「BGMが流れるアプリが不評でしたので新しいアプリを作りました。ほめていいですよ」
「アンセスタはすごくてかしこいな。で、今度はどんなゴミ作ったんだ」
「ステータス確認アプリです。戦闘時には
「普通に便利そうなやつだごめん」
携帯の画面、「必殺BGM」の横にある「キャラシート」のアプリアイコンをタップする。
一覧表で並ぶ項目。その中から、自分の名前に指を触れた。
【ステータス】
村雨空間 Lv8 HP42/69kg
種族:人間 職業:迷宮主 性別:男
筋力33 耐久35 器用18 感覚6 習得5 意思12 魔力12 魅力6
【スキル】
経験消去1.00 収納1.35
【
【ドロップアイテム】
たおすとレベルダウンポーションとかでそう。
おお、と感嘆が口から漏れた。最後のクッソ適当な一文を見るに大半をアンセスタが気分で決めている可能性もあるが、それでもこういうのを見ると少しワクワクする。
「これってどういう基準で決まってるんだ?」
「レベルとHP以外は弊機の気分ですが?」
「予想通りだけど開き直るな」
しかし、HPは生命質量を測定しているのだと分かるが、レベルにも何かしら基準があるらしい。
「レベルに関してはノギス式脅威測定法の流用です。特に戦闘経験の無い理論派の研究者が開発した物なので、あまり参考にはなりませんが」
「アンインストールしていい?」
「でもがんばってつくったのです」
そう言われるとちょっと可哀想になる。
俺は人の頑張りを否定できない。別に減るものでもないので置いておくことにした。あ、いや、今見てみたら携帯のストレージ容量が一気に四ギガほど減っていたが、それでも仕方なく置いておく。
「弊機の気が向いた時にこんな感じで更新しておくので、暇な時にチェックしておいてください」
〝あなたは、銃器の技術を習得した!〟
表示される通知を見ながら、俺は手に持った拳銃のずっしりとした重さを確認する。
現在、
昼食を終えた俺たちは、食休みもそこそこに丘ヶ山のプレハブ小屋へとやってきていた。
既に十分な、むしろ過剰な量の銃火器と弾薬を入手し、撃ち方も一通り教わっている。
だがそれでも、ここにいる
なのだが、今回は強力な案内人がいる。
「うみゃー」
金色のビームで雑に薙ぎ払われていく
派手な土煙が巻き起こり、口の中に砂鉄が入りかける。既に服は巻き上がった土で真っ黒だ。
片手間に倒される襲撃者を見ながら、俺はアンセスタに話しかけた。
「でも、この階層から急に難易度上がってるな……。この
「
「ああ、SAT……って言うんだっけ。映画でテロリストと戦ったりするヤツ」
「基本的に迷宮に現れる
俺は、第一層と第二層の
第一層の
「……蚩尤になった当初は一般人を相手にして、次に柄の悪い連中や普通の警察官相手に暴れて、その次に特殊部隊が出てくる、って流れか」
「典型的なモンスター系機能型迷宮主ですね」
なんとも言えず絶妙に嫌な気分になる。対しアンセスタは無表情で、倒した
「やはり、防具は
「副担任みたいの相手じゃ無くてもあんまり変わらないんじゃないか」
地面に落ちた銃火器や、消失に巻き込まれボロボロに裂けたタクティカルベストなどの中から、二人で使えそうな物を探していく。
収穫は多かった。元々の目的であった銃火器やそれらの弾薬に加え、ポリカーボネートの防弾盾や
「この結束バンドみたいなのなに?」
「
「この、妙にカーブしてる管は?」
「経鼻エアウェイ。気道確保に使う医療器具ですね。
「ホースが伸びてるこいつは?」
「ハイドレーションシステムです。登山とかでも使います」
「このなんか光ってる棒は?」
「クリアマーカー用のケミカルライトかと」
「この取手ついてるのは?」
「ドアこわすやつです」
「語彙力下がってない?」
「にゃあ」
とりあえず全部『収納』しておいた。
「というわけで、軽く戦争出来そうな量のアイテムが確保出来ました。イェーイどんどんどんぱふーぱふー」
ダブルピースをクロスさせた謎ポーズを決める無表情。依然気負う様子もなく、自然体で迷宮の奥へと進んでいくアンセスタを追う。
だが、歩き出そうとして、ひどく疲弊している自分に気がついた。
この黒塗りの洞窟街では、時間感覚があいまいになる。電波の繋がっていない携帯を取り出してみれば、時刻はいつの間にか午後の四時を回っていた。
振り返ったアンセスタが、窺うように俺を見る。
「地上で待ちますか? 既にアイテムは十分回収できました。あとは最深部の
「いや、一緒に行くよ。不安だから」
「なんですか、そんなに弊機に信頼性がありませんか」
「そうじゃあ……ないけど」
