思恋(しれん)
イタチの背は、暗い森の奥へ吸い込まれていくようだった。
あれから一度も振り返らない。交わす言葉もない。視線も交わらない。決意を確かめ合うことも……。
二人にその時間が許されていないことは十分にわかっていた。
だが、もう彼の姿を見失うことはない。ちゃんと、ついて行くから……。
『私を連れて行って』
その願いが、やっと叶った。
本当はあの時、必死で呑み込んでいた言葉。幼い自分が、涙と一緒に押し留めた言葉。
『私を連れて行って』
そのことを深く後悔している。
我愛羅が死んだ日。約束の場所に逢いに行かなかったことではなくて……。
もっとずっと、最初の話。
イタチが木ノ葉を抜けて、いつもの場所に現れた日……。
風の強い夜。空には不気味なほど輝く円い月。
あの場所に、イタチは冷たい眼をして現れた。全身から血の匂いを漂わせ、傷の入った額当てを身に着けて。
あの気味の悪い満月の下で、馬鹿みたいに意地を張って、この言葉を言わなかった。
それを今、とても後悔している……。
イタチに初めて会ったのは、まだ3つのときだった。
あまり顔を合わすことがない父と母に呼ばれ、『木ノ葉隠れの里』というところから、客人が来ると聞かされた。
疎遠な両親との貴重な対面だったから、その時のことはよく覚えている。
姉が、その客人への「ご挨拶」を何度も言って聞かせた。意味はよくわからなかったが、日々読まされる呪文より簡単だったから、すぐに諳んじることができた。
イタチは、とても静かなコだった。
そして、それまで自分に向けられてきた他者からの視線とは異なる目で自分を見つめた。
和泉の里にいる間中、表情を変えることはなかったが、その目を見ただけで不思議と理解できた。
この人はやさしい……。
だから、また逢いたかった。
二度目の対面で、イタチに式神を渡した。
イタチにとって本家は居心地が悪そうだったから、自分だけの領域だったあの滝の場所へ来られるようにと。
逢いたかったから、そうした。
そしてイタチは、ちゃんと逢いに来てくれた。
もちろん、決して頻繁ではなかった。
二月に一度か……いや、三月に一度だったか……あの頃の幼い自分にとって、里の中が世界のすべてであり、修業だけの毎日だったから、あまり時間の概念がなかった。
だから曖昧ではあるが、たぶんそのくらいの頻度だった気がする。
最初の頃のことは、出会いの時以外、正直あまり覚えていない。
そのくらい幼かったのだ。
ただ、毎回イタチの姿を見つけた瞬間、嬉しくて飛びついたのは覚えている。
そしてだんだん気づかされた。
自分の日常が、どれだけ平坦でつまらないものなのかを。自分の周りの人間が、どれほど自分を怖れ、忌み嫌っているのかを。
イタチの愛情があったからこそ、イタチへの思慕があったからこそ、そういう逆の感情もまた、ひとつひとつと覚えていったのだ。
もしイタチに出会わなければ……。
イタチとの別離の後、何度も考えた。
もしイタチの存在がなければ、もしかしたらもっと楽に生きられたのかもしれない。こんなふうに、イタチとの別れで深く傷つくこともなく。背負った使命を重く感じることもなく。
サスケのことも知らないで……。
今とは全く違う自分になっていた。
何も知らず、何も考えず、何も感じない……ただ、九尾の人柱力を見守るだけの存在。その器が欠けたときは、それを完全に破壊して、自分が変わりの器となる……そのためだけに生きる存在だった。
今は……痛みを知って、絶望を知って、憎しみも覚えて、そして……愛情も知った。苦しくても、弱くても、それが生きるということだとわかった。
イタチに出会わなければ……生きられなかった。
(イタチ……)
今、胸が潰れそうに痛む。
この痛みは、彼にもらった生きる人としての“感情”に違いない。
(ねぇ、イタチ……)
あの夜に、言えばよかった。
『私も連れて行って』
こんなふうに、イタチがひとりで何もかも背負って苦しむことがわかっていたら……あの時そう言えばよかった。
彼のことが誰よりも大切だと、ちゃんとわかっていたのに。
あの時の自分はまだ幼くて……とても愚かだった。子供のくせに涙まで我慢して……。
“使命”から逃げずに生きることが強い生き方だと、勝手に思い込んでいた。
