膨れ上がる絶望を前に、二人はどう抗うのか。
淡い光を放ち薄紫の淀んだ景色に舞う火花は、それを本物の花弁と幻視させる。
ごうごうと立ち上る猛火。恐るべき鎧に身を包んだ魔人は、私とは離れた西園寺さんを見下ろす。
広げた手を地に下ろし、そのまま凪ぎ払うように西園寺さんを目掛けて振るう。
いくら動揺していようと、それを見逃す彼女ではなく、後退し攻撃を避ける。
巻き上げられる土が煙幕のように魔人との壁を作る。
野太い絶叫。人の声と分かるようになったそれは、砂塵の向こうで裂けんばかりに大口を開けて叫ぶ魔人のものであった。
両手を叩き付け、炎を払わんと暴れる身体からは割れた外皮の屑が剥がれて飛び散る。飛来するそれはさながら小さな溶岩弾のようで、魔人の近くに居た西園寺さんは炎を纏った無数の木片を慌ただしく避けて更に後退する。
「西園寺さん!」
「うわぁっ!?危ないなこーーっと!?」
「こ、こっちに!」
西園寺さんに向けて手を伸ばせば、彼女は私の手を取って小屋の通路に着地する。
魔人は私達の動きが目に入らない様子で一心不乱に炎を払うが、炎は再生する外皮に燃え移り、抵抗は一時的に勢いを弱めるにとどまる。
「な、何なのあれ。手を攻撃したら急に」
「分かりません....ですが、弱点は突けたんだと思います」
「けど、これは想定外だよ。まさか魔人が燃えて....しかも起き上がって暴れ出すなんて」
苦しげに顔を歪める西園寺さん。
燃え上がる魔人を焼く炎が消える様子はなく、苦悶に満ちた魔人の叫びは身体だけでなく精神をも蝕む。
「西園寺さん。水門の水は」
「駄目。さっき魔人が吸い上げたので全部」
「....」
湖底に降りて戦える分、行動の自由は約束されているが、今度は魔人に近付いて攻撃する手段を失ってしまった事になる。状況は悪い方向に傾いたのではないだろうか。
ふと、それまで西園寺さんとの会話を阻んでいた絶叫が治まる。
魔人に目を向ければ、それを覆う炎が幾らか小さくなり、消火に躍起になっていた姿から一変して私達を憎々しげに見つめていた。揺らめく炎の向こう側に覗く小さな瞳孔が壊れた信号機のように赤と黄の色を行き来する。
「ひ、火の勢いが」
「....復活って感じ?」
「っ!来ます!」
魔人の持つ魔力の反応が膨れ上がる。それは大きく跳躍して管理小屋に詰めより、落下の勢いを利用してその拳を突き出す。
先に攻撃の範囲から抜け出していた私達に拳が直撃する事はないが、残された管理小屋は砂の城のように無惨に粉砕され、魔人の腕から移った炎が建材を焼いていく。
「嘘でしょ?」
「あ、あんな力が」
それまで魔人が繰り返してきたのは幹や枝等の身体の一部を拡張する遠隔的な攻撃であったが、それとは比にならない破壊力に驚愕する。
魔人は小屋の残骸から腕を上げ、湖底に降りた私達に拳を叩き付ける。
湖底に沈み込む拳からは炸裂音と共に火の粉が飛び散り、地面を焦がす。
「っ....火の粉が」
「凄い火の勢いです。まともに受けたら簡単に溶けてしまいます」
「....何とか隙を探さないと」
炎を散らして襲い来る魔人はさながら凶器と化した花火のようだ。
それが持ち上げた腕で空を切れば、破裂した火花が飛来し、火炎瓶のように着地点を燃やす。
『障壁!』
光の壁を広げて西園寺さんの前に割り込めば、それに触れた火花は小さく音を立て、蝋燭の火が吹き消されるよう瞬く間に萎んで消える。
「ありがとう。結依」
「いえ。それよりも、火の粉を飛ばして....あんな攻撃も出来るなんて」
「人間だった頃と同じくらいには賢いって事かも。難しい相手だなぁ」
「っ!?西園寺さん。次が来ます!」
「....ふふん、了解!」
何かを思案するように眉を動かした西園寺さんが、自信ありげに笑みをこぼす。
何を閃いたのかと不安な思いを抱きつつも、再び障壁の魔術を展開した私の隣を西園寺さんが駆け抜けていく。
