世界が赤い。
見るモノ全てが燃えている。
眼前の脅威はまるで熱の洪水。
嘘みたいな量の爆炎が、津波になって迫り来る。
けれど、どうにもできない。何もかもが遅すぎる。身体はおろか、思考すら鈍い。間に合っているのは危機感だけだ。
死ぬ。焼死する。皮膚が焦げてめくれ上がって肉が焼けて炭になってぼろぼろ崩れて骨になる。
覚醒下に視たあまりにも明確な死の予知夢。まばたき一度の刹那の後、現実はこの無意味な未来予知に追いついてくる――
――その直前。
目の前に、誰かが立ち塞がった。
「な」
もしもこの世に炎を落とす滝があったのなら、それはこんな風に響くのだろう。
熱くない。何者かの身体に当たって、炎の波が完全に防ぎ切られている。
灼熱の前に立つ姿は、光に眩んでよく見えない。ただ、爆風に吹かれ、長い髪だけがはためいていた。
しかし、ほんのわずかにその人物がこちらを向くのを察することが出来る。
陰影だけで分かる整った顔。
小さな口が、俺に向けて唇を開いた。
「〝注意:現在、回想モードです〟」
…………。
「なんて?」
「〝十四日前の映像が再生されています。閲覧を中止しますか?〟」
言われ、咄嗟に辺りを見渡す。
気づけば、いつの間にか周囲は
「……えっと、走馬灯的な?」
「〝十四日前の映像が再生されています。閲覧を中止しますか?〟」
「えっ。あっはい。じゃあその、中止する感じで」
「〝了解しました。閲覧を終了します〟」
ぶつん。
右腕から走る鋭い痛み。
ケーブルを強引に引き抜いた液晶画面のように、視界に激しいノイズが走り、暗転した。
そして、舞台は
脳が忘れていても、全身の細胞がこの炎に塗れた光景を覚えている。
あまりにも物理的に燃える魔球が、場違いなほど綺麗なフォームで投じられて――いやここからスタートなのか。状況が何も変わっていない。
極めて特殊な走馬灯を見た気がしたが、何の参考にもならなかった。なんだったんだ今の時間。
だが、おかげで対応するだけの精神的余裕が生まれた。
前方、後方、左右に斜め。全三六〇度のいずれに移動したところで、灼熱球の炸裂によって生じる爆炎は回避出来ない。
それでも、直撃よりは良い。動きさえすれば被害は軽減出来る。炸裂を直接受ければ死だが、その後の爆炎だけならば万死に一生を得る希望はある。多分。
最もダメージを抑えられる退避方向を本能で探る。だが――
〝推奨:方位角一五〇への退避〟
そう。そうだ。確かに右後方には小さな木がある。
あれの陰に今すぐ飛び込めば、行動不能にこそなれど、少なくとも死ぬことは無いだろう。
〝
だが、それではダメなのだ。
〝――
だってそれでは、
俺が生き残っても、あいつらが死ぬんじゃ意味が無い。そんな生存は願い下げだ。
〝……
そういうわけじゃない。俺だって当然、死にたくはない。
だけどそれと同じぐらい、俺を構成する全てを死なせたくない。
例えそれしかないのだとしても、それしかないからと安易な敗北に飛びつくことは出来ない。
〝
ですが、何だ。
許されてすらいないというのか。
何も奪われず全てを失わず。
一切合切みんなまとめて完璧に守り切る、完全無欠の*勝利*を望むことは。
〝――――――なるほど。
何者かも分からない機械的な声は、随分と人間的な抑揚でそう言った。
〝
――
そして、世界の種別は一変した。
ヴン! という演出的な音。
炎一色だった視界に浮かび上がる、蒼に輝く文字列の群れ。それを囲む長方形。
パソコンの
明らかに二十一世紀の枠を飛び越えた超技術。表示される文字列は、もはや読む必要すら無い。いいや、元よりそれは光によって『情報そのもの』を叩きつけてきたに過ぎない。まず「情報を理解する」という結果があり、「何故理解できたか」という過程を、俺がこのような形の後付けで解釈しただけだ。それが解る。
〝あなたの能力は未鑑定です。不思議な次元(特別)に関する知識を得るには、鑑定する必要があります〟
〝現在表示できる情報数:2。
一つ。それは、接触物を別の空間に『収納』する。
二つ。それは、
……急にそんなことを言われても困るのだと、この誰かさんは分かっているのだろうか。
言わんとするところはなんとなく分かったが、能力――能力? 随分とまあ心躍る言葉を使ってくれる。こんなシチュエーションでただの高校生にそんなことを言ったら、ろくに疑うことも出来ず有るか無いかも知れないものに命を託してしまうというのに。
しかし、賭けに出ねばならないのは変わらない。
だから、せめてもの反骨心として、こう思うことにした。
「……
恐怖に震えながら手を伸ばす。
触れれば弾ける灼熱の柘榴を、
この手で、
掴み取る――!
