ひと葉 ~参の巻~   作:亜空@UZUHA

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依頼

 

 最初、サクラのいる方角へ向かおうとしたサイの鳥は、すぐに向きを変えて旋回しながら降りて来た。

 そう……シカマルの方へ。

 それは彼にとって、全くの想定外だった。

 ナナが向かう場所は当然、医療忍者であるサクラのところだと思った。たとえナナに意識がなかったとしても、サイが連れて行くはずだった。

 が、そうはならなかった。

 サクラのところで回復するのでないならば……、やはりサスケの元へと行くはずだった。

 サスケが「置いて来た」はずなのに、ナナはこの戦場に現れて皆を救った。

 だから、二人の間にあったはずの“別れ”のその“続き”を話すことが必然と思えた。

 が、そうもならなかった。

 

 ナナは目の前に現れた。

 

 ナナを抱きかかえたサイが、その身体をこちらに預ける。

 触れた身体は、布越しであってもとても生きている人間とは思えないほど冷たかった。

 

「シカマル、ナナを頼んだよ。ボクはナルトと、本物のマダラの封印へ……!」

「あ、ああ……気を付けろよ」

 

 動揺していたから、慌ただしく次の任へと発ったサイに対して気の抜けた返答しかできなかった。

 本当に、腕の中にいるモノが生き物なのかどうか、彼の知識が現実を受け止めることを邪魔していたのだ。

 

「シカマル……」

 

 紫色の唇が動いた。

 

「ナナ!」

 

 いのやチョウジが、まっさきに声をかける。

 

「よく来てくれたわ!」

「お前のおかげで助かったぜ!」

 

 キバも、ヒナタやシノでさえも、再会の喜びを素直に表している。

 だが、シカマルはナナが懸命に身を起しても、それを手伝うどころか声もあげられずにいた。

 

「ナナ、身体は大丈夫なのか?」

「見たところ、だいぶ弱っているようだ」

「少しだけど、私が回復させるわ!」

「いいの……大丈夫。この状態は、医療忍術じゃ、ダメだから……」

 

 ナナは皆に弱い笑みを返しながら、シカマルの正面に向き直った。

 

「それより……」

 

 ナナの呼吸は限りなく浅かった。

 あれだけの大術を成したばかりで激しく疲労しているはずなのに、息を切らすこともできないくらいに衰弱しているようだ……。

 まるでナナの言葉を聞くことを躊躇うかのように、シカマルはただナナの姿を見ていた。

 

「シカマル……」

 

 かすれた声に、背筋がゾクリとした。

 

「お願いが……あるの……」

 

 ナナがそう言いながら懐から何かを出すのが、やけにスローで見えていた。

 

「これ……」

 

 差し出されたのは漆塗りの短刀だった。

 それを目にした途端、その刃を突き付けられたかのように悪寒の波に襲われた。

 

「ナナ……?」

 

 その刀が何を意味するのか……ナナが答えを口にすることを止めたかった。

 が……。

 

 

「これで……私を……刺して……」

 

 

 ナナは弱々しくもきっぱりと言った。

 

「な、何言ってるのよ!」

「なんでお前を刺さなくちゃいけねーんだ!?」

 

 一拍の後……、最初に反応したのはやはり、周囲の仲間たちだった。

 シカマルはただ、ナナの視線に囚われたように固まっていた。

 

「お願い……シカマル……」

 

 ナナはキバやいのの声に応えず、ただシカマルを見つめる。

 

「アナタにしか……頼めない……」

 

 ゴクリと唾を呑みこんだ。

 このままでは、ナナの幻術にかかってその要求を受け入れてしまいそうだった。

 

「ナナ……」

 

 ざわめく胸を押さえつけ、無理やり喉をこじ開けた。

 

「な、なんでそんなこと言い出すんだよ……!」

 

 ひどく単純な台詞だった。

 ナナの表情は変わらない。

 

「アナタなら、わかってくれるはず……」

 

 しかし、その声はだんだんと強さを増していった。

 

「私は、“ココ”にいちゃいけないってこと……」

 

 反して、シカマルは全身の力が削がれていくのを感じる。

 

「シカマル……わかってるでしょう……?」

 

 ナナの口調はまるでこちらの全てを責めるようだった。

 その不可解さを感じ取ったのか、いのやキバたちは黙り込んだ。ただ息をひそめて二人のやり取りを見守っている。

 

「さっき……、『写輪眼』……見たよね……?」

 