アンセスタが不安なのではなく、彼女を見ていると俺が不安になるだけなのだ――最初から、ずっと。
疲労感を無視して進んだ。
無人駅の階段を降りる。構内にはちらちらと、鈍色の燐光が舞っていた。不気味だが、幻想的でもある。少しじっくりと見たい感情もある気がしたが、アンセスタはさくさくと先へ進んでいってしまう。止まれとも言えず、その背を追った。
構内の一番奥。
締め切られたシャッターに立てかけられていたのは、奇妙な形の重火器だった。
「――迷宮の
「……これが?」
何か、結晶や宝石、あるいはエネルギーの塊のような物をイメージしていた俺は、実物とのギャップに首を傾げる。
「別名を
「室久がまた入ったら困るし、この迷宮は早く壊したかったけど……。強い武器が手に入るならもうしばらくそのままにしておくのもアリか……? ちなみにそれ、どういう武器?」
「個人携帯可能な核ミサイルランチャーですね。兵主神の加護が乗っているので、爆心から半径三十キロは熱放射半径に入るかと」
背後でガラガラどーんとプレハブ小屋が崩れる音を聞きながら、俺はブッ壊した核ミサイルランチャーを白亜回廊の奥深くに仕舞う。
山間から沈んでいく夕日を見た。今頃、学校も放課後になった頃だろう。久々に丸一日サボってしまったが、しばらくは仕方がない。
何かしら変化がないか確認しようと携帯を取り出す。室久に連絡しようと思ったが、先にあちらからメッセージが来ていた。
通知からSNSアプリを起動し――息を呑む。
「……クソ、マジか」
「クウマ?」
俺を窺うアンセスタに言った。
「入院中の最後の一人が、いなくなった」
「みゃ」
出席番号二十二番。眼鏡女子。少し身長が高い。優等生。体育は苦手。大人しい性格。少食。美術部。同じ中学出身。サメは好きだがサメ映画は嫌い。何故かたまに水筒と弁当箱を二個持ってくる――以上。
「それだけではなにもわかりませんが」
「それだけでも仲良く同級生やるには十分なんだよ」
一度帰宅した俺たちは、居なくなった同級生、再街
あのまま強行軍で調査をすることも考えたが、流石に俺の疲労とアンセスタの
その上、派手にビームを撃ったことで、今の俺たちは迷宮の黒い土埃に塗れている。多少の汚れなど気にしないが、このまま行動すれば間違いなく悪目立ちするだろう。
変な噂が立つだけならまだしも、それで知人や警察、果てはノギス工業まで寄って来られては確実に面倒だ。仕切り直しも兼ねて、一度家に戻って休憩がてら夕食を取ることにしたのである。
「とにかく、一旦病院に行ってみた方がいいんじゃ」
「
「再街も大人しくついてったりはしないだろうけど……アイツ相手に多少暴れた程度じゃどうにもならない、か……」
「とはいえ、我々やノギス相手の戦力にするつもりならばそう離れた場所には行かせないはずです。基底迷宮化領域は迷宮主と縁のある場所でなければならないという条件もありますので。まずは街で何か事件が起きていないか探ってください」
「分かった、調べておく」
「弊機はおふろに入ってきます。土まみれなので」
「君が風呂出たら買い出し行くか」
現在、この家は俺と姉さんの二人暮らしだ。姉さんは先ほど夜勤に出ており、銀髪メカ少女がうろついていても咎める人間はいない。
「でもおふろってどうやって入るので。洗浄機で洗われたことしかないです」
「文化の違い」
改めて聞かれると逆に解説に困る。ざっくり説明してアンセスタを風呂場へ送り出した。
……しかし、あの再街が何か凶悪な力を得たと言われてもいまいちピンと来ない。膨大にある未来の可能性の一つである以上、何でもアリというのは分かっているが、それでも上手くイメージ出来ない俺がいた。
「くうまーくうまー。この義手だと体こするの痛いですー」
「えー? ……じゃあこれ、はい。こっちの腕置いとくから」
「どうもー」
俺は右腕を取り外し、風呂場の前に置く。断端から白亜が溢れ出したが、代わりに差し出された金属義手を接いで塞いだ。
「重っ……」
ずっしりとした金属の重量。アンセスタがこんなのをつけてひょいひょい動いていたことに驚いてしまう。猛烈に肩が凝りそうだが、仕方ない。
一通りニュースサイトやSNSを見て回ったものの、何か事件があったという情報は得られなかった。
俺の調べ方が
「情報収集か……」
悩んだ末に室久の携帯に電話した。
と言っても、話したい相手は室久ではない。
「というわけなんだけど、みとらちゃん何か知らない?」
『しらぬ。でも、その人にえんのある場所がしりたいなら、その人のごかぞくに話をうかがうのがてっとりばやなのではなかろうか』