〝あなたは、炎を拾った〟
予想通り、それは弾けた。
直径十メートル近い規模に膨らむ爆炎。目も眩む灼熱の閃光。
――その全てが、俺に触れた瞬間に失くなっていく。
〝あなたは、2個の炎を拾った〟〝あなたは、3個の炎を拾った〟〝あなたは、4個の炎を拾った〟〝あなたは、5個の炎を拾った〟〝あなたは、6個の炎を拾った〟〝あなたは、7個の炎を拾った〟〝あなたは、8個の炎を拾った〟〝あなたは、9個の炎を拾った〟〝あなたは、10個の炎を――〟
「ッ、ぁあああああああ!!」
学ランの端を焦がしながら、走った。
舞い散る火の粉の中、周囲に浮かんでは消える無数のメッセージ
どうやら、まだ動揺するだけの回路は残っていたらしい。相手は炎を突っ切ってきた俺に驚き、ろくに行動を取れずにいる。
頭はまだ状況に追いついていない。
だが、この身体は最高に本能的だった。
奪われる前に奪い尽くせと、ひどく衝動に忠実に。
自分でも振り上げるまで忘れていたバールの存在をとっくに思い出し、炎を投げ放ったクラスメイトの脳天へ叩きつけようとしている。
このまま振り下ろすのはいい。彼らを無力化もせず放置するわけにはいかない。
だが、全力では殺しかねない。果たしてどれだけ加減する――
〝Tutorial:無力化〟
〝三階の高さで頭から落ちて大丈夫な時もあれば、何も無いところで転んで頭を打って死ぬ時もあるのが人間です。大事なのは力加減ではなく衝撃を与える箇所。表示されるガイドに従い、思い切って攻撃してみましょう〟
ヴン、と、虚空に青く輝く
恐ろしく親切だ。それをなぞるように、バールを一閃。
確かな手応えとともに、「Good!」の文字が視界を踊った。おいやめろ真面目にやってるんだぞこっちは。
〝あなたは、迷宮主:炎の使い手に深い傷を負わせた〟
〝迷宮主:炎の使い手は気絶した〟
響く硬質な音は、金属音のそれに似ていた。
誰に言われるまでもなく、意識だけを刈り取った感触が手に残る。
僅かに安堵した。一人倒したと。
馬鹿だ。まだ三人残っているのに。
「む、村雨、ムラ、サ、ァ、メ――」
見れば、残った三人の内の一人。同級生女子の右腕が、胴の長い異形の黒獣へと変わっていた。
黒い獣の頭部は高速で伸長し、俺に向けて牙を剥いている。
回避は間に合わない。咄嗟にバールを握った右手を構える。
大丈夫だ、信じろ。ついさっきやったことだ。
例えどんな攻撃であろうと、この力は、触れるモノ全てを『収納』する――!