炎の引火した腕を胸の前に構える魔人。力を込めて振るわれた腕からは、止り木から鳥の群れが飛び立つように炎が散っていく。
黒焦げた外皮の上に跳躍した西園寺さんが着地する。翼を思わせる柔らかなカーディガンと、山肌に燃える紅葉のような赤い髪。
襲い来る火の粉に彩られるその姿は、さながら火の鳥のそれに見えた。
「....ぁ」
天高く広がる翼。燃え上がる魔人と睨み合うその様は、地獄と化した火事場に訪れた救世主のようだ。
炎を払うようにはためいた羽。
破られた口から上がる絶叫に意識が引き戻されれば、再び魔人の腕の上で剣を握る彼女の姿が目に映る。
深々と突き立てられた剣と外皮の隙間。ぷくぷくと湧き出す朱色の体液が魔人の腕を伝い湖底に落ちる。
荒れた岩の起伏を流れるような体液は、再び外皮の上に火を灯す。
足下に広がる炎に静止していた西園寺さんがその腕から飛び退けば、魔人の身体はみるみるうちに炎に呑まれていく。
「っと....あの血が魔人の身体を燃やしている原因みたい。参ったな。剣に手応えもないし、これじゃ攻撃する度に魔人に守りの機会を渡してるみたい」
「....」
炎に包まれた魔人は再び狂気に支配されたように身を焼く火を払わんと暴れ回っている。
止まることなく外皮の再生は続き、苦痛に喘ぎながらも魔人の身体は快方に向かっているのだ。
火の勢いが治まった隙に攻撃を加えるだけでは、何度繰り返しても戦いは終わらない。それどころか、私達が疲弊するばかりだ。
「何か、策は....」
魔人が血のような体液を流せば外皮は激しく燃え、私達では手出しが出来なくなる。
加えて焦げた外皮は絶えず再生を繰り返して新しい物に変わっていく。一度付けた傷も再び炎が治まる頃にはすっかり元に戻っているのだから、一からのやり直し同然だ。
考えられる方法は二つ。
一つは一撃で魔人の弱点を破壊して殺し切る事。もう一つは魔人の外皮の再生を何かの手段で抑える事。
魔人の外皮を切り裂き、順当に傷を与えていた西園寺さんの剣も、魔人を相手にたった一度の攻撃でその命を仕留めるには力不足のようだ。
私の魔弾でもその外皮を破壊する事は出来るものの、同じく一撃で魔人の心臓部にまで届く魔術を放つ事は出来ないだろう。
連携して攻撃をしようにも、一点を同時に叩く以上彼女が魔術に被弾するリスクがあるのだから、それは不可能。
もう一方の手段。外皮の再生を抑制すると言う策も、常にその外皮を変え、とうに毒薬の沁みた皮を脱ぎ、新たに炎の後押しを加えた堅牢な鎧を身に付けた魔人を相手には新たな毒薬がなければスタートラインにも立てない。
一つの備えもなく、無策の状態で仕切り直された戦いは、既に手詰まりだ。
「っ....西園寺さん。私の後に」
「うん....炎の中に突っ込んででももう一撃」
「や、止めて下さい。そんなことをしたら西園寺さんが死んでしまいます」
「だよね....むぅ」
暴れ回る魔人の身体から散る炎を障壁の魔術で打ち消す。
背後で無謀な計画を口走る西園寺さんに釘を刺すも、私もまた彼女を納得させられるだけの計画を持ってはいない。
このまま魔人が焼け焦げて倒れてくれはしないかと、あり得もしない可能性に祈るばかりが今の私には精一杯だ。
「森の中に移動すれば水が....駄目。火事になったら意味がない」
この場で魔人を倒さなければ、今以上の地獄が待っていることは言うまでもない。そう考えるうちに魔人は激しく地を踏みしめて体勢を立て直し、がくがくと震える身体で私達を見据える。
二度の攻撃に目に見えて殺気立つ魔人の瞳は炎が滑り込んだように爛々と輝いている。
炎に焼かれる前の身体でそうしたように、魔人が両腕を私達に向けて突き出す。
樹木の槍を繰り出す構えに、障壁を解除して攻撃に身構え、回避の為足に力を流す。
花火が炸裂するように魔人の指先が瞬いたかと思えば、煌々と燃え上がる樹木の槍が延び出す。破裂の勢いを乗せたそれは瞬く間に私の間合いへと飛び込んで来る。
