『願いの果て、結ぶ祈り』   作:OKAMEPON

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END③【願いが紡ぐ明日】

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 広大な空間である筈なのに手狭であるかの様に錯覚させる程の巨体を誇示するかの様に、ギムレーはゆったりと翼を動かして悠然とした様子で宙を泳ぎ、そしてその三対の眼を紅く輝かせながらルキナを見下ろしていた。

 幾度か、瞬きの様にその眼の輝きを明滅させて、そして、ゆっくりと宙を滑る様にルキナの頭上からその高度を下げる。

 

 

『急に目覚めさせられたと思ったら……まさかこんな場所に居るとはね。君が、僕を此処に連れて来たのかい?』

 

 

 ルキナの視線の高さに合わせようとしているかの様にその首を下げて、ギムレーは真正面からルキナを注視して訊ねた。

 ルキナはそれに応えずに、黙ってファルシオンを構える。

 ギムレーの意図など分かり様が無いが、こうしてこの剣の切っ先が届く場所にまで降りてきたのは好都合であった。

 そんなルキナの様子に気を害した様子も無く、ギムレーはその紅い眼に僅かに柔らかな輝きを映す。

 

 

『忌々しい始原の地ではあるけれど、この地に辿り着いたからこそ、再びこうして力を取り戻して蘇る事が出来た訳だ。

 君が、僕を選んでくれたのだろう? 

 ああやっと……、僕が君を「愛して」あげる事が出来る。

 深い眠りの中で、幾度この時を夢に見ていた事か……。

 さあ、ルキナ。幾千万の時の彼方まで共に生きよう』

 

 

 さあ、おいで、と。ギムレーはそうルキナに優しい声音で語り掛ける。当然ながらそんな言葉にルキナが頷く筈も無い。

 ファルシオンを構えたまま離さないルキナに、ギムレーは不思議そうにその長い首を傾げた。

 

 

『どうしたんだい、ルキナ。

 ……ああ、君を喰い殺したり、或いは操ろうとするんじゃないかと心配しているのか……。

 まあ、確かに……かつて僕が君にした事を考えると、そうやって警戒するのも仕方が無い事なのかもしれないけれど。

 でも、もう僕は君に対しはそんな事は絶対にしない。

 かつての僕には、憎悪と憤怒と破壊衝動しかなかった。

 だけれども、今は違う。……君を愛しいと、君をこの世の何よりも愛しく想う心を、僕は漸く得たんだ。

 あれ程までに魂の内に燃え滾っていた憎悪や破壊衝動が、君を想う時にはこの心から完全に消え去ってしまう程なんだ。

 君が愛しくて、君にもう一度逢いたくて、君と共に生きて居たくて……。

 だから、僕はこうして再び蘇った。

 だから、僕は何があっても君を傷付けたりなどしない。

 信じられないと言うのなら、この命の全てを賭けても良い』

 

 

 そう言いながらギムレーは、まるでルキナに『愛』を乞うかの様に、眼を細めてルキナへとその頭を寄せようとする。

 ルキナは、その悍ましさに思わず身を震わせて、近付こうとするギムレーから少しでも距離を取る為、後退った。

 その言葉も、そしてその態度も。何もかもが悍ましい。

 

 目の前の「それ」……便宜上『ギムレー』と呼ぶしかない存在は、ルキナにとっては己が知っている邪竜ギムレーとは全く別物としか思えない程に余りにも掛け離れていて……。

 だが同時に間違いなく邪竜ギムレーの成れの果てであった。

 言動の端々にはルフレの様な雰囲気も僅かに在るのだが、そこに在る『心』や『魂』や『精神』などと言った、目には見えないが確かにその存在の根幹を形作るものは、ルフレとは余りにも違い過ぎて、ルフレとは全く重ならない。

 異変に蝕まれ人の身では無くなった彼とも、そしてかつての彼とも。

 まるで、素人が名作の台本をなぞりながら下手くそな芝居をしているかの様な……そんな耐え難い違和感しか無いのだ。

 だが、恐らくは。『ギムレー』自身には己がその様な事をやっている様な自覚などは欠片も無いのだろう。

 ……当然ながら『ルフレ』とは欠片も重ならない、しかしかと言ってかつての邪竜ギムレーとも重ならない。

 このどちらでも無い『何か』。まさに「成れの果て」と言い表した方が良い様な存在は、一体「何」だと言うのだろう。

 

 ルフレは、その消滅の定めを覆す為に、共に消えかけていたギムレーと混ざり合って『どちらでも無い存在』となる事でそれを成した、と。そうルキナに説明していた。

 そしてその結果、より強大な存在であるギムレーに蝕まれて……その姿は人では無いものに変わり果て、そしてこのままでは遠からぬ内にその心……『魂』までもが完全に呑み込まれ一つになってしまうのだ……、とも。

 その為に、ギムレーからの浸食を抑え込む方法を……そして、混ざってしまったギムレーとしての部分をルフレから切り離す方法を探していたのだけれども。

 ……しかし、ルキナは全く想定してもいなかったのだが、混ざり合った事で『変化』してしまったのはルフレだけでは無かったのだろう。

 ……いや寧ろ、内面的な部分には殆ど変化が無かったルフレとは異なり、最早かつての面影すら半ば喪う程までに『変質』しているギムレーの方が、ルフレと混ざり合って受けた影響は甚大であったのかもしれない。

 そして、このままではこうも変わり果てた『ギムレー』に、愛するルフレは呑み込まれてしまうのか、と。

 それがルキナにとっては何よりも恐ろしかった。

 

 ルキナ、ルキナ、と。まるで譫言の様に呼び掛け続けるその声を追い払うかの様に、ルキナはファルシオンを振るった。

 その切っ先はギムレーの鼻先を切り裂き、傷口からは血が飛び散る。

 だが、鱗を裂いて刻まれた筈のその傷を『ギムレー』が構う事は無く、ルキナを不思議そうに見るばかりだ。

 

 

『どうしたんだい、ルキナ。僕は君に何もしないよ。

 だから、そんなに怯えないでくれ。

 僕は君を愛したい……君に愛して欲しいだけだよ。

 本当に、ただそれだけなんだ。

 君が望むなら、何でも叶えよう。

 未来永劫この世から争いを消し去る事だって、君が望むなら必ず成し遂げるよ』

 

 

 だから僕を愛してくれ、と。そう『ギムレー』は繰り返す。

 愛している、愛して欲しい。……それが『ギムレー』の本心である事には、恐らく間違いは無いのだろう。

 ……かつてのギムレーならば、欺き絶望させる為であっても、取るに足りぬ虫ケラと蔑むルキナに対してこんな言葉を吐くなんて、死んでも有り得なかった。

 それに、愛していると壊れた様に口にし続けるその様子には、最早正気と言うか理性と言うか……そう言うものの抑制が欠片も見当たらない。

 

『ギムレー』は、完全に壊れ果てていた。

 

『愛』に狂っていると言うべきであるのかもしれないが、その『愛』とは何処までも虚しい空っぽなものにしか思えない。

 中身が無い、表層的なだけのそれを『愛』だと信じ切ってそれに狂っている様にしか見えないのだ。

 

