私がターフで転ぶまで   作:RKC

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二十六話 創痍

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………痛い。………痛い。……痛い。首の後ろが焼けるように熱い。

 

 鈍痛が私の意識をヘドロの底から引き上げました。反射的に痛む部分を押さえようとしますが、体は全く動いてくれません。

 特に右腕。指を動かそうとした瞬間、手首に激痛が走ります。そのまま首の後ろと同じような熱を持ち始め、私を苛み始めました。

 

「……っがぽ、こぷぽ……っ ぶく、こぽ……っ」

 

 苦しい。息を吸いたい。

 

 しかし口から入ってくるのは酸素ではなく水。水たまりに突っ伏しているせいで、呼吸がおぼつきません。

 

 鼻呼吸をしようとしましたが、何か粘着質な物が詰まっているせいでそうはできません。

 首を動かして水たまりを避けようとしましたが、首の後ろが激痛を訴えてくるせいでそうもできません。

 

 もぞもぞと芋虫の方がまだ機敏な動きを何度も繰り返し、何とか顔を浮かそうと体勢を変えますが上手くいきません。全身の痛みが増すだけ。

 

 首の後ろと右手首の高熱とは裏腹に全身が冷たくなってきます。

 ぼんやりと死が迫ってくるのを感じていたその時、私の身体がひっくり返されました。

 

「ぁぐ……っ!!!」 

 

 再び沈みかけていた私の意識が激痛によって引き上げられました。

 

「げほっ! ごほっ! っげほ、げほ……っ!」

 

 直後、肺に入ってしまった水を排出しようと体が勝手に咳き込みます。そのたびに全身が痙攣し、耐えがたい痛みが襲ってきました。

 

「はっ、はっ、はっ……!」

 

 とはいえ満足に息を吸えるようになった私は、必死で酸素を取り込み、生命活動を維持しようとします。

 

「……! ……! ……!!」

 

 まったく焦点の合わない視界の中で、黒い塊が何かを叫んでいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(sideナイトグライダー)

 

 私とノール、二人だけの世界でしのぎを削り合う最高の時間を過ごしていた。

 

 ド グシャッ

 

 しかしその音が私を最低な気分に引きずり落とした。

 

 今までの人生で聞いたことのない異音に振り返ると、ノールの身体がありえない体勢で宙に浮いていた。

 彼女はそのまま、走行中の車から捨てられたゴミのように何度か地面に叩きつけられた。

 

 慣性の乗った体に急ブレーキをかける。私の50m程後ろで彼女が倒れている。それを私は棒立ちで眺めていた。

 

「……はっ……はっ…はっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 体は動かないのに息だけはひどく荒れていく。

 

 ……ッキィヤアアアァァァ!!!!!

 

「……っ!」

 

 誰かの悲鳴を皮切りに私の身体はようやく再起動した。ノールの元まで駆け寄り声を掛ける。

 

「ノール! ノール!!」

 

 彼女は虚ろな目で水たまりに突っ伏している。

 鼻からは血が流れ、水たまりが赤く染まっている。

 口元には血混じりの泡が立っている。

 

 とにかく呼吸を確保するため、彼女の体勢を仰向けに変えた。

 

「ぁぐ……っ!!」

 

 その途端に顔を歪ませるノール。その時初めて、彼女の首がどす黒く腫れているのに気づいた。

 罪悪感と痛ましさで思わず目を逸らしたくなったが、声を掛け続ける。

 

「ノール! ノール!!」

 

 彼女の瞳がこちらの方を向いた。

 声のする方にただ反応した、意志の感じられない虫のような瞳。

 魂が抜けた彼女の姿に手が震える。

 

「ナイト! ノールの状態は!?」

「ス、スパさん……く、首が腫れてて、酸欠で、目が虚ろで……」

 

 いつの間にかバ場に乗り込んできていたスパさんの問いに答えるが、口が上手く回らない。

 スパさんは、一見無事そうなノールの左手を握り大声で呼び掛ける。

 

「ノール! 聞こえるか!? 聞こえるんなら指動かしてくれ!」

 

 彼女の瞳がスパさんの方を向き、左手が少しだけ動いた。

 

「意識はある。けんどだいぶ朦朧しとる。

 …………ちっ、早よ担架持ってこんかい……!」

 

 スパさんは競技場本部の方を睨みつけている。

 

「ノール! 大丈夫か!?」

 

 遅れてノールのトレーナーも駆けつけてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(sideトレーナー)

 

 ノールが転倒した瞬間、俺は柵を飛び越えてコースの中に乗り込んでいた。彼女の元まで全力で走っていく。

 後ろからスーパーチャージャーが俺を抜かして先にノールの元まで駆け寄る。

 人の身に生まれた事を今ほど呪った事は無かった。

 

 永遠にも思える時間を走り続け、ようやく彼女の元に駆け寄る事ができた。

 

「ノール! 大丈夫か!?」

「…………トレ……ナ……さ、ん……?」

 

 俺が声を掛けると、彼女は小さく俺を呼び返してくれる。

 反応がある事に安堵したのも束の間、彼女の惨状を確認して思わず目を逸らしたくなった。

 

 死に体、瀕死、末期……嫌な表現でしか今の彼女を表せない。

 

「……っ!!」

 

 …………何が勝て、だ……。

 こんな状態になってまでもノールに勝ってもらう事が俺の望みだったのか……?

