「つまらんなあ。一人ぐらい死ねよ」
病院の屋上で、何もかもを台無しにする声があった。
一部始終を見終わったアインソフが、つまらなさげに迷宮内の様子を映すモニターを地面に向けて投げ捨てる。
もはや再街左希は迷宮主ではない。主を失った自殺産道もまた、その構造を崩れさせつつある。
あの手のアーティファクトは迷宮主の想念によって存在を依拠する所が大きい。迷宮主が居なくなった現状では、あと数分もすれば迷宮とともに消失するだろう。
そして、そうやって基底迷宮が崩壊したところで内部の人間が生き埋めになるわけでもない。
そもそもの話、迷宮自体が未来に存在する特異点だ。この時代に『伸びてきた』領域を壊したところで、それは歪んだ現実が元の形へ戻るだけに過ぎない。古く脆い建造物なら消失時の空間歪曲によって崩れもするが、定期的に管理されている公立病院ではそれもないだろう。
囚われた病院関係者達にしても、自殺産道の性質上、物理的・肉体的なダメージはほぼゼロだ。放っておけば数日後にでもノギス工業が記憶処理を図るはずだ。
探索兵器に白亜回廊、再街左希もまた健在。
再街左希は全ての変化を二週間前まで巻き戻されてしまっているし、探索兵器の方も損傷こそあるが未だ戦闘は可能範囲。
唯一白亜回廊だけは相当に深刻なダメージを受けているが――まあ、死ぬことは無いだろう。そもそも死ぬはずがない。自殺産道で確保したアイテムがあれば全治可能な損傷だ。
故にすなわち、このままいけばハッピーエンド。
自殺産道編、堂々完結。
「良いだろうとも賞賛しよう。自責に迷い苛まされ、強迫に囚われた隣人をよくぞ救った素晴らしい――
甲高く指を鳴らす音。
その瞬間に、アインソフの背後にあった六つの異常が顕在した。
それは少年であり、少女だった。
アインソフ・ヨルムンガンドから『経験値』を与えられた六名。
二週間前の火事に巻き込まれた生徒たち残り全員。
その全員が、今、まさに――
「はァ、が、あっ、ぐ、ぅ、ぅ――」
まず最初に、小柄で、大人しそうな男子生徒が膝をついた。
傷を負っているわけではない。苦痛を与えられたわけではない。ダメージと呼べるようなものは何一つ受けていない。
だが、何故か――
排出されている唾液の量は既に十リットルを超えていた。常人ならば脱水症状で死にかねない量。だが、分泌が止まらない。息ができない。――そして。
そして、何より問題なのは――
「食べたいか?」
まるで友人とフライドポテトを分け合うかのように、アインソフから差し伸べられた――
「ならば喰らえよ。お前が人間であるための境界を」
それがどうしても――
歯がおかしくなる。牙になる。口がおかしくなる。
「あ、ぁ――ぁぁああああああああああああ――」
「食べたくない」と――その言葉が出ない。そう言おうとする口がもうおかしい。舌が。歯が。喉が。頭が、壊れて、しまって、いる――だから。
「から、し、」
「うん?」
だから――その思考は
「――からしとわさびは入っていませんか」
「、クハッ」
耐えきれず、男が笑いを漏らす。
「ククッ、ハハッ、ハハハハハ! ああそうか辛いのが苦手かよ少年! ああ安心しろよ採れたばかりの完全無添加だ、好きなだけ食、」
「
瞬間、アインソフの右腕は一瞬の内に食い尽くされた。
「――は?」
「
口一つつけずに、アインソフの全身が食い荒らされる。
気づいた時には、もう――大地は一面の牙だった。
それは咀嚼の迷宮。
大地を食卓へと変える無限の牙。広がり続ける谷の口腔。
出席番号二十三番――『
「――暑い」
ふらり、と酩酊した様子で呟く女子生徒。
それに対して、咀嚼の主は呟いた。
「ねえ……ポカリスエットとアクエリアスは……どっちが好きですか……」
「暑い」
「でも、さぁ……あんなのどっちも水と砂糖と塩じゃないですか……」
「暑い」
「だから、さぁ……どっちか片方だけ選んでんじゃねえぞこの差別主義者がァアアアアアアアア!!!!」
「
そして、全ての牙が蒸発した。
溶けていく。溶けていく。溶けていく。全てが溶ける。食い荒らされたアインソフごとまとめて、何もかもが融解する。
それは太陽。ひまわり畑。それは夏。ミンミンゼミ。それは熱。青く爽やかな灼熱死。
それは青空の迷宮。
蒼天下の全てを焼殺する熱射領域。ある夏の日の絶滅者。
出席番号十九番――『