 そもそも、『ギムレー』がルキナに『愛』とやらを向ける理由など無い、その切欠すらも本来は存在しない。

 かつてのギムレーにとって、ルキナは有象無象の虫ケラの如き人間達の一人でしか無かっただろう。

 力を僅かに得たファルシオンを持ち、『絶望の未来』を覆す為過去に跳んだと言う点で、目障りな存在だと思っていたかもしれないが。

 どちらにしろ、ギムレーがルキナに対して好意的な感情を抱く様な切欠など無かった筈だ。

 適当に弄んで絶望させてやろうと言う、玩具に対する程度の興味はあったかもしれないが……どの道それは『愛』などと言った感情には繋がり様も無いものである。

 それ故に、『ギムレー』の語る『愛』とやらは、ギムレー自身のものではないのだろう。

 ……いや、『ギムレー』自身はそれを紛う事無く己自身が抱いている感情だと思っているのだろうけれども……。

 その感情の根源は、恐らくはルフレが抱いているそれであったのだろう。

 両者が混ざり合った時に、己の内に混ざったそれを、自身のものだと錯覚している。

 そして、その想いを暴走させているのだろう……。

 

 ……ギムレーに対してその様な感情を覚えるのはルキナにとっては予想外であったが、今の『ギムレー』の有様は、何処までも悍ましいのと同時に、どうしようもなく「哀れ」である様にすらルキナには思えてしまう。

 

 

「『愛』していると、あなたはそう言いますが……しかしそれはあなた自身の感情ではないのでしょう? 

 私とあなたの間に、『愛』なんて感情を育む様な時間も出来事も何一つとして存在しません。

 そんなあなたの『愛』が、私に対して響く事なんて有りません」

 

 

 言葉を交わす必要なんて無いのだろう。

 いや寧ろ、万が一にも余計な「情」を抱いてしまうかもしれない事を考えると、今から倒そうとしている相手と言葉を交わす事に百害があっても利になる事など一つも無い。

『ギムレー』の狂気を理解したとしても、何の意味も無い。

『ギムレー』の『愛』とやらを受け入れて、愛し返す事なんて天地が引っくり返ったとしても有り得ないのだから。

 ……それでもこうして言葉を掛けてしまったのは、その有様が余りにも「哀れ」であったからなのだろうか。

 道化にすらも成れない程のその狂った様相に一片の憐れみを抱いてしまったのだろうか……。

 それは、ルキナ自身にも分からなかった。

 

 だが、『ギムレー』はそんなルキナの言葉も態度も何もかもを気にも留めていないかの様にただルキナを見詰め続けた。

 

 

『いいや、僕が感じているこの想いは間違いなく僕自身のものであるとも。

 それにもし……この想いの発端が僕自身では無かったとして、それに何の問題があるんだい? 

 今ここに居る僕が、間違いなく君を愛している事には何も変わりが無いのに。

 それだけで十分じゃないか。

 時間も切欠も、それが君を愛している事自体に何の関係がある? 

 誰かを愛する事に理由なんて要るのかい? 

 君にとってそれが必要であると言うのならば、それはこれから共に積み重ねて良いだけの話だろう。

 なに、時間なら幾らでもあるんだ。

 君が僕を心から愛せるまでに、幾千幾万の時が必要なのだとしても、ならば僕はそれを待ち続けるだけだ。

 この世に生きる人間が全て死に絶えても、太陽が消え星々の光すら消え果る程の時間が経っても。

 僕は何一つ変わらずに、君の事を愛し続けるよ。

 そうすれば、何時かこの愛は君に届くのだろう?』

 

 

 ルキナから愛される事を微塵も疑っていないかの様に、『ギムレー』はそう言いながらルキナに近寄ろうとする。

 それを、ルキナは再度ファルシオンを振るって拒絶した。

 

 

「私が望む事を叶えると、そう本気で言うのならば。

 ルフレさんを呑み込もうとしないで下さい。

 ルフレさんの意識の影で、ずっと眠り続けていて下さい。

 私からルフレさんを奪おうとしないで下さい……!」

 

 

 万が一にも有り得ないのだろうけれど、『ギムレー』が大人しくルフレの意識の影でずっと眠り続けるのなら……ルフレの姿を元に戻して静かにルフレと共に生きていくのなら。

 ルフレごとその存在を受け入れる事は出来るだろう。

 ……だが、そうはならないのだろう事は分かっている。

『ギムレー』には、そんな事をする理由など無いのだから。

 

 

『僕とルフレは「同じ」存在だ。

 かつてもそうだったし、そして今は完全に一つに混ざり合っている。

 僕はギムレーであるけれど同時に『ルフレ』であると言えるし、それはルフレにも言える事だ。

 ルフレの記憶や心は僕のものでもある。奪ってなどいない。

 それに、僕がルフレを呑み込んでいる訳じゃない。

 混ざり合った結果、在るべき状態になろうとしているだけだ。

 ルフレの影で眠り続けていた所で、結果は変わらないさ。

 なら僕の方が君の傍に居る事に、何の問題があるんだい?』

 

 

 本気で理解出来ないとでも言いた気に『ギムレー』は問う。

 互いに理解し合えないのは、両者の間に横たわる『種族』と言う溝が故の事なのだろうか? それともそれ以上に、互いに乗り越える事の叶わない隔絶した『価値観』故なのか。

 何にせよ、言葉を交わし合った所でルキナと『ギムレー』が理解し合える事は無いのだろう。

 幾万幾億の言葉と時を掛ければ何時かは分かり合えるのかもしれないが……人間であるルキナにはその様な時間など無いし、その時間を『ギムレー』に対して費やすつもりも無い。

 だからこそルキナはこれ以上の言葉は不要だと判断して、ルフレを助ける為にファルシオンを振るった。

 

 ファルシオンが振るわれる度に『ギムレー』は傷付き、しかし何故か『ギムレー』はファルシオンの切っ先を積極的に避けようとはせず、少し戸惑う様にルキナを見るだけだ。

 

 

『何故だい、ルキナ。そんな事をして何になる? 

 ……それとも、君の中に在る僕への憎しみを晴らす為にはそうするしかないのかい? 

 なら、その憎しみを全て受け止めれば、僕が君を愛している事を信じて受け入れてくれるのかい? 

 君が僕を愛してくれるようになるのかい? 

