この里の中心部から、再び郊外へ……。
闇を縫うようにして、ナナはそこへと向かった。
急がなければならない。
戦場がどうなっているのか、わかるすべはなかった。
が、残された時間が多くはないことを予感していた。
家も畑も、忍者学校の広い演習場でさえも通り過ぎてたどり着いた、里の者がめったに訪れない場所。
先ほど大蛇丸の案内で訪れたうずまき一族の納面堂より、もっと深い森の奥。
ナナは“和泉神社”の鳥居の前に立った。
木ノ葉崩しの被害も、ここには全く届いていない。
が、鳥居に塗られた朱は剥げて、参道には雑草があちらこちらから顔を出していた。
「おいでなさいませ」
突如、透き通った声がした。
いつの間にか目の前に姿を現していたのは、式神の女だった。
「どうぞ、姫様」
式神特有の抑揚のない話し方で、ナナを案内する。
境内はそう複雑に入り組んでいるわけでもなければ初めて訪れた場所でもないので、案内など必要ないのだが、これがこの式神の主の配慮なのだろう。
ナナは黙って、式神に続いた。
拝殿を通り越しその裏手の丘を行くと、この地を守る者の住まいがある。わざわざ境内の奥に隠れるように建てられているのは、この神社の特性ゆえであった。
つまり、ここの神主や巫女となる者は和泉一族の者であり、すなわちそれは特別な人間として隔離されるべき者だったからである。
事実、木ノ葉隠れの里においても和泉神社の存在は公に知られていた。が、ここは『伝説の和泉一族を祀った』陰陽道系の神社であり、その修業を積んだ者が神主や巫女を務めているとされていた。
実際に和泉一族の末裔がその場所にいるなどとは……いや、和泉一族が存在しているなど、一部の者を除いては誰も知り得なかったし、考えもしなかったのである。
ナナはここの巫女になるはずだった。
“九尾のコ”の暴走が起きないよう朝から晩までひたすらに祈りつつ、安穏で平坦な日常を死ぬまで送り続けるはずだった。
だが、ナナがここに住むことは無かった。
和泉の里から木ノ葉へ来て
唯一の思い出といえば、姉の力で“過去”に飛ばされた時、ここで“母”と過ごしたこと。四代目火影や実葉、そして若いカカシに出会ったこと。
あの日のことは、今でも鮮明に思い出す……。
が、実際は忍者学校の生徒の頃、姉の死を聞かされて以来、ここへは来ていなかった。
だから、
「お久しぶりでございます」
扉の前で深々と頭を下げている老女を目にして、いくばくかの懐かしさを覚えた。
「お久しぶりです。静葉様」
ナナがこの里へ来た時、初めに世話をしたのが彼女である。
和泉一族が地上の神であると心から信じ、その血を引かない“人間”と話すことすら嫌う女だった。
ナナのことは『和泉本家の娘』として敬いつつも、和泉の里に暮らす者たちと同様、そのチカラを怖れ、何よりその出生に嫌悪感を抱いていた。
自身の親族であった和泉成葉の生まれ変わりという存在であるから、なおさら因縁は深かったようである。
なにより、自分の後を継いで和泉神社の巫女の座に就き、木ノ葉の里のことは一切任せられるはずであったのに、ナナが忍になどなってしまったから、彼女がナナに対して抱くのは“失望”が大きかった。
だから、ここで彼女に出会ったことが意外だった。
「先日の木ノ葉崩しの時に、和泉の里へ帰られたかと思っていました」
それをそのまま口にした。
忍里になんぞ送り込まれて疎外感と劣等感の塊になっていた老女が、あれだけの惨事を目にしてもなお、ここに留まっていたことは予想外だった。
おそらくは『木ノ葉崩し』を理由に、故郷へ逃げ帰ってその任を解かれることを望んでいたはずである。
「いえ……今さらそのようなことは……」
老いてわずかに濁った瞳が、月の下で細い光を浮かべた。
「里の全壊を、姫様がお止めくださいましたので……」
静葉はまるで言い訳をするかのように、横を向いてそうつぶやいた。
ナナはため息をついた。
今さら、この親族の女の心境など推し量る気は無かった。
あまり世話になったという意識もない。郷里で受けたものと同じ視線を、ここでも与えてくれてありがとうという皮肉しか出てこないのだ。
が。
「木ノ葉崩しとこの戦争で、いろいろなことが変わりました……。ここはもう、木ノ葉にとって“必要のない場所”となったでしょう」
本家の娘として、彼女にあげられる言葉をかけてやることにする。
「アナタは和泉の里へお帰りください。当主様もそれをお許しになるはずです」
老いてもなお、待ち望んでいるであろう言葉を。
「今までありがとうございました」
静葉の表情に変化は見られなかった。
ナナの真意を探っているようでも、諦めているようでも、ましてや喜んでいるようでもない。ただその言葉を聞き流したという感じだった。
「姫様は……」
その様子はまたしても意外だった。