〝あなたは、痛手を負った〟
ダメだった。
衝撃。勢いよく俺の手が弾かれ、握っていたバールは吹っ飛んだ。
手首がへし折れそうだった。掌の肉が抉られていた。中指と薬指の先の何かが飛んでいったこの感触、激痛は――分かった、爪が剥がれたのだ。泣きそうになる。
だが、それより何より直感的に理解する。――
この力は確かにあらゆる種別の接触物を『収納』出来るのだろう。しかしそれでも制限はあった。
あえて感覚を例えるなら、それは嚥下に似ている。
人間の喉は、水や米粒ならば噛まずに飲み込めても、大きな肉の塊を丸ごと呑み込むことは出来ないのと同じ。俺の能力では、火炎やスマホのような軽い物は噛まずに一瞬で飲み込めても、人間のような重い物を十分な
ならばどうする。同級生女子の右腕から伸びる黒い獣は、弾き飛ばしたバールに噛みつき、バキバキと噛み砕いていっている。
武器は無くなった。無手の間合いでは届かない。あの子に走り寄る間に、獣は舞い戻って俺の全身を噛み砕く――
肌を牙に。身体を口に。精神を喉に、亜空を胃に。
ぐにゃり、と変形したガラスを通して見たように、三次元が歪んだ。
派手さは無い。音も無い。
まるで最初からそこにあったかのように、何日か前に使ったスコップが、俺の右手に握られている。
青い軌跡をなぞりながら、スコップを振り払った。
〝あなたは、迷宮主:獣の血族に深い傷を負わせた〟
〝迷宮主:獣の血族は気絶した〟
ここまで来てようやく本当の意味で「なるほど」と思う。
最近の不自然な物忘れは、つまりコレの暴走だったわけだ。
残る二人の内の一人は、大柄な男子。
袖を
〝あなたは、銃弾を拾った〟〝あなたは、2個の銃弾を拾った〟〝あなたは、3個の銃弾を拾った〟〝あなたは、4個の銃弾を拾った〟〝あなたは、5個の銃弾を拾った〟〝あなたは、6個の銃弾を拾った〟〝あなたは、7個の銃弾を拾った〟〝あなたは――〟
だが、効かない。威力の大小は一切関係なく、重量が足りないという理由だけで俺には届かない。
〝あなたは、迷宮主:銃の変異者、迷宮主:心の魔族に深い傷を負わせた〟
〝迷宮主:銃の変異者、迷宮主:心の魔族は気絶した〟
一息に薙ぎ払った。
大柄な男子と、何か手を出して唸っていた小柄な女子が倒れ伏す。
「……。やっ、たか……?」
やっていた。
四人はしっかりと息をしているが、起き上がってくることはない。
切り抜けはしたが、かなり危うかった。俺は別に特別喧嘩が得意というわけじゃあないのだ。四人が普通に素手で襲いかかってきていたのなら、いくらバールを持っていたところでどうにもならなかっただろう。
後は……。
俺は、恐る恐る、彼らの足元にあった焼死体を見る。
直視は避けたが、酷い。それはもう、人型の炭というべき有り様だった。損壊し過ぎて、うまく人間だと認識できない。
だが、それでも一つだけ分かることはある。
見た瞬間からそうだろうとは思っていたが、この死体は――大人の物だ。
間違っても、小学校に上がったばかりの児童のそれではない。
この人には悪いが、わずかに緊張が解け、はぁ、と息をついた。
「っぎ……!」
瞬間、抉れた肉、剥がれた爪の痛みが一気に来た。やばい。普通に動けなくなるぐらい痛い。あの声にあんな啖呵を切っておきながら、早くも挫けそうになる。
〝がんばってください〟
応援されてしまった。
いや、というかそもそも何なんだこの声。今更だが、ちょっと不気味だ。
〝…………〟
あっ……。その、色々とありがとうございます助かりました。
〝はい〟
どうやら、思ったより丁寧に扱わなければならないタイプの御仁らしい。
だが、実際助かったのは事実だ。この彼もしくは彼女がいなければ四人を無力化することは出来なかったろうし、そもそも炎に巻かれて死んでいただろう。
で、誰なんだろう。
〝包括的な説明には約780秒かかります。開始しますか?〟
780秒……13分だ。長い。流石にこの状況でゆったりと聞いている余裕は無い。
というか、さっきのホログラム? を使えば一瞬で俺の頭にその説明全て送り込めるのではないのだろうか。
〝
やめておきます。
〝了解しました〟
出来るならば今すぐにでもこの声の正体を知りたいが、しかし忘れてはならない。
今は室久からのあの切迫した電話があった直後なのだ。こうしている今も、あの二人がどんな状況になっているかわからない。
気絶させた四人を拘束なり何なりしておきたいところだが、その前に落とした携帯を探す。
「……クソ」
ダメだ。先ほどの炎の軌道上にあった俺の携帯は、熱に溶けて使い物にならなくなっていた。
みとらちゃんのスマホを使う手もあるが、しっかりロックがかかっている上、機種が違いすぎて緊急通報画面の出し方が分からない……いや、そうだ。
俺は頭の中で謎の声に呼びかける。――あの、そっちの方で通報とか出来ます?