結局、イタチという存在よりも、つまらない自我を選んだだけ。
何が使命……何が強い自分……。
そんなモノに必死にしがみついていた頃を、心底後悔している。
イタチと一緒にどこへでも行っていたなら、イタチの側に居られたなら、イタチの背負ったものを少しでも分けてもらえたかもしれないのに。
少なくとも、イタチがずっと孤独に生きることはなかったのに。
(ごめん……ごめんね、イタチ……)
二人の別れが宿命だと、さっさと悟っていたくせに、そのことを一度も口にできなかった。
(ごめんね、イタチ……)
イタチはそんな自分を認めて、愛してくれた。「強い」と言ってくれた。
けれど……今は、それを完全に否定する。
自分は何もしてあげられなかった。イタチに生かされたのに。
自分にとってイタチは特別で、大切で……親であり、兄であり、親友であり、師であり、憧れであって、そして未来の夫だった。
それなのに、少しも彼を護れなかった。何もわかっていなかった。彼の苦しみを、ひとつも見つけてあげられなかった。
これから……「サスケの側にいる」とすら言えずに……。
今さら遅すぎることはわかっている。イタチに何もしてあげられない、その事実が少しも変わらないこともわかっている。
でも……せめてイタチを、もう二度と孤独のままに逝かせたくはない。
たとえ、また繰り返されるただの自己満足だとしても……。
イタチを……、イタチの“生”を、最期までちゃんと見届けたい。この醜く廃れた心に、イタチの想いを刻み付けたい。
イタチはきっと許してくれるはず。
暗い影を背負ったままでも、それでもあの世界に忘れられたかのような場所まで逢いに来てくれていたから。
(イタチ……今度こそ私がアナタの側にいる。もう、最期まで離れない。イタチのことが誰より大切だから……)
しかし、それを伝えることはできない。
イタチは決して立ち止まらない。
彼はいつも己の成すべきことを知っているから。己の成すべきことを一番に考えるから。そして必ずやり遂げるから。
この禍乱の歯車を、彼は止めようとしている。
自身のことなど考えず。すでに起きてしまった悲劇を止めようとしている。
だから、彼は立ち止まらない。この想いを伝える間は少しも与えてくれない。
それが“イタチ”だから仕方のないことだった。
痛んだとしても、苦しくとも、また全てを飲み干して彼を見送ろう。
(ちゃんと、笑って……)
もう一度、彼の背を見つめた。
いつもいつも、見送っていた彼の背。それに今はついて行っているだけでも良かった。
(きっと、この姿をサスケに伝えることはできないだろうけど)
痛む。
けれど……これが自分。この痛みは、イタチがくれた痛み。イタチがくれた“私”。
だから……。
イタチの想いを抱えて、サスケに……。
(ごめんね、イタチ……)
声にはならなかったはずだった。
だが。
「身体は大丈夫なのか?」
彼が不意に振り返った。
「え……?」
間の抜けた声が出たと同時に膝が崩れた。
まっすぐに前だけを見ていたはずの彼の瞳が、こちらを向いている。
「鬼鮫をひとりで倒したと、ナルトから聞いたが……」
心配されぬよう、懸命に体勢を立て直す。
「うん。大丈夫だよ」
はためくマントを見ながら、平静を装って答えた。
「お前が、あの鬼鮫を倒すほど強くなったとはな」
イタチがほんの少し笑っているのがわかった。
嬉しかった。
イタチは暁で鬼鮫と組んでいたから、その強さをよく知っているはずである。だから、ちゃんと認められた気がして嬉しかった。
「だが……」
イタチはかすかに目を細くして言った。
「何故、ひとりで戦うような無茶をした?」
あの時の状況は知らないはずなのに、イタチはその行為を「無茶」だと決めつけた。
まるで、空から見ていたかのように。
「だって……知りたかったんだもん」
自然と、子供のような口調になった。
「イタチのことを、鬼鮫って人から聞きたかったんだもん」
イタチは黙った。
足は止めない。が、口をつぐんだ。
「イタチがどんなふうに過ごしていたか……私の知らない間のイタチのことを、何でもいいから聞きたかった」
あの時の必死な気持ちが蘇る。