 ナナはここで小さく咳き込んだ。

 それでも、淡々と冷めた言葉を繋いでいく。

 

「私は……和泉一族の血と、うちはの血を引いてる……。」

 

 ナナの漆黒の瞳は、今にも碧く光りそうに思えた。

 そしてナナは唐突にもっと過去の話をし始めた。

 

「シカマル、あの浜辺でのこと覚えてる……? “私”が、偽物のマダラに言われた言葉……」

 

 ナナに問われなくても、あの時からずっと耳の奥にこびりついて離れない。

 『面のマダラ』がナナの身体を刀で貫いて、言った言葉……。

 

「『お前に用はない』……て、言ってたでしょう?」

 

 ナナは自らそれを蘇らせる。

 

「あの時の“私”は、“もうひとりの私”だったから……。だから必要なかった」

 

 そこまで、ナナ本人が言わなくともわかっている。

 おそらくは、いのたちもナナの要求の意味がわかりかけているだろう。

 

「でも、今のこの“私”には特別なチカラがある……。それを、マダラは()()()()()()狙っていた……」

 

 たまらず、ナナから目を逸らした。

 

「ねぇ、シカマル。私は……『和泉成葉』の生まれ変わりじゃなかった……」

 

 ナナが語る“真実”はまだ、彼の中では幻だった。

 

「私……本当は、和泉成葉の“子供”の生まれ変わりだったの。……父は、うちは一族の人間だったって……」

 

 本人さえもまだ他人事のように話すその“真実”と、どうして向き合えようか。

 

「そのことは誰も知らなかった。もちろん私自身も……。それに、和泉の一族や本家の両親でさえ知らなかった。知っていたのは……」

 

 彼はとうとう、逸らした目をつむった。

 

「『和泉成葉』じゃなく、『和泉成葉の子供』を転生させようと仕向けた、“うちはマダラ”だけ……」

 

 いのたちが言った。

 そんなことはひどすぎる……だの、あまりに勝手だ……だの。

 だがシカマルは、憤りを感じることさえもできなかった。

 何故なら、脳はとっくに「そんな感情を抱いている場合ではない」という指示を出してしまっている。

 

「シカマル」

 

 たったひとり、何の感情も示さなかった自分に、ナナはさらに熱のこもった声で告げる。

 

「もう、気づいてるよね? あの人は……()()()()私を利用するつもりで、私を()()()()()()……」

 

 「最初から」という単語が、むなしく鼓膜に張り付いた。「つくり出した」という言葉に戦慄した。

 

「そんな人が、いつまでも私を放っておくはずないよね……?」

 

 まるで“脅し”だった。これから訪れる凶事を予言しているかのようだった。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、ナナ! あんたが言う“うちはマダラ”って、あの面の男でしょう? あれは偽者のマダラだったのよ!」

 

 ここでやっと、呪縛から放たれたように周囲が動きを取り戻す。

 

「そ、そうだよ! あの時ナナを脅したのは偽者のマダラで、そいつが十尾の人柱力になったから、ええと……ほら! 今みんなで倒したんじゃないか!」

「なんだよ、そういうことかよ!! じゃあ、お前を狙ってったヤツはもう虫の息ってことだな! もう利用される心配はねーぜ!」

「確かにもう安全だ。何故なら、尾獣を抜かれた人柱力は、やがて死ぬと聞いている」

「す、すでにカカシ先生が拘束しているみたいだよ」

 

 仲間たちはやけに明るい声で言った。赤丸までも、大きく吠える。

 彼らの身にも、これまでのナナの“予言”は得体の知れない黒い霧のようにまとわりついていたようだった。

 が、シカマルの肌にはびこるそれは、とても拭いきれるものではなかった。

 ナナの視線が、ナナの言葉が、そして自身の思考が……身体を冷たくきつく縛り付けている。

 

「シカマル……」

 

 ナナは、いのたちの言葉を肯定も否定もしなかった。ただただ、シカマルを見つめている。

 その目は、睨みつけているかのように鋭かった。

 

「本物のマダラも……、か……」

 

 思わずこぼれ出た。

 ナナの視線に答えを促されていた。

 そのため息のようなつぶやきに、またも仲間たちが反応する。

 

「本物のマダラもって、どういうこと?」

「本物のマダラも、ナナのことを狙ってたってのかよ?!」

 

 ナナは相変わらずの姿勢だった。

 まっすぐシカマルだけを見て、何かを待っている。

 

