◆◆◆◆◆
『ルキナ、ギムレーの事をどうにか解決する手段を一つ思い付いたのだけれども。
……聞いてくれるかい?』
ルフレは、例え自分が完全に『人に非ざる存在』に成り果てるのだとしても、ルキナがそれを望んでくれた様に、その心だけは絶対に守り通す道を選んだ。
その為に、在るかも知れない「全てを解決出来る可能性」を切り捨ててでも。……そこに後悔は、無い。
自分にとって最も大切なもの、何があっても守りたいもの、絶対に譲れないものは何であるのかと、己に問い直した時。
その心に浮かんだのは、ルキナの笑顔であった。
ルフレにとっては、ルキナが笑っていてくれるなら、『幸せ』で居てくれるのなら。
例えこの身が『人に非ざるもの』に成り果てたとしても、それ以上に望む事など無いのだ。
共に生きたいと言うその願いに、その身が同じ『人』であるかどうかなど、本質的には関係無いのだから。
……そもそも。こうしてルフレがギムレーと混ざりあった様な状態になってしまったのは。
元を辿れば、消滅の瞬間を待つだけの状態であっても尚、ルフレがルキナと共に生きる未来を、決して諦めきれなかったからだ。
強い願いは共に消滅する筈だったギムレーの魂を絡め取り、ルフレとギムレーを混ざり合わせて『ルフレでもギムレーでもない存在』となる事で、その消滅の運命を覆そうとした。
ある意味、ギムレーはルフレに巻き込まれたとも言える。
勿論、ルフレはそんな事は望んでいなかったのだけれども。
それを抱える本人にも止められない程強い願いは、それ以外の全てを度外視するかの様な『奇跡』を齎してしまった。
……そうして混ざり合った結果、肝心のルフレの意識がギムレーの意識に呑み込まれそうになっているのは、本末転倒とでも言うべき有様であり儘ならぬ事なのだろうけれど。
しかし、どんな時だって最後まで決して諦められない願いが、他でもない『ルキナと共に生きる事』だからこそ、ルフレがそれを選ぶのはきっと最初から決まっていたのだろう。
そんなルフレの決意を知ってか知らずしてか。
「ええ、勿論です、ルフレさん」
ルフレの言葉に、躊躇う事も無くルキナは頷いてくれる。
どんな事でも貴方を信じると。言葉も無く伝わる想いは、ルフレにとって何よりもの救いになっていた。
ルキナの為であるならば、自分はどうなろうと構わない。
ルキナを守りたい。ルキナに対して、壊れた執着を剥き出しにするギムレーの好きには絶対にさせない。その為なら。
そんな想いに背を押され、ルフレは選択する。
『今の僕とギムレーは、部分的に混ざり合ってはいてもまだ完全には一つに混ざりきっていない状態なんだ。更には。
ギムレーは一度消滅しかけていた影響で、その力を大きく削がれている。
今のギムレーには、僕達が戦ったあの時と比べるならば……搾り滓程度の僅かな力しか残っていない。
……尤も、搾り滓程度にしか満たないのだとしても、人間とは到底比べ物にならない程の力を持っているし、時を経れば、かつて以上の力を振るう事だって可能ではあるんだから、それで侮る事は絶対に出来ないけれどもね……。
ギムレーが今もあの時の様な力を持っていたら、こうして僕としての意識がギムレーの意識を抑え込める筈も無いんだ。
でもそれが叶っていると言う事は、僕たちが想像出する以上にギムレーの力は衰えている。
……ルキナにも分かるだろう?』
ルフレの言葉に、本来の力の差によってギムレーの意識に全く敵わないルフレの、そんな最悪の姿を想像してみたのか。
ルキナは硬い顔で頷いて、不安そうにルフレを見詰める。
……かつて『絶望の未来』と彼女がそう呼んだ別の可能性を辿った『未来』で、ギムレーの真の力の脅威と言うものを、ルキナは誰よりもその目で見て知っているのだ。
今のルフレの状態が、途方も無い程の幸運と神の悪意に満ちた奇跡によって叶っている事を、嫌でも理解してしまう。
ギムレーと共に消滅したルフレがこの様な形でも戻ってきた事を喜ぶべきであったのか、それともルフレが命を賭し成した事がこの様な形で無為になる可能性を嘆くべきなのか。
ギムレーの恐怖を心の奥深くにまで刻まれているからこそ、ルキナはギムレーがルフレの心を喰い尽くして再び蘇る可能性を考え、その眼差しに憂いを滲ませる。
ルキナの左手が何かを確かめる様にルフレの右手に触れた。
僅かに震えるその手を、今や『人』の手など容易く潰してしまえる怪物の手で、決して潰さぬ様に傷付けぬ様に、儚いガラス細工を柔らかく包む様にして、ルフレはそっと握る。
ルキナは一言も喋らずに、自身の手を包むルフレの右手の、熱持たぬ筈のその鱗の奥から伝わってくる僅かな温もりを、確かに心に刻もうとするかの様に静かに目を閉じて。
もっと温もりを求める様に、その身をルフレの胸に預ける。
咄嗟に左手で抱きしめようとしたが、その鉤爪がルキナの身を傷付ける事の無い様に左手は緩く抱き留めるだけに留め、その代わりに背に生えている翼でルキナの身体ごと包み込む様に柔らかく抱き締めた。
飛竜などのそれとは違い、鳥の翼の様に羽毛に覆われているルフレの翼は柔らかく温かい。
ルキナは、自らを確りと包む翼に頬を擦り寄せる様にして、柔らかく満ち足りた様に微笑んだ。
