◆◆◆◆◆
ルキナは……、血を流す腕を力無く下ろすしかなかった。
そうする事が正しい事であるのかは分からないけれども。
……無理に血を与える事は、ルフレのあまりにも強い拒絶の意思を踏み躙ってしまう事になる。
肉体が変容していく痛みと恐怖に苛まれても、ルキナの血を拒み続けるルフレのその意思を……ルキナはどうしても拒む事は出来なかったのだ。
これ以上ルキナの血を飲めば『怪物』になってしまう……と、ルフレはそう言っていた。
それがルキナから血を飲む事を気に病んだルフレの妄想なのか、或いは目には見えぬ……肉体の変異以外の異変がルフレの身に起こっているのかは、ルキナには分からない。
しかし、ルフレにとってそれは、その身体が変わり果ててしまうのだとしても絶対に避けたい事であるのは確かだった。
故に、ルキナはその意思を尊重しようと、諦めた。
本当にこれが正しい選択なのか、迷いながらも。
ルフレの想いを蔑ろにする事は……そうする事が愚かな事だとしてもルキナにはどうしても出来なかったのだ。
ルキナが腕を下ろした事に、ルフレは安堵した様な光をその瞳に宿し、そして僅かに口元を動かすが声は出ず、ルフレが伝えようとした言葉が『ありがとう』なのか『よかった』なのかは、読唇は不得手なルキナには分からなかった。
そして……ルフレの意に沿いルキナが血を与えなかったからと言って、それで何かが解決したのかと言えば、残念ながらそんな事は勿論無くて。
ルフレの身を苛む耐え難い痛みが止む事はなく……、徐々にルフレの姿は歪められていく。
そしてその痛みが耐えられる限界を超えたのか、ルフレは意識を喪った様に砂にまみれた床へと力なく崩れ落ちた。
しかし意識を喪っても尚、その変異が止まる事はなくて。
ルキナは……無理矢理にでも血を飲ませて、その苦しみを取り除いてやりたい衝動を何とか抑えながら、何も出来ないながらもせめてルフレの苦しみを和らげられる事を願って、膝枕をする様にして彼の身体を自らに寄り掛からせる。
そして、鱗に覆われながら次第に『人』らしい形を喪っていくその顔をそっと撫で続けた。
そうする事によって、ほんの僅かにでも苦悶に歪んだその表情が和らいだ様な気がするのだけれども、次第に竜の顔そのものと化していくルフレの表情を読み取る事は困難で。
それはルキナの淡い願望にしか過ぎないのかもしれない。
「ルフレさん……──」
彼が再び目覚めた時、そこに居るのは……果たしてルキナの知る彼なのだろうか。
こうしてその身がギムレーのものへと近付いてしまった様に、その心まで……ギムレーのものに侵されてしまうのではないだろうか。
心なんて、この世の誰も見る事も触れる事も出来やしない。
どんなに願っても望んでも、そこに在るのが果たして本当に『ルフレ』の心なのか、ルキナには確かめようが無いのだ。
それでもルキナは、願ってしまう、望んでしまう。
この愛しい人が、せめてその心だけは、どんな時であってもこの人のもののままで在れる様にと。
例えその身が恐ろしい怪物のものへと変わり果ててしまうのだとしても。
例えもう人の世では共に生きる事が叶わなくなるのだとしても。
せめて最後まで、その心だけは、と。
……そう、願ってしまう。
……ルキナのその願いは、ルフレにとっては酷く残酷なものであるのかもしれない。
人の心と言うものは、ほんの些細な出来事ですら容易く変わり果ててしまうものだ。
今のルフレの様に、無理矢理にその身を怪物染みたものへと捩じ曲げられていこうものなら、ただでさえ脆く儚い人の心などそう長く持つモノではない。
寧ろ、その精神を肉体のそれと合わせたものに変容させてしまう方が、余程楽に生きられるのだろう。
……それでも、ルキナは。
それが何処までも残酷で身勝手な願望でしかないとしても。
ルフレには、ルフレのままで居て欲しかった。
ルキナが愛した、あの優しく温かで……時に哀しくなる程に強い……そんな彼の心のままで。
もう完全に『竜』のそれに変わり果ててしまったその頭を、ルキナは労る様に愛しさと共に優しく撫でる。
かつて見たギムレーの姿とは違って、ルフレのその目は一対しかないし、ギムレーの姿では頭部を遥かに越える程に長く伸びていた角もルフレの角はその頭部より少し長いだけ。
そもそもギムレーに手足の様なものは見当たらなかったけれど、ルフレの場合は『人』のモノからは掛け離れてしまっているけれども確かに手足はそこにあるし、二足で立つ事も、何かモノを掴む事だってきっと出来るのだろう形をしている。
尾が伸びて三対の翼が背中と腰の辺りから大きく広がったルフレの姿は、もう本来の姿とは剰りにも掛け離れて……人としての姿のその面影は全く見当たらず、誰が見ても最早『竜』だとしか思えないのだろうけれども。
それでもやはり、本来のギムレーと全く同じ、と言う訳でもないのだろう。
意識を失ったルフレは未だ目覚めない。
再び目覚めた時に、何もしてやれないのだとしても……、せめて彼が何もかもに絶望しなくても良いように。
ルキナは彼の頭を優しく掻き懐く様にして、囁き続ける。
『大丈夫、私はずっとあなたの側に居る』、と。
『どんな姿になっても、変わらず愛しているのだ』、と。
その言葉が、その想いが。苦しみ苛まれるその心にせめてほんの僅かにでも光を射し込ませられる様にと、願いながら。
ルキナは、ルフレが再び目覚めるのを、静かに待っていた。
◆◆◆◆◆
夢を見た。寂しい……とても寂しい夢だ。
夢の中で僕は、薄く淡い壁の向こうから『彼』を見ていた。
『彼』は、ある『目的』の為に生み出された存在だった。
創造主曰く神──神竜の血と、そして創造主自身の血。
それら二つを掛け合わせて造り出された彼は、その素体となった『竜』と『人』……そのどちらの形質も持ちながらもそのどちらにもなれぬ存在であり、本来在るべき自然の理を捻じ曲げた事でこの世の命の環の中から半ば外れた存在として、ちっぽけなガラス瓶の中で生み出されたのであった。
両の手の平に収まってしまう程の大きさのガラス瓶が、『彼』にとっての最初の世界であり、その原風景だった。
『目的』の為に生み出された生命ではあったけれども。
哀しい事に、『彼』を『造り出す』と言うその過程その物が、彼の創造主にとっての目的の全てであったのだ。