 それならば、僕はそれを受け止めるよ。

 君が僕を想って与えた痛みだと思えば、例え神竜の牙に切り裂かれた痛みでも、愛しく思えるのだから』

 

 

 そう言って、深く身を切り裂かれていると言うのに、『ギムレー』はその傷を愛しそうに見詰めだす。

 そこにある感情は余りにも純粋で……しかしだからこそ恐ろしい。

 

 例え何れ程受け入れ難いものであったとしても、ここまで純粋に想いを向けてくる存在を切り捨てる事に、何の呵責も覚えない程に割り切れる様な性格ではない。

『ギムレー』に対し『憐れみ』と言う感情を抱いてしまっている所為か、よりその感情の負荷は強まってしまって。

 ルフレの事を強く心に想っていなければ、ファルシオンの切っ先が鈍ってしまいそうであった。

 

 敵意を剥き出しにしてくるのであれば、或いはその絶対的強者としての傲慢さのままにルキナの意志を捻じ曲げてでもルキナを己のものにしようとしてくるのであれば。

 僅かな葛藤をする事も、心に微かな痛みを感じる事も無く、ルキナはファルシオンを振るっていたのだろうけれど。

 しかし、その言葉こそ受け入れ難く、そして向けてくるその感情を悍ましく思うのであっても、『ギムレー』は何一つとしてルキナを害しようとはせず、そしてルキナに加害されていても尚無抵抗なのである。

 相手が恐ろしい存在である事を良く理解していても、ただ言葉を連ねてくるだけの無抵抗な存在に対して一方的に加害する事は、ルキナにとっては心理的な抵抗が大きい。

『ギムレー』自身がそれを意図しているのかどうかは分からないが、無抵抗である事はルキナへの精神的な攻撃に等しい。

 

 ファルシオンにならば、『ギムレー』とルフレの繋がりを断ち切る力が有る筈だと、ルフレはそう言ったけれど。

 具体的にどうすれば良いのかは分からないまま、しかし『ギムレー』の力を削っていけば何か光明は見えるのかもしれないと信じて、こうして『ギムレー』の身を闇雲に切り裂き続けているが。……果たしてそれは叶うのだろうか。

 

 ファルシオンが振るわれる度に増え続けるその傷を、流れ落ちる自身の血を、『ギムレー』は顧みず。

 そして確実にあるのだろう筈の苦痛すら表に出さない。

 そして、ただただルキナへの狂った『愛』の言葉を紡ぎ続けている。

 その身を切り裂く度に、ルキナの心にも痛みが走った。

 例え歪んでいても虚しく「哀れ」なものであっても、ある意味では無垢とも言える様な存在を。敵意を向けても、それに敵意を返す事も無く、その敵意ごと受け入れてくる相手を。

 傷付ける事を躊躇う甘さを捨て切れないからなのだろうか。

 ルフレを助ける為なのだから、と。そう己に言い聞かせていても、少しずつ迷いの様な翳りが心に忍び寄ってくる。

 それこそが、『ギムレー』の罠であるかの様だった。

 このままでは先にルキナの心の方に限界が訪れて、ルフレから『ギムレー』を分かつのだと言う目的があっても、ファルシオンを振るう事が出来なくなってしまうかもしれない。

 

 だが、それだけは受け入れたくなくて。ルキナは痛む心を誤魔化しながら、ファルシオンを振るい続けた。

 もう既に『ギムレー』の身体の至る所が傷付いている。

 三対の翼の内半数を深く傷付けられたギムレーはもう高く飛ぶ事は出来ないのか、痛々しそうにその六枚の翼を動かしながら低く飛ぶ事が精一杯な様であった。

 竜を屠る事に絶対的な力を持つファルシオンで与えた傷は、『ギムレー』の身を確実に削っていて、それはその命すらも脅かしつつある筈である。

 現に、傷はゆっくりと治癒しつつも、それはルキナが傷付ける速さには全く見合っていない。

 不完全な覚醒しか出来ていないこのファルシオンでは、その存在を完全に封じる事は難しいのかもしれないが、このまま一方的な戦いを続けていれば、一時的にでも完全に『ギムレー』の活動を止める事は出来るのだろう。

 ……ただ、ルキナの目的は『ギムレー』に止めを刺す事では無く、何処かにある筈の『ギムレー』とルフレとの繋がりを断ち切る事なのだけれど。

 しかしその方法は分からない。

 

 

『僕には人間の事はあまり分からない。

 僕が知る人間達は醜く身勝手で互いに相争い殺し合い呪い合う様な者達ばかりで、理解したいとも思った事も無い。

 ただ……その所為で君の事を理解出来ないのは嫌だ。

 だから、ルキナ。君が僕に教えてくれ。

 君と言う存在を、人間と言う存在を。

 そうすればきっと、僕はもっと、君が望む様に君を愛してあげられるのかもしれない。

 ……今の僕の愛が君にとって受け入れ難いものだと言うのならば、僕は君に届く形で君を愛したいんだ』

 

 

 最早血を流していない場所など無いのでは、と。そう思ってしまう程に傷付き果てている『ギムレー』が口にしたのは、命乞いでは無く、ただただ切実な、そんな言葉であった。

 

 ……もし、もしも。

 こんな場所では無くて、こんな状況では無くて。

 もっと別の場所で、違う状況で、そしてルキナが既にこの世の何よりも大切なただ一人を定めていないのであれば、何かは違っていたのかもしれない。

 それこそ、ギムレーと言う存在がこの世に生まれたその時に、何かもっと……誰かが惜しみない愛を与え、この世界の命の環の中にその存在を受け入れていたのなら、その存在の在り方自体が全く違う……大いなる力を持てども穏やかな存在で在れたのかもしれない。

 ……それは何の根拠も無いただの「もしも」……それどころかただのルキナの願望なのかもしれないけれど。

 そんな可能性は、僅かにでも在ったのかもしれない。

 ……しかしそれは、何の意味も無い可能性だ。

 残念ながらそうはならなかった。

 それだけで終わってしまうただの儚い夢の様なものでしかない。

 

 だからこそルキナは、その心に小さな棘が刺さっていく痛みに耐えながら、ファルシオンを大きく振るった。

 その一撃は、首元の鱗を大きく砕く。そして、その下には。

 その象徴たる邪痕が、まるで刻印の様に紅く輝いていた。

 

 それを見た瞬間、「これだ」、とルキナの直観は囁いた。

 それは、ルキナの身に流れる聖王の血の本能なのだろうか。

 それとも、幾度と無く邪竜ギムレーと邂逅した事でその本能に刻まれた、ギムレーの気配への嗅覚なのか。

 その直感の元は何であれ、それは到底無視など出来る筈が無い程の確信をルキナに与える。

 

 そして、その確信に突き動かされる様に。

 ルキナは、禍々しく輝く邪痕へと、砕いた鱗ごと首全体を貫くかの様な勢いで、ファルシオンを突き立てた。

 

 刀身が半ばその首元に喰い込んだその瞬間、目には見えぬ『何か』を確かに断ち切った様な、そんな感触があった。

 そしてその一撃は、既に限界に近かったのだろう『ギムレー』の身体に、不可逆の崩壊を決定付ける。

 

 飛ぶ力すら喪って、『ギムレー』は力無く床へと横たわる様に落ちた。

 それなのに、『ギムレー』は必死にその身を起こして、ルキナを見詰めようとする。

 だが、その力すら足りず、その長い首は力無く床に横たわるばかりであった。

 

 

『ルキナ……愛している、だから、どうか愛して欲しい……。

 ルキナ、僕は、ただ……君に……──』

 

 

