私がターフで転ぶまで   作:RKC

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重ね重ねですが、誤字報告ありがとうございます。
わざわざ報告していただける皆さんには頭が下がる思いしかありません。


二十三話 紫苑S 当日

 カチッ

 

 目覚まし時計がアラームの時刻になった瞬間に鳴る僅かな機械音。それをきっかけに私は目を覚ましました。

 眠っていた頭は一瞬で冴え、すぐに体を起こし、目覚まし時計がうるさくなる前にアラームをOFFにします。

 

 そうして静かに迎えた朝は紫苑S当日。

 いつも通り朝の身支度を済ませていると、遅れてジェミニも目を覚ましていました。

 

「あ、ごめん。起こしちゃった?」

「いや別に……」

 

 ジェミニはそれだけ言うと、ベッドの上で胡坐をかきながら目を閉じてしまいました。

 瞑想しているのか、単純にエンジンが掛かっていないのかは定かではありませんが、彼女の朝はいつもそうです。

 

「今日のレースは昼からだろ……。なのに朝早ぇな……」

「本番の日こそ普段通りにした方が良いかな、って。

 それに蹄鉄のチェックとか、作戦のおさらいとかやる事はいくらでもあるし」

 

 財布、スマホ、着替え、タオル、水筒、折り畳み傘、レース用具一式、その他諸々……良し。

 

「じゃあ行ってくる」

「あぁ……気が向いたら応援に行ってやるよ……」

 

 荷造りを済ませた私は玄関の扉を開きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふー……」

 

 時と場所は変わって昼過ぎの中山競技場ウマ娘控室。

 

 あれから寮を出た私はトレーナーさんと最後のミーティングをした後、中山競技場まで来ました。

 消化の事を考えて、お昼前に食事を済ませ、最後の栄養補給も万全。

 

 今は20分後に始まるレースに備えて体を温めていました。レース前はパドックでお客さんに顔見せをするので、それより前にはウォーミングアップしておく必要があります。

 

 とはいえ室内では派手に動けません。ですので本や動画を見て学んだ太極拳で体を温めていました。

 

「調子はどうだ?」

 

「……良い、と思います。体の不調はありませんし、気も研ぎ澄まされてますから」

 

「不調が無いのは良い事だが、研ぎ澄まされてるってのは一体……」

 

「何と言いますか、普段なら気づけない事に気づけるんです。朝は目覚ましが鳴る前に目を覚ましましたし、人の気配とかにも敏感なんです」

 

「……緊張しているわけじゃないのか?」

 

「緊張してるわけではないと思います。……不思議と落ち着いてますし」

 

 胸に手を当てて心拍を計りますが、平常より少し速いぐらいです。ウォーミングアップの効果が出ているだけでしょう。

 

「そうか。なら良いが……」

 

 ……ツ……コツ……

 

 その時、トレーナーさんの声に混ざって足音がしました。

 

 これは……部屋の外、それもパドックの方から。足音的に多分革靴かな……。

 

「どうした?」

 

 急に扉の方を向いた私を疑問に思ったのか、トレーナーさんが声を掛けてきます。

 

「係の人が来ました。呼びに来たと思うので行ってきますね」

「あ、おい……」

 

 控室の扉を開けて外に出ると、やはり革靴を履いた係の人がいました。

 その人は私が急に出てきたせいなのか少し驚いています。

 

「パドックですか?」

「え、あ、はい! もう行けますか?」

「大丈夫です」

「それではお願いします」

 

 私は係の人に促されるまま、パドックの方に歩いていきます。トンネルのような通路を抜けると、山ほどの喧騒に包まれました。

 視界には人、人、人。今までに見たことが無い超満員を目の当たりにして、少し怯んでしまいます。

 

「一番、ノールミサンガ。------……」

 

 しかし実況の声が響き渡ったのをきっかけに正気を取り戻しました。

 

 まぁ、このお客さんたちが見に来ているのは私なんかじゃなくて、この後に出てくるナイトか……。

 