 そんなわけないだろ……そんなわけ……。ただ無事で帰って来さえすれば……!

 

 レース前、彼女が勝てるように限界まで追い込んでおきながら今更。

 レース中、あれだけ彼女の勝ちを願っておきながら今更。

 

 今更遅すぎる。

 

「トレ……ナーさん……」

 

 彼女が左手を動かそうとする。彼女の左手を握っていたスーパーチャージャーが驚いて手を放した。

 自由になった彼女の左手は俺の方へ。

 

「私……レース…………」

 

 ズタボロの身体で無理をする彼女。

 

 叫んでしまいたかった。そうでもしなければ心が破裂してしまいそうだった。

 着ているコートを引き裂かんばかりに握りしめ、その衝動をなんとか抑える。

 

 空いているもう片方の手で、こっちに伸びてきた彼女の手を掴み、元の場所に押し戻した。

 

「しゃ! 喋らなくても良い……! 無理するな……」

 

 恐慌をきたしそうな内心を必死で押し殺し、出来るだけ落ち着いた口調で声を掛ける。

 

「……私……勝ち、ましたか……?」

 

 しかし彼女は話し続ける。彼女の視線が俺の後ろ、着順を示す電光掲示板に注がれる。

 

「掲示板……よく、見えなくて……一着……どうなりましたか……?」

 

 彼女の視線に釣られるようにして俺も振り返る。

 

「どう、ですか……?」

「ま、まだ結果は出てないで!」

 

 突然スーパーチャージャーがそう叫んだ。

 

「しゃ、斜行スレスレの走行があってな! 今は審議中や! ランプも灯っとる! やから今は休んどけ!」

「そう……ですか……」

 

 それを聞くなり、ノールは目を閉じて動かなくなった。

 

「っ……!」

 

 一瞬慌てたが、呼吸も脈も正常。気を失っただけだ。

 スーパーチャージャーの方を向く。

 

「なんで嘘を……」

 

 審議ランプなど灯ってはいない。掲示板には結果がしっかりと出ている。

 

「……勝手に嘘ついてすまん……けんどここで勝負に決着をつけたらそのまま死んでしまいそうでな……。

 何も言わんかったら負けず嫌いなノールの事や、勝負の結果を知るまでは死んでも死に切らんやろ……」

 

 彼女の言い分も分かる。

 今のノールは、勝負の結果を伝えてしまえばそのまま死んでしまいそうなほど儚く見えた。

 

 俺の……俺のせいで……。

 

「ぐっ……!」

 

 気持ち悪い。今すぐにでも吐いてしまいそうだ。思わず地面に手をつく。

 

 

 

「救急隊です! 横を空けてください!」

 

 そこでようやく担架が運ばれてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………パチ

 

 私は穏やかに目を覚ましました。アラームを設定せずに思う存分寝た後の様な、平静な目覚め。

 

「っ、目ぇ覚ましたか!」

「ノール!」

 

 寝起き早々、スパさんの声とトレーナーさんの声が聞こえました。

 

 あれ……? 何で二人が私の部屋に……というか寮ってトレーナー立ち入り禁止じゃ……

 

 そう疑問に思いながら体を起こそうとすると、

 

「いっ! ででで……?」

 

 首の後ろがひどく痛みます。

 

 なんでこんなに痛みが……? 私、いつ怪我して……?

 

 自分の身体に意識を集中させると、首の後ろだけでなく右腕、肩、体の節々の痛みを知覚しました。

 

「動かなくても良い! ……じ、じっとしてろ……」

「は、はい……」

 

 いつもよりトレーナーさんの語気が強いです。

 素直に寝転がっていると、ベッドの上側だけが傾き、寝ながらにして座ったような体勢になります。

 すると、ベッドの横にある椅子に座っているトレーナーさんとスパさんの顔が無理なく目に入ってきました。

 

「だ、大丈夫か……?」

「え、えっと……大丈夫かと言われれば大丈夫じゃないです。

 寝違えたのか首が痛いですし、全身も妙に痛くて……」

 

 いきなりのトレーナーさんの質問。

 意図を掴みかねた私は、とりあえず自分の状況を説明しようとします。その時、私の身に何があったのかを急に思い出しました。

 

「…っ! レース! レースは!? 結果はどうなりましたか!? ぁ、ででで……!」

 

 質問の回答もほっぽりだし、勝負の結果をトレーナーさんに聞きます。思わず体を動かしてしまい、首に痛みが走ります。

 

「う、動くなといっただろ!