『目的』の為に生み出された筈であるのに、そこに命が宿った時点での『彼』はその『目的』を達成してしまっていた。
別に『目的』を持たずに生まれる事が悪い事である訳ではないし、生まれた時点でそれが果たされてしまった所で別段不幸な事でも無いのだろう。
人と言う生き物が『目的』など無くても生まれ、何度でも勝手に『目的』を見付けて生きていく様に。『意味』も『目的』も好きに見付ければ良い事だ。
ただ……彼の創造主は、その『目的』以上の価値も何も『彼』に対して見出さず、『彼』には何も与えなかった。
『彼』が与えられたのは、自らを観察する視線だけだった。
だが……創造主から何も与えられずとも、生まれたばかりでも強大な力を秘めていた『彼』は、狭いガラス瓶の中からでも得られる情報から、その知性を急速に発達させていた。
もしここで創造主が何らかの正の方向性の行為で彼に干渉していたら、何かは変わっていたのかも知れないけれども。
残念ながらその様な事は何も無くて。
次第に彼は、その内に絶えず巡る破壊衝動を理解出来る様になっていき、そして。
決して消えぬその衝動を内在したままに『何者でも無い』『造られた命』として彼を生み出した全て……彼の創造主や、そしてこの世界そのもの、そこに生きる全ての命に対しての、底なしの憎悪と怒りをその胸の内に燃やし始める。
そうしている内にその姿は竜に近しいものへと寄っていき、だがその姿はその身体を構成している筈の神竜のものとは掛け離れた……竜としても異形と言わざるを得ないもので。
三対の眼、手足の代わりの様に存在する三対のまだ未熟な翼、長い首と長い尾……。
彼の遠い未来の姿を知る僕から見ると、驚く程に幼く見えるけれど、確かに……未来の邪竜──ギムレーのあの姿の大まかな部分は既に揃っている姿へと、成長した。
その大きさこそ、比較しようとは思えない程に違うけれど。
掌程の大きさも無い小さな竜が三千年程の時を経れば途方も無く巨大な姿になると思うと、恐ろしいモノを感じる。
もっと時を経ていればあれよりも更に巨大になっていたのかもしれないと思うと、本当に恐ろしい事であった。
何はともあれ、『彼』……ギムレーのその異形の竜の姿は、創造主にとっては想定外であった様で。
自らが造り出した存在に対して何処か落胆したような……そんな眼差しを向けた。
その眼差しを、『彼』はガラス瓶の中からずっと見ていた。
ギムレーは次第に大きくなり、何時しか『彼』の世界は狭いガラス瓶の中ではなくなった。
しかしそれでギムレーが自由になったと言う訳ではなくて。
次の彼の世界は、身動きもろくに出来ぬ狭い檻の中だった。
特殊な材料で出来ているのか、幼いギムレーが何れ程暴れても中々壊せそうにもなくて。その頃には、創造主がギムレーを見る眼差しは、怯えや恐怖を含んだものになっていた。
自らが造り出したと言うのに、自らが制御出来る様な存在ではないと理解出来た途端に、ギムレーを恐れ始めたのだ。
しかし、何れ程恐れ怯えても、決して制御など出来る存在ではないのだと悟っても。
創造主はギムレーを処分しようとはしなかった。しようとした所でそれを易々とギムレーが受け入れる訳も無く、恐らく不可能な事であったのだろうが。
別に、創造主がギムレーの処分を躊躇っていたのは、ギムレーを一個の生命と認め、例え己が造り出した命であろうともそれを一方的に刈り取る事を忌避したと言う訳ではない。
そもそも、そんな人間らしいまともな倫理観などこの創造主が持ち合わせている筈も無かった。
所詮、喪ったモノを取り戻しそれを永遠にしようなどと言う、愚にもつかぬ願望に狂い、その狂気のままに暴走し続けてきた道化の様な男だ。
ただ単純に、漸く実を結んだ研究成果を自らの手で処分するのを惜しんだと言うだけでしかない。
そうして時が過ぎる内に、ギムレーと創造主は互いにその思考を覗く様になっていた。
愚かな人間ではあったが、創造主の頭にある知識と言う名の宝は紛れもなく本物であった。
造物主の記憶を介してギムレーは、造り出されて以来知る機会など与えられなかった部屋の外の世界の事を理解して。
反対に、ギムレーの思考を覗く事になった創造主は、ギムレーの狂気に直に触れる衝撃を味わう事になった。
ギムレーの心は、荒れ狂う破壊衝動と、自分を生み出したこの世の全てへの怒りや憎しみと言った、心の闇を煮詰めた様な感情で埋め尽くされていたのだ。
この世の負の感情全てを煮詰めたかの様なその虚ろな闇そのものの様な心と繋がった際の衝撃は、その時既に正気を失っていた創造主を一時的に正気に戻した程の物であった。
一時的に正気に返った創造主は、自分が恐ろしい怪物を生み出してしまった事自体に漸く恐怖と後悔を懐き、そこに至ってやっとギムレーを処分しようとする。
……しかしその時既に、優れた錬金術師であった創造主の力などでは全く歯が立たぬ程の強大な力を持ち合わせていて。
自らを殺そうとしてきた創造主を殺し呑み込む事など、ギムレーにとっては訳も無い事であったのだ。
狭い檻から抜け出したギムレーであったが、外の世界へと旅立つ事は叶わなかった。
創造主の凶行を憂い恐怖した他の人々が、ギムレーが居る地下のアトリエを封印したのだ。
しかも忌々しい事に、封印の一部にはギムレーのルーツの一つでもある神竜の力までもが使われていた。
何れはその封印も食い破る事が出来る時が来るだろうが。
しかしそれには暫しの時が必要であり、光の射さぬ暗い地の下の闇の中で世界への憎悪を滾らせながら、ギムレーは暫しの間雌伏の時を過ごす事になるのであった。
創造主が死に、ギムレーが地下遺跡ごと封じられてから数百年程度の時が経った頃。
かつては子犬程の大きさだったギムレーも、共に地下迷宮に閉じ込められていた理性を失い獣と化して久しい竜族達を食らうなどして力を蓄え続け、人間など容易く一飲みにしてしまえる程の巨体へと成長していた。
この時点で、僕が知るチキやノノと言った他の竜族達が化身した竜のその身体よりも遥かに大きい姿である。
そうして成長を続けていたギムレーが、己をその地に縛り付けている封印を食い破れる日が訪れようとしていたその時。
閉ざされていた筈の地下遺跡の封印は解かれ、ギムレーの下に二人の男女に率いられた人間の集団が押し寄せてきた。
当然の事ながらギムレーは彼らの事など知る筈もなく。