「極めて論理的だ」
買い出しついでに再街の家に寄ることを決め、外出準備をする。
むしろ、『縁のある場所』という話なら、実家など第一候補まであるだろう。本日二回目の戦闘も視野に入れておいた方がいい。
家族以外に友人相手へ聞くのもいいかもしれないが、再街はあまり友達の多いタイプじゃなかったはずだ。休み時間はだいたい本を読んでいるイメージで、他の同級生とあまり仲良くしていた覚えがない。
「アンセスター、こっちの腕しばらく借りていいか?」
「いいですよー」
重量こそあるものの、膂力と耐久力ではこちらの腕が圧倒的に上だ。大きな強化ではないかもしれないが、アンセスタとの戦力差は埋めておいた方が連携もやりやすい。あといくら治りが早いからって毎回毎回右腕がズタボロになるのはつらい。
適当な軍手と長袖で義手を隠す。……心もとない。何かの拍子に袖がめくれたら一発だ。買い出しリストに手袋とアームカバーを追加した。
「おふろ終わりました」
「おかえり――っておまえなー髪をなービショビショのままなー」
最初に会った時の、イマイチ丈の危ういキャミソールワンピースでアンセスタが戻ってくる。しかしその髪からはポタポタと水滴が垂れて、通った後が濡れっぱなしだ。
しかもどういう光の反射をしているのか、濡れた銀髪は仄かな虹色の
「ドライヤーを使うことぐらい知っています。でも全然乾かないのです。不良品です」
「まずタオルで拭け」
彼女の頭にタオルを被せ、水気を吸わせる。
その時ふと、彼女の銀髪がわずかに透けていて、どこか人工的な、極細の光ファイバーのような煌めきを持っていることに気がついた。
「工学妖精の
「へえ。じゃあ俺が下手に弄んない方がいいか」
「拭くの面倒です。クウマやってください」
「お姫さまめ」
「えへ」
悪戯っぽくアンセスタが笑う。……急に普通の女の子みたいに可愛くするのはやめてほしい。どうしていいか分からなくなる。
「なら、普通にしてない方がいいですか? ウィーンガシャンガシャン。アー、ワレワレハコウガクヨウセイダー」
「げに恐るべき腹立たしさだな。……アンセスタは普通にしてなきゃダメだよ」
「そうですかね。クウマは弊機のことを普通だとは思っていないようですが」
「それは――」
答えに詰まる。こんな会話、適当なツッコミの一つでも入れておけばよかったのに、咄嗟に否定も肯定も出来なかった。
「――……でも、それでも、普通にやらなきゃダメなんだよ。普通に、笑ったり怒ったり楽しくしたり……。友達と学校行ったり、知り合いと仲良くしたりとか、そういう、日常って。大切なんだ」
「
要領を得ない。当然だ。そもそも言ってる俺に致命的なほど説得力が無いし本気で言っているわけでもない。しかし、それでも――
「…………」「…………」
髪を乾かす間、しばらくの無言が続いた。
キューティクル(に相当するものがあるのか知らないが)が傷つかないよう、柔らかく水気を拭き取り、ドライヤーの温風を当てる。乾きにくい根本から、熱変性(に相当するものが起こるのか知らないが)しないよう、ドライヤーを小刻みに揺らしつつ。
櫛を入れると、非有機的だが不快ではない、塩素のような匂いが香った。シャンプーのそれと入り混じって。なんというか、新品の家電みたいな。女の子っぽくはない。だが、良い匂いなんだろうとただ思った。
「……よし。じゃあ、着替えたら、行くか」
「了解しました。――クウマ」
「うん?」
汚れない銀髪を翻し、アンセスタがこっちを振り返って言う。
「髪を乾かすのは、『普通』のことですか?」
「そりゃあそうだろ」
「なら、大切かもです」
家の近所は既に夜闇へ染まっていたが、この永地市は少し移動するだけでその様相を変える。
住宅街とは時間の流れが違うかのように、駅前周辺は未だ明るい。
『実際この街、次元が歪んでいますので。そもそも古都と田舎と都会が少し歩くだけで入れ替わるってどんな街ですか。おかしいでしょ』
「改めて言われると確かになんだけど衝撃の事実」
『住民に迷宮主候補が多いために微細な影響が積もって
そう言うアンセスタの声は、俺が耳に当てている携帯電話の向こう、白亜回廊の中から響いていた。
室久の迷宮がそうだったのと同様、白亜回廊も内部に電波は届かない。
故に、今行っている通話は有線式。迷宮内からコードの片端だけを『取り出し』、携帯に接続して話している。
「でもなんだってこんな……」
『弊機がいると目立つと言ったのはクウマではありませんか。なら、これが一番効率的です』
「それにしたって、昨日みたいに直接脳内に語りかけるんじゃあダメなの?」
〝待機中...
