「キバ……」
「黙ってろ……!!」
ナナが口を開けば何を言うかわかっている。
だからキバは、何も言わせたくなかった。それを聞きたくはなかったから……。
それを正面切って言われたシカマルの痛みはよくわかっていた。
必死な顔で「自分を殺せ」と懇願されて……ナナに……懇願されて……。
今、彼がどんな思いを抱えているのか。
とうてい、自分には耐えられないと思った。
『シカマル、アナタがこれを罪に思わないで……。アナタはこの世界を守るし、私を救ってくれるんだから……』
ナナがそう言って笑んだ瞬間、ナナとシカマルの周りの空気が変わった。
キバの鼻でも“理解不能”な、不思議な空気だった。
気づいたときにはもう、二人との間には境界線ができていて……いのたちと一緒にシカマルを止めようとしたのだが、声は届かなかった。
ナナの周りの地面に星が描かれていた。
ついさっき、空に浮かんでいたのと同じ青白い星……。
それが、ナナがつくった“結界”なのだとわかっても、思い切り見えない“壁”を叩いた。
シノまでもが二人を止めようと声を荒げている。赤丸も爪で“壁”をひっかいた。
が、どうすることもできなかった。ナナの結界を破れる術などなかった。
向こうの声も聞こえない。ただ二人の間に漂う悲愴感だけが見えている。
シカマルは、明らかに普通じゃない目つきで刀を握った。いや、握らされていた。
そして、それをナナに向ける。
叫びは届かない。
いのもヒナタも悲鳴のような涙声だ。シノのあんな叫びは初めて聞いた。
シカマルの左手がナナの肩を掴み、引き寄せる。
その瞬間まで、「そんなはずはない」と思っていた自分に気づかされた。
戸惑いは恐怖へと変わる。
だが、止めることは叶わない。
シカマルは刃を持つ腕を、思い切り引いた。
目に浮かぶ、悲しい結末。いや、鼻をつく血の匂い……。
喉がちぎれんばかりに叫んだ。拳の骨が軋むくらい強く結界を叩いた。
シカマルは……、ついにその刃を思い切り突き立てた。
ナナにではなく、地面に。
結界の中のその音は聞こえなかった。
が、何かを打ち砕くような音が確かに聞こえた気がした。
ゆっくりと、星の光はその刃に吸い込まれていった。
同時に、触れていた結界の“壁”が溶けていく。
『シカマル……』
ナナはかすれた声で言った。
『どう……して……?』
ナナが本気で失望していることが、キバにもわかった。
胸が痛んだ。
生きることに失望しなければならないナナが、とんでもなく哀れだった。
だが、それを目の当たりにしてもまだわからなかった。
どうしてそこまで、ナナは未来を決めつけるのか。何故、それしか選ぼうとしないのか……。
『できるわけねーだろ!!』
困惑と安堵を引き裂くように、シカマルは言った。
『お前を殺すなんて……。オレにできるわけねーだろ!!』
彼の肩は震えていた。刃を握ったままの手も、その声も……。
ナナのことはさっぱりわからなかったが、シカマルのことは理解できた。
(シカマル、お前……本気で……)
改めてシカマルの想いを知った。
今までいつか彼をからかってやろう……と、そう思う程度だった。
ナナがもっと元気になって、サスケのこともうちはイタチのことも風化したら……シカマルをめいっぱいからかってやろう。それだけだった。
だが、想いの深さを突き付けられて、足がすくんだ。
『けどな……オレにはできねーんだ……!』
シカマルはナナの言葉を理解しつつも、こう言った。
『たとえこの選択が世界を滅ぼすとしても……。お前と世界をハカリにかけても、お前を選んじまうほどオレは……』
普段よりもっと、大人びた声で……。
『そんくらい、オレはお前に惚れてんだ……!』
はっきりと、そう告げたのだ。
そしてナナをこの腕に託した。ナナを逃がせと、彼は言ったのだ。
それは彼の“願い”であったが、顔色を見る限り“希望”ではなかった。
何故なら、シカマルは「わかって」いたからだ。
正直、二人が交わした会話の内容を十分に理解できているかといえば、そうではなかった。
ナナは、自分がマダラ……未だ活動を続ける“本物”のマダラにも、利用されることが決まっている。
そんなふうに言っていた。
「最初から決められていた」と、ナナはそういう言い方をしたのだ。
そしてシカマルは、ナナの言うことを「わかっている」……と。
しかし、キバにはそこまで理解できていなかった。
ナナの一族がどんな存在なのか、そこも詳しいわけではなかった。
が、ナナが和泉一族であることを知った時、自分なりに慣れない調べ物をしたのだ。
ただの伝説、おとぎ話……そう思ってきた存在が、身近にいたことには強い衝撃を受けた。
そしてナナの力を知った。その使命も。木ノ葉隠れの里に来たわけも。
しかし、ナナにはまだ秘密があった。
さっき見せた眼。あれは『写輪眼』だという。
サスケと同じ、うちは一族しか持ち得ない写輪眼……それをナナは得ていた。
「ナナ……」
キバは、ナナの漆黒の目を見つめた。
焦りと諦めとが、混濁した目。
初めて出会った時は、もっとずっと澄んでいた。
だが、感情は浮かべていなかった。
あの時から、ナナのことは決して嫌いではなかった。
どちらかというと、
それはシカマルがナナに対して抱く感情とは違っていたが、例えば子犬の頃の赤丸に抱いていたものによく似ている気がした。
そのナナは、いつのまにか遥か遠くの存在となっていた。
こんなにも強く抱いているのに、つかみどころのない存在に思える。
変わったのはいつからか……?