そして、覚悟を決めた目でルフレを見上げる。
「……ルフレさん、教えて下さい。
私は、貴方の心を守る為に『何』をすれば良いんですか?」
……ルフレが、自分に『何か』をさせようとしているのを悟ったのだろう。その口調は少し硬い。
しかし、ルフレの温もりを確かめたからなのか、或いはそれによってその心を喪いたくないと決意を新たに強めたのか、ルキナは、『それ』が如何なる事であろうとも、成し遂げてみせようと……そんな強い目をしていた。
……あの戦いの日々の中、ルフレとルキナが出逢った頃。
どんな苦境の中にあっても何者にも決して屈しない強い意志が輝くその瞳に。
何かを成し遂げようと決意し……何れ程傷付き果てようとも前に進み続けようとするその魂の輝きに。
その生き様に裏打ちされた意志ある眼差しの美しさに魅入られて、ルフレはルキナに惹かれたのだ。
今のルキナの眼差しは、ルフレの記憶の中に決して消えぬ様に色鮮やかに刻まれている筈の、あの時の眼差しの美しさすら褪せて見える程の、この世の何よりも美しい不屈の意志の輝きを湛えていた。
今までもルフレにとってルキナはこの世の何よりも尊く愛しい存在であったのに、この輝きを前にしてはそんな愛しさも何もかも全て過去へと置き去りにされてしまいそうになる。
こんなにも愛しい人を、こんなにも尊いと感じる輝きを。
ギムレーなぞに壊させて堪るものかと、その決意が高まる。
相手が、世界を滅ぼしてしまえる邪竜であろうと関係無い。
この身が『人に非ざる怪物』の姿に成り果てようと何だろうと、ルキナが望んだのはルフレただ一人であるのだから。
そして何よりも、ギムレーなぞよりも、ルフレの方がより深くより強くルキナを愛しているのだから。
『有り難う、ルキナ。
僕の頼みは君にとっては受け入れられない事かもしれないし、どうかすれば君の心を傷付けてしまうかもしれないと……少し躊躇いそうになっていたけれど。
ルキナにそう言って貰えて、僕も覚悟が新たに固まった。
……ルキナ。僕は今から、僕の意識の影で微睡んでいるギムレーを表に引き摺り出して、この身体の支配権を明け渡す。
そしてルキナには……そうやって表に出てきたギムレーに、そのファルシオンで出来る限りダメージを与えて欲しいんだ』
ルフレのその言葉に、流石に驚いたのかルキナは目を大きく見開いたけれども、それに反対する様な事は言わずに、無言でその理由を話す様にルフレへと促した。
この、一見錯乱したかの様な策であっても、それを頭ごなしに否定しようとは絶対にしないのは、何よりも軍師としてのルフレを信頼しているのかもしれない。
それが、堪らなくルフレには嬉しい事であった。
心から溢れ出す程の愛しさに目を細めながらルキナを見詰め、ルフレは自分の『策』を説明する。
『さっき一緒に見た、『キメラ』と言う存在に関する研究資料の内容を覚えているかい?
多くの異なる生命を混ぜ合わせて、新たな一つの存在にする時には、元となったより力の強い素体の意識が新たなる存在のその主たる意識になるけど……。
もしその力が強い素体の方が弱っていたら逆転出来ると……そう書いてあったよね』
それに僅かに戸惑いつつもルキナが確かに頷いたのを確認して、ルフレは言葉を続けた。
『……僕は、それと同じ事を僕とギムレーの間で起こそうと思うんだ。
今のギムレーは、僕の意識の奥で眠って力を蓄えなくてはならない程に、とても弱っている状態なんだ。
そんな状態でも、僕の意識は少しずつあいつに喰われてしまっているのだけれど。
それでも僕の意識の方が表に出続けていられる程度には、今はまだ力の差は開ききってはいない。
……ここに後少しだけでも、ギムレーを弱らせる事が出来るなら、僕の方が逆にギムレーの意識を食い潰せると思う。
僕の方からギムレーを完全に食い潰してから溶け合ってしまえば、ギムレーの意識が侵食してくる事も無くなる筈だ。
……勿論、戦う事になる以上は君にも危険があるだろう。
僕も内側から抵抗するから、ギムレーの好きにはさせないつもりだけれど……危険である事には変わりないと思う。
それでも、ギムレーを弱らせる方法がファルシオンなどの手段に限られている以上、頼れるのは君しかいない。
……君に頼んでも良いだろうか?』
ルフレの言葉に、ルキナは暫し考える様に押し黙り……。
そして、少し言い辛そうに尋ねてくる。
「ルフレさんの考えは分かりましたけれど……。
ですがその場合、ルフレさんは……」
『……そうだね。
僕はもう、完全にギムレーと混ざり合ってしまうだろう。
間違いなく僕は『人に非ざる者』になるし、この身体だって元に戻らない可能性が高い。
そして、幾ら僕の意識が勝ってその主たる人格になったとしても、一つになる以上は大なり小なりギムレーからの影響を受けてしまうだろうね。
混ざり合った後に残る『僕』が、果たして今の僕と何れ程変わらずに居られるのかは……正直な所未知数だ。
そもそもの今の僕自身、既にギムレーと混ざり合いつつあって、きっと厳密な意味では、君がよく知る……あの日よりも前の僕とは違うのだと思う……。