しかし、集団を率いていた者の内の男の方の手に握られているその剣には、酷く疎ましい何かを感じていたのであった。
ギムレーは男が握っていた自身にとって忌々しい気配を放つその剣が何であるのかに見当など付かなかった様だが、僕はその剣と似た様な気配を持っている剣を知っている。
クロムとルキナが持つ……本来はこの世に只一つしか存在しない筈の神竜の牙──ファルシオンだ。
しかし、その剣はクロムやルキナの持つファルシオンとは限りなく近しいが何かが少しだけ違う気がする。
この男は一体……と、そう考えていたその時、彼が率いていた者達が、彼の名と思われるものを呼ぶ。「アルム」、と。
『アルム』。海を渡った向こうのヴァルム大陸に存在する、かつてイーリスと戦争を繰り広げたヴァルム帝国の始祖と同じ名……いや恐らくは彼の大英雄その人であるのだろう。
かつてヴァルムとの戦争が終結し、彼の地でその戦後処理に追われていた時に、ギムレーなどに関する資料が残っていないかと帝国の書庫などを漁った事がある。
その中に、帝国の始祖たるアルム王の伝承めいた足跡について記されているものがあったのだ。
そしてそこには、かつてアルム王の手にも「ファルシオン」と言う名の神殺しの剣があった事や、かつて英雄王マルス達が暗黒竜戦争に勝利しその復興に乗り出していた頃のアカネイア大陸に赴いて邪悪なる竜を討ったと言う記載があった。
その記述の信憑性は些か怪しかったし、当時のアルム王達がアカネイア大陸に訪れる様な理由など無いようであったので、それは後世の創作かと思っていたのだけれども。
ギムレーの記憶が見せるこの過去の光景を見るに、あれは真実を語っていたのだろう。
そしてギムレーは、アルム王の伝承の中にある通り、彼に討ち滅ぼされた……筈であった。
が、しかし。そのルーツの一つである神竜の力であるのか、或いは『完全なる生物』として造られたが故であるのか。
ギムレーにとって、肉体の滅びと、存在の滅びは同じではなくて。肉体を喪うと共に折角蓄えていた力の多くを喪いながらも、封印された地下遺跡から解き放たれたギムレーは、再び肉体を得て甦る時を待ちながら人々の世を見詰め始めた。
アルム王に肉体を滅ぼされてから千年程の時が経ち、世界が様変わりしても、ギムレーは変わらず世界に在り続けた。
そうしている内にギムレー教団の祖となる者達と出逢った事で神と崇め奉られ、再びギムレーはこの世に甦った。
それから先は聖王伝説の通りに、この世を滅ぼさんとばかりに暴虐の限りを尽くしたギムレーは、神竜の力を授けられた初代聖王と彼が振るった神剣ファルシオンの前に討たれ、神竜によって千年の眠りの中に封じられた。
そして千年の後の世に、僕を器として再び甦る事になる。
僕にとって大切なものを全て壊して、何もかも滅ぼして。
ルキナ達の未来を絶望の未来に成れ果てさせて。
破壊衝動と世界への憎悪と怒りに任せるままに暴れ狂ったギムレーは、時を渡ったルキナの後を追ってこの時間軸へと辿り着き……。
僕が『自殺』と言う形で、僕諸共に消滅させる事を選び取った事で…………本来は完全に消える筈だった。
しかし──
◇◇◇◇◇
眠りから覚めるにつれ、誰かの手が優しく額の辺りを撫でている事に気が付く。
その手の優しさに満たされながら重たい瞼を開けると、自分を覗き込むルキナと目が合った。
ルフレの頭を抱き抱える様にして、ルキナは今にも泣きそうな顔で祈る様にルフレの頭を撫でている。
その表情に、そして未だぼんやりとしか知覚出来ぬ自分自身の身体に、何やら何時もより変な感覚を覚えたルフレは、現状を把握しなければと。
驚きつつも身を起こそうと僅かに身動ぎした拍子に。ルキナの美しい蒼の瞳の上に映し出された……怪物としか言えない何者かの姿が目に入ってしまう。
驚愕の余りに時が止まったかの様にすらルフレには思えた。
ルキナの瞳に反射する様に映ったギムレーのそれとほぼ同じ姿をしたその怪物と同じく、恐る恐る見遣ったルフレの手は、両手共に完全に怪物染みた竜の手へと変わり果てていて。
背後で何かが微かに触れ合う様な、しかし今まで感じた事の無い奇妙な感覚に、恐る恐る背の方へと目を向けると。
そこには、『人』の身には存在する筈など無い翼が、まるで最初からそこに存在していたかの様に在った。
更にはその背後には、尾の様なものまで見えてしまう。
「ルキナ……僕は、一体……」
そうルキナに問う震えた声は、確かに自分のものであるのだけれど……。
何処か重奏的な……ノノ達マムクートが竜化して喋っている時の様な響きを伴っている。
……自分がどうなったのかなど、ルキナに尋ねるまでも無い事なのだろう。
肉体の変異があれから更に……それこそもう『人』としての面影など全く無くなってしまった程に進んでしまったのだろうと言う事程度は分かる。
目覚めたばかりで違和感こそ未だ拭えないが、この状態が本来自分の在るべき状態だと言わんばかりに、痛みも無く身体は何時になく軽い位だ。
姿見は持っていない為、自分の身体がどの様な状態なのか正確に把握するのは難しいけれども。
怪物染みた手で恐る恐る首と顔に触れると、鱗に覆われた首は竜のそれの様に伸び、そして頭部は前方に長く伸びる形でその全体の形が変わっていた。
本来こめかみがあった辺りから生えている角は、ギムレーのそれの様に前へと長く伸びていて。
……自分が認識出来る範囲ですら、もう『人』とは全く呼べない程に変じていた。
どうかすれば発狂してもおかしくは無い状態ではあるが、こうなる予感と覚悟はあった為どうにか正気を保てていた。
……いや正確には、既に一杯一杯で、訳も分からず吼えのた打ち回り狂った様に頭を打ち付けてでもどうにかこの変貌を否定して現実逃避したい気持ちであったけれど。
今も怪物の様に変貌した頭部へと恐れる事なく触れてくれるルキナの手と、そして今にも泣いてしまいそうなその表情が、どうにかルフレを正気に繋ぎ止めていた。
どうか泣かないで欲しい。
その心に苦悩を与えてしまっているのが他ならぬ自分なのだとしても、ルフレはそう願わずにはいられなかった。
こうも変わり果ててしまった手では、今にも零れ落ちそうなその涙を傷付けずに拭ってやる事すら出来ないのに、意識してそれを押し留めていないと、愚かしい事にその目元へと指先を伸ばしてしまいそうになるのだ。
