「どう……して……?」
たっぷりと時間が経ってから、そうつぶやいた。
まだ、呼吸は止まらない。鼓動も鳴りやまない。
「どうして……?」
喉元に突き立てた刃の切っ先を見下ろした。
終わりを示すはずの赤い血が、それを染めることはなかった。
「なんで?!」
もう一度声を上げて、柄を両手で握りなおす。
さっき別れを告げた“現実”に、もう一度同じ想いを残す余裕などなかった。
だから今度は目を閉じずに、切っ先の行方を見据えたまま、それを喉に突き立てる。
キン……
清澄な音が響いた。
刃は……その身のずっと手前で止まっていた。
切っ先が突き立ったのは薄い皮膚ではなく、“青白い星”……だった。
五芒星。
それはすぐに空気に解けて消えたが、見紛うはずはなかった。
和泉の一族が扱う陰陽術。
今ここで、この凶器を拒んだのは、間違いなくそれだった。
なぜか……。
もう、つぶやく余地もなかった。
何も考えず、手は再び短刀を自身に仕向ける。今度は心臓に……。
だが。
キン……
同じく、身体の手前で星が現れた。
もう一度、次は短刀を右手に持って、左の手首に押し当てた。
キキィ……
ぐいっと引いた刃は、やはり皮膚に触れることはなく、ただ星の盾を滑り行くだけだった。
「どうして……?」
何故、こうなっているのか。
何が、そうしているのか。
誰が、こうしたのか。
何一つわからないまま、夢中で刃を身体の急所に突き立てた。
何度も、何度も。
が、幾度となく繰り返してはみても、刃が肌に触れることさえなかった。
「そんな……」
絶望が背中から覆いかぶさるのを感じた。
今まで浸っていたそれではない。そんな無機質で空虚な闇ではない。
もっと大きくて冷たい……いてもたってもいられないような焦りと恐怖を呼び覚ます闇だ。
死ねない……。
この、今さら突き付けられた事実が、とてつもなく恐ろしかった。
「お母……さん……?」
“母”が、この短刀に術をかけたのか……? いつかこうなることを予言していて……?
いや、一族の誰かがこの短刀で惨めに命を消すことがないように、術をかけていたのか……?
まさか静葉が……?
柄を握りしめた。力を込めているはずなのに、手は情けなく震えている。
刃に彫られたうちはの家紋が、厳かに煌めいた。
「ちがう……」
困惑の中、導かれるように答えがわかった。
この術はこの命を“守る”ためのものと思ったが、その考え自体が間違いだ。
そもそも、この術は短刀にかけられてはいないのだ。
この身に起きたことは、愛を注いでくれていたはずの“父”と“母”の力が由縁ではない。
守られているわけではない。はっきりとわかる。
何故なら今、その愛情を微塵も感じないのだから。少しも『守られた』という感覚を得ることがないのだから。
この術は、“この身体”にかけられた術だ。
そう、この命が終わらないために……。
簡単な答えだった。
死んでは困るから。
九尾の器が壊れたときの保険となる者が、居なくなっては困るから。
わざわざ転生の術を使ってまで産み出した存在が、自身でその役目を終わらせることがないように。たとえ運命に絶望しても、途中で放棄することができないように。
これは、この命を生み出した者たちが、それを有効に利用するために、予め施していた術なのだ……。
「いつから……」
残っていた力が全て抜けた。濡れて黒ずんだ河原にへたり込む。
一族が放つ術を、返せないはずがない。
それは間違いがなかった。
当主である父ですら、自分を妬み、恐れていた……。だからこそ今の関係に至っている。
だからきっと、この力が確立される前……赤ん坊の頃にでも、術にかけられたのだろう。『決して使命を放棄するな』という、この術を……。
「うっ……」
悔しくはなかった。悲しいわけでもなかった。
今さら、一族の者たちに思うことなど何もない。恨みも憎しみも、憐みも、感じることは何もない。
だが、涙が出た。
これは……怖れだ……。目の前に広がる“恐ろしい未来”を断ち切ることができなくなったという、怖れだ……。
「どう……したら……」
ざわざわと、焦りが全身を包んだ。
いつ、目の前にうちはマダラが現れるとも限らない。
戦況がどうなっているかわからないが、すでにマダラが倒されていると楽観できるほど、もう心は強くない。単純に“仲間”たちを信じることができないくらい、心はもう歪んでしまっている。
それに、自分の中に眠る“何か”がいつ目覚めるかもわからない。誰か……たとえばマダラに無理やり引き出されるかもしれない。
怖い……。
誰でもいいから、この先に必ず来る“恐ろしい未来”を今すぐに閉ざして欲しかった。
「誰か……!」
応えるはずもないのに、そうつぶやいた。
「お願いっ……誰か……!」
水の音が、声も願いもかき消していく。
「誰か……私をっ……!」
「泣いているのか?」
一瞬、川の流れが止まったような感じがした。
「え……?」
「ずいぶん彷徨ったが、ちゃんとお前の元に辿りつけた」
応えるはずもないのに……誰もここには居なかったはずなのに、すぐ後ろで声がした。
「誰……?」
ゆっくりと振り返る。
「最期に願ってみれば、叶うものだな」
そこに立っていたのは……。
「ネジ……くん……?」
戦場にいるはずのネジだった。