……それでも、ルキナを愛する気持ち、その『幸せ』を願う気持ちだけは変わっていないと……、僕はそう思うよ。
きっと、何れだけギムレーが混ざってしまっても、僕の意識が確かに残るのなら、僕と言う存在の核とでも言うべき部分……君への想いは変わらないと思うんだ。
一度混ざってしまったものを再び元の状態に分け直す事は、あのナーガにも不可能だろうけれど。
何れ程混ざり合ってしまっても尚変わらないものがあると、僕はそう信じたいんだ』
本当にこれが一番良い方法なのかはルフレにも分からない。
ギムレーを弱らせる過程でルフレの方も弱ってしまう可能性だってあるし、ギムレーと意識と意識での殴り合いの結果負けてしまう事だってあるだろう。
可能性が多少高くなると言うだけで、勝てる保証などそもそも何処にも無いのだ。
それでも、今のままでは遠からぬ未来に破滅しかないのだとすれば、どんな可能性にだって賭ける価値はあるだろう。
軍師としてはその様な不確実性の高い『策』しか用意出来ないのは名折れと言っても良い位なのかもしれないけれど。
結局の所、何事も全ては出た所勝負でしかないのだ。
だからこそ、『信じる』と言う事が何よりも大切になる。
自分を、そして「可能性」を信じられない者には、どんな奇跡も起こりえないのだから。
ルキナは少し考えていたが、やがて小さく頷いた。
そしてルフレの身を案じる様に、その首元にそっと触れる。
そして、揺るがぬ瞳でルフレを見詰めた。
「ルフレさんがその可能性を信じると決めたのなら、私もそれを信じるまでです。
……だから、必ず、勝って下さい」
『ああ、勝つよ』
自らを奮い起たせる様に、ルフレは力強く大きく頷いて。
決意と共にルキナの頬に、そっと口付けた。
◆◆◆◆◆
ギムレーと戦うにはあの資料庫では狭過ぎるという事で、ルキナ達は来た道を引き返して、まるで大広間の様に丸く開けた空間にまで戻った。
実験場か何かは分からないが、他の部屋や廊下などの石材よりも頑丈なものを使われて造られている様で、崩壊の具合も他と比べれば随分と綺麗なものだ。
ここならば全力で戦っても、余程の事が無い限りは床や壁を壊してしまったり天井を崩落させてしまう事も無いだろう。
かつての『絶望の未来』で……そしてこの世界で。
二度対峙した時に比べれば、今のギムレーは比較にもならない程に弱体化しているとルフレは言い、そしてルフレ自身もその内側から全力で抵抗すると言う。
だがそれでもあの邪竜を相手取ると考えれば、何れ程念を入れて準備しても全く足りない。
かつて『絶望の未来』からこの世界へと時空を越える際に、神竜ナーガからせめてもの餞にと、不完全ながらも神竜の力の一部を与えられたこのファルシオンならば、完全なる覚醒を果たしたファルシオンには遥かに劣れども、ギムレーに対して有効なダメージを与えられるのは確かであろうし、ルキナとて全くの無力では無い。
それに、今回の目的は封印ではなく、ルフレが勝てる程度にまでギムレーを弱らせる事であるので、かつての戦いの時に比べればまだ目標としては楽なのかもしれないけれど。
しかし、最終的にはルフレの献身によってルキナ達の完全勝利に終わった以前の戦いでは、この世界でも精鋭中の精鋭であろう戦士達が並び立って共闘し、そして完全なる覚醒を果たしたファルシオンを手にした父クロムが居ても尚、ギムレーに勝利出来た事は奇跡以外の何物でもなかったのだ。
たった一人でギムレーに対峙しなければならない事を考えると、例えギムレーが見る影も無く弱っているのだとしても、ルキナだけで何処まで抗し切れるのかは未知数である。
それでもルフレを守りたいのならば、やるしかないのだが。
ギムレーを表に引き摺り出し、これにダメージを与えて弱らせる事で、ルフレがギムレーを取り込む形で混ざり合い、ギムレーに肉体の主導権を取られる事を防ぐ。
その理屈は分かるし、ならば早ければ早い方が良いのは確かなのだろう。
その結果としてルフレが『人』ではなくなるのだとしても、ルフレがルフレのままで居てくれるならそれ以上は望まない。
混ざり合い一つとなった事で、ルフレが取り返しの付かない程に変質してしまうかもしれない事だけが、ルキナにとっては懸念事項ではあるのだけれども。
ルフレが自分自身を信じると決めたのなら、ルキナもルフレを信じるだけである。
それに、ルフレが言う様に。この世界に帰って来た後のルフレは既にギムレーと混ざり合い始めていて、ルキナが元々知っている……ルキナが出逢い恋し、そして初めての愛を向けた彼からは変わり始めていたのかもしれないけれども。
少なくともルキナにとっては、あの日の前も、そして帰ってきてからも、ルフレは変わらず『ルフレ』のままであった。
……そもそも、この世に存在する生きとし生けるものは全て変わり行くものである。それは、『人』でも竜でも同じだ。
ギムレーと混ざり合い始めていても、身体的に異常が起こり始めるよりも前のそれは、生きていれば普通に起こり得る程度の変化だったのではないだろうか。
ルフレをルフレたらしめる根源的な部分が変わらないのであれば、幾らギムレーと混ざり合いその影響を受けようとも、ルキナにとってそれは変わらずに『ルフレ』なのだと思う。