数十年間、彼女が欲しがっていた言葉に違いないのに、何の反応も示さないとは……。
「姫様は、戦場に行かれるのですか?」
今度はナナが目を逸らした。
「いえ……」
また、ため息が出た。
「他に、やるべきことがあるの……」
静葉は小さく、「そうですか」とつぶやいた。
彼女への義務は果たした。次はここへ来た目的を果たす番だ。
ナナは少し足を踏み出しながら言った。
「成葉様の懐刀を貸してくださいますか?」
ナナの“事情”を知らないはずの静葉には、あえて「母」ではなく「成葉」で通す。
「はい。奥に……」
静葉は特に何も問わず、建物に入るよううながした。
成葉の御霊は奥座敷の小さな祭壇に祀られていた。それは、ここへ初めて来たときから知っている。
その形見のひとつに、和泉の人間が生まれたときに当主から与えられる短刀があった。
もちろんナナも自分の物を持ってはいたが、木ノ葉の里へ来て早々に捨ててしまっていた。
「こちらです」
静葉は暗い座敷に灯りもともさず、漆の箱の中からそれを取り出して渡した。
かすかなカビの臭いが鼻につく。が、鞘の蒔絵はまだ美しいままだった。
「ありがとう」
ナナは礼を言って祭壇を見た。
が、手は合わせなかった。
ここに“母”はいない。それがよくわかっていたから。
そこに祀られているのは、ただ成葉が生前身に着けていたものや、大切にしていたものだけだ。
高価なものではないが、髪飾りや櫛、手鏡などが、短刀と一緒に漆の箱に入れられて祀られていた。
特別な存在であるから遺骨などない。写真もない。
ただ和泉の家紋となっている五芒星の幕が下がっているだけである。
可憐なリンドウが一輪だけ、その下でそっと揺れていた。
「それだけでよろしいのですか?」
静葉はそう言いながら、箱を祭壇に戻した。
「何に使うのか」と問われなかったことで、ナナはわずかに息をつく。
おそらく……静葉は何かを察しているのだろう。それでいて、もう諦めている。
それに、何かを言う義理も権利もないのだ。
灯りひとつない建物を出ると、赤みを帯びた満月が眩しく思えた。
相変わらず、嫌な存在だった。
「それでは……」
ナナは静葉に別れを告げた。静葉もただ「お気をつけて」と言った。
いつもと同じ、淡白な別れだ。
が。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
ナナは振り返った。
静葉の伏せられた目が、おもむろにこちらを向く。それはまるで、ナナの問いかけを待っていたかのようだった。
それならば都合がよい。
そう思った。
静葉は余計な詮索をせず、聞きたいことだけに答えをくれるだろうと予測した。
「成葉様の……夫にあたる人のことで、何か覚えていませんか?」
それは“父”にあたる人間についての問いだった。
そもそも成葉に子が出来たという知らせは、和泉の里にも届いていたはずだった。
報告義務が、静葉にはある。
だが、何も知らない子供の頃も、まだ自分が和泉成葉の生まれ変わりだと信じ切っていた頃も、その“夫”となる男については、周囲に誰一人語る者は無かった。
それは自分に対する遠慮などではなかった。当主に憚っているようでもなかった。
よく思い起こせば、おそらく
和泉成葉の死について聞かされた時、それはあまりに幼い頃だったが、たしか……親族の者がこう言っていた。
『南家の成葉は“どこぞの男”との間に子などをもうけ、ソレが腹に在ったために襲来した九尾を抑えることもできず、ソレのために命までもを落とすことになった』
詳細には覚えていないが、蔑んだ口調と恨みを込めた言い回しははっきりと覚えている。
叔父だか分家の男だったか……これを告げた者は、九尾襲来時に和泉一族の沽券を背負って事態を収めることができなかった和泉成葉と、その事態を作り出した彼女の夫に対して確かに怨恨を抱いていた。
その時でさえも、その夫が誰であるのか彼は口にしなかった。
一族全体が憎む相手ならば、はっきりと名を覚えるはず。仮に知っているのなら「木ノ葉の忍」くらいは言いそうなものだ。
が、「どこぞの男」とだけ吐き捨てるように言っていたのはうっすらと記憶している。
つまりは、報告すべき静葉が、それをできなかったのである。
「恐れながら……あの子は私には何も言いませんでした。和泉の里から怒りを買うから……と私を気遣って」
静葉は伏し目がちに答えた。
「おそらく、相手の男の名を知っていたのは実葉様と……そして四代目火影様のみでございます」
予想通りだった。
そして成葉がそう判断したことはやはり正しいと思った。
伝説の和泉一族の女と木ノ葉の忍であるうちは一族の男が結ばれたなど、世間は知らないほうがいい。