 そう溜息の様な言葉を残して。『ギムレー』は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 床に倒れ伏した『ギムレー』の身体は、力尽きる様にその瞳を閉ざすと同時に、その端から砂の城が風に浚われ崩れゆくかの様に、初めはゆっくりと……そして次第にその速さを増しながら崩壊して、その『力』の残滓の塵に還っていく。

 その様子を固唾を呑みながら、ルキナは祈る様に見守った。

 

 果たしてこれで、ルフレは『ギムレー』から切り離されて助かったのだろうか。

 彼が危惧していた様に……『ギムレー』と彼を分かつ事は叶わず諸共に消えてしまうのではないだろうか、それか、『ギムレー』を切り離した結果、ルフレもまたこの世に存在出来なくなってしまうのではないか……。

 ……不安は、幾らでも胸の奥から湧き上がっていく。

 その恐怖を伴った想像を必死に振り払う様に、ルキナは自分の心の全てを捧げる様に、ルフレの無事を祈り続けた。

 

 喉元にファルシオンを突き立てられたままの『ギムレー』の身体は、もう頭と首の他には僅かな胴体しか残っていない。

 それでも、ルフレの姿がそこに現れる様な事は無くて、肉体の崩壊はただ静かに加速していく。

 堪らず、ルキナはルフレの名を呟く。

 最初は囁く様に、そしてその次は呼び掛ける様に。

 だが、その声に応えるものは無い。

 そして、硬い音を立てて、ファルシオンが床に落ちる。

 最早、『ギムレー』の身体で残っているのはその特徴的な頭部だけであった。それですら、サラサラと崩れてゆく。

 

 ルキナは半ば衝動的に、消え行こうとしている『ギムレー』の頭部へと、縋り付く様に抱き着いた。

 三対の眼も、その内の二つはルキナによって潰されていて。

 そして潰れた眼以外にも頭部の至る所に刻まれた無数の傷から流れ出ていた血が、ルキナの手や胸を汚すけれど。

 それに構う事無く、ルキナはルフレの名を呼ぶ。

 彼の魂を己の許へと引き留める為に、再びこの世界から消え行こうとしているその存在への導になる為に。

 

 

「いや、嫌です……。行かないで下さい……。

 私を置いて行かないで……、帰って来て下さい……。

 貴方はギムレーじゃない、ギムレーとは違う……。

 だから、一緒に消えたりなんてしないで……。

 存在を留める力が足りないと言うのなら、私の命を使っても良い……だから……行かないで……。

 私を独りにしないで、ルフレさん……お願い……──」

 

 

 脇目も振らず懇願する様に、ルキナは震える声でルフレを呼び続ける。

 かつてルフレを喪った「あの日」の絶望が色鮮やかに蘇って、ルキナの心を押し潰す様に苛んでいた。

 縋り付く様に希い、祈る。それしか、出来る事は無くて。

 それなのに、祈っても、何れ程呼び掛けても、既に力尽きた『ギムレー』の頭部が反応する事は無い。

 縋り付いた腕の中で次第にその質量が消失していく……そんな絶望その物の様な感覚に、心が麻痺していきそうだった。

 

 こんな結末になってしまうのであれば、ルフレがこの方法を思い付いたその時に反対して引き留めていれば良かったのだろうか……? 

 ……だが選択の結果を見通す術など無いルキナは、きっと何度やり直したとしてもルフレのその選択を……彼の想いを否定する事など出来はしないだろう。

 一度目の喪失でも、あれ程の苦痛と後悔と絶望に苛まれていたのだ。……二度目は耐えられないと、そう確信していた。

 そして、ルフレをこの世から消し去る最後の一撃を自分が与えたのだと言う事実は、より強く悔悟となって心を苛む。

 

 絶望と苦しみから、視界は潤んだ様にボヤけていき、そして頬を涙の雫が途絶える事無く滴り落ちていった。

 そして涙の雫は、消えゆく『ギムレー』の頭部に落ちる。

 涙に閉ざされた視界の中で、消えゆくその最後の欠片を抱き締める様に縋り、涙で枯れた様な声でルフレを呼んだ。

 だが……。

 

 確かに胸に抱いていた筈の質量が、不意に完全に消失する。

 ルキナは喪失を理解して、力無くその場に膝から崩れ落ちる様にして座り込み、涙を溢し続ける事しか出来なかった。

 

 ルフレを、守れなかった。

 ルフレを、取り戻せなかった。

 自分が、ルフレを消してしまった。

 

 その事実が何処までも重くルキナに圧し掛かる。

 上手くいかない可能性も大きい博打の様なものだと、そうルフレは言ってくれていたけれど。

 それでも、その選択を受け入れたのはルキナ自身だ。

 何かもっと自分が上手く出来ていれば、もっと別の選択をしていれば、ルフレを喪わずに済んだのかもしれない。

 それは何の根拠も無い事だが、そう思っていなければ、自分を責めていなければ、ルキナの心は到底耐えられない。

 

 別れを言う事すらも出来なかった。

 最後に言葉を交わす事も出来なかった。

 もっと……もっと、沢山伝えたい事があるのに。

 それでも、もうこの言の葉を届ける先は、何処にも……。

 

 

「ルフレさん……ルフレさん……っ! 

 私を置いて逝かないで……、もう一度、還って来て……。

 どんな姿でも良いから、だから、もう一度……。

 ルフレさん…………──」

 

 

 喉を枯らす程に必死に名前を呼んでも、涙が枯れ果てる程に想っても。愛する人からの返事は、もう……──

 

 

 

 

「……ルキナ、大丈夫だよ、ほら、泣き止んで……」

 

 

 もう二度と聞けない筈の、愛しい人の声が。

 優しく労わる様に、膝を突き項垂れるルキナへと慈雨の様に降って来て。

 そして、ルキナの目元を柔らかな指先がそっと拭った。

 

 

「えっ……──」

 

 

 後悔と哀しみと絶望の海に沈み、ただただ涙を流すだけの彫像であるかの様に呆然としていたルキナは、そこで初めて自分の前に何かが居る事に気付く。

 泣き腫らした目のまま、恐る恐ると顔を上げたそこには。

 

 視線の高さをルキナに合わせる様に膝を突いて身を屈めて、心配そうな眼差しでルキナを見詰めるルフレの姿が、在った。

 

 その姿は、彼本来の、人としてのそれで。

 ルキナの頬を優しく拭う温かな指先には、鋭い鉤爪も硬質な鱗も無い。

 優しい目で見詰めてくるその顔には、鱗も角も無くて……その柔らかな黄金色瞳は人のものと同じであった。

『ギムレー』に蝕まれ始めてしまうよりも前の、ルキナの記憶の中に在る通りの、ルフレの姿が其処に在った。

 

 自分の目に映るものが、信じられなくて。

 ルキナは、ルフレを目の前にして固まった様に動けない。

 

 

「ルキナ……? 大丈夫かい……?」

 

 

 ルキナを案じるその声は、『ギムレー』のそれとは全く違う……紛う事の無く愛しいルフレの声そのもので。

 そして、そっと柔らかく頬を包んだその両の掌は、そこに残る古傷の痕まで、全て己の記憶に違わないものであった。

 