「あーそういう感じになるのかー……」
より機械的というか文語的というかなんというか。とにかく、言いたいことは伝わった。
「……いや、というか通話をつなげるだけなら電波自体を『収納』すればいいのか……? でも電波を『収納』ってなんだ……電波……?」
『応用幅を広げるならあとで一緒にお勉強しましょうね』
そうやって電話を耳に当てながら、店で目的の食料や道具を買い揃えていく。
一応買い物袋は持ってきているが、律儀に持ち運ぶつもりはない。人目につかないようにさっさと購入品を『収納』していく。
「分かってると思うけど、それエネルギー切れた時用の非常食だからすぐに食べちゃダメだぞ」
『分かっています。もぐもぐ』
「何も分かってねえな?」
まあ充電(?)を満タンにしておけるなら悪いことでもない、だろうか。どうだろう。
そうこうしている内に、目的の物が全て調達し終わった。
買った手袋を義手にだけ付けるか両手共つけるか悩みながら、再街の家へと赴いていく。
『ですが、その再街さんが一人暮らしという可能性もあるのではないでしょうか。まずそちらを先に調べた方がいいのでは』
「ウチの高校には寮あるから、それならそっち行くはずだよ。
『クウマの家には両親が居ないようでしたが』
「まあ姉さん居るし。それにあの家、一応書類上は父母姉弟の四人暮らしになってるから。アンセスタの方は――」
言いかけて、気がついた――居るわけがない。
今日はこの子とすごく普通に過ごしていたせいだ。思わず失敗した。それに対してアンセスタがどう思ってるにしても、積極的に出したい話題じゃあなかった。
だが――
『さあ。どうなのでしょう』
「……どうなのでしょう?」
『
「――。何?」
一瞬、直感が何か嫌なものを捉えた。
だが、それが具体的に何なのかわからない。ぼんやりとした予感だけで、その輪郭を上手く言葉にすることが出来ない。
「アンセスタ、それは――」
『見えましたよ、クウマ』
そうしている内に、再街の家の近くにまで辿り着いてしまった。
少し高台になった場所にある一軒家だ。割と良い感じの。窓を見る限り、照明は付いている。この時間ならまだ寝ては――
「あ」
窓から漏れる光が消えた。
慌てて玄関まで走り寄り、インターホンを鳴らす。
『……はい』
スピーカー越しに響く、疲れたような女性の声。再街の母親だろう。
「遅くにすいません。
『……娘達は見つかったんですか?』
「達? あ、いえ。まだ見つけてはないんですが、」
ブツン。
通話が切れた。
「……。……え?」
もう一度、インターフォンのボタンを押す。しかし反応はない。
「ええ、と……」
……対応する余裕が無い、のか?