「この戦争は……初めから、偽のマダラ……つまり『うちはオビト』と、本物の『うちはマダラ』が計画していたことが、さっきまでのあいつらのやり取りでわかったろ……」

 

 仲間たちにその答えを告げていても、ナナの方を向けなかった。

 

「本物のうちはマダラが死んだ後も、オビトってやつは偽のマダラとして、本物のマダラの計画を続けていたんだ。だから……おそらく、ナナのことも……」

 

 ナナのことも計画の内に……と、全部を口にすることはとてもできなかった。

 

「じゃ、じゃあ、本物のマダラも倒せばいいんじゃねーか!」

「ナルト君が、もう向かっているよ……!」

「全員でかかればきっと倒せるわよ!」

「ボクたちも行こう!!」

 

 希望の欠片を持つ者たちは、そう言った。すぐにでもマダラの元へと駆けだそうとしていた。

 彼らの言葉に何の不自然さもないことは、シカマルにもわかっていた。

 だが、彼らと同じ希望を持つことはできなかった。

 

「そんな余裕なんてないことを、もうわかってるんだよね? シカマル」

 

 それを見透かす、漆黒の眼。

 

「ど、どういうことなの? ナナ……!」

「あいつを倒せば、お前は安全なんだろ?!」

 

 いのやキバたちのように、むきになってナナに言いよりたかった。笑い飛ばしたかった。

 いや、突っかかりたかった。

 が、冷静な思考を絶えず心がけてきたおかげで、もう一人の自分がそれを制止する。

 

「イタチが死んだとき……」

 

 ナナは誰に告げるともわからない抑揚で声を滑り込ませた。

 

「私は面のマダラと会っていた。ずっと一緒にいたのに、私はずっと無防備だったはずなのに……あの人は、サスケと別れた私を引き止めることもなかった……」

 

 零れ落ちる辛い記憶に、砂塵も立ち消えた。

 

「私が必要なら……あのまま拘束することができたはずなのに、そうしなかった」

 

 シカマルはうなだれた。

 

「それって……“いつでも私を捕まえられる方法がある”ってことだよね……?」

 

 そう……それが彼の中に浮かぶ忌々しい答えだ。

 

「最初から私を利用するつもりで()()()()()()おいて、この戦争でこのまま利用せずに終わるはずがないよね……?」

 

 わざわざナナ自身が口にしなくとも、とっくにわかりきっているのだ。

 

「だ、だから、あのマダラはもう……!」

 

 当然、周りは反論を繰り返す。

 が、ナナはほんの少しも表情を変えずに告げた。

 

「二人が計画していたんだから、二人とも“その方法”を知ってるはず……。そうでしょう? シカマル……」

 

 同意を求められることが辛かった。

 

「本物のマダラもきっと、私を手に入れる方法を知ってる。ていうより、本物のほうがオビトっていうひとに教えたんだと思う……。だから、それをしないままやられちゃうなんてありえないよね……?」

 

 染み入るような、ナナの言葉。

 うなずいてしまうのを、理性で止める。

 

「オビトっていうひとはもう、“その気”がないかもしれないけど……。でも本物のマダラの方は、ナルトにやられる前に、きっと私のチカラを使うはず……」

 

 ついに、いのたちも黙りこくった。

 ナナの言っていることが、彼女らには半分“屁理屈”に聞こえているだろう。

 だが、ナナの纏う空気が全てを“真実”だと証明しているようだった。

 

「私の中にあるチカラは……絶対に表に出ちゃいけないもの……」

 

 ナナはいっそう強い視線をシカマルに向けた。

 

「この眼を開眼したときに、見えちゃったから……!」

 

 無理やり引き寄せられるように、その眼を見た。

 血の気のない顔に、目だけが血走っている。

 

「あまりに強すぎて、どうしようもできないの!」

 

 ナナは感情を加速させる。

 シカマルのそれが、ますます追いつけないほどに。

 

「こんなチカラがあるなんて……知らなかった……!」

 

 必死……だった。

 ナナの懇願が、確かにこの場を威圧していた。

 その迫力に、いのたちももう口を挟めずに突っ立っている。

 

「見て、シカマル……」

 

 わずかに声を和らげ、ナナは短刀を抜いた。

 一度も使われない真新しい刃が、ナナの顔の前で煌めいた。

 

「これ、特別な術がかかっている刀なの。これで刺せば魂が封印されて、二度と転生することはないから……」

 

