そこに、異界があった。
山の管理に使われる用具が置かれ、大人にとってはきっと雑然と狭苦しく、しかし子供の頃の自分たちにとっては未踏の要塞に見えていた倉庫。工具マニアである室久などは大興奮して、一緒に「ひみつ基地にしよう」などふざけたことを言い、歳のいった管理人のお爺さんにつまみ出されていた記憶。
あの人も今では管理をやめてしまったのか、それとももう亡くなってしまったのか。
小屋は見るからにボロボロで、かなり長い間放置されている。
故にそこは、何の変哲も無いただの廃屋なのだ。
なのに。
扉を開けた先の暗い空間。
――最初に感じたのは、おぞましい
「……嘘だ」
ありえない。学校の体育館よりもなお広い――いいや、それどころではない。デパート? 大型ショッピングモール? どうにもしっくり来なかった。こんなに広い密閉空間を例える言葉は持っていない。
どんなトリックアートの天才だって、これほどの空間を数畳ごときの小屋に詰め込むことは出来ないだろう。これ以上の認識行為が恐ろしい。「プレハブ小屋の扉を開けた」という、自分の行動と記憶と精神そのものを疑ってしまう。
世界の内装は、大洞窟と形容すべき岩石の壁と天井。その下に広がるのは、どこか永地市の町並みにも似てしかし決定的に違う建物群。
古い木材とトタン屋根で出来た近代的な高層ビル。キレイにガラス張りされた鉄筋コンクリートのズタボロ一軒家。挙げ句、それらの色彩は全てが彩度と明度をごっそりこそぎ落とされて岩盤や地面の土までもが濃厚なダークグレー。
あらゆる存在が墨汁の風呂に浸けられている。何もかも入り混じって歪み並ぶモザイクな風景に、正気がガリガリと削られる。
「――――」
思わず、一歩、引いた。
目の前にあるのは、ただの粗末なプレハブ小屋。
扉の先にあるのは、暗く黒く歪んだ異世界の都。
……素人が作った合成画像みたいだ、と思う。
どう考えても、常人が立ち入るべき領域じゃない。
ここにあるのは、「ともだちをたすけたい」なんて、そんな小学生みたいな信念で立ち入っていいような世界じゃあない。
だが。
みとらちゃんの足跡は、迷う痕跡すらなくこの奥へ続いていた。
……畜生。なんてこった、ここで退いたら小学生女児よりもチキンであることが確定する!
〝あなたは、迷宮に足を踏み入れた〟
中に、入った。
空気が仄寒い。身体が震えそうになるのは低温ゆえだと思いたかった。
「…………」
本当に良かったのかと、疑問が頭を巡る。
しかし、仮に助けを待っていたところで、こんな一目見て分かる超常的な場所、公的機関はすぐに立ち入ってはくれないだろう。
みとらちゃんが危険な目にあっていることが百パーセント確定しているわけでもないのだ。まずどこぞの部署に連絡し、ゴタゴタと相談をして、その後に十分な調査をした上で、ようやくレスキューに入るはずだ。そんなもの、待っていられるわけがない。
国巻さんのような例外なら話は別かもしれないが、あの人は今入院中だ。流石に連れ出すわけにもいかない。
見渡せば、意外にも黒い世界は明るかった。
ほとんどの物が暗い色彩で統一されているために誤解したが、光量自体は日が落ちた外よりもむしろ大きい。
ダークグレーの天井を仰ぐ。
洞窟のような、黒い岩盤のそれ。照明らしきものは無いが、だとするとこの明るさの理由が分からない。
試しに、足元の黒い土をひとつまみ拾った。
普通の土と同じような感触だった。少なくとも、それ自体に「わけのわからなさ」は無いように思える。色が黒いのは……金属を多く含んでいる? 地学授業は選択していないが、恐らくはそんな感じ。
要するに、常識の範疇で説明できそうな黒色だ。材質に不自然さがない。
……いや、これ以上の分析は後回しだ。
注意するのは良いが、立ち止まるのはいただけない。
足跡を辿りながら、慎重に歩を進めていく。
歩きだしてみれば、少しずつ
ふぅ、と、ずっと浅く刻んでいた呼吸を深くする。
『――ガズロ』
直後、脇道から人間型の黒いナニカが飛び出して俺の呼吸は止まった。
『フェイクロゥダァアアアAAAAAAAAA――!』
「ウワー!」
襲いかかってくるソレの頭部に、ゴキィ! と咄嗟に振り回したスコップがクリティカル。「Excellent!」「すごいぞ!」「Tuyoi」「つよーい!」の文字が視界を踊る。やかましいわボケ。
〝会心の一撃!