 深過ぎる絶望がルフレの幻を己に見せているのではないかと、そう一瞬ルキナは自分自身を疑ったけれど。

 しかし、頬に感じるその手の温もりと質感も、耳の奥に心地好く響くその声も、僅かに感じる愛しい匂いも。

 五感で感じる全てが、其処に確かに彼が居る事を。

 他の誰でも無く、『ギムレー』でも無く、ルキナが何よりも求めていた彼自身が目の前に居る事を、訴えてくる。

 

 

「ルフレ、さん……なんですか……?」

 

 

 それでも、自分自身が信じ切れなくて。そう訊ねた声は、自分でも分かってしまう程に、不安によって震えていた。

 

 

「ああ、そうだよ、ルキナ。

 ……ごめんね。……君には、とても辛く苦しい想いをさせてしまった様だ……。一度ならず、二度も……。

 本当に……すまない。

 謝って済む事では無いだろうけれど、それでも……」

 

 

 苦みを伴った様な表情でそう言うと、ルフレはその手をルキナの頬から離そうとする。

 離れゆくその温もりが、喪失の恐怖を呼び起こして。

 ルキナは咄嗟にその手を掴んで引き留めてしまった。

 

 

「良いんです、もう、そんな事は……。

 ルフレさんがこうして無事に戻って来てくれたのなら、私の傍に居てくれるのなら……、それだけでもう……全部。

 ……でも、今だけはどうか、この手を離さないでください。

 ルフレさんが此処に確かに居る事を、もう少しだけ感じさせて欲しいんです……」

 

 

 そう言いながら、ルキナはルフレの右手を両手で包んで、その温もりと感触を隅々まで確かめる。

 何もかもが、自分の記憶にあるルフレそのままで。

 その右手の甲に烙印の様に刻まれていた邪痕も、初めからそんなものは存在しなかったかの如く消え去っている。

 それを確かめたルキナの胸には、安堵だけが残った。

 

 

「……ごめんね、ルキナ。

 意識が入れ替わってからは、何が在ったのか殆ど覚えていないけれど……。

 君がとても苦しんでいたのは、分かるよ。

 ……気付いたら僕は床に倒れていて、そして君がとても哀しそうに泣いていたんだ……。

 ……とても心配させてしまったんだね……すまない……」

 

「良いんです、だって、ルフレさんがこうして生きていてくれたから……、こうして帰って来てくれたのですから……。

 ……でも、とても怖かったんです。

 ……『ギムレー』の身体が消えて行くのに、ルフレさんが戻る気配は無くて……。

 このまま一緒に、ルフレさんの存在も何もかも、全て『ギムレー』と共に消えてしまったのではないかと……。

 怖くて、不安で……──」

 

 

 その後はもう……言葉にする事が出来なくて、嗚咽の様に意味のある音にならない吐息が零れるだけであった。

 言いたい事は、伝えたい事は、零れそうな程にルキナの胸の中に溢れているのに……感情が先走り過ぎた様に、上手く言葉が出て来なくなってしまっていた。

 

 そんなルキナを、ルフレは静かに抱き締めて、そしてゆっくりとその心を労わる様に、優しく背を撫でる。

 大丈夫、自分は此処に居る、何処にも行かない、と。

 言葉以上に確かに伝わるその想いに、ルキナはしがみ付く様に抱き締め返して、その温もりと愛しさに目を閉じる。

 

 此処に居る、誰よりも愛しい人がこの腕の中に居る。

 その事実が、やっと心の中にゆっくりと溶けていく。

 再び涙が零れ落ちるが、それは不思議と温かなもので。

 ルフレに縋り付いて、心にあった不安や絶望を全て押し流すかの様に、ルキナは静かに涙を零し続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ギムレーの意識を引き摺り出してからの記憶は、全くと言って良い程に存在しなかった。ギムレーの影響を受けない様に、深く深く……深い海の底に沈む様に意識を眠りに就かせて、己の意識を守ろうとしていたのは覚えているけれど……。

 その為か、ギムレーとルキナの間に何が起きていたのかをハッキリとは理解していない。

 ただ……恐らくはギムレーの感情だったのだろうものの断片が、目覚めた直後のルフレの心には僅かに残っていた。

 

『愛している、愛して欲しい、どうか……』と。

 

 ただそれだけを無垢過ぎる程の純粋さで、一心に強く強く願うそれは……ギムレー自身の願いだったのだろう。

 破壊と絶望だけを齎す存在である筈の者が抱くにしては余りにも純粋過ぎるそれは……純粋過ぎる余りに、恐らくは誰にも理解はされずそしてそれを受け止める事など出来ない。

 いっそ狂気的で悍ましい程の純粋な感情は、そんな意図など無くとも相手を狂わせてしまうだけだ。

 ルフレの執着に影響されて狂ってしまったのが発端であるとは言え、文字通り心の底からギムレーはルキナを求め愛していたのだが、……不幸な事に、ギムレーは『人の愛し方』を知らなかったのだろう……。

 時に矛盾する程に複雑な心を抱えた『人』と言う存在を愛するには、ギムレーの経験や人への理解は余りに未熟過ぎて。

 ……だからこそ、決してルキナは受け入れられないのだろう程の『愛』をただ向ける事しか出来なかったのだろう。

 例え永遠に等しい程の時を過ごしたとしても、そのやり方では恐らくギムレーが本当に欲していたものが手に入る事は決して無いのに。それにすら気付けずに。

 ……ギムレーの存在を己から切り離す事を選んだルフレがそんな事を思うのは余りにも傲慢であるのかもしれないけれど……。

 それでも、その在り様は余りにも「憐れ」である様に思ってしまうのだ。

 ……もう、どうにもならない事だが。

 

 目覚めた直後に、自分の内からギムレーの存在が消失している事を、誰に言われずとも自然と理解した。

 自分の中の何かをゴッソリと喪った様な……、自分自身を無理矢理引き裂かれた様な……、そんな喪失感とも言えない様な不思議な感覚が己に纏わり付いていた。

 苦痛を感じていた訳では無いのだけれど……。

 ただ、もう「居ない」のだと。それだけは分かった。

 ギムレーと完全に切り離されたからなのか、ルフレの姿は本来の『人』としの姿に戻っていて。

 そして、『人』のそれに戻った己の手からは、再び現れていた邪痕は綺麗に消え去っていた。

 

 無理矢理ギムレーとの繋がりを断ち切ったからなのか、それとも戦いの影響か、ルフレはかなり消耗した状態であった。

 気怠さで鈍くなった頭で、状況を把握しようと周りを見渡して……そして。

 立ち上がる力を喪ったかの様に崩れ落ち、項垂れて泣きじゃくりながらルフレの名を呼び続けているルキナの姿に漸く気付いて、激しく動揺する。

 その泣き声は聞く者の胸を締め付け搔き乱す程の苦しさと切なさに染まっていて、ルフレは反射的に駆け寄る様にして膝を突き、その涙を拭っていたのだった。

 

 ……そして、こうして咄嗟の反応であっても、何の躊躇いも無くルキナの涙を拭ってやれる事に、漸く自分が「目的」を達成する事が出来た事が実感を伴って理解出来たのだ。

 