 いい加減、自分を“モノ”のように言うのは止めて欲しいと、吐き出したかった。

 

「だから、この先も誰かに利用されることはなくなる……」

 

 が、まだ声を出すことができない。

 

「このチカラも、もう誰にも呼び覚まされることはない……」

 

 それがナナの切なる願いということは痛いほどにわかった。

 自分の内なるチカラが悪に利用される……。それを怖れ、必死で抵抗することは当然だった。

 忍であれば、ほとんどの者がその考えだ。

 実際、敵に捕らわれた場合は情報提供者として利用されないために、自ら命を絶つことが鉄則である。

 まだ火影からそんな任務を仰せつかったことはないが、忍である以上、それが常識だと疑っていない。

 ナナであれば、そう思うのもなおさらだった。

 ナナはどの血族より優秀な和泉一族の血を引いている。そして血継限界であるうちは一族の血も……。

 その特殊性ゆえ、ナナは取り乱しそうなほどに強い怖れを抱いている。

 

「シカマル……アナタは私を許してくれた……」

 

 ナナの瞳が、あの時と同じように揺らめいた。

 

「だから、アナタにしか頼めない……」

 

 いや、覚悟の光がそこに浮かぶ。

 

「アナタを苦しめることになって、本当にごめん……。でも……本当にもう、アナタにしか頼めないの……!」

 

 そして、綺麗な涙も。

 

「ま、待って! ナナ!」

「ちょっと落ち着けって!!」

 

 ナナの声色が穏やかになったところで、いのとキバがやっと二人の間に割り込んだ。

 

「そんなのぜったいダメよ!」

「何か他に方法があるはずだ! マダラを倒すまでどっか結界に入っておくとか……」

「それで大丈夫だったら、和泉の里に帰ってる」

 

 ナナが初めて、周りの意見に応えた。

 不意をつかれて、いのとキバは反射的に口をつぐむ。

 

「私が和泉の里に暮らしていたとしても、いつかは利用するつもりだったはず……。だとしたら……」

 

 皆が、息をのむ。

 

「和泉の結界でさえ、隠れられないってことだから……」

 

 諦めの台詞だった。

 が、ナナ本人は失望した様子は見せなかった。

 ただ。

 

「もう、足掻いてもダメなの……。これしか思いつかないし、もう時間がない……」

 

 成すべきことだけを、すらすらと口にする。

 

「お願い! シカマル!」

 

 まるで彼らを責め立てるように。

 

「アナタに頼むしかないの……! ほら、見て!」

 

 ナナはおもむろに、両手で刀を握りしめた。

 刃の切っ先は、己の胸を向いている。

 

「お、おい!」

「ナナ?!」

 

 誰かが止める間もないまま、ナナは何の躊躇もなく、その刃を自身に突き立てた。

 

  キン……

 

 耳を、やけに澄んだ高音が劈いた。

 

「え?」

「どういうこと……?」

 

 ナナの行為は驚くほどためらいがなかった。その両手の勢いも迷いも恐れも感じさせない、清々しいほどに力が籠っていた。

 が、ナナの白い着物は、赤く染まりはしなかった。

 

「刃が、止まった……」

 

 シカマルは呟いた。

 

「星が……」

 

 彼にははっきりと見えたのだ。刃を受け止める、青白い星の印が。先ほど宙に浮かんだのと同じ星が。

 

「自分じゃ駄目だった……」

 

 彼らの惑いを全て無視して、ナナは言った。

 

「自分じゃ始末をつけられないように、私は誰かの術にかけられていたの……。だから……」

 

 また、自分を粗末に扱う台詞を言いながら、ナナはシカマルの手に刀を握らせた。

 

「お願い、シカマル! アナタが終わらせて……!」

 

 まだ冷たい肌が触れ、恐怖すら湧いた。

 このただでさえ儚い存在を、永遠にこの世から消せと言うのか?