首の折れ曲がった人間大の黒い
風船から勢いよく空気が抜けるような音。ナニカは心臓に排水口が出来たみたいに渦を巻いて収縮し――消失した。
跡には何も残らない……いや、収縮に巻き込まれて、地面が少し削れている。
……。……なん、だったんだ、今の?
〝Tips:
〝迷宮が発する力の塊。命や意思を持たない彼らは、大半が人型を取り、侵入者に敵対します〟
〝迷宮は理論上あらゆる事象を描写することが可能ですが、可能性の振れ幅が大きい存在は正確に描写できません(ヒトの受精卵が大人になった時の予想図を正確に描ける者が存在しないようなものです)〟
〝結果として、描写の失敗により発生するものが
いや……説明されてもわからん。もうちょっと噛み砕いて欲しい。なんというか融通が利いていない。
〝…………〟
拗ねちゃったっぽい。ごめん。
だが、とりあえずアレが敵で、命や意思の無いエネルギーのようなモノであることは分かった。
階層が上がると脅威度が上がる、という説明が気がかりだが、迷宮とやらには地下や上層があるという理解でいいのだろうか?
〝
……何やらむつかしいことを言っているが、要は階層があって、階段で上り下りするらしい。
曲がり角から少しだけ顔を出し、大通りのようになっている場所を覗き込む。
この様子では、他の場所にも同じように居るのだろう。
階層を上がる度にコレの脅威度が上がるというのなら、いよいよ
みとらちゃんが別の階層とやらに行く前に、早く見つけ出すべきだ。
警戒しつつ、しかし早足で彼女の足跡を追っていく。
みとらちゃんの偵察はかなりしっかりしていた。交差点の前では地面に複数の矢印が描かれ、それぞれに印が付けられている。
○印の先を進んでみれば、
少しずつ、奥に奥に進んでいく。
それにつれて、地面に物が落ちているのが目立ってきた。
鉄球。鉄板。鉄パイプ。
簡単な作りの鉄製品が、無造作にゴロゴロと置かれている。
何かのトラップかとも思ったが、そういうわけでもなさそうだ。遠くから適当な棒で突いてみても反応無し。
……まあ、持っていけば武器にはなるか。今なら、大した手間も要らないし、大荷物で困ることもない。
〝あなたは、鉄球を拾った〟
〝あなたは、鉄板を拾った〟
〝あなたは、鉄パイプを拾った〟
〝あなたは――〟
何度か物を収納して、分かったことがあった。
まず、この能力は「①収納したい物に一定時間触れ続ける」「②対象が重いほど必要な時間は長くなる」という制限がある。
この必要時間だが、対象の重量にきっちりと正比例しているわけではないらしい。
基本的にはおおむね1kgにつき1秒といった具合なのだが、どうも0.1kg以下と10kg以上で何らかのラインがある。
0.1kg以下なら必要時間がなくなり触れた瞬間に収納でき、10kgを超えると途端に必要時間が跳ね上がる。
詳細な仕様はまだまだ分からない部分が多い。後で詳しく検証しようと思いつつ、少女の足跡を辿っていく。
既に小走りで追っているのに、みとらちゃんにはまだ追いつかない。
そして――
「……クソ」
足跡はついに、地下横断歩道のような階段を下っていってしまった。
〝あなたは、階段を下りた〟
第二階層。
階段の下にも、ほとんど同じような黒色の洞窟街が広がっていた。
しかしここに入ってから、現れる
相変わらず黒い靄のような姿なのだが、その上に服を着ているのだ。
しかも、ガラの悪いチンピラのような格好。それらが、鉄パイプやナイフのような凶器を持って武装している。
……これが、脅威度が上がる、ということだろうか。
手から炎を出すおかしくなった同級生や、触れた物をバラバラにする日本刀女教師とは違う。わかりやすく、恐ろしい。
一般人である俺にとっては、むしろこういう低俗な危険の方が現実的に恐怖だった。単純に数体に囲まれればそれだけで終わってしまう。
見れば、道に落ちる鉄製品も、鉄パイプや鉄板から、ナイフ・包丁・
銃刀法違反……とは思いつつも、落ちている武器を回収しつつ足跡を追っていく。
〝あなたは、ナイフ(粗悪)[鉄製]を拾った〟
〝あなたは、斧(良質)[鉄製]を拾った〟
〝あなたは、包丁(粗悪)[鉄製]を拾った〟
〝あなたは、長槍(良質)[鉄製]を――〟
武装した
丁寧に分岐を確認し、最も安全なルートへと迷いなく歩んでいっている。辿っていけば、会敵することは全く無かった。小学生女児、優秀過ぎる。
しばらくして、足跡は大通りを突っ切っていく。
その場所だけはかなり危険だった。何体もの
だが、一人ならすり抜けられないほどではない。
帰る時にどうするかが悩ましいが、その辺りは後で考える。今はただタイミングを見計らい、一気に大通りを駆け抜けた。
しかし、その直後に。
〝警告:敵接近。停止してくださ――*おおっと*。回避不能。エンカウント〟
「っ?!」
そのままの勢いで次の通りまで駆け抜けようとした俺は、警察官の制服を纏う
『ガズロ。フェイクロゥダ――』
心臓が止まりそうになる。そこへ、迷いなく拳銃のトリガーが引き絞られた。響く銃声。
だが、初手が銃撃であったのはむしろ幸運だった。
〝あなたは、銃弾を拾った〟
胸元に飛翔した弾丸が、俺の学ランに触れた瞬間、虚空へと消える。
即座に、警察官の
まるで鏡で反射されたように、俺を撃った弾丸は自身の射手を撃ち抜いた。
〝警官
〝あなたは、
ところで、その技名のようなものは何だ。まさか、こういった応用法は既に名前が付けられるぐらいには確立されているのか?