想定を上回る速度の攻撃に回避は間に合わない。咄嗟に魔術を展開しようと伸ばした手を制するように槍が霞める。
身を焼かれる痛みに狙いがそれたか、直撃は免れたものの追いたてるように訪れる苛烈な熱波と、それのもたらす焼けるような渇きに噎せる。
爆ぜた木片がブレザーに飛び火し、紺色の布を黒く焦がす。
恐怖に竦んだ身体を吸い込んだ熱が炙るように熱し、それから逃れようと一つ呼吸をすれば渇いた喉を刺す外気に咳き込む。
びり、喉奥に走る痺れるような痛みと共に、湖底に赤い液体が滴る。
喉を流れるどろりとした感触に皮を裂くような痛みが和らぐ。
僅かでは足りないと喉を伝う液体を飲み下す。それが何であるかに察しは付いているが、今は嫌悪するよりも苦痛から逃れたいと願う本能が先行する。
焼き付くような炎は変わらず樹木の槍から発されており、熱に浮かされ揺らぐ身体を奮わせてその間合いから離れれば、半端に冷えた秋の空気が吹き抜け、気味の悪い感触が肌に触れる。
引き戻された槍を目で追えば、魔人を焼いていた炎の勢いが治まり、その目は変わらず憎しみを浮かべたまま私を睨んでいる。
渇いた身体を潤せと騒がしく鳴り続ける本能の警鐘。
湖の水は全て魔人が吸い尽くした。
戦いは停滞し、過ぎ行く時間が疲れとなって重石のようにのしかかる。
黒く蝕まれる視界に膝をついた時、握っていた鞄から青い水晶玉が顔を覗かせているのが目に入った。
リッジさんから受け取ったマギアコアの一つ。役に立たないかもしれないと苦笑されたそれに秘められた魔術の記憶を辿れば。
「....水の」
役に立たないかも知れない。
そう苦笑していたリッジさんだったが、炎に包まれた魔人を相手に、水の魔術は寧ろうってつけの武器になるだろう。
突然降って湧いた新たな選択肢。それを取り出そうと伸びた手がぴたりと止まり、『火球』の魔術を振るった時の経験と、メディさんから受けた警告が重なり蘇る。
今以上に特異点の力を使い続けていけば、身体はそれらに呑まれていく事になる。
「....ここで負けるくらいなら」
手を伸ばして水晶玉を掴めば、脳裏に激しい潮の流れと、押し寄せる青い波のイメージが浮かび上がる。やはり、このマギアコアは水の力を宿した物で間違いないようだ。
荒波の前に放り出されると言う衝撃的なイメージに動揺するが、額に浮かぶ汗の感触に顔を上げれば、魔人が地に腕を下ろしていた。
垂れ下がった指先は半ば湖底に沈み、その身体が私に向けて揺らぎ、ごりごりと上がる音に続き、砂礫を散らせて地から火柱が立ち上がる。
「結依!」
「....荒波!」
西園寺さんの叫びが耳に飛び込んで来る。
水晶玉を掴んだ手に力を流し、浮かび上がる術式を叫ぶ。
ごごう、と言う音と共に水晶玉から水が流れ出し、宙で渦を巻くように球状の形を成す。
湖底に落ちたそれは、地に触れると同時にぐにゃりと潰れて左右に延び広がったかと思えば、瞬く間に私の身体を呑み込む程の高さの壁となる。
魔人が腕を天高く振り上げれば、地から這い出した炎の柱が、猛る獅子の鬣の如くごうごうと火の粉を払い。その姿を激しく震わせる。
波と炎の衝突。魔人の炎触れた途端、私が放った魔術の波が爆ぜるように蒸発するが、猛火を呑んで尚止まること無く残された波が魔人の足に届き、その身を焼く炎を僅かに治める。
「よ、よし....く、うぅ」
やはりと言うべきか、波の鎮まった世界を見る私の視界は黒く蝕まれるように狭まり、地を強く捉えていた足からも力が抜けていく。
『火球』の魔術のそれより激しい対価に身体が地に崩れ落ちる。
「結依。大丈夫!?」
「西園寺さん....はい。いつもの事ですから」
「....と、ところで、今のは」
「はい。リッジさんからもらったマギアコアです。水の魔術....今の魔人と戦うには切り札になります」
「....切り札」
西園寺さんが息を飲む。苦々しく歪んだ彼女の瞳には僅かに涙が浮かび、その表情は悔しさを噛み殺しているようだ。