「死にたい」
生命の存在など許されない熱量の中、汗一つかかずにショートカットの少女が言った。
「死にたい。死にたい死にたい死にたい。死にたい死にたいああ死にたいって言ってるのに何で死ねないの死ねない死ねない死ねない!!!」
何度も自分の手首にカッターナイフを振りかざしながら――自分の手首に掠りもしないカッターナイフを振り回しながら、周囲の虚空を刻んで叫ぶ。
「みんな死んでるのに! みんな死んでるのに私だけ! ああずるいずるいずるいなんでなんでなんで! なんで死にそうになってるの何死にそうになってるの死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな! ズルいんだよズルいって言ってるんだよ
そして、裂けた――食い荒らされ、焼け焦げ倒れていたアインソフの体が。
彼女の体を避け続けた代わりのように、その全身が裂ける。裂け続ける。
それは凶運の迷宮。
破滅的生存を保証するマイナスの加護。最悪災厄のサバイバー。
出席番号五番――『
「 」
そんな彼女に、とん、と。
穏やかな青年が静かに優しく肩を触れた。
「……殺せよ」
「 」
「
「 」
爆音。
いいや、爆轟。入り乱れているとはいえ、ここが疑似迷宮の内部でなければ病院の屋上など丸々吹き飛んでいただろう。瞬きの間もない刹那の内に、その衝撃波は大気を駆け、転がっていたアインソフを吹き飛ばし大地を舐める。
「」
それは認識の迷宮。
意味消失を引き起こすマイナスの音色。クオリア殺しの共感覚。
出席番号二十七番――『
これら全て、寸分の狂いなく地獄。
そして『それほど』でありながら、『これほど』の地獄でありながら――未だ負傷者ゼロという事実。
これだけの乱雑な攻撃解放の中で、誰も彼もが無傷。無敵。恐らくは再街左希と同等か、あるいは上回る迷宮主。これらにはもう、秩序も理論も常識も認識も策謀も無謀も分別も判断も思考も演算もありはしない。
故に、もし。
これらが、何らかの間違いで統制だった動きをすることがあるとするならば――
「■」
声、ではなかった。鳴き声でもない。呼びかけというには獣的で。唸りというには意味に満ち。咆哮というには些細で。叫びというには王者に過ぎる。
「■■■■■ォオオオォオオオオオオァアアアアアアアア!!!」
巨躯――3.5メートル近い筋肉質。
硬度等を除けば、蚩尤・祇園室久をも上回る暴力の化身。
それは人狼の迷宮。
月光に魂を焼かれ尽くした獣人。十六人全員の中で最強の身体性能。
出席番号一番――『
迷宮が
超常が
地獄が――
轟、と唸りを上げて災厄が一点に収束・激突する。
万喰の牙が。死蒼の熱が。凶つの星が。滅びの音が。魔獣の爪が。
ぶつかり合いは、比類無く世界を引き裂く威力だった。一つ一つが絶死絶命。二週間前の主犯である副担任程度なら、ダース単位で殺せるレベルの破壊――
「良いぞ少年少女。体感できたし実感できた。この第四超越が保証する――お前達は最高だ」
――
片手一つ。あるいは指五つ。攻撃一つにつき指一つ。もう片方の手はポケットに突っ込んだまま。ダムの決壊に匹敵する超威力の獣爪をたったそれだけで。形無き熱量や音波さえ最低限で。全てを喰らう・全てを避けるという異常法則にさえ、不死者は既に『殺されない』。
「そうだな、辛い物が嫌いではないお前。お前が先頭で行くと良い。えっと、名前はなんと言ったか――」
「さ、」
「いや、覚える気も無いのに聞くのも良くないな」
興味なさげに。石を蹴るように。虫を潰すように人を壊すように神を躙るように――褒め称えた五人全員を、アインソフは暴走させる。
「ごっ、」「、っぎ」「が」「 あ」「ァ■■アアア?!?!?!」
「良し」
聞き飽きるぐらい聞き慣れた音楽みたいにその絶叫は聞き流された。
不死者は屋上のフェンスに飛び乗り、にぃと笑みを浮かべ下界を見下ろす。
「さあどうする。
静かに構えられるフィンガースナップ。
響き渡る指の音が、全員に破滅を促して――
「――――」
一秒経過。
「――――」
五秒経過。
「…………」
三十秒経過。
「…………フッ」
一分、経過――
「そういえば一人、忘れていたな。覚えよう――名乗って良いぞ」
「村雲
全滅していた。
『
「只の、高校生だ」