 トリプルティアラを有望視されていたウマ娘の怪我からの復帰戦。

 彼女のファンが一斉に押し掛けているのでしょう。自分に注意が向いていないと思うと、大勢の目もあまり気にならなくなりました。

 

 冷静に客席を見回すと、スパさんの姿が見えました。その少し横にはジェミニの姿も。

 

 応援、来てくれたんだ……。

 

 二人の方に手を振ると、スパさんは大きく手を振り返してくれます。ジェミニの方は、まさか見つかるとは思わなかったのか、驚いた表情をしていました。

 

 ちらりと空を見ると、雲間が見えない程の曇天空が見えます。

 昨日の放課後から降り出した雨は今日の昼前には降り止みました。

 重バ場は望んだものの、雨の中走るのは視界が悪くなるので、今の状態は私にとってベストだと言えます。

 

 そんなことを考えている間に私のバドック時間は終わりました。踵を返して通路に戻ります。

 控室に戻る道中、次に顔見せをするナイトが前から歩いてきました。

 

「「……」」

 

 お互い、一瞥(いちべつ)するだけ。言葉も無くすれ違います。

 

 それだけのコンタクトでしたが、私は尻尾を逆立てて身震いしていました。

 レース前のウマ娘が纏う張り詰めた空気。GIを取った事がある彼女のそれは一層すさまじいです。

 なまじ同室相手として彼女の普段の姿を知っている私だからこそ、ギャップをモロに受けてしまった気がします。

 

 あれと競うのか……

 

 自分より20cm以上も高い身長。強靭なトモ。鋭い黒の瞳。その全てが私を威圧します。

 一か月前には毎日見ていたはずのものなのに。

 

 勝てるのか……?

 ……ダメだ、いけない。下手な事を考えるな。

 

 見ただけで実力差を感じ取ってしまい、見切りをつけそうになった自分自身を(いさ)めます。

 

 思い出せ。

 練習した日々を。

 転倒も(いと)わないと誓った覚悟を。

 自分が満足するためにも、トレーナーさんに報いる為にも……私は勝つ。

 

 目を閉じ、再び開いたときにはもう迷いはありませんでした。そのまま振り返らずに自分の控室に戻ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(sideナイトグライダー)

「ふー……」

 

 逆立つ耳の毛を手でほぐしながら短く息を吐く。

 

 パドックでの牽制は今まで何度もあったけど、さっきのは過去一だった……

 

 同室相手のノール。彼女と本番のレースで走るのは今回が初めてだが、彼女の威圧は過去にやり合った事のあるどんなウマ娘より鋭く、深く突き刺さってきた。

 あの小さな体のどこからそんなオーラを発するのだろうか。

 

 牽制された私だが、不思議な心地よさも同時に感じていた。

 

 ノールとは同じ部屋に住む者として仲良くやっていたが、レースで競う事が決まってからは、その友好的な関係が終わってしまうのではないかと思った。

 しかしこうしてお互いに威圧し合った後でも、彼女と仲が険悪になった感じはしない。

 

 日常から隔絶された勝負の世界で、普段見せない好戦的な一面をお互いに見せ合った……その事に奇妙な絆を感じていたのだ。

 

 …………勝つ、ノールには負けたくない。

 

 心の蝋に火が灯るのを感じながら、私はパドックへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガチャ

「お帰り……っ」

 

 控室に戻った私を迎えるトレーナーさんは、私の顔を見るなり息を飲んでいました。

 

「トレーナーさん、ゴール前で待っていてください。……一番に向かいますから」

「……分かった」

 

 トレーナーさんはドアノブに手を掛けて扉を開きます。しかし外には出ていかず、その場で少し立ち止まりました。

 

「……頑張れよ」

「……はい」

 

 私が返事をすると、トレーナーさんは外に出て行きます。

 それからはゲートインで呼ばれるまで、無心でウォーミングアップの続きを行いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(sideトレーナー)

「……ん? ノールのトレーナーやん」

 

 ノールの控室を出た後、俺はあいつとの約束通りゴール前の観客席に陣取ろうとした。

 しかしあまりの人の多さにどうしたものかと困っていると、聞いたことのある関西弁の声が聞こえてきた。

 