「大丈夫です。もう少しだけ....頑張りましょう」
「....うん」
私の言葉に頷きつつ、彼女は更に顔を歪める。無力感に結んだ口は真一文字に伸びているのが、おぼろげな視界からも見える。
「アタシは....どうすれば良い....。出来る事はなんでもさせて」
「炎の攻撃と魔人を守る炎はこの魔術があれば消すことが出来ると思います。ですが、一度使えばこんな風に身体は動かせなくなりますし、特異の力が回復するまでは使えなくなってしまいます」
「文字通りの必殺技って事か....分かった。なら、アタシの合図で魔術を使って魔人の炎を消してくれないかな。そうしたらアタシが魔人に攻撃出来るようになるから」
「分かりました。では....」
「うん。今度こそ勝つよ」
突如現れた水の存在に、魔人は明らかに態度を変えて忙しなく動き出す。
眼前の私達を見失ったかのように首を動かし、視線を張り付けたかのように湖底を見回す。
力の回復を待って立ち上がれば、西園寺さんが剣を構え、魔人へと向かって走り出す。
燃え上がる手を煌めく紅葉のように広げ、湖底に向けて振り下ろす魔人。
一瞬、速度が緩んだように見えた彼女が小さく延べられたかと思えば、その姿が遥か昔のテレビに映ったと言われた砂嵐のようにざり、と霞む。
透けるように消えていく影をその顔の見る先に向ければ、彼女は魔人の腕の下へと潜り込んでその筋を切り付ける。
弱点を突いての攻撃は大量の体液を溢れさせてその外皮を燃やしたが、伸びた腕から零れた少量の体液はどぼんと湖底に落ちるばかりで、外皮に火を点けることはない。
魔人が痛みに身を震わせ、その敵意が彼女へと向けられる。
魔人を壁とでもするように、彼女は地を蹴って直角に曲がり、ぐるんと回れ右をして真っ向から向き合う。
カーディガンの袖で額を拭い、湖底に立てた剣を握った彼女に、魔人が飛び掛かる。
ごろごろと鳴る礫を伴い宙を駆ける魔人。それにしてみれば全力を投じた攻撃であろうが、間近で攻撃を目にし続けている西園寺さんもまた、無策で一対一の構図を作っているわけではない。
鈍重な動きで浮遊する巨体の下を滑るように駆け抜けた彼女は、鋭い角を描くように背後から魔人の後頭部目掛けて剣を振るう。
「結衣。今だよ!」
直前に叫ばれた彼女の声にマギアコアを握る。
不意の衝撃に体勢を崩した魔人が、むせ返るほどの砂塵を巻き上げて湖底に落下する。
熱された空気が再び身体を襲い、痺れるような痛みに動きが鈍る。
「っ....荒波!」
宙に渦を巻く水球。光と影に彩られるそれが地に落ちて歪み、巨大な波の形を成して魔人へと迫る。
波が炎を呑み込み、魔人の半身を濡らす。その肉体からもうもうと水蒸気が上がり、炎の消えた身体からは焼き付けるような脅威が抜け落ちる。
「セアアアッ!!」
魔人の頭部を経由し、地面に着地した西園寺さんが振り向きながら剣を振り上げる。
魔人の顎を捉えた剣が、その身体を跳ねるようにかち上げ、地に伏せていた巨体が立ち上がるような勢いで伸びる。
剣を構え直す西園寺さんの足が湖底を擦り、その体勢が僅かに崩れた。
攻撃に背を押されたように、魔人は勢いのまま腕を持ち上げ、楓の葉のように開いた手を彼女目掛けて振り下ろす。
「な....めんな!」
舞い上がる砂塵から飛び出した西園寺さんが、魔人の手から逃れて転がる。
魔人の背を焼く炎が肩へ、腕へとその勢いを取り戻しながら再び鎧のように引火していく。
もう一度『荒波』の魔術を使うには魔力が足りず、補うための特異の力も枯れている。
魔人の全身へと這い伸びる炎を前に、西園寺さんは尚も魔人と対峙したまま動かない。
焦りで身体が固まってしまったのなら、一刻も早く彼女の緊張を解かなければ、魔人の次の一撃に間に合わない。
湖底にめり込んだ掌を上げた魔人が、大きく広げられた手を西園寺さんに目掛けて突き出す。
脳内を埋めていく惨状に目を覆うが、その隙間から見えたのは彼女が剣を引いて構えを取る姿だった。