〝
圏外……なら、そもそもこの声は何処から届いているのだろう。
〝
俺の能力の内部。
確かに、自身の内側に意識をやれば、先ほど炎やシャベルを仕舞ったり出したりしていた箇所の更に奥深く、俺自身でも容易には届かない場所に『何か』がある。
今までのが口の中や胃の中の物を吐き出していたのだとすれば、これは胃を通り過ぎ、腸の中に溜まっているような感覚。
〝便秘みたいに言うのやめてください〟
すいません。
まあ、さっきの炎は住宅街の方からも見えたろうし、銃声だって響いたのだ。俺が通報しなくてもその内パトカーが来るだろう。
今は室久……いや、その前にみとらちゃんを探すのが優先だ。
室久が通話で言っていた「小屋」については心当たりがある。「みとらを入れさせるな」という言葉から察するに、小屋の周辺に行けば彼女を保護できるかもしれない。
もっとも、その小屋の近くには、通話中に唸っていたあの唸り声の主が待っているわけだが……。
〝推奨:警戒態勢の維持〟
わかっている。まだ油断が出来る状況ではな――
〝
一気に汗が引くような感覚。
足を少しもつれさせながらも、俺は急いで右へと跳ぶ。
そいつ自身に音は無く、攻撃の瞬間は目で追えなかった。
分かるのはその結果のみで、痕跡はまるで巨大なレーザーで縦に薙ぎ払ったかのよう。コンマ一秒前まで俺が居た地面に、信じられないほど長く深く鋭い斬痕が刻まれている。
突進の先を見る。
人が一人、立っていた。
「……あぁ、またオマエですか。最悪」
見覚えのある顔だった。
女だ。花や蝶に例えて構わないタイプの清楚系美人。山の中で動くにはいかにも不向きなレディーススーツ。1-Dの副担任である女教師。
昼休みに話したあの先生が――俺に、抜き身の日本刀を向けていた。
「この四人だって、ギリギリで
先生は自分の頭を掻き毟る。崩れた前髪が目を覆い、その奥から覗く瞳が蛇のように俺を睨みつけた。
もう迷うまでも無い。コイツは敵だ。疑いようもなく。
そして確実に、この事態における俺が知らない情報を持っている。
だが、どうやって聞き出せばいい? 素直に問いかけたところで答えてはくれないだろう。
「……まさか、あの時のアレはそういうことだったのか……!?」
などと迫真の表情で適当なことを言ってみた。当然あの時がいつかは知らないし、アレが何かも知らないし、そういうことがどういうことなのかも分からん。
「ええそうですよ村雨君。本当なら火事の時の十六人全員、まとめて
なるほど。本当なら火事の時に十六人全員さっきの四人みたいな感じになっていたようだ。
で、それをこの謎パワーにいち早く覚醒した二週間前の俺が邪魔したせいでなんか中途半端になったらしい。全然覚えてないけどグッジョブ俺。
しかし……ノギス工業?
そういえば声もノニウスインダストリがどうとか言っていたが、その会社? は一体この事態にどういう関係があるのだ。ノギスグループと言えば何十かの社からなる世界的に有名な企業体の名前だが、その内の一つでいいのだろうか。
疑問は尽きない。だが、相手はこれ以上俺と言葉を交わす気は無いらしかった。日本刀を構え、クラウチングスタートに似た独特の姿勢を取っている。
〝推奨:逃走〟
同感だ。
相手が飛び道具を使わないのなら、俺の能力もさして役に立たない。
〝あなたは、シャベル(鉄製)[粗悪]を拾った〟
シャベルを虚空に仕舞う。かかった時間は一秒程度。そして、あの日本刀はシャベルよりも重いだろう。斬撃を受けてなお刀身に一秒間も触れていれば、既に俺の体は真っ二つだ。
せめて障害物の多い方向に逃げようと茂みに向けて駆け出す。
この丘ヶ山は小学生の頃に室久と何度も来ていた場所だ。地の利はこちらにある。
あの高速移動には度肝を抜かれたが、これだけ邪魔な物が多い場所であれば、十分な速度は出せまい。
「あぁ。――本当に、邪魔」
だけど今更、そんな常識が通用すると思っていた俺の方が愚かだった。
走ってくる女に木や枝が触れた瞬間、それらがバラバラに斬り裂かれていった。
「っな……!?」
これが、せめて彼女が手に持つ日本刀で木々を切り裂いていたというのならまだ理解も出来た。
だが違う。あの女は刀など使わない。ただその身体に障害物が触れただけで、木々や岩が手品のように多重分割され、障害としての機能を斬り飛ばされていく。
加え、女のスピードは一歩ごとに上がっていた。まさしく加速度的。最初は俺と同じか少し遅い程度の速度だったのに、もう既に全力疾走でも振り切れないほどの速度になっている。
まずい。追いつかれる。何か、何か無いのか。シャベルやバールなどではない、何か武器になるようなものは……いや!
