闇の中、本当は立ち上がることさえも億劫だった。湿り気を含んだ重い空気に、全身が押し潰されてしまいそうだった。
が、再び顔を上げることができたのは、ネジが最後に笑ってくれたから。清々しい笑顔で、己の生に少しも“悔い”を滲ますことなく逝ったから。
そして。
『ナナ……これからもお前を……見守っている……』
そう、約束してくれたから。
だから、ナナは再び立ち上がった。
彼に見守られながら、やるべきことはわかっている。
濡れそぼった小石の上に落ちた短刀を拾い上げる。
刃に泥がついていた。袖でそれを拭う。
歪なうちはの家紋が、再び月明かりに煌めいた。
キンと大げさな音を立てて鞘に収め、懐にしまった。
水の香りを胸いっぱいに吸い込む。
闇の中にそびえる、うちはマダラと千手柱間の巨像に一瞬だけ視線を送ると、明けない夜の中、再び木ノ葉に向かって足を踏み出した。
その時。
『オイ、和泉の姫!!』
聞き慣れない……それでいて良く知っている声が聞こえた。
滝から落ちる水の音に少しもかすまない、強く響く声……。
その存在を意識した瞬間、目の前の景色が一瞬にして変わっていた。
ここには来たことがあった。声の主も誰だかわかっている。
『和泉の姫、力を貸せ!!』
見上げると“それ”が居るとわかっているからうつむいた。
薄暗い中、己の足首が水に浸かっているのが見えた。そしてそこにはまだ、枷と千切れた鎖があった。
『十尾から尾獣どもを抜き出す! お前の力を貸せ!!』
“それ”の叫びで波が立った。
少しよろめく。
「九尾……」
“それ”は、変わらずそこに居た。
「どうして……?」
ナルトが“鎖”を千切ったはずだ。もう、ナルトの中の九尾が暴走したとき、ナナがそれを封印するという“契約”は、ナルト自身の手で破棄されたはずだった。
それなのに何故、またこうして意識の中で九尾と“ここ”で顔を合わせているのか……。
『あの時、ナルトがお前との契約を断ったが、お前の中にあったオレのチャクラはまだ残っていた』
九尾はいっそう低い声でそう説明した。
が、その口調は以前とは明らかに違っていた。
あの時……、九尾の檻の“内側”で初めてその姿を目にした時は、噴き出すような憎しみしか感じられなかった。
そして、自分に対する憐れみと蔑みを清々しいまでに突き付けられた。
が、今は……。
『そんなことはどうでもいい! 和泉の姫、お前の力が必要だ!!』
相も変わらず高圧的な物言いではあるが、巨体からほとばしっていた憎しみが感じ取れない。
「なに……?」
九尾の心に何があったのか……。
そもそも九尾には、憎しみや蔑みのような負の心しかないのだと思っていた。
だがそこには明らかに、それと違うものがある。
だから、いったい今までに何があったのか問いたかった。
が、九尾はその問いを「戦場で何が起きているのか」という意味に受け取ったようで、若干早口になりながらこう説明した。
『十尾の人柱力になったうちはオビトから、ナルトとサスケが尾獣どものチャクラを引っ張り出す! 完全に切り離すにはお前の力が必要だ!』
ナルトとサスケが……。
九尾がそう言ったことで、思わず目を見開いた。
『お前、まだ死んじゃいねーようだな……』
それを九尾が目聡く指摘する。
紅い目は心を鋭く見透かしたようだった。
『お前には、人柱力から尾獣を引き抜いて
そして、ナナの力の全てをも知り尽くしているように、差し当たっての目的を告げた。
また、うつむいた。
九尾がナルトの中でずっとナルトの成長を見守ってきたのと同じように、この胸の奥からも自分を見ていたのだろうか……。
だからこそあの時、この運命を嘲る言葉を的確に吐き出せたのか。今もまた、抱える恐怖と、
そう思案した。
『さっさとしろ! オビトの方へ引き戻されるぞ!』
足元を浸す水が、温く揺らいだ。
『十尾が存在すれば“大樹”が成長して花を開く。そうなれば、ヤツは“無限月読”の術を発動しちまう!』
九尾が鼻先を近づけた。
熱い息が全身にかかる。
『そうなりゃお前ら人間どもは、幻術世界の中に閉じ込められて終わりだ! それでいいのか?!』
ぐらりと身体が揺れて、二、三歩、後ずさった。
『オイ!』
大きく鋭い牙が露わになった。
「だめなの……」
顔を背けて、初めてそう応えた。
「そっちには、行けない……」
この力……幼い頃から会得してきた尾獣を封じる力が、そして和泉一族の特異な血が、戦場で役に立つかはわからなかった。
「少しはまし」になるかもしれないし、「全く歯が立たない」かもしれない。それとも、「みんなを救うことができる」のかもしれなかった。
だが、それ以上に……。
「九尾、アナタなら
さきほどからずっと怖れていることがあるのだ。
それを、九尾に気づいて欲しかった。