魔人の手首にまで達した炎。西園寺さんとの間を阻むように広げられた掌に剣が突き刺さる。
「あ!」
思わずそう声を上げる。
しかし浅い。
剣は魔人の外皮に押し込まれ、あるところでその勢いを失う。
「らあああッ!」
炎が魔人の手の甲を登る。光輪のように輝くその手を前に、西園寺さんは雄叫びを上げて剣と共に進撃する。
剣を伝って朱色の体液が宝石のように溢れ出す。
「っづああッ!」
掌に触れた体液がそれを焼き、瞬く間に燃え上がる炎。手の裏から迫った炎と結ばれ、いっそう火力を上げた眼前の凶器に、西園寺さんは最後の一押しとばかりに剣を突き出す。
全身を震わせる地鳴りのような音。竦んだ身体を動かして魔人を見れば、炎に包まれた身体は破裂を繰り返している。
しかし、その様には明らかな変化があり、絶えず再生し形を保っていた堅牢な樹木の外皮が瓦礫のように崩れ、外皮から剥がれた灰が火の粉に混じりちらちらと舞っては闇に消えていく。
灰と炎を呆然と見つめていた意識が戻る。西園寺さんを探せばぐったりとしゃがみ込んだ彼女の姿が目に入る。
「西園寺さん!」
慌てて駆け寄れば、身に付けた衣服の殆どは黒く焦げて煤にまみれており、露出した肌は赤々と焼けていた。
「西園ーーうっ....」
血と肉の焼けた臭いに吐き気が込み上げる。
西園寺さんが目だけで私を見やると、不恰好に顔を歪めて笑い震える腕を上げ親指を立てて見せる
「す、すぐに傷を」
彼女の身体に手をかざし、傷の治癒をイメージすれば爛れ痛々しく変色した肉は皮膚に覆われ、血色の良い温かな状態を取り戻す。
「....ぐ...ぁ」
何事かを口にしようとしてごほごほと咳き込んだ彼女は、自身の喉に手を当てる。
「ぁ....ありがとね。結衣」
「西園寺さん。なんて無茶を」
「行けるかなって」
「行けるかな....って」
苦笑する彼女に注意しようにも、それは結衣もだよ。等と返されて黙らされてしまうだろう。
お互い様だろうか。
「ああ、結衣。そこ」
西園寺さんが前を指差す。
視線で追えば、湖底には朱色の水晶玉がきらきらと輝いていた。内側から光を放つミカンのようなそれは、きっと魔人の腕に埋もれていた物だったのだろう。
「あれは....魔人の?」
「多分ね。アタシ、まだ身体動きそうになくてさ。代わりに取って欲しいんだ」
「わ、分かりました。すぐに」
立ち上がり、水晶玉を手にして西園寺さんの前に戻れば、彼女はありがとうと微笑む。力の無い笑顔は柔らかく心に触れられるようで、それに胸を高鳴らせてしまう自身が不埒に感じられ、二重の恥ずかしさに顔を下げる。
「これが魔人の心臓....なのかな」
「し、調べてみます」
『解析』の魔術を発動した瞬間。吹き飛ばされるような勢いで魔力の波が視界の外から爆ぜるように溢れ、拡張された感覚を埋め尽くす。
「ま、間違いないかと。強い魔力の反応が見えます」
水晶玉から目を逸らしながら答えれば、彼女にも伝わったのかそれを手にして観察する。
「中が光ってるってこと以外は少し大きいマギアコアって感じだけど」
「戻ったらリッジさんに聞いてみましょう。何か分かるかもーー」
「なるほど。それがあの魔物の....」
静かな声。西園寺さんの活発な声とは異なる落ち着き払ったそれに声の主を見れば、私達から離れたところに人が立っているのが見えた。
「え....人」
「だ、誰!?」
「初めまして。お疲れの所失礼します」
滑らかに波打つ藤色の髪を腰まで伸ばし、白いブラウスに紫のスカートを身に着けた少女。
離れた距離から正確な特徴を計ることは出来ないが、その言動を見ると、私達と年齢は離れていないように感じられる。
「敵ではありませんのでご安心を。少しお話をと思いまして」
「....」
「話って、見て分かんないかな。アタシ達、それどころじゃないんだけど」
「ええ、ですが、それの正体が気になるのでは?」