〝
どこだよR2ボタン。
振り返れば、みとらちゃんの足跡は交差点の前で少し足踏みしている痕跡があった。
ゾンビのような
だが、この
撃ち方など知らないが、威嚇程度には使えるかもしれない。
急ぎ、俺は、黒い靄が握りしめるソレを拾おうと腰をかがめる。
〝警告:
ビクリと手を止めた。
次の瞬間、ギュルリと渦を巻く黒い靄。
拳銃が
「っ……」
銃身とスライド部だけが地面に落ちる。……とんでもない威力だ。あのまま触れていたら指の数本は吹っ飛んでいただろう。
本当に、助かっている。この「声」には既に何度助けられたか知れない。完全な信頼は出来ないにしても、ある程度信用するには十分だった。
〝弊機の性能はいかがですか? 星をタップして評価ポイントを入れてください。☆☆☆☆☆〟
表示された
しかし、この「声」があの副担任の敵対勢力?らしきノギス工業?の所属?だとして……あの副担任は一体どこのどういう輩で、何の目的で俺たちにこの力を与えたのだろう。
〝不明な人物は、所持武装および体表から計測された退魔効果より、ドミニオン系要注意団体・裏刀の派生団体であると推測されます。しかし、ドミニオン系所属者による
これも、すぐに説明出来ることではないらしい。
仕方ない。後で解説してくれるだけありがたい話だ。
気を取り直し、捜索を再開する。
と、そこで、警官
「……財布?」
移動しながら拾い上げ、手早く中を
一応、免許証のような物はあったが、写真や名前の部分などは黒い染みに塗りつぶされていた。人となりがわかるような情報は何も無い。
現金は二万と数千円ほど入っているが……仮にネコババしたところで使用出来るのだろうか、こんな怪しい金。
〝
そうなのか。じゃあ、まあ……ガメとくか。
〝あなたは、24000円を拾った〟
ともあれ、これ以上の油断は許されない。
いくらみとらちゃんの足跡が頼りになるからって、何も考えずほいほいと辿っていけば死にかねないというのは身に沁みた。
冷静かつ慎重になる必要がある。下手を打てば二次災害だ。ミイラ取りがミイラになっては意味がない。
銃声を聞いた
音を立てないようにし始めると、迷宮の中は思った以上に静まり返る。
上映三秒前の映画館だって、これほど無音にはならない。
音を立てるモノがほとんど無いのだから当然か、と思う――
ちょうど角を曲がったあたりで、警官服がいた場所から、ズシン。大きな物音が響いた。
もうやってきたか、とほんの少し曲がり角から顔を出して、来た道を振り返る。
そこには、
人身に牛頭持つ、ミノタウロス。
「……あ?」
神話みたいに、魔獣は在った。
もう何が来ても驚かないつもりだった。
超常的なモノなんて既に十分見たつもりでいた。
予想外が起こることなんて、承知しているつもりだった。
甘かった。
それは、今までの何よりも解り易かった。
解り易く、暴力的だった。
解り易く、脅威的だった。
解り易く、災害的だった。
そして何より、どうしようもなく解り易く――超常的だった。
まさに怪物。
あまりにも、あまりにも大きい。遠近感がバグりそうだ。巨木のような、小山のような肉質巨躯――バカな。そんなわけがない。それじゃあ天井を突き破ってしまう。ちゃんとよく見ろ、体長自体は二メートル強で、
分かっている。誰に説明されずとも
アレの規模は物理的な領域に収まっていない。俺の感じたモノが間違っているのではなく、これほどのモノを二メートル強程度のスケールで済ませてしまう三次元の方が壊れているだけ。最初に思った巨躯こそが、あのバケモノの真実だ。
物理空間に収まらない超常巨獣――それだけでもう十分だというのに、本能で脅威を理解したというのに、理詰めと常識で脅威性を否定することすらアレは許してくれない。