『お前の眼と、血と、力のことか……』
白い牙の隙間から、吐き捨てるような台詞が漏れ出た。
『確かにお前は、この世に存在していちゃいけねぇのかもしれねーな』
それでも、台詞の意味は“同意”だ。
「だから……そっちに行けないの」
思い切って顎を上げた。真紅の目を見つめる。
「“私”が利用されたら、この世界は壊れる……!」
言い返すと、逆に九尾は黙り込んだ。
「アナタならわかるでしょう?」
うまく伝えられないのは仕方がなかった。
だが、わかってくれると確信していた。
何故なら、九尾こそが長い歴史の中で、常に“利用される”立場に居続けた存在だからだ。
ある意味、今現在のナナの心境を一番よく理解してくれるのが九尾であるはずだった、
ネジにも曖昧にしか告げられなかったし、自分でもはっきりと認識しているわけではない、ただ漠然とある恐怖や予感も……。
『ああ、わかっている』
九尾はいっそう低い声で応えた。
だが、
『だが、“今”十尾を倒さねぇと、戦場の奴らは“死ぬ”』
体制を変えないまま、静かな口調で言った。
『お前の力が“世界を壊す”前に、アイツら……ナルトも、サスケも、みんな“死ぬ”ぞ』
反射的にこぶしを握った。
九尾の言う通りだ……。
腹に響く声は理路整然としている。
「でも……」
だとしても……。
「今の私に、あの術をする力なんて無い……」
術の手順は脳で考えなくとも発動できるほど、幼い頃からすでに身体に浸み込んでいる。
が、今は身体も心も疲弊しきっていた。
おそらく自分が戦場へ行っても、「少しはまし」になる程度とみるのが妥当だろう。
『そんなはずはない!』
しかし、九尾は再び声量を上げた。
さきほどより大きい波が足元をすくう。
『お前なら尾獣も忍のやつらも、全員救えるはずだ!』
耐え切れなくて膝をついた。
『それに……』
冷たい……いや、生ぬるい水が、袴と袖をじわりじわりと濡らしていく。
『お前は、ヤツらを見捨てることなんかできやしねぇ』
いっそこのまま、溶けてしまいたかった。
「でも……」
サスケの顔が浮かんだ。ナルトも。カカシ、サクラ、シカマル、我愛羅……そして、ネジ。
仲間たちの顔が浮かんだ。
彼らの世界を壊したくないから、自分を終わらせようとした。
彼らをこの手で傷つけたくないから……。
だが九尾の言う通りなら、そうなる前に、今にも彼らは幻術世界に引き込まれてしまう。彼らの世界が終わってしまう……。
『急げ、和泉の姫! 十尾の力は、ナルトとサスケの力でも引きずり込まれるほどの代物だ!』
ナルト、サスケ……みんな……。
彼らを救えるのか?
この手で。この、情けなく濡れそぼった手で……。
「どうして……?」
こぶしを握った。
が、力は入らなかった。
「どうして、私を信じるの?」
ただその訳を問いかけた。
「どうして……?」
自分で出せない答えを、九尾が出すことの理由が知りたかった。
『お前は……』
九尾は急かすのを止め、以前のようにゆっくりとした口調でこう答えた。
『一度も、ワシを“敵”として見たことがないからだ』
思わず顔を上げた。
『最初から、ナルトを憎んでいなかったからだ』
陰険に睨みつけるだけだったあの目が、まっすぐにこちらを見下ろしている。
そこに皮肉は無かった。あからさまに率直だった。
「九尾……」
やすやすと語られた二つの理由。
“この存在”に、こんなふうに言われる日が来るとは想像もしなかった。こんなにも、“この存在”と心を通わせることができるとは思いもよらなかった。
冷えていた胸が熱くなった。
『急げ! お前が誰より、アイツらを死なせたくないはずだろうが!』
水に浸かったこぶしを握った。
今度は、自分の体温を感じた。
『後のことは、何とかなる……! なんならワシがお前を噛み殺してやる!!』
そう……大切なのは、今、この瞬間。
怖れを超えろ……。
「わかった……」
選択を間違えたくはなかった。
後で取り返しのつかないことになるとはわかっている。
それでもやはり、目の前のできることに背を向けることはできなかった。
きっと、これが自分の忍道なのだろう。
ずっと掲げることができずにいた忍道……。
醜く足掻いても、愚かでも、目の前のできることに立ち向かう。
やっとみつけた己の忍道。
そうであれば良いと思った。
きっと、イタチも笑ってうなずいてくれる。ネジも。
だから、ナルトとサスケが“共に”戦っている。そこへ……。
「連れて行って、九尾」
さっき、ネジに言ったのと同じ言葉を九尾に言う。
「私、戦場に行く」
正反対の目的で。
『ど真ん中に飛ばすぞ! すぐに術を始めろ!!』
「わかった」
覚悟を決めた。後悔は、これ以上したくない。
(イタチ……ネジくん……私を、見ていて……!)
最後の戦いをするために、戦場へ……。