混ざり合った結果ルフレが完全に『人に非ざる存在』になってしまうのだとしても、ルキナはそれでも良かった。
元よりルフレがどの様に変わり果てようとも、その心さえ変わらないならばルキナにとっては何も構わないのだから。
寧ろルフレが、それを気に病んで壊れてしまわないかの方が心配であっただけに、ルフレ自身がそれを受け入れた上でその道を選ぶなら、ルキナが躊躇う事など無いのだ。
『ルキナ、今からギムレーを表に引き摺り出すよ。
準備は、良いかい?』
ルフレの問い掛けに、既にファルシオンを抜き放って構えた状態でいたルキナは頷いた。
ルキナの意志を確認したルフレは、一度大きく息を吸って吐き、その息を整える。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
その瞬間。
空気その物が全く別のモノに変わってしまった錯覚すら生じる程に、目の前に居る『ルフレ』の纏う気配が一変する。
途端にルキナの頬を冷や汗が伝い、その記憶に刻まれているあの恐ろしい邪竜の気配と同質のそれに、知らず知らずの内にファルシオンを握る手に力が入った。
深い眠りの淵から醒めたばかりであるかの様にゆるゆると、ルキナの目の前に居る『彼』は、その瞼を重苦しく挙げる。
そして二度三度と瞬いて、琥珀から真っ赤に変じたその瞳でルキナをその視界に捉えた『彼』は、表情の読み辛い『竜』の顔貌であっても、確かにそうだと分からせる様に柔らかな……だがルフレならば絶対に浮かべないだろう、何処か背筋が凍り付きそうになる気配を纏う微笑みを浮かべた。
何故か悍ましさすら感じるその微笑みを湛えたまま、『彼』は一歩二歩と近付いて、ルキナへと怪物染みた手を伸ばした。
『急に目覚めさせられたかと思うとこんな所に居るとは……少し驚いたよ。
随分と懐かしい場所まで来たんだね、ルキナ。
何も無い……いっそ忌々しいだけの場所ではあるけれど、こうして誰にも邪魔される事無く君と二人きりで居られるというのならそう悪くは無いと、今はそう思うよ。
どうにもまだ『ルフレ』の記憶を完全には共有出来ていなくて分からないのだけど……。
閉ざされている筈のここまでこうしてやって来たのは、『ルフレ』を助ける為なのかい?』
僅かに首を傾げそう問う『彼』に、ルキナは何も返さない。
そんなルキナに、『彼』は苦笑する様に溜息を吐く。
『……そうか、まあこうして僕が表に出てきた以上、『ルフレ』が再び意識として表に現れる事は無いけれど……そう時を置かずして、僕も『ルフレ』も同じ存在として一つになる。
だから哀しむ事は無いとも。さあおいで、ルキナ。
これからは僕がずっと、永遠に君の傍に居るから……』
優しい声音で『彼』はそう語るけれども。
その言葉に現れた『心』と言うべき「何か」は、ルフレにはあった優しさと言う温もりが、全て拭い去られ無惨に打ち捨てられたかの様な……そんな冷え冷えとしたものだった。
それがルフレであるなら、その外見がどの様に変貌しても。
例え尾や翼まで生え、顔も身体つきも変わり本来の姿の縁すら喪われてすら。
変わらずにそこに在った温かな心のお陰で、その外見に対する忌避感や恐怖感など何一つとして感じずに、「ルフレなのだ」と受け入れる事が出来ていたけれども。
目の前に居る『彼』は、全く違う。
その表に現れていた人格がルフレのものであった時には一切感じなかった、恐怖感に似た感情が絶えず溢れてくるのだ。
ルフレと『彼』との外見的な違いなど、強いて言えばその瞳の色程度しかないのにも関わらず。
ルフレと『彼』では、どうしようもなくその根本から「違う」存在であるのだと、ルキナの本能がそうがなり立てる様に訴えてくる。
かつて対峙した時に感じた、最早どうする事も叶わない程の彼我の存在の差を理解してしまったが故の『絶望』とは全く違う、だがそれ以上の悍ましい嫌悪感や恐怖……。
そう言った感情を、『彼』に対しては否応無しに抱いてしまうのだ。
そしてそれらの感情は、ルキナの心に刻まれたギムレーへの恐怖をも呼び起こし、その心を凍り付かせようとする。
だからこそルキナは、ファルシオンを強く握り直す事で、気圧されそうになるその心に喝を入れた。
臆するな。ルフレの心を守れるのは、ギムレーの力を削ぐ事でルフレの意識がギムレーに勝てる様に手助け出来るのは、自分しか居ないのだから。怯まずに立ち向かえ、と。
そう己を鼓舞したルキナは、まるで親しい相手にするかの様に、にこやかにその手を差し出してきている『彼』へと、ファルシオンの切っ先を向けた。
『どうしたんだい、ルキナ。
僕は君には何も危害を加えたりはしないよ?
疑うなら、神とやらにでも誓っても良いとも』
何故ファルシオンを向けられているのか心底理解出来ないと言いた気に、『彼』は首を傾げる。
「ルフレさんを、返して貰います。
あなたにルフレさんの心を呑み込ませたりはしない。
私が、必ず守って見せます……!」
そう決意を込めてルキナが言い切ると。
『彼』は一瞬呆気にとられた様に口を開けて。
次の瞬間には、腹が裂けてしまいそうな程の哄笑を上げる。
『守る? そんな事どうやって出来るって言うんだい?