今それを言っても仕方がない。止めようという気はあったが、足を止めない代わりに口も止まらなかった。
「……イタチの……病気のことも……」
少しの沈黙。
ポツリ……。森の隙間から雫が落ちた。
「マダラに聞いたのか……?」
「うん……」
雫はにわかに雨となり、二人に降り注いだ。
「原因はわからない……不治の病だった……」
湿った空気が、イタチの言葉をゆっくりと運ぶ。
「“あの時”すでに、オレはもう長くはなかった」
“あの時”……サスケとの戦いのさ中、血を吐くイタチの姿を思い出す。
あれはサスケの攻撃によるものでも、自身の術の影響によるものでもなかった。
また焼けつくような後悔がどっと押し寄せる。降りしきる雨が、あの時と同じ冷たさに思える。
遠くで雷鳴が轟いた。
耳の奥で、サスケの声がする……。
『雷鳴と共に散れ』
イタチと一緒に逝こうとしたあの時に、最期に聞こえたサスケの声が……。
その瞬間、鼻の奥がスっとした。まるで思い切り冷気を吸い込んだ時のように。
それは一気に脳の奥まで入り込み、凍らせた。
「ナナ、どうした?」
一瞬目の前が眩んで、気づけばぐちゃぐちゃの地面に膝を付いていた。
「ナナ」
頭上でイタチの声がした。
「イタチ……」
言葉が出ない。身体が動かない。息が切れる。
見上げたイタチの黒い目に、こんな自分は映らない。
「ナナ、やはり身体が……」
イタチも膝を付いた。
そして、肩に手を……。
「お前はここで休め。穢土転生はオレが……」
「だめ!!」
反射的にイタチの胸倉を掴んだ。
初めて、彼は驚いた顔をする。
「ナナ……」
脳が震える。肺が震える。心臓が震える。心が……震える。
それを捻じ伏せ、掴みかかるようにして叫んだ。
「どうして平気なの?! 何も言わないで!」
自分の膝とイタチの膝が、ぐちゃりと音を立てた。
「全部ひとりで抱えたまま逝っちゃって……どうして平気なの?!」
面倒なこの手を振り解いて、イタチはひとりで穢土転生を止めに行ってしまう……。
その恐怖は確かにあった。
今さら無駄だ……という諦めも、彼を困らせてしまう自己嫌悪も。
だが、そんな理性は感情に追いやられていた。
「私は……、私はアナタに言いたかったことがたくさんあるのに……! 聞きたかったこともたくさんあるのに……!」
イタチがどういう人か、良くわかっているのに。
「また、このまま何も言わないで逝っちゃっても平気なの?!」
彼の言葉を欲することも、想いを伝える
「願うことは……あったでしょう?!」
彼は“無念”をひと粒だって零さない。
だったらせめて、“願い”を遺して欲しかった。
「イタチ!」
彼が悪いのだ。
また、こちらを見たりするから。また、言葉をくれたりするから。また、気遣ったりするから。“あの時”の話なんてするから……。
「ナナ……」
困るなら、迷惑なら、不愉快なら、さっさとこの手を振り払って“成すべきこと”のところへひとりで行ってしまっても良いと思った。
望んだ最期ではないけれど……。イタチが愛してくれた姿とは違ってしまったけれど……。
もう、どうしようもないのだ。
いっそ怨みすら込めながら、歯を食いしばり、彼を睨みつけた。
「ナナ」
が……、イタチは手を振りほどいて突き放すことはなかった。目を逸らすことも。
むしろ、静かに口元を緩めた。
「お前だって、オレに言いたいことや聞きたいことがあったのに、今までそれを言わなかった」
「え……?」
「それは、お前が“全て”をわかっているからだ」
イタチのものではない黒い目の中に、かつての優しい光が見えた気がした。
「今、話している時間などない。一刻も早く穢土転生を止めなければならない。でなければ仲間が傷つく。たくさん殺される。死ぬ……。それがわかっているからだ」
その目には、いつも心の奥底を見透かされてきた。
「ナナ、お前は昔からそうだ。何も変わっていない。自分のするべきことがちゃんとわかっている。そして誰かのためなら己を殺す……、芯の強い子だった」
まるでイタチのことを言っているよう……。
そんな、不思議な感覚だった。
「オレは、そんなお前と出会えて幸福な生涯だった」
偽りはなかった。偽りの身体でも、彼の魂は本物だったから、その言葉は真実だとわかった。
だが。
(それだけ……?)