見れば分かる。ヤツが棍棒みたいに携えているのは、あろうことか対戦車級の
『ガズロ――』
一瞬だった。
ミノタウロスに襲いかかろうとしたチンピラ
卵の殻でも割るみたいに、頭蓋を握りつぶされた。
速すぎる。あんなの回避不能だ。アレの腕の届く範囲に入っただけで死ぬ。
『フェイクロゥ、』
階層全体を揺らす轟音。
怪物が持つ銃が一秒に十度瞬いて、次いでやってきた五体の
ガラガラと倒壊する瓦礫。もしあの家の中に居たのなら、生き埋めにされて終わっていただろう。
俺の手にした超常なんて、この純粋暴力に比べたら子供の玩具だ。
「……。■、ァ……」
呻くような声。それと共に、ミノタウロスの足元から、無数の兵器が
黒い土が渦を巻き、芽吹くように生み出される剣、槍、斧、鉄パイプ、ナイフ、ハンマー、ピストル、マシンガン、アサルトライフル、スナイパーライフル、アンチマテリアルライフル。あぁ、あの土の黒はやはり金属の色だった。ここに来るまでに落ちていた武器は、全てこの怪物が創っていたのだと理解する。
だが、脅威であること以外の何も分からない。なんだ、なんだ――何だ、アレは。
〝
耐える――? 無理だ。アレの存在を知覚するだけで死にそうになる。生物としての根源的な部分から怯えているんだ。理性や意地で耐えれるようなものじゃない。
〝外見はギリシャのミノタウロスに近似していますが、生物学の観点より、西洋ではなく東洋のウシ亜科であると判断。日本の牛頭人身であれば神仏習合の神である
声の長広舌を聞く余裕は無かった。
一刻も早くあの魔獣から離れようと、限界まで気配を殺して歩く。
どこだ。みとらちゃんはどこにいる。もう悠長なことはしていられない。俺はまだ油断していた。脅威がこれほどに脅威だったなんて思ってもみなかった。すぐに見つけ出さないと、本当の本当に何もかも終わってしまう。
「…………」
ズシン、ズシン。怪物の動きは無軌道だ。
視線を宙に彷徨わせ、意識は見るからに虚ろ。足跡なんて探してもいない。
なのに、その移動が、俺の進む方角と一致している。アレの本能が、にわかにこちらを捉えている。
「……はぁ、はぁッ……!」
ほんの少しの移動で、もう酸欠になりそうだった。
音を立てないように――そう思っていても、呼吸は要る。息が切れるのを止められない。
もういい。何も考えるな。ただあの子の足跡を追えばいい。他は無視だ。室久のヤツはきっと上手く逃げ出したのだと思い込む――アイツが妹を置いて逃げるわけが無いとか、そんなことは分かっているけれど――ここまで来ればもうあの子以外の何がどうなろうが知らない。親友の、頼みだ。これだけは、絶対に、
「――――」
足跡が、二つあった。
みとらちゃんのそれに交差するように。誰かの靴が、黒い土を踏んでいる。
続く先を見た。
――両足の折れた、見知らぬ男がうずくまっていた。
若い男。大学生ぐらいの。常時ならやや軽薄に感じそうな服は薄汚れ、顔は苦痛と涙に歪んでいる。
それが、こちらに顔を向けた。
「た、たすけ」
ふざけるな。
ふざけるなよ、見て分かるだろうが。こっちだって精一杯なんだ。恐怖を必死に抑えて、自身の命さえどうなってもいいと友人の妹のために奮闘しているんだ、余裕なんて無いに決まってるだろうが!
知るか。知るか知るかもう知ったことか。なんでこんなところでいきなり無関係な第三者が出てくるんだ。予兆も伏線も無かったじゃないか。そんなの手に負えないし手に負う義理も無い。どうでもいい人間がどうでもいいところで死ぬだけのことなんてどうでもいい。俺はヒーローでも何でもない、自分の知り合いだけ守れればそれでいいだけの、ただの高校生なんだよ……!