中忍試験……いや、その後だ。ナナの存在を知るきっかけとなった、サスケ奪還作戦。
共に戦ったあの時に、ナナの本当の強さを知ったからだ。
我ながら鼻が利かない……。
そう思った。
“姉”とやらにめちゃくちゃにされて、心身ともにボロボロになったナナを目にして、初めてナナの本質に気づくとは……。
(ナナ……お前は、どんな気持ちで自分を……)
あの時のナナと、今のナナ……。
同じように儚さを感じる。
「キバ……」
ナナが再び口を開いたとき、すでに負傷者たちが退いた地点まで来ていた。
マダラのいる前線からはかなり離れることができた。
赤丸の体力も限界だったが、よく頑張ってくれている。
「ナナ、しっかりつかまってろ……」
やはり、ナナの言葉は予め遮った。
いったいどこまでナナを連れて走ればいいのか、キバにはわからなかった。ただただ、マダラの存在が消えることを願っているばかりでもなかった。
何もわからなかった。
今のキバは、ひたすらナナを抱いて、赤丸とともに「遠く」へと疾走することしか考えていなかった。
「キバ、止めて……!」
それでも……ナナはか細い声で訴える。
「お願い、降ろして……!」
失望したナナはまだ、“希望”を口にする。
「いいから、黙ってろって……!」
乱暴な言い方しかできない。
それは、先ほどのシカマルの叫びに少し似ている気がした。
「お前はオレと赤丸で逃がす! シカマルに託されたんだ……!」
まっすぐ前を見た。
まだ開けない夜の闇。ところどころに横たわる、負傷者と遺体。
医療班はすでに前線に赴き、この戦場の外れで治療にあたる者はない。
「でも、キバ……言ったでしょう? 私は……」
「聞きたくねーよ!」
苦しげなうめき声がする中を、キバは切り裂くように叫んだ。
「お前のソレはもう、聞きたくねー!!」
ナナはかすかに身じろいだ。
いや、力を込めて身体をよじろうとしたようだが、すでにその力さえも失っていたのだ。
「キバ……!」
「オレはっ……!!」
赤丸の毛が逆立つのを感じた。
同じ思いだ。
赤丸のことは誰より知っている。まるで分身のように、いつも一緒にいるのだ。
だから、キバは赤丸の分まで叫んだ。
「オレはシカマルみたいに頭がよくねーから、わからねぇんだよ!!」
ナナは、色の薄い唇を真横に結ぶ。
「ナルトたちがマダラを封印するってことを……お前はどうしても信じられねーのかよ!」
喉に不快な塊があるのを意識しながら、キバは口をつぐんだナナに言った。
「サスケだって、今は一緒に戦ってんだろ!!」
その目は静かに伏せられた。
キバはつられたように、声のトーンを落とす。
「お前は、もう運命は決まってるみたいに言うけどよ……。そんなのわかんねーだろ……?」
少しの沈黙。
夜風がいっそう冷たくなって、ナナは口を開いた。
「わかるよ……」
ぽつり……と、雫を一滴、こぼすように。
「ナナ……!」
「わかるんだもん……」
「未来が見えてるってのか? その眼で……!」
苛立ちともどかしさに、徐々に恐れが加わるのを感じた。
「見えたよ……」
ナナは不意に、顔を上げた。
「見えたの……。白い……眼……」
「白い目……?」
「3つの……目……」
「みっつ……?」
「どうすることもできないような……強い、力……」
「力……」
「それが、私を……覆い尽くす……」
ナナの言葉はまるで呪文だった。
返すことなど初めから無いような、一方的な言葉だった。
「すごく……こわいの……」
そのままナナはすすり泣いた。まるで小さな子供のように。
「私は……これ以上、生きられない……」
キバの恐れは苛立ちを飲み込んだ。
「皆を傷つける存在になる前に……終わらせたいの……」
それは焦りも戸惑いも取り込んで、彼の肌を泡立たせた。
「私が、私でなくなる前に……」
小さく身震いした。
赤丸も気づいてか、走るスピードが遅くなる。
「ナナ……!」
恐らくひとりではこの恐怖に飲みつくされていた。
が、赤丸がいたおかげでキバはもう一度、ナナを抱く手に力を込めることができた。
「だめだ、ナナ! シカマルが言っただろう……!?」
あの、キレ者で面倒くさがり屋で、人一倍仲間想いのシカマルが言ったこと……。
「たとえ、お前が言ったとおりの未来が決まっていても……」
自分も同じ想いで吐き出す。
「オレはお前を殺すことも、殺させることもできねー!!」
たとえそれが、今のナナには届かなくとも。ナナの言う未来が変わらなくとも。
ただ、ナナがこの腕に居続けることだけを願った。
「じゃあ、せめて……」
しかし、ナナは暗んだ声で言った。
「私から離れて、キバ」
皮肉にも、それは今までで一番しっかりとした声だった。
「マダラがいつ、目の前に現れるかわからない……」
キバは思わず、言葉を失った。
「もう『殺せ』なんて言わないから……。だから、私から離れて……」
ぐるぐると、いろいろな想いが頭を駆け巡った。
ナナは死を諦めたのか……?