……今の自分がどの程度『正気』なのか、どの程度本来の『ルフレ』が残っているのか、ルフレ自身でも分からない。
だが、少なくとも。
ルキナを食べたいだとかその血に対する狂気的な執着は感じないし、ルキナ以外の全てを滅ぼしたいとも思わなかった。
目覚める直前に見ていた夢……ギムレーの記憶であろうそれを、ルフレは自分のものとしてではなく、ギムレーと薄くも確かな壁を隔てた場所から見ていた。
自分とギムレーが同一である様な……自分自身がそれを経験していた様な感じでは、無かったと思う。
ギムレーの怒りや憎しみ……何も与えられず狭い世界に閉じ込められ囚われ続けてきたが故に一度も温かな『何か』に満たされた事の無い……余りにも虚ろであるが故に何れ程強烈な感情であっても何処か空しいその感情に触れたとしても、それがルフレ自身のものではないと判別出来ていた。
ギムレーからの侵食が一時的にしろ止まったのかどうかは分からないが、少なくとも今この瞬間に怪物の様な心に変わり果てて『欲望』のままにルキナを傷付ける……と言う事は無さそうで、その点だけは心から安心出来る。
……しかし、この様な姿に変わり果ててしまった自分は、……もしこのまま元の姿に戻る方法が見付からなければ、もうルキナと共に生きる事は叶わないのだろう。
それに……そもそもこの様な『人に非ざる姿』へと変わり果てた自分は、果たしてルキナに受け入れて貰えているのか。
こんな姿であってもこうしてルキナがルフレに触れてくれているのは、ルキナの優しさと同時に存在する義務感が、ルフレを拒み見捨てる事を咎めているからなのではないかと、……そんな事も思ってしまう。
……別に、もしそうだとしても今この瞬間も怪物の様な見目へと変わり果てているルフレへと恐れる事なく触れてくれているその心が、全くの嘘偽りであると言う訳では勿論無いのだろうけれど。
本当は忌避したい心を押し殺してまで傍に居ようとしてくれているのならば、ルフレはその手を拒まねばならない。
無理に心を抑え込もうとした処で、それは何時か必ず限界を迎えてしまうし、もしそうなってしまえばその時に誰よりも傷付くのは、きっとそんな自分は赦せないだろうルキナ自身であろう事は容易に想像が付く。
そうなる前にルフレの方からその手を拒めば、それはそれでルキナが傷付くのは避けられなくとも、その痛みは最小限に留められるだろうから。
……しかしそうは思っていても、ルフレはこの優しく温かな愛しい小さな手を、振り払う事が出来なかった。
この手を拒んだ先にあるのは、悍ましい怪物としての、絶対的な孤独のみだ。自分がきっと、その様な孤独には耐えられない事はルフレ自身が誰よりも分かっている。
あのギムレーの記憶、そこにあった余りにも虚しく満たされず何も希望など生まれえない様な……そんな絶対の孤独。
それは、その記憶を垣間見ているだけのルフレの心までも、冷たく凍り付きそうな果てぬ海の底へと沈めていきそうな……そんな恐ろしいものであった。
ギムレーは、与えられた事も、満たされた事も、何かに対して『幸せ』の様な温かな心を感じた事も無い。
自分よりも大切な何かも、守りたいものも、自分に触れてくれる優しい手も、ギムレーは何一つとして持てなかった。
……だからこそ、あんな虚無と言う言葉では到底表し足りぬ程の、絶望的な孤独に耐えて生きられたのだろう。
そもそもギムレー自身はそれを孤独と思った事もあるまい。
だが、ルフレは違う。
自分を形作る記憶を喪っても、ルフレはクロム達に出逢えた、そして彼らからこの両手を広げたって到底抱えきれない程の、愛しくて失いたくないものを沢山貰った。
出逢いこそが、そしてそこに生まれる繋がりこそが、己の世界に色彩を与え、心を与えて満たしてくれる。
『愛しい』とはどういった心であるのか、『愛する』と言う事『愛される』と言う事がどう言う事であるのか。
友と言葉を交わす時、共に同じ時を過ごし、同じ方向を向きながら共に支え合いながら望む未来を目指す……その全てが齎す、どんな暗闇の中でも自らを支え導いてくれる心の輝きの愛しさを。
そして自分の命よりも大切で、何よりも『幸せ』にしたい、『幸せ』で在って欲しいと心から願える、そんな『特別』な唯一無二の存在に出逢えた幸せと喜びを。
ルフレはそれら全てを、大切な仲間達とルキナに出逢えた事で、与えられてきたのだ。
それを喪う事など出来ないし、それらを手に入れられなかった……クロム達と出逢えなかった自分などどうあっても想像なんて出来やしない。
一度満たされたルフレは、その孤独には耐えられないのだ。
もしここでルキナの手を離し孤独になったとすれば、そう遠くない何処かの未来で確実にルフレは狂い果てるだろう。
この姿に相応しい、いやそれよりも悍ましい化け物へとその心が堕ちていくのは想像に難くない。
それが分かっているからこそ、ルキナの手を離したいなんて、思う訳が無い。
しかしそれは。孤独になりたくない、この心まで怪物に堕ちたくないという……そんな身勝手な欲望でしかないのだ。
『人』の世では共に生きられない怪物と成り果てた自分と共に生きる事をルキナに強いるのは、余りにも残酷で身勝手が過ぎるとしか言えず、そこに在るのは『愛』などでは無い。
ルキナを愛しているならば、その『幸せ』を願うならば。
心から何の躊躇いも無くルフレと共に在る事をルキナが望んでいるのでもない限りは、この手を離さねばならない。
例えその先に狂い堕ちる未来しかないのだとしても、だ。
ルフレは、躊躇いがちに、今も尚優しく自分に触れてくれているルキナのその手から、それを拒む様に離れようとする。
しかし、その意図を察したのか。ルキナは、自分の手から遠ざかろうとしたルフレの怪物の身体を勢いよく抱き締めた。
鱗に覆われ尽くし、人の肌の温かさを喪ったルフレの身体に、ルキナの温もりが全身から伝わってくる。
ルフレを、絶対に離さないとばかりに抱き締めるルキナのその目には、宝石の様に美しく輝く涙の雫が零れ落ちる寸前の状態まで溢れて、その強い感情を表す様に震えている。
「嫌です、絶対に、今度こそ貴方をもう喪いたくないんです」
抑えきれぬ感情に、その声は震えていた。
「ルキナ……。
でも、僕は……こんな……怪物染みた姿に変わり果ててしまっているんだよ……?