 もうこの手がルキナの身を切り裂く事は無い。

 深く口付けてもその肉を咬み裂いてしまう事も無い。

 空を飛ぶ為の翼も、長い尾も、爪も牙も角も鱗も、もうこの身には何一つとして残っていない。

 ルキナと共に、人の世で寄り添い合って生きる事が出来る。

 

 その事実は、ルフレの胸の内に深い喜びとなって表れて。

 しかし、ルフレを喪ってしまったのかもしれないと言う恐怖と後悔と絶望を再びルキナに与えてしまった事への、良心の呵責の様な自責の念がそれを僅かに抑えた。

 しかしそんな後悔の様な自責の念は、互いに強く抱き締め合って、その温もりを互いに確かめ合っている内に、ゆっくりと淡雪が溶ける様に消えて行く。

 

 温かな涙の最後の一滴がその頬を零れ落ちた時、ルキナのその表情にはもう何の翳りも残っていなかった。

 泣き過ぎて少し声が枯れたのかその声は囁き声の様に小さなものであったけれど、それでもルフレの名を呼ぶその声にはもう哀しみなど無くて。幸せそうな微笑みを浮かべている。

 それが何よりも、ルフレにとっては温かな幸せであった。

 

 互いの存在を、その想いを、確かめ合い分かち合う時間はどれだけあったとしても足りない位であるけれど。

 しかし、もうこのテーベを訪れた目的は達したのだ。

 これ以上此処に留まるべきでは無いし、可能な限り早くここから出てナーガにイーリスまで帰して貰うべきだろう。

 

 ……ルフレから切り離されたギムレーがその後どうなったのか、その気配を辿ってみると、どうやらそのかつての肉体であった骨に引き寄せられ、そこに閉じ込められた様だった。

 今はまだ気配を追える程度の力は残っている様だが、その気配は少しずつ削られていくかの様に薄れていって。そして完全に骨となった身体をどうにかする術は今の所無い様だ。

 ……恐らくはもう、ナーガの封印を突破する様な力は無いので、ギムレーは此処で骨となった肉体に閉じ込められながらその魂が完全に消滅するまでを待つしか出来ないだろう。

 最早、ギムレーに出来る事は何も無い……筈だ。

 ……それでも、ギムレーのルキナへの執着を考えると、あまり長く同じ空間に留まるべきではない。

 

 その為、ルフレ達は研究室に残された緊急脱出路を使って、最下層から速やかに脱出した。

 そして、急いできた道を引き返す様にして、地上を目指す。

 ギムレーの力に強く支配されているこの地下遺跡では、どれ程ナーガに呼び掛けた所で彼の存在は干渉出来ない。

 地上に出て、封印の端まで行かなければならないのだ。

 

 来た道を引き返す中、ルフレはふと奇妙な事に気が付いた。

 屍兵の姿が全くと言って良い程見えないのだ。

 その気配すらも、闇の中には無い。

 ルフレ達が戦って倒した屍兵は、この遺跡の中に居る屍兵達のほんの一部でしか無かった筈なのに……。

 屍兵達どころか、屍の竜達の気配も無い。

 ギムレーを切り離した事で、彼等をこの地に縛り付ける呪いに何か影響があったのだろうか……? 

 ……ただ、そんな楽観的に考えて良い事では無い様な気がして、ルフレは警戒を強めながら更に急いで地上を目指した。

 

 堆く積る砂に足を取られつつ、瓦礫の山を乗り越えて、そうやってどうにか五層目まで戻って来たその時。

 激しい振動が、巨大な遺跡全体を揺らした。

 

 立っているのがやっとな程の激しい振動の原因が何であるのかは分からないが、それは二人の足元……深層の方から発生している様であった。

 振動に収まる気配は全く無く、それ処か、震源となる『何か』が近付いてきているのか、揺れは激しくなる一方である。

 激しい振動で遺跡全体が揺さぶられている影響からか、そこらかしこで壁や天井が崩壊し崩落していく音が聞こえ、罅割れが全てを呑み込む勢いで急速に拡がっていく。

 

 一体『何』が起きているのかは分からないが……。

「追い付かれるのは危険だ」、と。ルフレもルキナは言葉にせずとも互いに直感を共有し、一刻も早く地下遺跡を脱出する為に全速力で駆け出す。

 激しい振動と、遺跡全体の加速度的な崩壊と、そして自分達を追ってくる様に次第に近付く『何か』と。

 それらに襲われながら、ルフレ達は必死に走り抜ける。

 

 地上が無限に遠く感じる様な、そんな恐怖の中。

 落石や崩落を必死に避けて、やっとの思いでルフレ達は地上まで後一歩と言う一層目まで戻って来た。しかし。

 

 必死に遺跡の中を駆けるルフレ達よりも早く、階層の床全体に巨大な亀裂が走った。

 そして、崩落した床の穴から。

 

 巨大な……、その指の一本一本がルフレ達の身体よりも長く太い様な、人間と怪物の手の骨を混ぜて作った様な骨格に乱雑に肉を貼り付けたかの様な……「異形」と呼ぶにも余りにも悍ましく醜悪な「手」が、蠢く様に這い出てきた。

 

 そしてその巨大な「手」は、何かを探す様に、既に亀裂だらけの床を削る様に叩きながら這いずり回る。

 ……いや、それは恐らく、這いずっているのでは無い、と。

 出口を目指し逃げながらも観察していたルフレは気付いた。

 

 床の崩落が更に加速し、穴は何処までも大きく広がる。

 そして、その広がった穴から、更に二本三本と、似た様な「手」が飛び出してきて。

 最終的には四本もの腕が巨大な穴の奥深くから伸びて来ていた。

 そしてそれらの腕は、その腕の先に在るものを、懸垂の要領で持ち上げようとする。

 ルフレ達を襲う振動は、最早何かに掴まっていないと立っている事すら不可能な程のものになった。

 

 激し過ぎる揺れに動けなくなってしまったルフレ達の目の前に、奈落の底に繋がっていそうな程に拡大した穴の底から、『それ』はゆっくりとその全貌を現した。

 

『それ』は、大雑把に言えば大部分はギムレーに似ていた。

 

 側頭部から前方に伸びた巨大な一対の角。

 人の身体など一呑みにしても尚余るだろう程の巨大な咢。

 不気味な紅に輝く、三対の眼。

 蛇の様ですらある細長く伸びた胴体に、翼は三対。

 

 ……しかし、要素としてはギムレーと共通するものがあっても、それは余りにも似て非なる『異形』としか言えない。

 

 体躯にも匹敵する程に長く巨大な四本の異形の腕を持ち。

 特徴的な三対の眼も、半分程は腐り落ちたかの様に潰れ。

 三対の翼だったものは最早羽ばたく事すら不可能な程に捩れて歪み、翼を覆う羽根も殆ど抜け落ちてしまっている。

 どうやら『異形』は、その翼だった歪なものを後肢の様にして巨体の移動を補助しているらしい。

 そして何よりも、異質であるのは。

『異形』の身体は、今この瞬間も身動きをする度に、腐り落ちたかの様にその身が剥がれていくのだ。

 身を引き摺りながら動く度に腐った肉の塊が融け落ちる様にその身から脱落してゆくが、それに構う事無く『異形』は蠢く様にその巨体を引き摺りながらルフレ達に近付いてくる。

