作者はそう思いましたので、そういうていでお願いします。
「はっ、はっ……はっ、はっ……」
「良し。最後の調整も問題ないな」
私が出走するレース、紫苑Sの前日。本番に疲れを残さないように今日は軽めのトレーニングで終えました。
うっすらと額に浮かんだ汗をタオルで拭き終え、私は空を見上げました。すると今にも雨雫が落ちてきそうな、重たい灰色の空が視界いっぱいに広がります。
「…………」
「天気が気になるか」
「……はい」
今にも雨雫が落ちてきそうと表現しましたが、現実にはただの曇り空なわけで。
もしかしたらこのまま雨が降らないかもしれません。雨が降って重バ場になって欲しい私として気が気ではないのです。
今日の降水確率、90%なんだから降ってくれても良いのに……
このまま雨が降らなかったら気象庁に電凸してしまうかもしれません。
だって期待させておいてがっかりさせるのは悪質だと思います。私が勝手に期待してるだけなんですけどね……。
「こればかりは祈るしか無いな。降らなかったら、そん時はそん時だ。
とはいえ雨が降らなくて良バ場のままだとしてもお前は十分に走れると思うがな。前とは見違えるぐらい速くなった」
「それはそうですけど、やっぱりナイトに勝とうと思うと雨が降らない事には……」
「……少し忠告いいか?」
「何でしょうか?」
トレーナーさんにしては珍しい切り出し方。素直に言葉を待ちます。
「お前はナイトをライバル視して彼女に勝つ事を第一に考えているようだが……他の出走者達も警戒しておけよ。
皆、勝つために努力して来ているはずだ。ナイトに勝っても他の奴に一着をかっさらわれたら元も子もないぞ」
トレーナーさんの至極当然な指摘。
「はい。それはもちろん分かっているつもりですけど……」
それに対して私は実に曖昧な返事をしました。
「つもり?」
「……ナイトの模擬レースの走りがずっと頭の中に残ってるんです。
それを思い出すと、ナイトが先頭を走るイメージしか湧かなくて。
彼女に勝てばそれすなわち一番、みたいな感じでどうしても目の敵にしちゃうんですよね」
我ながら視野が狭い考えだとは思いますが、それほどまでにナイトの走りは私の中では印象的な物でした。
「そうか……。競技者のそういう勘は良く当たるとも言う。
それに実力的にもナイトが一番なのは疑いようがない。まぁ好きにしてみろ」
「はい」
練習のかたわら、同伴競技者の情報も分析していました。
ナイトを中心に色々なレース展開を考え、自分なりの作戦を考えたので次のレースではそれを実行しようと思っています。
トレーナーさんにも目を通してもらったので、まるっきり的外れな物は無いと思います。
「……そういえば、見せて貰った作戦は全て先行策だったが、差しは考えなかったのか?
ジェット走法を習得した関係でスパートの最高速が上がったから、模擬レースみたいに後ろから行くこともできると思うが」
急にトレーナーさんがそんな質問をしてきました。
どうしてレース前日に今更そんな質問を……?
そう疑問に思いましたが、とりあえず答えます。
「それは私も考えましたけど……次のレースで走る中山競技場には最終直線に上り坂があるせいで、後ろから捲るのは難しいと思います。
それに差しは後ろで脚を溜めておく関係で、底力を発揮しづらいですし」
言ってから少し生意気だったかもしれないと思いました。
自分の考えは正しいと思っていますが、トレーナーさんは所謂、教師に当たるような立場。
その言葉に反論するのは気が引けてしまうのです。しかしトレーナーさんはわずかに口角を上げて、
「確かにその通りだ。良く考察出来てる」
そう褒めてくれました。少し照れくさくて目線を逸らしながら頬を人差し指で掻きます。
再びトレーナーさんの方を向くと、いつの間にかトレーナーさんは空を見上げていました。
「……お前の担当になってからもう三か月か。時間が経つのは早ぇな」
「……確かに。もう三か月も経ったんですね」
振り返ってみると、寝不足になったり、ジェミニに併走で負けたり、ジェット走法を習得したり、模擬レースで一着を取ったり、ナイトに宣戦布告しちゃったり、胃の中身を戻したりと、色々な出来事がありました。
それら全てが昨日の事のように鮮明に思い出せます。
……思い出したくない記憶も結構混ざっていますが。
「この三か月、お前はよく頑張った。今となっては一人で練習メニューを考えられるようになったしな。
レースの作戦もそうだ。俺の質問にも自分なりの意見をきちんと返せてた」
「それは……トレーナーさんにそうなるように指導してもらいましたから」
ウマ娘自身が考え、一人でも成長できるようにする。それがトレーナーさんの方針です。
トレーナーの付いていないウマ娘が皆、一人でも成長して行けるようにしたい。それがトレーナーさんの望みでした。
本来なら私の専属になるつもりはなく、本を出したり教官となって多くのウマ娘を指導したいとも言っていました。
「……!」
そこまで考えると、この後にトレーナーさんが何を言おうとしているのか、なんとなく察しがついてしまいます。
悲しさが表情に出ないように我慢したまま、トレーナーさんの次の言葉を待ちます。
「……明日、お前が勝つにしろ負けるにしろ、次のレース限りで俺はお前の専属を辞める」
トレーナーさんはサングラスを外し、私と目線を合わせてそう言いました。
「…………はい」
やはりと言うべきか、私が想像していた通りの内容をトレーナーさんは口にしました。
予想はしていたものの、実際に言葉にされると、悲しさ、寂しさ、切なさ、それらの感傷的な気持ちでいっぱいになります。
「……そんな顔をするな」
自分では表情が崩れないようにしていたつもりでしたが、どうやらダメだったようです。
「レース前にわざわざこの話をしたのは、お前に自信を付けてもらう狙いがあったんだがな……」
「……自信、ですか?」
「ああ。俺は前にも「お前が俺の力が無くてもやっていけると判断したらお前の専属を止める」……そう言ったよな」
「はい」
「だから俺が専属を止めるのは所謂(いわゆる)「免許皆伝」にあたるわけだ。
この三か月でお前は本当によく成長したよ。それを次のレースの自信にして欲しいと思ったんだが……」
トレーナーさんは私の顔を見ます。
「逆効果だったようだな。……悪ぃ、お前の気持ちを上手く汲み取れてなくて」
「いえ……いつかこんな時が来るのは分かっていましたから。覚悟の出来ていなかった私が女々しいだけです」
「お前は女だから女々しいも何も……すまん、今はそういう話じゃないな。
とにかく、そこら辺のメンタルケアも今は俺の仕事の内さ。
この件は単純に俺がトレーナーとして未成熟だっただけだ。
……あれ以来上手くやれてると思ってたが、まだまだ新人ってことか……」
自虐的な発言をするトレーナーさん。
私は思わず口にしていました。
「あ、ありがとうございました!」
それを聞いてトレーナーさんは怪訝な表情をしています。
「……どういう思考の飛躍でお礼が出てきたんだ?」
「え、えっと、それは……と、とにかく! 三か月という短い間でしたけど、トレーナーさんにはとてもお世話になりました!