ルフレは既にもう僕に呑み込まれたも同然だと言うのに。
そもそもこうして混ざり合っている時点で、君が求めている『ルフレ』なんて存在はこの世の何処にも居やしないさ。
僕たちは同じ存在であり、誰にも分かつ事など出来ない。
君は喪った『ルフレ』の幻影を見ているだけでしかない。
……でも、まあ良いよ。
言葉だけじゃ納得できないのが、君たち『人間』と言う生き物だったね。
全く愚かな事であると思うけれど……君が納得出来るまで、『余興』として付き合うと言うのも良いさ。
君を傷付けるつもりは毛頭無いけれど、その心を屈服させて僕の物にしてしまうのも悪くは無いのだから。
……じゃあ、楽しもうか』
ほら、おいで? と。
その大きく裂けた『竜』の口を醜く歪ませ、『彼』はルキナを嘲る様に笑う。
その怪物染みた手で手招く様にルキナを誘う『彼』へと、拒絶の意志と共にファルシオンを勢い良く振り払って。
ルフレの心を守る為の戦いは幕を上げたのであった。
◆◆◆◆◆
ギムレーを叩き起こす様にして表に引き摺り出した後、それと入れ替わる様にして、ルフレは己の心……精神やら魂やらが作り出した、『心の海』とでも言うべき所に佇んでいた。
今のルフレは精神だけの状態であり、佇むと言うのは正しい表現では無いが、感覚的にはそう言うのが近いだろう。
そこで『自分』と「それ以外」の境界を意識する様に隔て、ルフレは『ルフレ』としての個をその『心の海』で確立する。
……皮肉な事にそうやって意識し認識した己の姿は、『人』としての姿では無く、『竜』の……怪物の姿であった。
もうその姿が己の「本性」となる程にギムレーとの融合が進んでいるのか……或いはそもそも混ざり合ってこの世界に戻ってきた時点でそうだったのか、それは分からないが。
何にせよ、そうやって「自分」を「ギムレー」と切り離した事で、『自分』を確立させたと同時に『ギムレー』の存在もより確かなものになる。
かつて見たあの姿そのままの『竜』が、この『心の海』でのギムレーの姿だ。
今は肉体の主導権を得て表に出ているからか、その意識はルフレには向けられていない様だ。
今のギムレーの意識の大半は、ルキナに向けられていた。
『心の海』全体に響く様に此方に伝わってくるギムレーの感情に、ルフレは不快感から眉根を寄せる。
その魂にダメージを与え弱らせる為には、一旦ギムレーの心を表に押し出さねばならなかったとは言え、一時的にでもギムレーに肉体の主導権を与える事に不安を感じなかったと言えば嘘になる。
……しかしそれは、ギムレーがルキナを殺したり酷い傷を負わせたりしないかと言う心配ではない。
かつてのギムレーならばいざ知らず、少なくとも今のギムレーがルキナを肉体的に傷付ける事は無いだろう。何故なら。
今のギムレーは、本当にルキナを『愛している』からだ。
『人』と『竜』の差であるのか、ギムレーのそれはルフレからすると酷く歪で傲岸不遜なまでに自分本意に感じるが。
それを『愛』と表現して良いものなのかどうなのかは若干怪しい気もするけれど、少なくとも恐ろしい程の『執着』をルキナに対して懐いているのは間違いない。
ギムレーの記憶を垣間見た事で、ルフレはギムレーの過去のみにあらず、その心にもある程度触れていた。
それ故に、ギムレーのルキナへの『執着』を知る事が出来ていたのだ。
ギムレーの『執着』は、元を辿ればルフレのものだった。
ルキナへの『未練』によってルフレがギムレーとその存在を混ぜ合わせた際に、ルフレの強い感情に直接触れ交わったギムレーは、その在り方を大きく変質させてしまったのだ。
ルフレの心がそこまでギムレーに大きな影響を与えてしまったのには、ギムレーのその生い立ちに原因があった。
ギムレーのその過去とそこから得てきた経験は、ルフレから見ても、余りにも虚しく寂しい……空虚そのもので。
悍ましい方法で『完全なる生命体』として造り出されたギムレーは、その素体となった筈の『人』とも『神竜』とも全く異なる歪な存在としてこの世に生まれ、それ故に真の意味で「同族」と呼べる存在は居らず、真実孤独であった。
更には、自身を生み出した創造主から、何一つ与えられる事も無いままに狭い世界に閉じ込められ、挙句の果てには自分の手に負えないからと『処分』されそうになって。
故に、その心の器には何一つとして注がれる事無く、生まれながらに懐いていた破壊衝動と、それと同時に芽生えたこの世全てへの憎悪と怒りだけがその心を満たしていた。
……それ以外を、その感情以外を、ギムレーは誰からも与えられず、故にそれ以外を何も知らなかったのだ。
無論、言葉の定義的な意味に関しては、ギムレーも『愛』と言うモノを識っていたけれども、それは自分の経験を通して得たものではなく、実態を持たぬただの知識でしかなくて。
ある意味でギムレーのその心は、人間的な情緒の捉え方で見れば、酷く幼い未発達な部分があったとも言える。
だからこそ、混ざり合う事でルフレの心とその記憶に触れたギムレーは、そこにあったルキナへの『想い』に強く……ギムレー自身でも到底信じられない程に強く影響された。
端的に言えば、空っぽだったその心に、突然強烈なまでのルキナへの『愛』……『執着』と言うものが出現したのだ。