 最早存在自体が生命に対する冒涜そのものであるかの様なその『異形』の有様に、ルキナはその顔を強張らせる。

 

 

「なっ、何ですか、あれは……!?」

 

 

 引き攣った様な声でそう叫んだルキナに、ルフレは苦々しい思いと共に答える。

 

 

「……あれは、ギムレーだ。

 この地下遺跡にいた屍兵やあの屍竜達を全部取り込んで、無理矢理肉体を作って、君を追って来たんだ……!」

 

 

 それは恐るべき執念であった。

 ルキナのファルシオンによって傷付いた事と、ルフレから無理矢理引き剥がされた事と、骨だけになったかつての肉体に閉じ込められた事と……。

 それらによって、ギムレーはもう見る影も無く弱っていた……その筈であったのに。

 ルキナを想うその執念だけで、無理に無理を重ねて動ける肉体を作ってまで追って来たのだ。

 

 しかし、幾ら無理矢理に屍兵や屍竜達を取り込んで肉体を形作ったとしても、そんな無茶でギムレーの魂に相応しい肉体を作れる訳は無い。

 そんなに簡単にギムレーの器が作れるのであれば、ギムレー教団の者達がルフレを造り出すのに千年も掛ける事は無かっただろう。

 ……その無茶の結果が、崩壊し続ける肉体と、それによって消えつつある魂だ……。

 最早ルフレ達が何をせずとも、ギムレーはその肉体の崩壊と共に魂ごと完全に消滅するだろう。

 

 ……そうなる事は、ギムレー自身にも分かっていた筈だ。

 それでも、……己の消滅が必至であるのだとしても、ギムレーはルキナを求め欲してしまったのだろう。

 ……例え骨と化した身体に閉じ込められているのだとしても、引き裂かれた半身のルフレが今もこうして存在していられる様に、あのまま大人しくしていれば、その魂が完全に消滅する事は無かっただろうし、時を経ればある程度は力を取り戻す事が出来たのかもしれない。

 だが、ギムレーは己の存在の存続よりも、ルキナを手に入れる事を望んだ。その傍に在る事を願ったのだ。

 消滅をも厭わぬそれは、真実の愛と言えるのかもしれない。

 

 ……しかし、ギムレー自身にとってはただただ何処までも純粋な願いによる行動であるのだとしても、それでルキナを易々とギムレーに引き渡す訳にはいかない。

 ルキナは、既にルフレを選んでいる。

 その心は変わらないのだから、ギムレーのそれは何処までいってもただの横恋慕でしかない。

 それに、ルフレ自身も、愛する人を奪われる事は認められないのだ。

 

 

『■■、■……ル、■ィ……ナァッ……──』

 

 

 最早何を言っているのかも定かではない濁った咆哮を上げながら、『異形』はルキナへとその巨大な腕を伸ばす。

 鈍重そうな巨大な見た目に反した速度で迫るそれを、ルキナは紙一重で回避した。

 しかし、腕は次々に迫って来る。

 四本もの腕の猛攻を、出口に向かって逃げながら躱し続ける事は至難の業で。

 それでも何とか回避しながら、ルフレ達は地下遺跡の入り口まで辿り着く。

 しかしあと少しと言う所で、ルキナの足元に巨大な亀裂が走り、それに足を取られてしまったルキナは転んでしまう。

 数歩程先行していたルフレは直ぐ様それに気付き、振り返ってルキナの手を取ろうとするが。

 それよりも僅かに速く、『異形』の手がルキナを捕らえた。

 

 加減を知らないかの様な強い力で全身を掴まれた拍子に、ルキナの手からファルシオンが滑り落ちる。

 武器を喪い、全身を拘束されたルキナには成す術が無い。

 そして、『異形』の腕は、ルキナを逃さない様に更にもう一本の手で拘束してから、己の顔の前へと引き寄せる。

 腐り落ち行く肉体の中で、そこだけは爛々と妖しく輝き続けている紅い眼が、ルキナを見詰める。

 

 

『■■ナ……■っと、一緒■……。■う離さ■■。

 ずっと、傍■居て■■……。愛して■る……』

 

 

 満足そうに濁った咆哮を上げる『異形』は、己の手の中にルキナが居る事に満たされたのか、それ以上はもう動こうとはせず、意味が定かではない咆哮を上げるばかりであった。

 ルキナに危害を加えようとはせず、しかしルキナを離す事も無い。

 ……そんな『異形』の胴体の下では、床に走った亀裂が急速に拡大し、徐々に崩れ落ちていく。

 最早、遺跡の床全体が崩落するのは時間の問題であった。

 

『異形』が、ルキナと心中する事を願っているのかは、ルフレには分からない。

 今の『異形』にどれ程「理性」とでも言うべき知性が残っているのかすら、もう分からない。

 ただ……このままでは、『異形』ごとルキナは奈落の底へと落ちて行くしか無いだろう。

 例えルキナを殺す結果になるのだとしても、『異形』がルキナを解放するとは思えない。

 

 このままではルキナが死んでしまう、と。そう理解したルフレは焦りを隠せず、何か解決する術は無いかと周囲を探す。

 その時、焦るルフレの目に、ルキナが取り落とし床に転がったファルシオンが映った。

 

 竜に対して絶対的な力を持つこの剣であれば、ギムレーの成れの果てである『異形』を怯ませる事位なら出来るだろう。

 それか、『異形』に囚われているルキナの許へと届ける事が出来るのなら、何とか出来るのかもしれない。

 ……だが、ファルシオンは、資格の無い者には振るう事すら出来ないとされる剣だ。

 当然ながら聖王の血筋ですらなく、資格がある可能性すらそもそも存在しないルフレでは、例え全力で振るったとしても、『異形』の身体に髪の一筋程の傷も与えられないだろう。

 ……だけれども。

 

 

 ── 頼む、一度だけで良い。僕に力を貸してくれ……! 

 

 

 お前の主を……お前が選んだ担い手を、助けたいのだ、と。

 愛する人を助ける為の力を貸してくれ、と。

 その為に、ただ一度、今この時だけでも。

 資格など無い、それどころか本来は相反する存在であるのだろう自分に、その刃を振るう事を許してくれ、と。

 

 そう心の中で、必死に祈り。ファルシオン自身に意志があると信じて、それに呼び掛ける。

 その祈りが通じたのか、僅かに刀身が蒼に輝いた気がした。

 それと同時に、知っている様で知らない、だが不思議と落ち着く様な気配を僅かにファルシオンの中に感じる。

 

 今なら、きっと……! と。そう確信したルフレは、ファルシオンを振るうのではなく、投擲する様に構える。

 狙うのは、ルキナを捕らえている腕の近く……! 