このままこの先を進んでも、僕が元に戻れる保証なんて何処にも無いんだ……。
こんな姿では、人の世では生きていけない。
もし元に戻れなければ、何処か……誰も訪れる事のない深い山や森や、そういった場所で人との関りを絶って生きるしかないだろう。
それは間違いなく、寂しく苦しい生き方になる。
そんな生き方を、愛する君にさせる訳にはいかないよ。
それに、そう遠くない内に、身体どころか心までギムレーに蝕まれて怪物の心に変わり果ててしまうかもしれない……。
そうなってしまえば、僕はきっと君を……」
絶対に離さないとばかりにしがみつく様に自分を抱き締めているルキナを、自分でも望んでなどいない言葉で何とか諭そうとしたルフレの言葉は、とうとう耐えきれずにポロポロと真珠の様に零れ落ちてきたルキナの涙によって遮られる。
続けようとしていた言葉を喉の半ばで見失ったルフレは、焦りを隠せないままに狼狽え、無意識の内に獣の様に唸った。
そんなルフレに、ルキナはそっと首を横に振って、涙声を抑える事も無いままに、自分の想いをぶちまけた。
「ルフレさん、私は……、貴方がどんな姿になったって、もう戻れなくなったって、それでも良いんです。
その姿がどんなに変わってしまったって、そこにあるのがルフレさんの心なら、心だけでも貴方のままなら……。
私にとっては、誰よりも大切で愛しいルフレさんなんです。
変わってしまった姿に戸惑い傷付き苦しんでいるルフレさんに、『心だけは変わらないで欲しい』と願う事は、とても残酷で身勝手なのかもしれなくても。それでも……。
ルフレさんの心がそこにあるなら、ルフレさんの心の支えになる事が出来るのなら。私は、ずっと貴方と生きていたい。
それにルフレさんは思い違いをしています。
私はそもそも、在り得べからざる『異邦人』です。
それでも、ルフレさんと生きていたくて。だから、貴方とお父様の優しさに甘えて、この世界の人々の環に騙し騙し入れて貰っているだけで。
本来は私の方こそ、この世界を去るか、人との関りを絶って誰にも出逢わない場所で生きるべきなんです」
だからこそ、とルキナは涙を流したまま優しく微笑む。
「ルフレさんと共に生きられるなら、……それ以上に『幸せ』な事なんて無いんです。
そこが何処であっても関係無い。
ルフレさん、私の『幸せ』は、貴方と共に生きる事です。
……貴方が居なくては、この世の何処にも存在しません。
この先の未来で、貴方がギムレーの心に蝕まれそうになるのだとしても、私は何度だって何度だって、ルフレさんの心を繋ぎ止めて見せます。
だから……お願いだから、この手を振り払おうとなんてしないで下さい……。
どうか、この手にルフレさんの心を守る力があるのだと……それが例え自惚れなのだとしても、そう証明したいんです」
そう言って、ルキナは一度軽く身を離し、今度はその両手で変わり果てたルフレの頭部を包み込む様に触れ、ルキナの頭など容易く噛み砕いてしまえるその口に、その心をそれに全て託すかの様に、そっと優しく触れるだけのキスをする。
その言葉に、そしてその口付けに、ルフレの心は震えた。
ルキナの心の全てを映し出すかの様に伝えてくるそれらに、ルフレはもう自分の本心から目を逸らす事は出来なかった。
結局の所。ルフレは、怖かったのだ、怯えていたのだ。
ルキナから拒絶される事を、恐怖の感情を映したその目で見られる事を……。ルフレは、何よりも恐れていた。
こんな怪物に変わり果てた自分を、例えルキナであっても受け入れられる筈なんて無いのだと決めつけて。
そしてそれ以上傷付かない様に、拒絶の絶望を知りたくなくて、ルフレはルキナの『本当の気持ち』から逃げようとしていた。
ルキナの『幸せ』を願うと言う、『尤もらしい』大義名分で、そんな自分の浅ましく臆病な心からは目を反らして。
ルキナの『気持ち』を勝手に決めつけて、耐えられない痛みに傷付く事から、臆病にも逃げようとしていたのだった。
だけれども、「そうじゃない」のだと。
これ以上に無い程に雄弁にルキナのその想いを突き付けられた今、もうそんな愚かしい逃避に耽る事は、ルキナに対する最大級の侮辱になってしまう。
それだけは、駄目だ。してはならない。
例え『逃げ』ようとしていたからこその考えであったのだとしても、そこにあったルキナの事を想う気持ちは、その『幸せ』を願う心は何一つとして嘘なんかじゃないのだから。
その心を受け入れて、自分も応えなければならない。
ルフレはそっと、今も涙を零し続けているルキナの頬へと、その変わり果てた指先を伸ばした。
そして、その鋭過ぎる鉤爪でルキナを傷付ける事が無い様に細心の注意を払いながら、鉤爪でその頬を引き裂いてしまう指の腹側ではなくその指の背で、優しくその涙を拭う。
鱗に覆われた指先にも、不思議と涙の温もりは伝わった。
「君を傷付けずに触れる事すら難しくなってしまったけれど。
それでも、君と共に生きられるなら……。
……僕はきっと、その最期まで僕のままで居られる……、そう思うんだ。
だから、どうか。君と一緒に生きる事を、願わせて欲しい」
ルキナは己の頬に触れるルフレの指先をそっと包み込んで、泣いた跡がまだ残るその目を優しく細めながら答えた。
「私にとっては、貴方の指先は今も何一つ変わらず優しいままですよ、ルフレさん。
貴方は、何も変わらないままです。
優しい、私の大好きなルフレさんです。
誰が何を言ったって、それは絶対に変わらない。
ええ、私こそ。何があっても貴方と生きていけるなら……」