「し、知っているんですか?」
「完璧にではありませんが、凡そ何であるか程度には」
「結衣。何か怪しいよ。戦いが終わった途端にさっきまで気配もなかった人間が出てくるなんて。ずっと待ってたみたいじゃん。普通なら逃げてるはずなのに」
「....あ、貴女の名前は」
「悠紀希愛。訳あってお二人と同じようにこの魔境で行動している者です」
「と言うことは、その....希愛さんも人間なんですか?」
「ええ。お二人は神代結衣さんと西園寺紗姫さんで間違い無いですよね?」
「え、は、はい」
「な、誰かに聞いたの?」
「私の協力者です。お二人の行動に興味を示されている方が居まして」
少女は一瞥して口を開く。
「魔物....魔人と言うのでしたか。それを構成していた物質の中でも最も力を持っていた物。人間の身体に変化を与える性質があるようです。もう少し近くで見せていただいても?」
「い、良いけど。妙な動きをしたら覚悟しなよ」
「ええ、分かっています」
りんと鳴った鈴の音が響くような静かに整えられた声。湖底を歩くたおやかな歩みに加え、一歩、また一歩と近付く少女の人であることを忘れる西洋人形のような容姿に息を飲む。
「失礼します」
水晶玉を手にした少女はすぐに何かに気付いたように頷く。
「パームミスリルのエネルギーと人間の生命力....なるほど」
「な、何か分かるんですか?」
「この核にはパームミスリルの持つ力と人間の生命力が融け合って存在しています。お二人の倒した魔人と言うのは、パームミスリルの力に呑まれた人間の成れ果てなのでしょう」
「や、やっぱり」
「....ご存知だったのですか?」
「そ、その魔人が現れるところを見たんです。それに、魔人が人間から産まれる魔物だと教えてくれた人も居て....」
「....では、少し付け加えておきます。この核はお二人の今後になくてはならない物になるはずです。そして、これと同じ核を持つ魔人が他にもこの魔境には潜んでいます。お二人の病を治療するためにも、残る全ての魔人から核を奪って下さい。」
「他にも、魔人が....」
「ええ、力の程は分かりませんが、どの魔人も大きな壁となるでしょう。では、私の役目はここまでです。健闘をお祈りします」
「え、あ。待ってください!」
「何か?」
一方的に話を終え、背を向けて歩き出す希愛さんに声を掛ければ、振り向いた彼女の表情はそれまでより幾らか冷たく、私達への関心を失っているように見え、一瞬気圧される。
「そ、その。希愛さんも魔境に閉じ込められているんですか?それなら」
「いえ。ここから出る手筈なら用意がありますし、私にはお二人とは別の目的があります。それに、実力も知れない相手を連れて行動する事はお互いリスクが大きいと思いますよ」
「待ってよ。実力ならここで見せ合えば分かるし、目的だって話せばーー」
「私が嘘を吐けば?私が手を抜けば?どちらも信用に足る物にはならないと思います。その話はお互いが必要となった時にもう一度。それでは」
私の言葉を断った彼女は、続く西園寺さんの説得には顔も向けず淡白にあしらって歩き始める。
「行っちゃった」
「不思議な、人でしたね」
「それに、この魔境とアタシ達の事も知ってたみたい。誰だったんだろう。あの子」
「魔人から核を奪う....それが私達の目的になると言っていましたよね」
「うん。これが何かあるのかな....取り敢えずリッジに聞いてみよう」
少女と言葉を交わすうち、その傷も癒えたのか西園寺さんが立ち上がり、身体に着いた煤を払う。
「気になる事はあるけど、帰ろう。焦げ臭いしまだ身体もヒリヒリする」
「そうですね。一度身体も休めたいですから」
希愛と名乗った謎の少女。気配もなく現れ、新たな情報を残して消えたその存在の違和感が、帰路を進む私の頭の中を木霊のように反芻していた。
魔人は倒れ、僅かな手掛かりを得た二人。
次なる目的に向けて、新たな道が伸びはじめていた。