まあ、娘が火事に巻き込まれ、二週間もずっと目を覚まさない上、いきなり行方不明になったと来れば、母親としてはメンタル的にやられてもおかしくないのかもしれないが……。
明日、また出直した方がいいだろうか。そう考える俺に声がかけられる。
「忍び込みますか」
いつの間にか、白亜回廊から出たアンセスタが、俺の隣に立っていた。
「忍び込むってお前……」
「元より、クウマのような一般の学生が情報提供を求めたところで大した対応はされないでしょう。以前から交友関係があるわけでもないなら尚更です」
「まあヒト一人ブッ殺しといていまさら住居侵入罪がどうとか言わないけどさ。忍び込んだから何か分かるってもんでもないだろ」
「そうでもありません。パソコンの履歴、日記やアルバムの一冊でもあればいくらか絞り込めるでしょうし、何もなくても迷宮主候補の自室ならば多少なりとも
……アンセスタが言うならそういうもんなんだろうか。
「もし、この家が既に迷宮になってたら?」
「先ほど大きめに簡易迷宮を
「多分って」
「なので、まずは弊機だけで行きます。身体能力の低いクウマでは初見殺しがあった場合に対応できませんので」
不安はあるが、彼女の自信を覆すほど積極的な反論は出せそうにない。
一旦アンセスタを『収納』し直し、玄関扉の郵便受けに買ったばかりの糸を差し込む。
ある程度の長さまで入れた後、玄関扉の向こう側、糸の先からアンセスタを『取り出し』た。
「グッド。では、クウマはそのまま待機していてください」
忍び込んだアンセスタの気配が遠ざかっていく。足音はない。
透明人間になれることも考えれば、まず見つかることはないだろう。
「…………」
しかし……。
俺は自分の右手を見つめ、先ほどの彼女の言葉を反芻する。
「……居ない、じゃなくて
目を凝らしても、赤外線の色しか見えない。
きっと、家の中は真っ暗なんだろう。
熱が周囲の輪郭を描く中。ヒトの視界を想像しながら、アンセスタは赤暗い廊下を歩いていく。
自然界において赤外線を『視認』できる生物は存在せず、光電変換や光電子増倍技術に基づいた現代の赤外線カメラは逆に可視光環境での併用が出来ない。
だが、長波長光を短波長に変換する
近年に中国の大学から発表された研究。現在でも未だ実験段階だが、彼女のそれは当然のように実用レベルの更に先に達している。ほとんどゼロに近い光量でも、再街
それに、探索には慣れている。これまで彼女がノギスの下に攻略してきた迷宮の中で、民家と似た構造の建築物を探ったことは何度もあった。
「…………」
しかし、だからと言って一般の民家への
家具の配置。掃除のされ方。飾られている聖書。冷蔵庫の中身。日用品の使用率。
通常の人間ならばそれらの傾向から何かしらの違和感を覚えることが出来たとしても、アンセスタにそれはわからない。「通常」「普通」の
一階を探索し終える。再街
――二階、だろうか。
階段を登った。
精密動作で足音を殺し、無音のままに登りきる。
何気なしに左を向いた先、鏡があった。
映っているのは銀髪の少女人形。
ズル剥けになった胸部の
「…………」
ビリビリに破けた首元の
貼り付けたテープを剥がすような小さな痛み。それと共に、肌色の皮が僅かにめくれる。
――……
何故、自分は人間に偽装されているのか。
それは、彼女の知識にはない情報。今朝からずっと思っていた疑問だった。
人型であることの利点は分かる。
まず、汎用性がある。人間のために作られた道具・施設。それらを十全に扱えることの意味は大きい。迷宮という異界空間ならば尚更だ。
だが、それならここまで似せる理由は無いだろう。
手足が二本、指が五本。極論それだけで要件は満たせるはずだ。
ならば社会の内に潜入させるため? 違うだろう。それならそれ用の
ヒトの形に近しくなければ黄金歴程の資格を得られないのか。あるいは製作者の趣味か。現状では結局そんなところに結論が落ち着いてしまう。
自身の現状、己の詳細。
本当はもっと深く考察するべきなのかもしれないが、どうにも思考が回らない。
いや、そもそも思考の鈍さで言うなら今日一日はずっとそうだ。夢でも見ているかのように判然としない。頭に靄がかかったようにふわふわしている。
「んー……」
集中が途切れた。思索を打ち切って周囲を見渡す。
トイレやベランダ等を除き、二階の部屋は三つ。