和泉の里は本家の当主の力を遥かに凌駕し、あげく輿入れを断った女の幸せなど、快く思うはずはない。それに、うちは一族にとっても和泉一族との特別な繋がりは、里での立場を悪くするに違いなかった。
そう……あの頃は、うちは一族と里との確執が表面化していた頃だろう……。
第一、イタチも何も告げなかった。ただ“父”がうちは一族の男であることを、初めて教えてくれただけだった。
きっと誰も知らなかった。
だから、“父”がうちはの人間だと知らされて、実際にその血を体現してからも、彼について考えることはしなかったのだ。
「そうですよね。ありがとう」
実際、“父”がうちは一族の何という名前の者かなど、どうでもよかった。いつ、どこで、何故、死んだのか……も、気にはならなかった。
きっとサスケとイタチの父とは、あまりよい関係ではなかったのだろうと思った。
それでもこうして静葉に尋ねた訳は、“父”と“母”が愛によって結ばれたのか……それが知りたかったからだ。
だが、それも無駄なことだった。
静葉が“父”の存在を快く思っていなかったことは明らかである。
ただ少し、四代目の言葉に惹かれて……それで静葉にも聞いてみたくなった。
それだけだ。
「では」
すっかり気が済んで、ナナは軽く頭を下げて暗がりに視線を移した。
と、
「菜々葉様……」
数回この場で繰り返した別れの中で、初めて静葉に呼び止められた。
振り向くと、静葉が額の皺を濃くしてうつむいている。
「静葉様?」
この老女の顔に、こうもはっきりと感情が浮かぶのは初めて見た。
「お伝えしておきたいことがございます」
今生の別れの時のように、静葉は思いつめた顔で言った。
「成葉は……心から、相手の男を慕っていました」
「え……?」
最初、静葉が何を言っているのかわからなかった。
それほどに、静葉の言葉は唐突だった。
だが、静葉はしわがれた声で続ける。
「あの子は何も話しませんでしたが……ここに居る間、それはそれは幸せそうな顔をしていて……」
静葉の目がこちらを向いた。その奥に隠されていたものを、初めて見た気がした。
「あの子は……その男との間に子供を授かったことを、本当に喜んでいました。立派な……木ノ葉の忍に育てるだのと言って……」
静葉は知っているのだろうか。
そう思う。
和泉ナナという存在が、和泉成葉の生まれ変わりではなく、その娘の生まれ変わりであることを。自分自身、つい最近知ったばかりの、その真実を。
「残念ながら、お産のときに成葉は命を落としました……。まぁ、これはあなた様もご存じでしょうね……」
静葉の声には温かみがあった。
「産まれた子も、その行く末を案じた実葉様がどこかへお連れになり、さらには『
彼女のそんな声は、もちろん初めて聞く。
だが確かに、彼女が成葉を慈しみ、成葉の死を悲しんでいることが伝わって来る。
「静葉様……」
「成葉は和泉の才に恵まれた反面、小さい頃から身体が弱くて……」
いくつも皺が刻まれた目じりに、光るものが浮かんだ。
「そのわりに底が抜けたように明るくて、お転婆で、生意気で、ちっとも言うことを聞かなかったのですがね……」
骨ばった指で、静葉はそれを拭う。
彼女は確実に何かを悟り、今このことを伝えている。
今までずっと、木ノ葉に追いやられたことを恨み、自分の身の上を嘆いてばかりの老いた人間と思ってきたが、彼女の心に確かな感情が見えた。
「静葉様……」
ナナは初めて、自ら彼女の身体に触れた。
痩せた肩は頼りなく、それでいて自分なりに自分の道をしっかりと歩んできたような固さが感じ取れた。
「もう十分です。静葉様」
「菜々葉様……わたくしはあなたに……」
そして、にじみ出る後悔も……。
「いいんです。私こそ、ごめんなさい」
彼女を弱い人間だと決めつけていたことを恥じながら、ナナは言った。
「成葉様とその“夫”だった人のこと、教えてくれてありがとう」
“母”が、この老女にこの場所で守られながら過ごしていたことが、ちゃんとわかった。確かに“父”を愛していたことも。
そして、
「成葉様の、子供のことも……」
「自分」のことも、言葉に表してくれてうれしかった。
「もう十分です、静葉様」
もう一度そう言って、ナナは静葉を抱きしめた。
「アナタは私に良くしてくださいました」
「菜々葉様……それは……」
「私はもう、ここに来ることは無いでしょう。だから……アナタは和泉の里へお帰りください。本家も、もう木ノ葉とはあまり関わろうとしないはずですから」
静葉はしばし迷って、小さくうなずいた。
「今まで、木ノ葉を守ってくださってありがとうございました」
身体を離して礼を言った。
木ノ葉の忍として、それから和泉本家の娘として。
静葉は声もなく泣いていた。
「さようなら」
そっとささやき、ナナは彼女の前から消えた。
彼女の白檀の香が、なんだか懐かしかった。