元々憎悪や破壊衝動以外に何も持たなかったギムレーが、自身が変質してしまう程にルキナに『執着』する様になった。
喪った力を回復させる為の、『心の海』での微睡みの中で、ギムレーは唯々ルキナの事だけを想い続けていたのだ。
そしてその『執着』は……ルフレがこの世界に帰り着き、ルキナと身も心も結ばれた事によって、一気に決壊した。
ルキナと結ばれた事で流れ込んできた神竜の力によって僅かながらも力を取り戻したギムレーは、ほんの少しだけ微睡から醒め……。
そして、自分を目覚めさせたのがルキナの力だと知ると、いっそ狂気的な程にルキナを求め始めたのだ。
自分を目覚めさせてくれたのが、力を注いでくれたのが、他ならぬルキナであったからこそ。
ギムレーはそれをまるでルキナからの「求愛」であったかの様に受け取り、それ故に自分とルキナが確かに想い合っているのだと狂喜したのだ。
そして、ルキナを手に入れる為に肉体を欲したギムレーの心は、急速にルフレの心と体を蝕む形で混ざり始め、ルフレの身を『人に非ざる者』……『人』でも『神竜』でも在れないギムレー自身のその「本質」に近しい姿へと歪めていった。
ルキナの血で変異が収まっていた様に見えていたのは、その度に力を取り戻したギムレーとの融合がより進み一時的に安定した事によるものと。ルキナへの執着と渇望からルフレの身を蝕んでいたギムレーが、ルキナの欠片を手に入れる事が出来た喜びで一時満足していたからに過ぎなかった。
つまり、ルキナが血を与えれば与えるだけ、逆にルフレはギムレーに喰われてしまっていたのだ。
あのままルキナの血を飲み続けていれば、恐らく既にルフレは完全にその心まで食い潰されていただろう。
ルキナの血を拒否してそれ以上ギムレーが力を取り戻す事を抑えた事で、肉体の変異は完全に進行しきってしまったが、その分「心」だけは何とか死守する事が出来たのである。
そして、血を得られなくなったが故に、今のギムレーは酷く餓え乾く様にルキナを求めているのだ。
だからこそ、そこまでルキナに『執着』しているギムレーには、例えそのルキナ本人からファルシオンを向けられたとしても、ルキナを害する意思は決して無いと、ルフレは踏んでいた。
ルキナをその力で屈服させて自らのものにする事は望むかもしれないが、だからと言ってルキナを殺傷しようとは決してしないだろう。
故に、そこにルキナが付け入る隙が幾らでもあるのだ。
それに、ルフレもただ黙ってルキナの戦いを応援しているつもりなど無かった。
寧ろ、これはルフレの戦いであるのだ。
今から自分は、この『心の海』で、ギムレーとの魂と魂の殴り合いを制さなくてはならないのだから。
そしてルフレは、『心の海』の中で滅茶苦茶に暴れ始めた。
ギムレーが攻撃しようとすればそれを邪魔せんとばかりに揺さぶりをかけ、ファルシオンを避けようとするならその足が止まる様に全力で抵抗する。
『竜』に対して絶大な力を誇るファルシオンは、怪物と化したルフレの……今はギムレーの身体にも絶大な効果を示し、ほんの少しの切り傷程度でもギムレーの力が確実に弱っていくのを肌で感じる。
自分の身体でもあるそれが傷付けば当然の如くルフレ自身の魂にも少なからぬ影響が出るが、『人』と『竜』の混ざりもの程度のルフレよりも、より『竜』としての要素が強いギムレーの方に、ファルシオンの効果は強く及ぶ。
ギムレーがルフレにも負ける程に削られ弱りきるのが先か、或いはルフレの魂の方に先に限界が来るのか。
ルフレとギムレーとの魂と魂の殴り合いは、そんな我慢比べの様な様相を呈していた。
だが、当然ながらルフレが気を付けなければならないのはファルシオンによるダメージだけではない。
ルフレの魂が全力で暴れて抵抗している事に気付いたギムレーは、これ以上邪魔される前にルフレを力尽くで呑み込もうと、表ではルキナの相手をしつつ、この『心の海』でもルフレに襲い掛かって来る。
牙を剥き出しにして吠え狂い、その長く大きな体躯でルフレを押し潰そうと迫るギムレーに、ルフレもまた獣染みた怪物の咆哮を上げて応戦した。
首を狙って咬み付いては、そこをブレスで灼き払う。
身体に絡み付かれた際には、逆に四肢の鉤爪で比較的柔らかなその腹側の鱗を引き裂き砕いていく。
互いに唸り声を上げながら噛み付き合い、その翼を羽ばたかせながら縺れ合い、互いに息の根を止めようと殺し合う。
それはまさに、『人に非ざる怪物』同士の殺し合いだ。
理性など何も無く、ただ本能と衝動で戦い続けている。
時折、表でルキナの攻撃が当たったのか、ルフレの身体に浅い傷が刻まれ、同時にギムレーの身体に深い傷が走る。
その隙を逃さぬ様に畳み掛けては、縺れ合い互いにその身を食い千切り合い、その身をブレスで灼いてゆく。
肉体的な戦いではないので、何れ程傷付こうとも「痛み」と言うモノは無いが、傷を負う度に疲弊し弱っていく事を肌で感じる。
それでも互いに牙を剥き出し、ここが精神世界でなく現実であるならば既に致命傷になっている程の傷を負いながらも、共に一歩たりとも引かずにぶつかり合い続けた。
ルフレは、ルキナと共に生きるという『願い』の為に。