 ……派手に転んで気絶したかと思えば、すぐにレースの事を聞くか……。本当にお前は……」

「う……す、すみません……。それで、その、結果の方は……」

 

 私が転倒してしまったせいで、トレーナーさんには大変な心配をかけてしまったのでしょう。

 それについては悪く思いながらも、しつこくレースの勝敗を聞きます。

 トレーナーさんは相変わらずサングラスをしているので、表情は窺えませんでした。

 

 

 

 

 

 

「………………二着…だった………」

 

 トレーナーさんは室内だというのに、帽子を深くかぶりながら、小さな声でそう言いました。

 

 一方で、私はトレーナーさんの言葉を上手く受け止め切れていませんでした。信じられない、信じたくないからでしょうか。

 

 ピッ

「……今日の第9レースを振り返っていきます。一着は2枠、ナイトグライダー。二着は1枠ノールミサンガ。三着は6枠ウィザードリリィ。以下はこのようになりました」

 

 スパさんがテレビを付けると、丁度私のレースの結果について報道されていました。

 テレビに「二着ノールミサンガ」と映っているのを見ると、嫌でも認めざるを得ません。

 私は負けたのです。

 

「ノールミサンガはゴール後に転倒してしまいましたが……大丈夫なのでしょうか?」

 

「命に別状はないようですが、あれほど派手な転倒となると、後遺症が残るかもしれません。心配です」

 

「あれは骨折や怪我が原因というよりは、スタミナ切れで転倒したよう見えましたが?」

 

「そうですね。ゴール前ではひどく消耗しているように見えました。一部では……」

 

 プツン…………

 

 そこでテレビは消えました。部屋に静寂が訪れます。

 

 

 

「…………私、負けちゃったんですね…………」

 

 言葉にすると更に悔しさがにじみ出てきて、苦しくなってきました。

 左手を張り裂けそうな胸に置き、押さえつけます。

 

「やっぱり……ナイトは強いなぁ……私の全部を出したのに……勝てなかったんだ……」

 

 涙腺が緩み、涙が溢れそうになるのを、目を見開くことで防ぎます。

 

「ゴール前で……トレーナーさんの声が聞こえて……!

 あれのおかげで最後まで頑張れたんです……けど……っ!

 応援してくれたトレーナーさんの期待も裏切っちゃって……」

 

 トレーナーさんの方を向いてそう言います。情緒が不安定な私は、時々抑えきれずに声が大きくなってしまいます。

 

「ばっ、馬鹿野郎!! 俺の期待なんて……っ!

 そんなもんのせいでお前は……っ! お前は……! そんなになっちまって……」

 

「「せい」じゃないです! 「おかげ」なんです!

 自分以上の力を発揮できたのはトレーナーさんの声のおかげなんです!

 トレーナーさんのおかげで、こんなになるまで頑張れたんです……」

「最終直線、トレーナーさんは私に頑張る権利をくれただけです。

 諦めて失速することだって出来たのに、怪我を恐れず権利を行使したのは私……。

 トレーナーさんに責は一つもありません。

 だから……自分を責めないでください……」

 

「ぐっ……!」

 

 トレーナーさんは嗚咽を漏らしながら俯きます。その時、サングラスの下から涙がこぼれているのが見えました。

 それを切っ掛けに私の涙腺が更に緩みました。

 

【挿絵表示】

 

「……けど、負けちゃったんですよね……。

 あれだけ練習頑張って……雨も降って……トレーナーさんに力を貰って……! これだけボロボロになって……! 怪我して……っ!

 だから……きっと勝ててるって……勝手に……勝手に期待、しちゃっ、て…………」

 

【挿絵表示】

 

 ついに私の感情のダムは決壊してしまいます。

 

「でもっ“……! 私、負けて“て……! 勝て“なくっ“て……! 悔しく”っ“て……!

 う”っ、うぐっ“、う”う“う”う“う"ぅ”ぅ”ぅ”ぅ”っ“っ”っ“……!!」

 

 ぐしゃりと顔を歪めて号泣してしまいました。胸に置いていた左手に力がこもり、入院服がしわだらけになります。

 

「ぐっ……う“ぅ“ぅ”ぅ“ぅ”ぅ“っ”…………!」

 

 トレーナーさんも私と同じように号泣しています。

 

 そのまましばらく、二人で涙を流し続けていました。

 

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