ルキナの指先が、ルフレの鱗に覆われた首筋を、そして頭部を愛おしむ様に触れてゆく。ルフレもまた、ルキナを傷付けぬ様に注意しながら、その頬に優しく触れる。
そして、互いにその想いを誓い合う様に、今度はどちらからと言う事も無く、その唇と口先を触れ合わせた。
『人』と『竜』の、どこかぎこちなく見える様な、そんな不格好な口付けであったけれど。
二人にとっては、互いの心を伝え合う為には、ただそれだけで十分なのであった。
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互いの想いを確かめ合ったからと言って、それで元の姿に戻る為の手掛かりの捜索を諦めたと言う訳では無くて、寧ろより一層熱が入る。変貌や拒絶への恐怖から来る焦りはもう無くて、それがルフレ本来の冷静な思考を取り戻させていた。
より深く潜る度に地下遺跡で待ち受ける屍兵達の攻撃は苛烈さを増していき、その強さも桁違いになってゆく。
ギムレーの記憶を垣間見た事によって地下遺跡の構造などある程度理解した事で、ルフレは屍兵に遭遇し難いより安全な探索ルートを直ぐ様見付け出せる様にはなっているけれど。
それでも、ギムレーの記憶にある頃よりも、確実に遺跡の崩壊は進んでいて、記憶のままに進むと言うのは難しい。
崩落したりしていて進めない場所も多く、どうしても屍兵との戦闘になってしまう事も少なくなかった。
剣を手にして戦うには不自由な手へと変じてしまった為、ルフレの攻撃方法は専らその鋭い鉤爪によるもので、時にはその尾を鞭の様にしならせて屍兵の身体を打ち砕いたりする。
ブレスも使えるが、慣れないが故に消耗が大きく乱用は難しいので、ここぞと言う時の切り札だ。
まさに怪物の戦い方ではあるが、そんな事を一々気に病む様な弱さはもう無い。
使える武器は何であれ有効活用してこそ、なのだから。
この遺跡で蠢くものは最早ほぼ屍兵しか居ないのか、ルフレ達を襲ってくるのは基本的には屍兵ばかりであるけれど。
時折ではあるが、何らかの邪法によって動かされ続けている、全身がほぼ骨と化した竜の屍骸に襲われる事もある。
ギムレーの記憶の中にも居た、獣と化した野生の竜達の成れの果てであるのだろうか。
ただでさえ基本的に竜は大食いなのに、こんなろくに食料も無い様な場所に千年以上も閉じ込められて、死した後もこの様な邪法に囚われて……。
何とも哀れな存在ではあるのだけれども、腐っても竜と言うべきか、屍の竜達はそこらの屍兵よりも遥かに強い。
肉体の殆どが既に腐り落ちて白骨化している竜の屍が、辛うじて残った腐肉の残骸を引き摺って襲い掛かってくるのは、精神的にも良くはないし、屍兵以上に念入りにその身体を壊すなりしてダメージを与えないと倒せないのが厄介である。
とは言っても、こちらには竜に対して絶対的な威力を誇るファルシオンがあり。
更には、幾ら硬質な竜の骨とて、変貌したルフレの鉤爪の前には、熱したバターか何かの様に削り取り砕いてしまえるので、酷い障害になる訳でもなかった。
そうやって何体かの哀れな竜を邪法から解放してやったり、屍兵達を数十程塵にしたりして。
ルフレ達は漸くこの地下遺跡の最深部の一歩手前……第九層まで辿り着いた。
ギムレーの記憶が正しければ、ギムレーが造り出された、フォルネウスにとって最も重要な研究室は、この更に下……最下層である第十層に存在する筈である。
そこにならば何か、現状をどうにかする為の手掛かりが隠されているかもしれない。
しかし……。
「これは……完全に崩落してしまったみたいだね……」
階下を覗き込みながらルフレは思わず唸る。
第十層に続く階段は完全に崩落していて、そこには瓦礫の山しかなかった。
無理に降りれば、積み重なっているだけの瓦礫の更なる崩落を招き、そこに巻き込まれて死ぬ危険性が極めて高かった。
更には、どうにか降りたとしても上に登るのも危険だろう。
見渡す限り瓦礫の山しか見えず、奥を見通す事は難しい。
劣化が激しかったのか、或いはまた別の何かの要因なのか、どうやら最下層の建造物としての状態は著しく悪い様だ。
フォルネウスの研究室は果たして残っているのだろうか。
ルフレは少し迷いながら己の背の翼を見る。
翼が生えたからと言って、ルフレはまだ飛んだ事は無い。
滑空する程度なら出来るのかもしれないが、それにしても動かし方が分からないし、況してや飛び方など知らない。
軽く動かしてみても、砂埃を舞わせるだけにしかならず。
そもそもこの三対の翼に自身とルキナを抱えて飛翔する力があるのかどうかすらも、全く分からないのであった。
未だ飛んだ事が無いのにぶっつけ本番で飛んで降りようとしても、最悪墜落してそのまま死ぬ事になるだろう。
そう言った諸々から、ルフレは飛ぶ事を躊躇っていた。
そんなルフレの躊躇いを察してくれたのか、ルキナはそっとルフレの背の翼を撫でながら優しく言う。
「先ずは何処か迂回路を探してみましょう。
もしかしたら、此処の他にも降りられる道があるかもしれませんし」
「……そうだね。先ずは、辺りをもっとよく調べてみようか」
前向きにそう言ってくれたルキナに背を押され、二人はこの階層に何か隠し通路やらの類いがないかと調べ回る。
しかし、あの階段程ではなくとも、九層目自体に何処もかしこも崩壊や崩落が発生していて、道が塞がれている場所が余りにも多い。
無暗に瓦礫を退かすのも、瓦礫の山が結果として崩落しそうな天井を支えている場合もあって中々難しい。
本来ならば相当広い筈の階層なのに、実際に動き回れる範囲は酷く限られている様であった。