優しげな声色。中肉中背。着崩さない学ラン。無個性過ぎて中性的。何処にでもいそうな平均値。
そんなたった一人に。
そんなたった一人の、酷く平凡な少年に――
――全滅、させられていた。
「ふ、フフ、クク……!」
そして何より。何より驚くべきは、その全滅にして殲滅が――
正確な所要時間は果たしてどれだけだ。一分? いや三十秒? あるいは五秒? ――全て否。恐らくは一秒もかかっていない。
哄笑を漏らしながら、アインソフは豹のように軽くフェンスから屋上に飛び降り、
「良いぞ、面白い……! 貴様は我が側近とし――
それはまるで高度一千メートルの彼方から墜落したかのような位置エネルギー。
下半身が丸々潰れ、大腿骨が腹部を貫く。内臓が二つほど破裂して、花火のように血華が散る。
「随分とまあご挨拶だな少年。なるほど、重力操作か? 確かに中々の出力だ」
何事もなかったかのように立ち上がっていた。事実、何事でも無くなっていた。全ての負傷はコンマ一秒後には完全に治癒し尽くされていた。
効かない。そう効かないのだ。こんなもの、この不死者にとってはそれこそ挨拶でしかない。
仮に効いたとしてすぐに耐性がつく。それは切断・高熱・劇毒といった物理現象に留まらず、
「それほどの
少年に向けて、いっそ優しげに不死不滅の不条理が歩み寄る。
「だが許そう。いいや、故にこそ許そう。そうすべきだろう? 赤子を恨む大人が、この世の何処に居、」
「
音も無く。
アインソフの両腕が、たった零秒で切断された。
速い。速すぎる。明らかに異様なスピード。重力操作などでは決してない。この少年、村雲零時が有する超常は別にある――
あらゆる者を絶望させうる超速を、アインソフは鼻で笑う。
この不死に、この不条理に、この第四超越に。そんな
「ハ。ま、駄々を止ませるのも大人の仕事か」
切断された腕を掲げた。再生する。瞬きの内に切断された腕はそこに在った。
「……あ?」
切断された腕を掲げた。再生する。瞬きの内に切断された腕はそこに在っ――そして何も起こらない。
「おい、待て……」
切断された腕を掲げた。再生する。瞬きの――
「なん……」
切断された腕を掲げた。再生す――
理解が出来ない。認識ができない。
これを何と形容する。否、この宇宙の言語でこの現象を言い表すことなど不可能だ。再生しようとする度に『取り消される』ような、この名状し難い感覚は――まさか。
「ば、馬鹿な……!
「黙れ」
音も無く。
零秒で全身が切断される。瞬断される。処断される。
「だが、なァ――!」
切断された腕に意思を込め、少年に向けて掌をかざす。
そして、
あらかじめ植え込んでおいた暴走の火種が、不可視の波動と共に少年の内部で覚醒し――
「ッな、にィイイイイイ!?!?! 少年、貴様、一体どうやって――!!」
「気合だ」
音も無く。
零秒で全身が粉砕される。破砕される。撃砕される――
例えこの場では勝てずとも、この程度でアインソフ・ヨルムンガンドは滅びない。
どれだけ全身を砕かれたところで、所詮はただの物理攻撃。
再街左希のような例外な挙動を起こす異彩の異能が無い限り、アインソフを真に撃滅さしめることなど決して不可能――!
「忘れたようだからもう一度だけ言ってやる――
軽い動作で、少年の左手が向けられる。
それは黒だった。
白亜と対極を成す黒源。縄のように文様のように黒々しいそれが左手を覆う。纏わりつく。
何を言われずとも知覚出来る。あの左手のある場所には『何も無い』。
その左手こそは絶対善。そこに触れる
「……ッッ!?!?」
不味い。アレだけは不味い。アレは
「呉れて遣る。
「――きっ、基底現実・伐界開始――!」
「遅い」
それは既に開いていた。ただ、今の今まで認識が追いつかなかっただけ。
不死者は見た。その黒を。地に。壁に。雲に。月に。星に。
世界全てに走る、回路のようなその黒縄を――
「む、村雲零時ィ! 貴様の、その迷宮の銘を――!」
「良い名前だ、賜わろう。――それだけを遺して、死ね」
故に、その名を唱える意味はもはや無い。しかし、その処断の完遂を宣するために、少年は己の迷宮の名を開帳した。
「迷宮、開廷――
アインソフ・ヨルムンガンド、完殺。
死因:不明な手段による全細胞の完全消滅。
それは極黒の迷宮。
この世の全てを善へと導く完結宇宙。■■■■の■■■。
出席番号三十一番――『