その内の大きな一つ。夫婦用の寝室と思われる部屋からは、すすり泣くような女性の声。再街
残る二つの部屋の片方、そのドアを開けた。
「……?」
――
アンセスタは首を傾げる。
熱の色が部屋の輪郭を縁取る。中は女の子の部屋だ――そのはずだ。女児向けと思しき調度品たちが整然と配置されている。
村雨空間の部屋と比べて物の数は多いが、整頓具合はこちらのほうが上だ。
部屋の中を見渡し、手から軽く光を放って周囲を照らした。部屋の大部分を覆う彩度の高いピンク色。
目立つのは、床に置かれた……確か、ランドセル。埃が積もっていることから、長い間使われていないことがわかった。
小学生が使うバックパックだったはずだが、高校生になっても捨てずに取っておくものなのだろうか。
「…………」
とにかく、歪みが無い以上は仕方がない。少なくとも迷宮主の使っていた部屋でないのは確かだ。
隣室。歪曲を感知する。こちらが再街
先ほどの部屋に比べるとかなりシンプルだ。インテリアの色彩も地味なベージュとモノトーンでまとめられている。
勉強机、その上の古いノートPC、本棚、ベッド、タンス。目につくのはそれぐらい。先ほどの部屋はおろか、村雨空間の部屋よりも飾り気が無い。
「〝【
半径三メートルで疑似迷宮を展開し、亜空間そのものに刻んだ回路に分析処理を走らせる。
部屋の中に琥珀色の走査線が描かれ、四十二秒経過。
スキャンが完了し、アンセスタの目の前に
――〝再街
「……
声が漏れた。彼女の表情筋が不随意ならば、その顔は相応に困惑していただろう。
アインソフはこちらへの刺客を作るために迷宮主を生み出しているはずだ。なら、戦力にならない者を主にする意味がない。
黄金歴程でのダメージを回復するための治療薬代わり、と考えることも出来るが……回復自体はアインソフだけでも出来るはずだ。
それに、実際に使うかどうかは別として、こちらには
ともあれ、再生医療の技能型迷宮ならば、『基底』となっているのは医療関係施設の可能性が高い。
この街にある病院・診療所の数は、眼科、歯科等を除外し十三。この家から通いやすい距離で考えれば五つに絞れる。いや、学生にとっての馴染み深い医療関係施設ということで学校の保険室等を含めれば、小・中・高のそれぞれを加算して八つには増えるか。
少々多いが、探りきれない数ではない。『迷宮となった場所を絞り込む』という意味なら、既に目的は達成したと言ってもいいだろう。
だが――
「…………」
勉強机の上で開かれたままの古いノートPCに、変形させた
もどかしい速度で点灯するディスプレイ。ロック画面が表示されるが、アンセスタからすればこんな世代のセキュリティなど脆弱に過ぎる。あっさりと突破した。
デスクトップに表示されるアイコンの数は三列に満たない。インストールされているアプリがほとんど無いのだ。入っているのは、サポートの終了した文書作成や表計算ソフトに、ファミリー用の簡素な動画編集ソフトだけ。
ブラウザの履歴を探っても、ほとんど実用目的で使っていることが見て取れる。
種々の通販サイトや電子書籍ストア。あとは、辞書代わりに一般にはあまり馴染みのない単語を検索しているのみであり――否だ。明らかに履歴の中で抜けがある。
履歴は消されているが、キャッシュされた画像までは消えていなかった。ためらいがちに表示する――
「…………」
ブラウザを閉じて、PC内のファイルを洗い出した。
ピックアップされるいくつかのホームビデオ。作成日時はかなり古い。
現在の本人を見たことは無いが、映っているのは恐らく幼い頃の再街
ホームビデオの中の母娘は楽しげだ。母親が促し、再街
肥満等では考えられない明らかな異形。朗らかな声が動画ファイルから響き出す。
『
自身の奥からせり上がってくるこれは、何だ。
『
――気がついた時には動画プレイヤーを閉じていた。
「……。……き……『寄生性双生児』……」
呟く声が震えていた。何故だ。恐怖しているのか? 探索兵器であるこの
意味が分からない。明らかに異様なダメージを受けている。立ちくらむようにふらついて、部屋を後にしようとする。
「――っガ」
不快感に口元を抑えた。
だが、吐き気ではない。奥底からせり上がってくるこれは――
〝
〝
「ま、ず……ッ!」
〝必要な犠牲だった〟
〝嘆き苦しむ誰かのために、