砂と瓦礫ばかりのそこを、屍兵などを退けつつ探索する。
時に瓦礫を退かし、時に降り積もった砂の山を掘り分けて。
……ルフレとしては心中複雑になるが、『竜』の身体はそう言った力仕事などには酷く便利であった。
本来の姿なら全く動かせなかっただろう瓦礫も、今のルフレならば軽く持ち上げて投げ捨ててしまえる。複雑だが。
少し複雑な思いでルフレが小さく溜息を吐いたその時。
「ルフレさん! ここ、何かありそうじゃ無いですか?」
通路の崩落した瓦礫を退かし、堆く積った砂を掻き分けて。
そうして道を作っていたその最中、砂を掘っていたルキナが期待に弾んだ声を上げた。
ルキナが砂の山を掻き分けた向こうに見付けたのは、何やら厳重に封じられている様に見える扉だった。
錆付き半ば朽ち果てている錠前と、何やら複雑な魔法陣で封じられている様であったが。肝心の魔法陣は擦れて半ば消えつつあり、もうそこには何の力も感じない。
そして古びた錠前はルフレがその爪で軽くつつくだけで壊れてしまった。
何が起きても大丈夫な様に、ルフレはルキナをその背に庇いながら慎重にその扉を爪で切り裂く様に壊して開けた。
扉が壊れ、外気が部屋の中に流れ込んだ途端、降り積もっていた埃が勢いよく舞い上がる。
千数百年分の埃は尋常な量ではなく、視界が完全に閉ざされてしまう程のものだった。
堪らず咳き込みながらも、埃の嵐が収まるのを待つ。
そうして漸く開けた視界一面に広がっていたのは。
壁一面の書棚を埋め尽くす本や、書棚には納まりきらずに床にまで積まれた本の山や、用途の分からない魔法陣や何かの図形の様なモノやらが描かれ散乱した紙の山だった。
研究施設……と言うよりは、どちらかと言うと資料室やそう言った類の場所の様に見える部屋である。
何か危険が潜んでやしないかと、ルフレはその神経を尖らせる様にして部屋の中を窺うが。少なくともここに何かしらの生物や屍兵などは居なさそうであった。
取り敢えずの危険は無いのだろうと判断し、ルフレは部屋の中に入ってより詳しく観察する。
千数百年の年月が経っていてもこの部屋の状態は随分と良好に保たれている様で、部屋の中に何かが崩落した形跡は無く、そして今直ぐに壁や天井やらが壊れそうな気配も無い。
ここはフォルネウスにとっても重要な場所で、だからこそ他の場所よりも頑丈な作りになっているのだろうか?
それは分からないが、まあ部屋の中を漁っている時に崩落に巻き込まれて死ぬ様な状況にはならなさそうだ。
二人でゆったりと寛げる程に部屋が広いのも有り難い。
そして、何よりも。ここがフォルネウスにとって重要な資料庫であるのなら、ここに何かしらの手掛かりが残されている可能性は高いだろう。
ここ以外に手掛かりが何か残されていそうな場所など、それこそこの下にあるギムレーを生み出した実験場位なものだ。
そして二人で手分けして、この膨大な書物や紙の山から、フォルネウスの専門でありギムレーを造り出した技術の出所である、『錬金術』について書かれたものを拾い集める。
千数百年以上の年月が経っても尚、こうして書物の類いが残っているのはやはり何らかの尋常ならざる魔法の技術故なのではないかと思うけれど、古代魔法は門外漢のルフレにはその辺りはよく分からないし、書物が残されている事には何も不都合はないので深くは気にしない方が良いと割り切れる。
暫し、部屋にはルキナが書物のページを捲る音と、ルフレがどの本を開く様にと指示する声のみが響く。
『錬金術』の本は、何れも当然の事ながら高度に専門的なもので、門外漢の二人が見ても今一つ分からぬものも多い。
読解に専門知識を必要とするものが多く、ルフレの理解力を以てもその専門用語の多くは何がなんだか分からないのだ。
ギムレーを生み出した際のその研究資料と思しきものも見付かったのだが、その素材として神竜の血と人の血が用いられた事や何やら不思議な配合の薬品が使われた事位しか分からず、その理論的な部分に関しては余りにも難解であった為、ルフレでも全くと言って良い程に意味が分からぬものだった。
そもそもどうしてその素材から新たな生命体が誕生するのかも分からぬのである。
ギムレーを創り出したそれは、まさに『神の御業』とやらの一端に触れている所業なのだろう。
フォルネウスがかつては「天才」と呼ばれ持て囃されたのも分かる程の、異質な「才」……或いは「奇跡」の業だった。
……尤も、それ程の才を以てして成したのが、あの哀れな命を創造する事であり、そして終にはそれに喰われる末路であった事を考えると何とも複雑な気持ちになるのだが……。
ルフレはフォルネウスではないから、狂った彼が何を思って屍兵やギムレーを生み出そうとしたのかは分からない。
ただ……狂気に蝕まれた後のその研究は、『死』を超越しようとしている方向に絞られている気がする。
屍兵も、元はその研究の副産物であった様だ。
……あれが『死』を超越した姿だとは思えないが……まあ得てして意図しない方向の副産物を得る事はあるのだろう。
フォルネウスが狂ったのは彼が妻を喪ってからだと、この遺跡で拾った手記の持ち主は言っていたが……。
そうであるならば、妻の死を切欠に『死』を超越する事を夢に見始めたのだろうか?
フォルネウスがギムレーを生み出したその先に思い描いていたのは何だったのだろう。
『死』の超越と考えて、ルフレが思い付くのは「死そのものが訪れない事」と、そして「死者の蘇り」だ。
フォルネウスは、喪った妻を二度と死の訪れない存在として蘇らせたかったのだろうか…………?