ギムレーは、三千年近く存在し続けてやっと初めて得た、『愛しい』と思える唯一の存在を手に入れる為に。
どちらも、同じ唯一人を想いながら、それ故に妥協も和解も存在せず考える事も出来ず、相手を完全に屈服させ喰い尽くすまでは何があっても止まれない戦いを続けていた。
ルキナを想うその一念のみで、ギムレーと混ざり合ってまで消滅の運命を覆してしまったルフレは勿論の事ながら。
文字通り自らの心の全てをルキナ一人に捧げているギムレーのその『想い』も、それをあくまでも『人』であるルキナが受け入れられるものであるのかは別として、何処までも純粋な紛れもなく『愛』と呼べるものなのだ。
そこに『愛』が、何者にも譲れない唯一つがあるからこそ、互いの魂を食らい合ってでも殺し合うしかない。
互いに自らの存在の全てを掛けた戦いは、当初はギムレーの圧倒的な優勢で始まったが、ルキナの協力もあって次第にルフレが拮抗し始め、そして終には逆転した。
だが。
最早この世界に戻ってきた当初よりも傷付き力を削がれても尚、ギムレーは絶対に諦めない。いや、諦められないのだ。
ギムレーには、文字通りに「それ」しかないのだから。
虚ろな負の感情に突き動かされ、人々の身勝手な願いに振り回され、誰からも忌まれ拒絶され利用されてきたギムレーには、漸く自らが得た『唯一』を手離せる筈も無い。
……しかし、例えそれが何れ程哀れな生い立ちの所為であるのだとしても、愛されなかったが故に『愛し方』を知らぬギムレーが、ルキナから望む『愛』を得られる筈も無い。
ギムレー自身の望みはそうでなくとも、ギムレーの『愛』がルキナに与えられるのは、破滅と絶望しかないのだ。
壮絶な魂の戦いの末に、ルキナからの一撃と、満身創痍のルフレからの止めの一撃によってギムレーは終に倒れた。
そして、その魂がルフレに溶け込む形で消えるのと同時に、ギムレーの記憶や想いが静かにルフレへと流れ込んで来る。
だが何れ程記憶が流れ込もうともルフレの自我がそれに蝕まれると言う事は無く、ルフレは『ルフレ』のままであった。
しかし同時にギムレーの想いも其処に在って。ルフレはそれを消し去ろうとはせずに、静かに己の想いと同化させる。
そして、魂の戦いに勝利し、主たる人格としての資格を得たルフレの意識は、ゆっくりと表へ浮かび上がった。
◆◆◆◆◆
ルキナがファルシオンを向け切り掛かっても、『彼』はルキナに対して積極的な攻撃も大した反撃もしなかった。
傷付けるつもりは無いと言う言葉は『彼』の本心であったのかも知れない。
だが、それでルキナが止まる訳も無かった。
積極的には攻撃を仕掛けて来ないとは言え、彼我の力の差は圧倒的であるが故に、例え『彼』にとっては「戯れ」程度の攻撃なのだとしても、少しでも気を抜くと忽ちルキナは戦えない状態にまで追い込まれてしまう。
そうやって「戯れて」いる『彼』は、決死の覚悟で戦うルキナとは対称的に、何処か楽しそうですらあった。
狂言としか思えない言葉を色々と投げ掛けて来ていたのだが、ルキナはそれを全て拒絶する様に跳ね除けて。
そうこうする内に、『彼』の中でルフレが全力で抵抗し始めたのか、段々と『彼』の動きは精彩を欠いていった。
その隙を逃す事無く振るったファルシオンは、鋼鉄の様に硬いその鱗も容易く切り裂き、『彼』に傷を負わせていく。
ルフレの身体を傷付けたくは無いのだけれど。他ならぬルフレ自身が一切手心を加えるなと、そうルキナに頼んでいた。
ならばルキナは、一刻も早くルフレの魂がギムレーの魂に打ち克てる事を願いながら、彼を信じて戦うのみである。
右角の先端を切り飛ばし、左の腰の翼の羽を半ば切り払い、胸の鱗を切り裂いて浅くはない傷を負わせ。
そうやって幾度となく傷を負わせていると、最初の内は直ぐ様治っていた傷が段々治る速度が落ちて行き、終には殆ど治らなくなってゆく。
次第に『彼』の表情も苦しそうなものになり、やがては必死にファルシオンの一撃を避け様とするにまでなった。
そこで手心を加えずにルキナが果敢に攻め立てて行くと、『彼』は何故か傷付いた様な顔をする。
だが、そこまで追い込まれつつあったと言うのに、『彼』はルキナを殺そうとする事は無くて。
そして最後にその左肩を大きく切り裂いた途端、『彼』は力尽きた様にその動きを止める。
そして次の瞬間には、意識を喪ったかの様に倒れ伏した。
最後の瞬間。『彼』は迷子の様な顔で、苦し気にルキナの名を呼んで、必死にその手をルキナへと伸ばしていたけれど。
ルキナがその手を取る事は、無かった。
力尽き倒れ伏した傷だらけの『彼』の姿に、ルキナは安堵と不安と期待とが綯い混ぜになる。
ルフレが勝てたのだろうか、それとも……、と。
恐る恐る近付くと、少し苦し気ながらも確かに息はある様で、少なくともその命までも絶ってしまった訳ではない様だ。
その場に座り込んだルキナは、そろそろと慎重にその頭を抱き抱え、それを優しく撫でながら愛しいその名を呼ぶ。
ゆるゆると開かれたその瞳は、血で染め抜いたかの様な紅ではなく、穏やかな琥珀色に揺らめいていた。
身を起こしてルキナを見詰め、優しくその目を細めたその仕草は、そこにある心は、間違いなくルフレのものであった。