俺は俯き、顔を逸らす。
そこが彼の分水嶺だった。
「助けッ――!」
「■■■■■■■■■■■■――!!」
懇願の叫びを塗りつぶすように怪物が吠える。
明らかに、ミノタウロスは青年の悲鳴を捉えた。
まるで隕石みたいに超重量の威圧感が近づいてくる。
彼はもはや半狂乱だ。必死になって泣き喚き、こちらに詫び謝り、最後に恨みと怒りをぶつけてくる。
そんなやかましい生き物を、魔獣が見逃すはずがない。
無意識に、良い
何もかもを無視して走る。
警戒することをなくしてしまえば、みとらちゃんは思った以上にあっさりと見つかった。
見つけ出した少女がびくりと震える。しゃがみ込んでこちらを伺う彼女は、土に汚れてこそいるが傷も何も無い。それは、この状況で真実本当に有難い救いだった。
「く、
「逃げるぞ、みとらちゃん」
「あの、さ、されどまだお兄ちゃんが、」
抱え上げ、口を塞いで、顔を俺の胸板に埋めさせた。
少女はもがいて抵抗する――構わない。この程度の重量、一分もかからず『収納』できる。
いける。この子一人なら確実に迷宮の外に連れ出せる。
〝推奨:救助対象の意思確認〟
黙れ。全部俺が勝手にやる。こんな小さい子に選択させるな。責任を押し付けてたまるか。見殺しの罪悪感なんて、俺一人で抱え込んでいればいい。
〝救出を中止する場合、
うるさい。確かにお前は助けてくれた。感謝もしてるし礼だって言える。だけどこっちは、最初から一言たりとも「助けてくれ」なんて言った覚えは無いんだ。手助けを止めるというなら勝手にすればいい。
〝
あんなのただの理想論だろうが。何を言ったところで優先順位は結局ある。全て拾うことにこだわって、何もかも失くすなんて許されない。どれだけそうしたいからって、実際にそうできるわけじゃない。
〝――
……俺の気持ちなんてどうでもいい。俺がそうしたいからって、この子を無謀な賭けにベットしていいわけが無い。
〝ならばこそ、少女の意思を確認すべきです。その感情は、あなた固有のものではありません〟
出来るわけねえだろ、この子だけは確実に助けられるんだぞ。室久だって、自分がどうなろうが妹だけはって思ってるはずだ。本人にどれだけ恨まれたって、この子だけは助けなきゃダメなんだよ……!
〝それではあなたが報われません。人助けに苦痛を覚えるのは間違っているはずでは?〟
だから、俺の気持ちなんてどうでもいいと――
〝
思考を遮るように、声は言う。
〝救ってください。そして、救われてください。真の正道に涙は不要なのだと、
「…………」
命を取捨選択することは、間違いなんかじゃない。災害現場に携わるレスキュー隊員だって、大量の急患を抱えた医者だって、マクロな視点で見れば大勢の人生を左右する政治家だって、それが最善でないと知りながら、より大事な方を生かす決断をする。
現実的に常識的に、俺の方が絶対に正しい。
あんなバケモノが迫ってくるのを目の当たりにして、見知らぬ第三者まで助けようとする方が絶対に間違っている。
冷静かつ慎重になるべきだ。
下手を打てば二次災害だと知っているだろう。
ミイラ取りがミイラになっては意味がないと確認したはずだ。
だが。
その声が、あまりにも真摯過ぎて――
「……頼む……」
気づけば、少女を抱える腕から力が抜けていた。
わずかに解放されたみとらちゃんが顔を上げる。
俺は言った。
「お願いだ、
言ってしまった。
「――うん、助けて。というか、みとらはさいしょから空間さんがみんな助けてくれるとおもってたので」
当然みたいに、みとらちゃんは答えた。
本当に分かっているのか不安になるような、軽い声。
しかしもう関係がなかった。やるしかない。やるしかないのだ――この子にこう言わせてしまったからには。
相応の責任を、果たす他ない。
「……少し狭いかもしれないけど、我慢してくれ」
〝あなたは、少女を拾った〟
みとらちゃんの姿が消える。
得体の知れない亜空間に小学生女児を放り込んだことになるわけだが、しかし。
俺には、この能力が何かを守るための物だという確信があった。
今まで使っていた空間より少し『深い』場所に、少女を埋める。
これで、俺が死なない限り、彼女を傷つけられる存在はいなくなった。
「■■■■■■■ォ……」
眼の前には、恐怖を撒き散らす神話の魔獣。
自分でも気づかないぐらい自然に、俺は一度見捨てた犠牲者の前で立ち塞がっていた。
今から始まるものこそが、俺にとって最初の戦い。
戦わなければ殺されていたこれまでとは違う。
紛うことなき己の意思で、俺は本物の怪物へと駆け出した。