全ては憶測に過ぎず、数千年前の狂人の意図など分る筈も無いし、万が一目的がそうであったとしても、だからと言ってフォルネウスのその行いが許される訳でも無いだろう。
愛した者を取り戻したいと、そう望む事は自由だが。
その為に屍を積み上げる事も、そして命を弄ぶ事も、共に赦されて良い行いではないし、実際彼はその報いを受けた。
……ギムレーが生み出されたからこそ、ルフレもまたこの世に生まれた事を考えると、何とも複雑ではある……。
ギムレーが存在したからこそルフレが生まれ、そしてだからこそルフレは自らの命を以てギムレー諸共この世から消え、そしてギムレーと混ざり合う事で再びこの世に戻ってきた。
ギムレーが生み出されなければ、その器であるルフレもまたこの世に存在しなかったのだろうか。或いは器ではない人間として、この世の何処かに生まれ落ちていたのだろうか。
考えても意味が無い事だが、ふと思ってしまう。ただ……。
そうならば、こうしてルキナと出会う事は無かっただろう。
皮肉な事に、ギムレーの存在が在ったからこそ、二人の縁は繋がったのだ。
ギムレーが居なければルキナがこうして過去にやって来る事は無かっただろうし、そもそもイーリスや聖王家自体が存在していなかったかもしれない。
何とも複雑なものを感じ、ルフレは溜息を吐くのであった。
部屋に籠り始めてどれ位の時が過ぎたのかは分からないが、二度三度と捜索を中断しては食事をし、そして暫しの休眠を取ったので、それなりの時間は過ぎているのだろう。
閉ざされた時の中で体感時間がどれ程の目安になるのかは分からないが。何にせよ少なくない時間を過ごした。
そうしている内に、ルフレもある程度までなら『錬金術』に関して何とか理解出来る状態になった。とは言え、初歩中の初歩だけなのだろうが……。
そうやって何とか読み解いた中で、ルフレの身に今現在起きている問題の手懸かりになるのではと目星を付けたのは、『キメラ』と言う技術、それによって作られた存在であった。
『キメラ』。それは二つ以上の異なる生命体を一つの新たな生命体として融合させる、『錬金術』における技法の一つだ。
残された資料を見るにフォルネウスは、元々は『キメラ』の研究に長けた者であった様だ。
二つ以上の異なる生命体を混ぜた存在と言う『キメラ』の定義からして、今のルフレとギムレーの関係は一種の『キメラ』の様な物だと見做す事も出来るのではないだろうか。
『キメラ』を造る際に異なる生命体を混ぜると言うからには、当然の様に、混ぜ合わさった後の……新たな生命体となった存在の、その意識の所在や意識の主体が、元となったどの生命体のものであるかと言った問題は起こっていた様だ。
それはまさに、今のルフレとギムレーとの間に起きている問題に近しい事なのではないだろうか。
そして、その事についての記述も、フォルネウスが残した本と手記の中にあった。
複数の命から『キメラ』を造り出す場合、その意識の主体がどの素体由来のモノになるのかと言う問題に関して、多くの場合はその素体間の力関係で決まるのだと言う。
一口に力関係と言っても、その素体毎の魔力量の多寡であるとされる場合もあるし、若さや精神の成熟具合がそうだとされる場合もある。
要は、「強い」素体が主体になるそうだ。
しかし、その本来主体となる側である筈の「強い」素体が瀕死であったり何らかの要因で弱っていたりした場合は、他の素体の意識に負けてしまう事もあるのだと言う。
その様な事柄が、恐らくはフォルネウスの自筆によって、蔵書の片隅や、その研究成果を纏めているのだろう手記の片隅の走り書きの中に残されていた。
…………。
ルフレとギムレーで言えば、単純な「力」での勝負となれば先ず間違いなくルフレでは勝てず、その意識の主体はギムレーになってしまうのだろう。
しかし、何らかの手段でギムレーの意識を弱らせる事が出来るならば、ルフレにも僅かにであっても勝機はある筈だ。
…………しかし、そうしてギムレーの意識との戦いに勝って肉体の主導権を握ると言う事は、ルフレとギムレーが一つの存在として完全に混ざり合う事に他ならない。
つまりはその道を選ぶと、ルフレがギムレーの影響を完全に取り除く事は決して叶わなくなり、この身は正しく『竜』のもの……『人に非ざる怪物』のそれへと成り果てる。
だが、そうやってギムレーに打ち克ち一つになれば……、最悪の事態である『心までギムレーに塗り潰される』可能性は殆ど無くなるだろう。
……このまま、在るかどうかも分からない『完全にギムレーの影響を取り除く方法』を探して、道無き道を探して先に進み続ける事が正しい事なのだろうか。
元より、今のルフレの状態は、既に『ルフレ』と『ギムレー』が一つに混ざり合った状態で……その意識だけはまだ完全には溶けきってはいないと言うべき状態なのだ。
一度掻き混ぜてしまった牛乳と紅茶を再び元の二つに分ける方法は無い様に、今のルフレから『ギムレーとしての部分』だけを過不足なく完全に取り除く方法など、この世の何処にも存在しないのではないかとも思ってしまう。
いや、縦しんばその方法が実在するとしても、それをルフレ達が実行出来るのかと言う問題があった。
高度な『錬金術』の技術が必要であった場合はその時点でお手上げになるし、そうでなくとも膨大な時間を費やさねばならぬのであれば、そんな時間の猶予は無いので無理だろう。
何時また再び『ギムレー』が浸食を始めるとも分からない。
いや、ゆっくりとであるが、既にその浸食は起こっている。
ルキナの血を飲んだ時と違って、二つの意識が急速に混ざり合い呑み込まれていく様な感覚こそもう無いが、ギムレーの力に満たされた地下遺跡の中で、少しずつ自分の中の『ギムレー』が力を取り戻そうとしているのを、意識と本能の狭間の何処かでルフレは感じていた。
このままここに留まっていては、ただでさえ意識として勝てるか怪しい『ルフレとしての意識』が、『ギムレーの意識』に勝てる可能性など喪われる一方であろうし。
もし、意識の殴り合いでギムレーに競り勝つ事でこの心まで『ギムレー』のものへと成り果てる事を防ごうとするならば、その最大のチャンスは間違いなく今しか無いのだろう。
……それでも迷ってしまうのは、やはりその方法では自分は『人』ではなく『竜』に……と言っても『竜』と『人』の混ざり物をそう呼ぶべきかは分からないのだが、とにかく完全に『人に非ざる存在』になるしかないからだ。
喪うモノは余りにも多く、そしてそのどれもに未練がある。
しかし、このままでは何もかもを喪うかもしれないなら、より喪いたくない『何か』の為に、他の大切なモノを諦めると言う事も必要であるだろう。
それも分かっている。
自分はどうするべきなのか。
それを選べるのは、きっと今だけだ。
ルフレは、熟考する様に暫し沈黙し、そして──
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➡現状で妥協する。
➡可能性に賭ける