【彼】からの口付けを、ルキナに拒む術は無かった。
あぁこれが『罰』なのか、とルキナは絶望を受け入れる。
一体、自分は何処から間違っていたのだろうか。
ギムレーと共に消える事を選んだ彼との、叶う筈もない『再会』を願ってしまった事が過ちだったのだろうか。
彼にその道を選ばせない『未練』になれなかったからか。
その答えは、最早永遠に分からないのだろう。
「ああ……これでやっと、君は【僕】のものだね……。
大丈夫だ、ルキナ。
今の【僕】の力なら、永遠と等しい程の時間を君に与える事が出来る。
君と何時までも二人一緒だ。
ルキナ……『愛して』いるよ。
君こそ、この世で唯一人の、たった一つの愛しい命なんだ。
だから……共に永遠を生きよう。必ず幸せにするから……」
そう甘やかな声で囁いて、【彼】は口付けの雨を降らせた。
それと共に、次第にルキナの意識も薄れていく。
【彼】の力によるものなのかは分からないが……、再び目覚めた所でルキナを待つのは、最早どうする事も叶わない『絶望』そのものの現実と、ルキナの『罪』の形だけだ。
意識を失いつつあるルキナが力無く崩れ落ちかけた所を、【彼】がそっと支えたのを意識の片隅で感じたのを最後に、ルキナの意識は完全に途絶える。
最後までその心に在ったのは、最早取り戻せぬ最愛の人への、尽きる事のない懺悔の念だけであった。
◆◆◆◆◆
何時しか戦争の記憶も薄れかける程の平和を享受していた世界に、突如討ち滅ぼされた筈の邪竜は甦った。
十数もの邪竜の子供達を率いて人の世を襲った邪竜は、瞬く間に神竜を滅ぼして人の世をその手に掌握し、人々を従属させた。
だがかつての伝承とは異なり邪竜はそれ以上の滅びを人々に与える事は無く、人々は邪竜の翼の庇護下で恒久の平和を得た。
そうやって絶対的な神として永遠に君臨する事になった邪竜には、この世の何よりも愛し続けている花嫁が居ると言う。
だが、その邪竜の花嫁の姿を見た者はこの世に存在しない。
邪竜は、その者を誰も近付けぬ楽園へ閉じ込め、決して自分以外の誰の目にも触れぬ様にと、大切に囲っていたからだ。
自らの子供達すらも自由にはそこに近付けないと言う程の徹底さで、邪竜はその者を自分以外の全てから遠ざけていた。
更には、邪竜は何人たりとも自らの『花嫁』に近付く事が叶わぬよう、その痕跡を徹底的に破壊した。
故に、邪竜からの『愛』を一身に受け、永遠に『邪竜の花嫁』として生かされ続けるのであろうその者が一体何者であるのか、それは当の邪竜たち以外には誰も知りはしない。
その者が幸福かは誰にも分からないが、邪竜がその者に永遠に変わらぬ愛を捧げる事だけは、一つ確かな事なのだろう。
【欲望の果て:終】
◆◆◆◆◆