〝
ダメだ。このままでは、
そうなれば終わりだ。もう、今日、目覚めてからの自分ではいられない。これ以上この場所には居られない。すぐに、今すぐに、離れなければ――
「――
音もなく、扉が開く。
再街左希の母親が、モニターライトに昏く照らされていた。
「左希……ねえ、左希……」
痩せこけた頬、呆けかけた表情。暗がりの中、目の隈と黒目の境が曖昧になって虚ろな穴のようだった。
「……左希、どうして……あなたまで居なくなったら、どうすればいいの……」
簡易迷宮による透明化は展開しているが、曇った瞳はどちらを向いているか分からない。覗き込まれるような悪寒を覚えながら、アンセスタは荒れそうになる排気を必死に抑える。
「お願いだから、一人にしないで……
〝「だが、収穫はあった」〟
〝「定量的とは言い難い表現だが」「姉妹機の度重なる損壊で」「
〝「
力が抜ける。倒れこみそうになった体が、姿勢制御機能で強引に固定される。
「どうしてお父さんの言うことを聞いたの……
彼女の犠牲は無駄にはならない。無駄にはしない。きっと
「
〝「
「ねえ左希、お願い――」
〝「だが原型機体の性能は維持されなければならない」〟
〝「故に工学妖精、アンセスタ――」〟
「〝
――頭にかかっていた
「ぃ、や――」
自分を制御できない。完全随意であるはずの
「……。誰……?」
「ぁ――」
記憶の中のノギスの人間達と再街左希の母親の姿が重なる。
「ねえ」
嫌だ、無理だ。こっちを見るな。
「居るの」
もうあんな、あんな言葉は聞きたくない。だけど、だけど。
「そこに――」
「当て身」
――ゴキィ! と音を立てて再街左希の母親が背後から鉄パイプで殴り飛ばされた。
突如現れた闖入者に今度こそアンセスタの思考が止まる。否、思考のみならず時間すら止まった気がした。
一瞬の停滞が過ぎ去り、再街左希の母親が机に向けて吹っ飛んでいく。
「かぶぼッ、が、ぁ?! ぎ、あァアア――ッ!!!」
「なにっしぶといッ」
吹っ飛んだ母親は咄嗟に受け身を取り、机の上のノートを村雨空間に向けて投げつける。
少年の目の前にバラバラと飛び散る紙の束。視界が塞った一瞬の隙を突いて、母親が握りこんだカッターナイフを空間に向けて振りかぶった。狙いは鉄パイプを持つ右手。
「――っな、」
がしかし。ギィンと。金属質な音ともに弾かれる。
そして、再度の打撃音。
今度こそ、痩せこけた女が崩れるように床に倒れ伏した。
「……ヤベーな骨バキッつったぞ今これ……。まあ忘れろパンチ――じゃなくてホワイトオーダーすれば治るしいいけど」
鉄パイプを虚空に仕舞い、少年が少女の方を向く。
「で――何かあったのか?」
「……ぇ、あ……。クウマは、どうして、ここに」
「遅かったから窓ガラス『収納』して忍び込んできた。まあ見るからにアレな宗教やってる感じの家でビビったけど……何かされたのか?」
「……い、え」
何か言うべきなのかもしれないが、今は何も考えられなかった。
白亜の右手を叩きつける少年。その横で、ふらつきつつも立ち上がるアンセスタ。
「ただの……不調です。気にしないでください」
「不調って、」
「大丈夫です……休めば治ります……」
そう言って、少年の胸元を開き手の平を当てる。ずぶりと沈み込んでいく腕。
「いや、俺の中で休むのか……」
「……だめ、ですか?」
「……。……いいけども」
ほとんど倒れ込むようにして、身体を白亜回廊に沈めていく。
うつむく彼女には、少年の表情は見えない。
だが、困惑していることが明らかに分かる声で、村雨空間は静かに語りかけていた。
「……なんかあったら、言ってくれよ。お願いだから、無理だけは――」
返せる言葉は無かった。
白い床の上に横たわる。買ってもらった布団を敷く余裕も無い。
無意識に、迷宮内に漂う白い霧を吸い込んだ。
白亜の味とともに、記憶がかすれる。思考がぼんやりとして、僅かに状態が落ち着いた。
「……あぁ」
道理で、居心地が良いわけだ。
できるならば、このまま白痴になってしまいたかった。
だが、ダメだ。再街左希の迷宮には挑まなければならない。
そうしなければ、これからどうすればいいのかさえわからなくなる。今、自分の内に抱えているものが、本当に無価値になり果てる。
攻略できる自信はまるで見えないまま、アンセスタは白亜回廊でうずくまり続けていた。