 この手で……。

 

「お願い、シカマル! 私……自分のチカラでみんなを傷つけるなんて嫌なの……! 壊したくないの……! だからっ……!」

 

 彼は歯を食いしばった。この理不尽さに腹が立った。己の無力さが恨めしかった。

 

「もう時間がない……。お願い! シカマル!」

 

 何度も願いを零すナナの唇を、塞いでしまいたかった。

 

「シカマル……」

 

 何を言うこともできない彼に、ナナは一呼吸おいて言った。

 

 

「私を……救って……」

 

 

 その眼に、声に、口元に……少しも後悔はなかった。悔いも恨みも、何もなかった。

 ただあるのは、焦りと怖れ……そして、決意。

 

「ナナ……」

 

 それを確かめて、シカマルは柄を握りなおした。

 ナナは少しほっとした表情で、姿勢を正す。

 

「シカマル……」

 

 ああ……、こんなにも穏やかなナナの表情を見たのは、いつ以来だろう……。

 漫然とそう思った。

 そしてそれがとてつもなく理不尽なことだと、すぐさま思い直した。

 

「でっ……!」

 

 ナナの表情が崩れる。

 が、噛み付くように叫んだ。

 

「できるわけねーだろ!!」

 

 怒りがあった。

 二人の『マダラ』への確かな怒りも、こんな世界への漠然とした怒りも、ナナ自身へのむき出しの怒りも……。

 

「シカマル……!」

「たとえ次の手で詰んだとしても、お前が死ぬ理由にはならねー!!」

 

 ナナにも怒りがあった。絶望に絡みつく、明け透けな怒りが。

 

「お前を利用しようとするヤツらはオレらが倒す! 今、ナルトやサスケも戦ってる! もう一度だけ信じろ!!」

 

 「もう一度だけ」と、思わずそう言った。

 何度も絶望を見たはずのナナだから、祈りを込めるようにそう言った。

 ナナは押し黙った。

 暗い目で、こちらを見ながら……。

 

 

「え……」

 

 

 その眼が碧く光った。

 冷たく、鋭く……。

 そして。

 

「なっ……」

 

 息が止まった。いや、心臓が止まった気がした。

 当然、脳も停止する。

 ナナの顔が見えない。視界が暗い。誰の声も聞こえない。喧騒も……。

 ただひとり、暗くて寒い場所に立っている。いや、赤くて熱い地に立っている。

 そこで“満足”している。

 それは自分のものではない。

 極寒の氷の世界、マグマが流れる灼熱地獄……。それらを“作り出した本人”の感情だ。

 

「シカマル……!」

 

 ふと我に返った。

 陰の光景も感情も一瞬にしてかき消され、物騒な世界に舞い戻る。

 

「シカマル……」

 

 目の前にいるのはナナだ。

 黒い瞳の。

 そのナナが、こちらにそっと手を伸ばす。

 

「……っ……」

 

 反射的に、それから逃れるように身を引いた。

 

「え……?」

 

 小さく声を上げたのは自分自身だ。

 

「ちょ、ちょっとシカマル!」

「どうしたのよ?!」

 

 周りの声がやけに遠くから聞こえる。

 一体どうしたのか……。今、一瞬何が起こったのか……。

 懸命に状態を分析する。

 

「シカマル。私が怖い?」

 

 それを遮るようにナナは乾いた声で言った。

 

「え……?」

「怖いでしょう? 私の“未来”」

 

 ミライ……とは何のことだったか。

 今さっき見せられたそれが“未来”だというのか……?

 

「ナナ……」

 

 だとしても、その記憶はもうどこにもなかった。

 思い出そうとしても、何も浮かんでは来ない。

 まるで、本能がそれを封印してしまったかのように……。

 

「お、お前……、幻術を……」

 

 無理矢理喉をこじ開けた。

 そのおかげで脳が少し働いた。

 ナナは幻術を見せたのだ。恐ろしい幻術を……。

 だから、そう……この得体の知れない恐怖はナナが作り出したものでしかない。そのはずだ。

 

「ナナ!」

 

 そう言い返そうとした時、ナナの身体がグラリと傾いた。

 いのが支えようとするが、何故だか彼女も手を引っ込めた。

 ナナが乱れた前髪の影から、血走った目をこちらに向けていた。

 

「アレは幻術なんかじゃない……! 真実なの! 必ず来る未来なの……!」

 

(だったら……!!)

 

 その台詞が滑稽すぎて、また脳が動いた。

 そうだ。ナナは自身のチカラに怯えるあまり、妄想を膨らませてしまっているだけなのだ。

 思いがけない出生の秘密と、思いもよらないチカラに慄いて、考えが悪い方向へと一直線に向かっているだけだ。ものすごい加速度で。

 だから……。

 

「シカマル……!」

 

 ナナは肩で息をしている。

 今の幻術で写輪眼を使い、もう身体は限界なのだ。

 だから……。だったら……。だとしたら……何故?

 

(なんでオレに幻術をかけて殺させなかった?)