ここまで私が速くなれたのはトレーナーさんのおかげです!
私はトレーナーさんをすごいトレーナーだと思います!
他のトレーナーと比較したわけじゃないので絶対的な評価ですけど……私の顧客満足度は100%ですから!
トレーナーさんがトレーナーで本当に良かったです!」
私はそう畳み掛けました。とにかくお礼が言いたかったのです。
トレーナーさんがあの夜に私の専属になってくれた事で、私は大きく変われたのですから。
「そ、そうか。なら良かったが……」
グイと距離を詰めた私に若干引き気味のトレーナーさんですが、眉間に寄っていた皺がすっかりなくなっているので、少しは気分を持ち直してくれたようです。
身を乗り出しすぎた私も正気に戻り、適切な距離を取り直しました。
「……俺もお前が担当で本当に良かったよ」
「へ……?」
距離を取った所へトレーナーさんのいきなりの不意打ち。変な声が出てしまいました。
「似た者同士って奴なのか……俺はお前に良く自己投影してしまう。
お前が早く成長したいと焦って寝不足になった時があっただろ? あの時もお前の苦しみは良く分かった」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。俺もトレーナーになるための勉強をしていた頃に、「俺は昔遊びまくっていたハンデがあるから、夜寝る間も惜しんで勉強しないと」って毎日ボロボロになるまで勉強していた時期があった。
何もしてない時間が後ろめたかった」
「そ、そうですよね! 努力してない時間は甘えだ、って考えが頭にこびりついて離れなくて……」
「それにお前が模擬レースで勝った時も自分の事のように嬉しかった。お前の努力が報われた瞬間、トレーナー試験に受かった時を想起しちまったんだよ」
「あ、確か両手でガッツポーズしたんですよね」
「み、見てたのか?」
「いえ、スパさんから聞きました」
「あのやろ…………と、とにかく。俺はお前の悩みも苦しみも成長も勝利も、自分の事のように感じるんだ。
人バ一体とはこの事を言うのかもな。お前は俺にとって最高のウマ娘なんだよ、ノール。
だから俺からも言わせてくれ、ありがとうな」
サングラスを外したトレーナーさん。
それだけでも結構珍しいのに、トレーナーさんがサングラスを外した時は大体が重々しい話をする時なので、サングラス無しで柔和な表情を浮かべるのは初めて見ました。
「あ、え、いえ、ど、どういたしまして……///」
レアな表情に加え、面と向かってお礼を言われたのも相まって、しどろもどろになってしまいました。
気恥ずかしさから体温が上昇していくのも感じます。
二人の間に出来た妙な雰囲気。
ポツリ……
その時、手の甲に何かが当たる感触が。
「……もしかして」
「雨、だな」
私もトレーナーさんも空を見上げます。するとポツポツと水滴が額や手のひらに当たってきたのも束の間、すぐにボタボタボタと大きな雨粒が私の全身を打ち据えてきました。
スコールのような雨に、周りの人たちは急いで校舎の方に避難していきます。
しかし私は避難するどころか、逆に手を広げ、目を閉じて空を仰ぎ、雨に打たれるままにしていました。
照れで温まっていた体が雨で冷やされて心地よいです。
しばらくそのままの状態でいました。体操服が余すところなく体にへばり付く頃、急に雨が止みました。
不思議に思い、目を開けると、黒い布と金属製の骨組みが目に入ってきます。
「何やってんだお前は。呼んでも上の空でずぶ濡れになって……」
声がした方を向くと、呆れた顔をしながら私にバスタオルを差し出すトレーナーさんが目に入ってきました。
「ま、雨が降って感極まる気持ちは分からなくもないがな」
内心を言い当てられた私は、口元を綻ばせながらバスタオルを受け取り、羽織りました。
「……明日はゴール前で待っていてください。トレーナーさんに一着を贈りますから」
私がそう言うと、
「それは嬉しい申し出だが……余計な事をあんまり考えんなよ。
下手な事で気負って、またスタートをミスりやがったら免許皆伝も無しに放逐するぞ」
トレーナーさんの返しに私の口はますます綻びます。
「余計な事じゃありませんよ。とても大切な事です」
飾らない笑顔でそう言いました。
見返してて思ったんですけど、この主人公、かなりトレーナーの事 like ですよね。
出来るだけ抑えたつもりで書いてこれだから、無制限に書いていたらやばい事になってたかもしれません。