「スーパーチャージャーか」

「こんなゴール前で何やっとるんや? 第四コーナーはあっちやで」

 

 競バ観戦において、勝負が決まるゴール前は人気のポジションだ。

 しかしスパート前の位置取り、駆け引き、スパートのタイミングが重なる第四コーナー付近もレースが盛り上がる場所として人気がある。

 競バの知識が深い者にとってはゴール前よりも人気かもしれない。

 

 そこら辺の事を前提にスーパーチャージャーはそう言ったのだろう。

 

「ゴール前で待っててください、ってノールに言われたんだよ。だからここに陣取ろうと思ったんだが……いかんせん人が多くてな」

「そういう事かいな。……しゃーない、ここはウチが一肌脱いだるか」

 

 指をチョイチョイと動かして俺についてくるように促しながら、人ごみの中に割って入るスーパーチャージャー。

 ウマ娘と言えどこの人ごみの中に押し入るのは無理ではと思ったのも束の間。

 

「ちょいとごめんよ~」

 

 彼女が声を発すると、周りの観客は驚きながら彼女の前を開けていく。

 

「あれって……」

「スーパーチャージャーだよな……」

「えっ! どこどこ?」

 

 モーセのように人の海を割る彼女の後ろに付いていくと、すぐに観客席の先頭にたどり着いた。

 

「ほい、到着」

「助かった、ありがとな。……けど良かったのか? こんな強引に……」

「ええってええって、有名人の特権や。ネットの匿名掲示板でアンチにボロクソ言われたりするんやから、こんぐらい恩恵が無いとな」

 

 ケラケラと笑う彼女の発言に苦笑をしながらもスタートゲートの方を向いた。

 ウマ娘達が次々とゲートインをしている。一枠のノールはもうゲートインしていた。

 

「ノールはまた一枠か。長い事ゲートの中で待たされて、模擬レースの時みたいに出遅れんとええけどな」

 

「あいつなら大丈夫だ。二度同じ失敗はしねぇよ」

 

「ふ~ん……大した自信やな。本人でもないのに」

 

「その本人の頑張りなら一番間近で見てきた」

 

 模擬レース以降、ノールはスタート練習にも力を入れていた。

 ゲートが開いた瞬間に飛び出す、面白くも何ともないその練習を何百回と繰り返した彼女なら技術面に問題は無い。

 

 そして精神面もおそらく大丈夫だ。控室では普段見せる年相応の顔は鳴りを潜め、代わりに勝負師の顔が覗いていたから。

 

 そんなことを考えていると、去り際に残した言葉を思いだす。

 

 頑張れ、か。

 ……もっと気の利いた事言えなかったのかよ俺は……

 

 月並みな言葉しか掛けられなかったことを後悔する。ここからはトレーナーの俺にはもう何もできない。さっきの声掛けが俺にできる最後の事だった。尚更気が落ち込む。

 

 後は祈る事しか出来ないか……

 

 手を強く握り、レースの始まりを待った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狭いゲートの中、私は足元に意識を集中させていました。

 つま先やかかとに体重移動させるたびにその部分が沈んでいきます。

 

 かなり湿ってる……でも感触は分かった。

 それと水たまりもできてる。足を入れないようにしないと……

 

「さぁ、各ウマ娘ゲートに入りました」

 

 バ場の感触を確かめて顔を上げると、丁度実況の声が聞こえてきました。もうじきレースが始まります。

 ちら、と左を見ると、前を見据えているナイトが見えます。私が様子を(うかが)っているにもかかわらず、彼女はこっちには全く気が付きません。

 

 超過集中(ゾーン)、か……

 

 今はスタートにだけ集中しているのでしょう。私もポジションにつき、ゲートが開くのを待ちます。

 この時ばかりはお客さんの歓声も鳴りを潜めています。わずかな静寂。

 

 ガコン!

 

 視界が開けるのと同時に、大地を蹴り飛ばしました。

 




 やっとレースが始まりました。
 ここからの展開が書きたかったので筆を執りましたが、前置きがどうしても長くなってしまいました……。
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