 

 本気ならばそうしたはずだ。

 今の幻術で妄想を見せることに最後の力を振り絞るくらいなら、“目的”のために有無を言わさずこちらの身体をコントロールしてしまえばよかったのだ。

 何故、それをしなかった……?

 

「ナナ、お前……」

 

 本気じゃなかった……。

 そう考えられれば楽だった。

 取り乱してるだけだとなだめて、大丈夫だからそんなことするなと笑いとばして、あの短刀を鞘に収めればよかった。

 そして、ここにいる仲間たちと協力して、ナナをどこか遠くへ……。

 だが、そんなものではないと気づいてしまっている。

 ナナを見てきた。だからわかる。

 ナナはほんの一粒の“納得”をくれようとしたのだ。

 幻術をかけて自分を殺させれば、ナナの目的は否応なしに果たされるだろうが、それでは誰も納得しない。血まみれの自分がただ傷つくだけ。見ていた仲間たちも混乱するだけ。

 が、確かな理由を突きつければ……。それが“真実”と説得できたならば……。

 傷つくのは同じこと。混乱も避けられない。

 だがそれでも、ただ幻術をかけて目的を果たすよりは一粒だけでも“納得”する可能性を握らせることができる……。

 ナナはそう思ったのだ。

 

(バカヤロウ……!)

 

 そうまでして……。

 ナナは取り乱してなどいなかった。ただ怯えているだけでもなかった。

 ナナはここにいる誰より冷静なのだ。全てわかったうえでの言動と行動なのだ。

 それしか選択肢はないと……。

 ここへ来るまでに決めていたのだろう。

 夜空で綺麗な星となっていたあの時も。皆に力強く声を飛ばしたあの時も。

 

「ナナ……」

 

 脳が割れるほど奥歯を強く噛みしめた。

 そして、差し出された短刀を手に取った。

 

「ちょ、ちょっとシカマル……!」

 

 いのたちが制止する。

 が、彼女たちも戸惑いに揺さぶられ、行動に移せはしなかった。

 

「シカマル、アナタがこれを罪に思わないで……。アナタはこの世界を守るし、私を救ってくれるんだから……」

 

 ナナの言葉は甘いささやきだった。天から降るような、慈悲に満ちた言葉だった。

 手が震えた。息が苦しかった。頭が痺れた。

 もうすでに、この事態を回避する作戦を練ることなどできなくなっていた。

 こんな時に限ってちっとも働かない唯一の取り柄である頭脳を恨めしく思った。

 

「どうしても……変えられねぇのか……?」

 

 足掻きは無駄だった。

 

「初めから、決められていたことだから」

 

 仲間たちはまだ何か言っている。

 が、耳には入らなかった。

 

「何か、方法が……」

「本当に、これしか思いつかなかったの」

 

 シカマルにはもう、ナナの声しか聞こえない。

 

「こんなんじゃ……お前は……!」

「シカマル……『変えられなかった』んじゃなくて、私はこうして運命を『変える』んだよ」

 

 ナナは笑った。

 自分を誇らしく思えて……それが幸せだとでもいうように。

 

「アナタに背負わせてごめん……。でも、私は諦めたわけじゃない……」

「これが……お前の戦いなのか……?」

「うん」

 

 ナナの周囲の景色は、もう視界の中でぼやけたようだった。

 

「ナナ……」

 

 もう一度、刀を握り直した。

 

「ありがとう、シカマル……」

 

 ナナの着物の襟から、白い喉がむき出しになった。

 視界が揺れるほど歯を食いしばって、柄を握る手に力を込めた。

 瞼を閉じる。

 心の中は目も当てられないほど混乱している。頭の中も、ハチの巣をつついたような大騒ぎだ。

 だが、もう考える暇は与えられない。

 理性が、勘が、思考が……体中の全てが、ナナの言葉に“納得”してしまっている。その予感に抗う武器を、どうしても見つけられないでいる。

 

「ナナ……、オレはっ……!」

「わかってる……」

 

 ナナの声だけが、耳に届いた。

 

「ありがとう、シカマル……」

 

 それはまるで呪文のように、彼を動かした。

 

「くそっ……!!」

 

 腕を引いた。

 ナナの顔は見られなかった。

 その痩せた肩を左手で掴んで……シカマルは刃の切っ先をナナに向けた。

 

「くそっ!!!」

 

 そして身体の奥底にこびりついた力をめいっぱい引きずり出し、刃を突き立てた。

 

 

 

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