ルフレがギムレーに打ち克てたのだと確信したルキナは、堪らずに、傷だらけのルフレの身体を全身で抱き締める。
慌ててそれを抱き締め返そうとしたルフレだが、ふと自分の手の事を思い出して、その鉤爪で傷付けぬ様にと、慎重に優しく、僅かに触れる程度の力で受け止めた。
…………ルフレの姿は、何も変わらなかった。
よりギムレーのものへと近付く事もなかったけれど、元の人間の姿にも戻らない。彼が『人に非ざる姿』だと自嘲した、……そんな姿のままだった。
しかも、死闘の名残でその身体は傷だらけで、より凄惨な姿になっている。
ルフレを見ると、彼は少しだけ寂しそうに微笑んだ。
もう自分は、クロム達の居る『人』の世には戻れぬのだと、そう理解してしまったからなのだろう。
例え、ルキナと共に生きていけるのならばそれだけで良いと心から思っていたとしても、それでも『人』の世に在る大切なものを全て喪う事を望んでいた訳では無いのだ。
例えギムレーと混ざり合う事で完全に『人に非ざる者』になるのは分かっていても、もし姿だけでも元に戻る事が叶うならば……と言う思いは、捨てきれなかったのだろう。
そんなルフレの心に、少しでも寄り添いたくて。
ルキナは身を預ける様に彼を抱き締め、翼が生えたままのその背を、泣きじゃくる幼子を慰める様に優しく撫でる。
ルフレは何かを言おうとしたが……。
しかし、言葉が詰まってしまったかの様に僅かに吐息を溢すだけで。
そして……静かに目を閉じて、鋭い角でルキナを傷付けない様にと注意しつつ、その頭をルキナへとそっと触れる様にして擦り寄せた。
獣の様に静かに喉を鳴らしながら、言葉も無く唯々ルキナの存在を確かめる様にその尾はルキナの腰辺りをそっと抱き締める様に柔らかく巻き付いて、三対の翼がルフレ自身ごとルキナの身体を優しく包む様に触れる。ルフレの身体は、僅かに震えていた。
そこにあるのが、哀しみなのか、それともまた別の感情なのかはルキナには分からない。それでも、ルキナには『人に非ざる』姿のルフレも、変わらず堪らなく愛しく思えるのだ。
『竜』の頭にそっと優しく口付けて。
その尾と翼を愛しさと共に撫でて。
己の想いの全てを、ルフレへと伝える。
「大丈夫ですよ、ルフレさん。
私は、ずっと貴方の傍に居ます。
これから何があっても、ずっと……絶対に……」
よしよし、と。そう幼子をあやす様に撫でながら言ったその言葉に、ルフレはただただ静かに頷くのであった。
◆◆◆◆◆
古の時代に千数百年もの栄華を誇ったとされる国、イーリス聖王国が存在したとされる大陸の、そのとある地方には、不思議な伝承の数々が、遥かな時を越えて今も残されている。
その伝承が生まれた時期が多少異なるのか、伝承毎に登場人物に多少の幅はあるけれど。
その全てに共通するのは、誰も訪れる者が居ない様な深い深い森の奥の館に住む、一人の女性と一匹の『竜』である。
人と『竜』の種の垣根を越えて愛し合う彼らは夫婦であるらしく、どの伝承でも仲睦まじく寄り添い愛し合って過ごしているのは共通していた。
森で迷った者が辿り着いた館で彼らにもてなされる伝承や、難事を抱えていた者に『竜』が助言を与えた事でそれを解決出来た伝承など、その内容や傾向は伝承毎に差があるけれど。
どの伝承にもその『人』と『竜』との夫婦だけは必ず出てくる事から、この夫婦は実在の存在が元になっているのではないかと、研究者の間では議論されている。
夫婦の間に子供が居たりする伝承もあるのだが、『竜』と『人』で子が産まれるとは思えない為に全くの架空の存在だとされている。……だが、真実は今となっては分からない。
ただ、自らの先祖がこの『人』と『竜』の夫婦の間の子であると言い伝えている家系は今も各地に存在するのは確かだ。
『賢竜伝承』と称されるこれらの伝承は、『人』と『竜』と言う、種族を越えた愛の物語でもあるとされ、今も尚様々な創作物の基になっている。
中にはこれらの伝承が生まれた時期から邪推して、この『竜』がかの邪竜討滅を成し遂げた大英雄ルフレの生まれ変わりであるだとか、或いは邪竜を討った事で呪われて獣に堕とされた彼の英雄がそれでも尚愛する者と添い遂げただとか。
そんな眉唾物な突飛も無い物語が作られる事もあったが。
まあ何にせよ、これ程までに長き時を経ても愛される程、この伝承が魅力的な題材である事には間違いが無いのだろう。
この伝承と何か関りがあるのかは不明だが、この伝承が伝わる地方に存在するとある森の奥深くに、かつては立派な屋敷があったと思われる跡地があり、その片隅には簡素ながらも立派な墓があるらしい。
そして、その墓に寄り添いそれを守る様にして眠る『竜』の骨が残されているのだと言う。
その地方の民は、その墓と『竜』の骨が伝承の夫婦のものであると信じ、彼らの安らかな眠りを妨げぬ様にしていた。
それが事実かは誰も知らず、何故森の奥にその様な物があるのか……その答えを知る者も、もうこの世に誰も居ない。
ただ……、何も語る事の無い墓と骨のみが、共に朽ち果てる悠久の時の彼方まで、静かに残されているのであろう。
【共に在る未来を:終】
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