「出ろ、炎! そして銃弾!」
手を後ろに向けてかざす。ちょっと熱気がぶわってなって、銃弾がぽとりと掌から落ちた。あっダメだこれ。
〝亜空間内の時間は止まっているわけではありません。攻撃として用いるならば、『収納』した直後に取り出すべきです〟
やる前に言って欲しかった。
こうなれば茂みを行くのはむしろこちらに不利だろう。諦めてある程度整備された山道に出る。
右は上り坂、左は下り坂。自転車があれば、迷わず下り坂を選んだのだが――いやあったわ。自転車。
まず全力で跳躍。次いで、両足を上に振り上げる。
そして俺は、数日前に失くしていた自転車を亜空間から取り出し騎乗した。
かくして位置エネルギーを運動エネルギーに変換。全力で坂を駆け下る。
一時的に女から大きく距離を離した。しかし振り切れてはいない。
女はぐんぐんと加速し続け、時速四十キロは優に超えているはずの俺に少しずつ迫ってくる。崖の手前にある分かれ道を曲がる頃には追いつかれてしまうだろう。
だが。俺は亜空間から更に物を取り出し、背後へと投げた。
「無駄なことを――、ッ!?」
投げ放ったのは同じく自炊の後に失くしていた小麦粉の袋。
袋は女に触れた瞬間にバラバラに切り裂かれ、中の小麦粉が煙幕のように彼女の視界を遮った。
無論、こんなものはすぐに突っ切られる。
だから、選ぶべき選択肢はこれしかない。
「ッ!」
崖の前にあるのは右と左の分かれ道。
だが、あえて右も左も選ばない。自転車で坂を駆け下った勢いのまま――俺は崖から飛び降りた。
一瞬の浮遊感。体が夜の闇へと投げ出される。
〝もしかして:E.T.〟
なんか滅茶苦茶のんきなギャグを言ってるヤツがいる。殴りたい。
ツッコんでいる暇はない。亜空間に自転車を仕舞いながら落下する。
山自体が大した山じゃない以上、崖もそう大した崖じゃない。それでも、下は何もない岩場だ。落下すればタダでは済まない。
しかし。この速度ならば横方向への飛距離が稼げる。
岩場に落ちるギリギリで、あの葉が生い茂った木に落ちることが出来る――!
〝警告:飛距離が足りてません〟
マジかよ。
俺は極限状態で咄嗟に亜空間から毛布を取り出し、とにかく乱暴に振り回す。
寸前で、木の枝に毛布が引っかかった。
ビギィ! と毛布を振り回した右腕に落下の勢いがのしかかり、鈍い痛みが走る。が、引き換えに落下の勢いは著しく減速する。
毛布をターザンのように使い、どうにか湿った土の地面に落ちた。ゴロゴロと十回近く大地を転がった後、俺の身体はようやく停止する。
全身が痛い。気分的にはとっくに半泣きだ。身体中が血まみれの土まみれ。平衡感覚も三半規管もズタボロで、胃の底からお昼のうどんがせり上がってくる。これであの女を振り切れてなかったら本気で泣く。
気合で木の陰へと隠れながら、崖の上を見た。
女は、分かれ道の前でしきりに周囲を見渡している。そして何度か左右を確認した後……諦めたように、左の方へと走っていった。
深く深くため息をつく。……どうにか、撒いたようだ。
だが……分かっている。まだ、これで終わりではない。
根性で立ち上がり、歩く。
「……クソ」
湿った地面には、小さな子供の足跡。
それが、山の中に建てられた小さな倉庫へと続いている。
「……いいさ、ここまで来たならとことんまでやってやる」
覚悟は決まった。
なんてことのない簡素なプレハブ小屋から感じる、運命の鼓動。
中に閉じ込められたモノを解き放つように、俺はそのドアを引き開けた。