そう思った。
満足感も、幸福感も、達成感も感じなかった。
本当は、“もう一つ”あることを知っていた。
『サスケの側にいてやってくれ』
イタチはそう願っているはずだ。願っていたはずだ。初めから……今も。
が、彼はそれを口にしない。最期の最後でも、はっきりと願いを示してはくれない。
サスケのことはナルトに託した……。
(だから……?)
いや、違う。
それはやはり、彼が優しいからだ。彼こそ“全て”を知っているからだ。
“本当の願い”が自分を苦しめることをイタチは知っている。
だから、思い残すことなど他にはないような顔をしてこちらを見つめている。
(相変わらず……)
お互いにわかり合っていて馬鹿だ。
そう思う。
今ここで『サスケを護る』と言っても、彼は信じないだろう。『サスケに殺される終わりを待っている』と言えば、彼を困らせるだろう。『穢土転生を止める前にサスケに会って。話をして』と願っても……、彼はそれを拒むだろう。
もうこれ以上、自分だって何も言えないのだ。
「イタチ……ありがとう……」
想いを口にした。
「私もだよ……。アナタに出会えて本当に幸せだった」
後悔を呑み込んだ。
そして。
「行こう、イタチ」
願いを捻じ伏せた。
「最後は二人でやり遂げよう」
先に立ち上がる。
力が泥に吸い取られて行くようだったが、目尻の水玉は雨が攫ってくれた。
「ああ」
うなずいたイタチの顔は、満足そうだった。
「行くぞ」
最後に少しだけまたこちらを気づかって、イタチは再び木の枝に飛び上がり駆け出した。
泥で汚れた袴を蹴り上げ、ナナも飛んだ。
また、彼を追う。少しも離されないように。
(きっと、この姿をサスケに伝えることはできないだろうけど)
痛みがループした。
(もう一度だけ……。イタチとサスケ……二人で話すことができたら……)
捻じ伏せたはずの願いはまだ、心に指を掛ける。
性懲りもない。情けない。
が、もう足は止めない。
(サスケ……)
久方ぶりにサスケに想いを飛ばしながら、イタチを追う。
(ねぇ、サスケ……。イタチはここにいるよ……)
すっかり濡れそぼった叶わぬ願いを握りしめて、彼の背を追う。
(サスケ……)
再び死に逝くイタチよりも、無様に大きく膨れた無念から目を逸らさずに。
(サスケ……!)
その時だった。
(ナナ……?!)
確かに、聞こえた。
「え……?」
確かに、響いた。
「ナナ、どうした?」
わずかな息遣いに気づいたのか、走り続けたままイタチが問う。
「イ……イタチ……」
予感が勝手に膨れ上がって、うまくしゃべれない。
「い、いる……」
恐怖ではない怖れが、声を震わせていた。
イタチは振り返った。
目が合った。
やはり、彼は悟ったような顔をした。