 

 

「いっっっっっけぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 

 

 最大限身を捻り裂帛の気合と共に投擲したファルシオンは、過たず狙っていた場所に突き刺さる。

 

 

『────!! ────!?』

 

 

 ルキナしか意識の中に無かった『異形』は、突如己の身に突き刺さった衝撃と痛みに、驚いた様に吼えその身を捩る。

 その拍子にルキナを拘束する手の力が僅かに緩み、その隙を逃さず藻掻いたルキナは、何とか左腕だけでも『異形』の拘束から脱出させる。

 

 

「ルキナ!! ファルシオンだ!! それを使え!!」

 

 

 ルフレの声に、ルキナの左腕が閉ざされた視界の中で必死にファルシオンを探して彷徨い、そしてその柄を探し当てた瞬間に凄まじい力で握り込む。

 そして『異形』の身に突き立ったファルシオンを、そのままその身を引き裂く様にして引き抜いて、そして自身を拘束している『異形』の手の付け根を深く切り裂く様に切り払う。

 手の腱か何かを切り裂かれたのか握り込む力を喪った『異形』の手から何とか脱出する事に成功したルキナは、それを逃すまいと再び迫りくる三本の腕を避けたり切り払ったりしながら、鈍重な巨体を駆け上る様にしてその上に乗る。

 

 そして、『異形』の頭部の……人間で言うのならば眉間に当たるのだろう辺りに、ファルシオンを深々と突き刺した。

 

 それには『異形』も堪らず、ファルシオンが刺さったまま、そこを抑える様に四本の腕を動かし苦痛に身を大きく捩る。

 その拍子に『異形』の身体の上から振り落とされたルキナは、素早くその場から下がってルフレの横に走ってきた。

 

 

『──! ──!! ルキ、ナぁ……!』

 

 

 苦痛に身を悶えさせながらも、『異形』は再びルキナを求めてその手を伸ばそうとするが……。

 だが、その手がルキナに届くよりも前に、破局が訪れた。

 最早限界まで亀裂が拡がっていた床は、暴れる『異形』に耐えられる筈も無く。瓦礫となって、遥か奈落の底へと一気に崩落していったのだ。

 

 しかし、『異形』はそれに抗うかの様にその腕を伸ばす。

 亀裂の淵へと手を掛けて、どうにか大崩落に吞み込まれる事には耐えたのだが。

 その抵抗を嘲笑うかの様に、拡がり続ける亀裂はその僅かな手掛りさえも奪い去っていく。

 

 

『……嫌だ……も■……独■は……。

 傍■、傍に■てく■……ル■ナ……。

 愛して■■……だか■……どうか……』

 

 

 悍ましい『異形』の咆哮である筈なのに、それは何処か胸を掻き毟る程に苦しく哀しいものであった。

 己に突き刺さったファルシオンには構わずに、必死にルキナへと手を伸ばそうとするが。しかしその手は届かない。

 

 崩壊の亀裂は益々拡がり、もうルフレ達が『異形』の傍に近寄る事は不可能であった。

『異形』の身に突き刺さったままのファルシオンを、ルキナは苦しそうな目で見詰めている。

 抑えきれない感情に震えるルキナの手を、掛けてやれる言葉は何も持たないルフレは、そっと包む様に握った。

 崩壊に巻き込まれないよう、ルフレ達は『異形』の最期を見届けながらも、一歩二歩と後退る様にして出口へと向かう。

 そんなルフレ達を逃がすものかとばかりに『異形』が足掻こうとしたその時、ファルシオンが一際強く蒼く輝いた。

『覚醒の儀』を果たした後のクロムのファルシオンが放つ夜明けの輝きの様なそれとは異なる、静かなその輝きに。

 ルキナはハッと何かに気付いた様に僅かに息を呑む。

 だが、それ以上は何も言わずに静かに目を伏せた。

 

 ファルシオンが放つ蒼の輝きに動きを封じられた様に、『異形』はその身を硬直させたまま、遥か地獄の底にまで続いていそうなその奈落へと、『異形』は堕ちて行く。

 その身に突き刺さったファルシオンも、共に。

 

 

『ルキナ……──』

 

 

 ルキナを求めた『異形』の憐れな最期の咆哮だけは、ハッキリとルフレ達にも聞き取れた。

 だが、それに応えてやれる者は、誰も居ない。

 孤独の中、『異形』は己が産まれた闇の底へと消えた。

 

 

「……お父様……──」

 

 

『絶望の未来』で志半ばに斃れた父から託されて以来、常に傍らに在り続けたファルシオンは、もうその手には無い。

 地の底に回収しに行く事も、最早不可能である。

 ……まるで、もう己の役目は終わったのだと、そう言わんばかりに、ファルシオンはルキナの手から離れたのだった。

 

 大き過ぎる喪失感からか、ルキナはそっと涙を零す。

 そんなルキナの肩を優しく抱き寄せる様にして。

 ルフレ達は、光の下へと共に帰るのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 イーリス聖王国の中興の祖として、イーリスが滅び幾千の時が流れても、長く歴史に語り継がれる事になる聖王クロム。

 彼の物語に欠かせない存在として、唯一無二の……互いを「半身」と呼び合い支え合った親友の存在が在った。

 その名を、『ルフレ』と言う。

 

 かつてこの世を滅ぼしかけた邪竜ギムレーを討ち滅ぼした戦いに最も尽力した英雄であり、 聖王クロムと匹敵する程の傑物として数多の英雄譚にて「神軍師」として讃えられる事になる彼は、ギムレーとの決戦の後に暫しその行方が分からなくなったのか記録が一度途絶えたが、その数年後には親友である聖王クロムと共に様々な改革を成し遂げた。

 今日の世界の発展は、彼らの功績の礎が無ければ存在しなかったとすら言われる程である。

 

 そんな神軍師ルフレには、誰よりも愛する妻が居た。

 しかし、神軍師ルフレはその余りにも多い伝承の所為で、却って人物像の解釈に幅があるのに対し、その妻に個人について記された記録は驚く程少ない。

 剣の腕が立つ者であったのは確かな様だが……、それ以上の事は意図的にすら感じる程に記録は残されていない様だ。

 その様に二人が出逢い思い結ばれる事になったのかも、今となっては殆どと言って良い程に不明である。

 強いて言えば、親友である神軍師ルフレはもとより、その妻である女性も、聖王クロムとその一家との仲は極めて良好であったらしいが……。

 その詳細は、王家の記録にも殆ど残っていない。

 

 ただ……どんな時でも常にその傍らに寄り添い合い、何時如何なる時も愛し合っていた彼らが、子供達にも恵まれた温かで幸せな家庭を築いていた事だけは、神軍師ルフレに関するどの伝承でも一致しているのは確かな事である。

 公人としては二心無く親友の治世を最後まで支え続け、私人としては一人の女性を心から愛し抜いて共に温かな家庭を築き上げた神軍師ルフレは、後世の人々からは「斯く在るべし」とされる程であったらしい。

 

 何であるにせよ。記録から読み取れる彼とその妻の一生は、幸せな笑顔に溢れたものであったらしい、と。

 歴史家たちは何時の時代もそう結論付けている。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

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