それにしては、未来が変わることを期待している顔じゃない。
自分に「殺せ」と言うことだけを止めたということは、また他のヤツにそうさせるつもりなのか?
だが、もう周りに人はいない。
この身体で、さっきのところまで戻るつもりか?
いや、そうじゃない。
キバは思い切り唇を噛んだ。人より鋭い犬歯が、かすかにそこを裂く。
「何、言ってんだ……!」
はっきりと、胸に湧く熱を感じた。
「オレは……お前の仲間じゃなかったのかよ?!」
「キバ……」
「サスケ奪還任務の時、シカマルが言ってただろ?!」
「え……?」
「仲間は命がけで守る……!」
「…………」
「それが木ノ葉流だって、言ってただろ?!」
あの時のことを思い出させても、遠慮は無かった。
ナナに対する怒りを吐き出さずにいられなかった。
「だから、ナナ!!」
そして、怒りと共に……。
「オレはお前を命がけで守る……!」
確かな愛情を。
「頼むから……」
ほんの少しの、後悔と共に。
「オレをただの“知り合い”にしねーでくれよ!!」
全部、ナナにぶつける。
「キバ……」
受け止めきれるはずなどないことは、わかっていた。
こんな状況で、わけのわからない未来まで見据えてしまっていて、おまけに身体も弱り切っていて……。
不安も、絶望も、焦りも、そして想像もつかないような恐怖を抱えたナナに、自分の言葉が受け止められるはずない。
だが、そうせずにはいられなかった。
義務ではない、意志。薄っぺらじゃない絆。
わかって欲しかった。
本当にマダラが今、目の前に現れて圧倒されても、それでも死をいとわずに戦うと。必ずナナを護って戦うと。
全てを無くしたナナに、それだけはわかって欲しかった。
「な! 赤丸!!」
ナナの頬を伝う涙を拭いながら、キバは明るい声で言った。
赤丸はすかさず大きく吠える。
「キバ……赤丸……」
ナナが流す涙は温かかった。頬は死人のように冷たいのに、涙だけは温かかった。
「ありがとう……」
その言葉にも、ちゃんと想いが通っていた。
「つーか、そんなのあたりまえだろ!!」
頭にぽんと手を置くと、ナナは少し笑った。
だがやはり、ナナの姿はあまりに儚すぎた。
純白の着物に色を失った肌。異常に冷えた体温。今にも透けてしまいそうなほど、ナナは儚く見えた。
「ナナ、寒いか? ほら、もっとちゃんとつかまれ」
少しでも風に当たらないよう、キバはナナを引き寄せる。
ナナの身体は腕の中に、すっぽりと収まりそうだった。
「もうだいぶ戦場から離れた。今頃、ナルトのヤツがマダラをぶっ倒してるかもしれねーぞ」
「うん……」
くぐもった声に、キバはようやく少しだけ安堵した。
「サスケもとりあえず一緒なんだし。ムカツクけど、あいつはやっぱり強ぇーしな」
「うん……」
「シカマルもいつも以上にキレまくってるからよ、そう簡単にマダラを戦場から逃がしはしねーだろ」
「うん……」
ナナはわずかに身じろいで、キバの顔を見つめた。
「キバ……」
「な、なんだよ……」
その眼差しがあまりにまっすぐだったから、キバは前方に視線を移した。
「忍者学校の頃から、私のこと、気にかけてくれて、ありがとう」
涙声は、胸を突いた。
「そ、そりゃあ、お前が里の外からの転入生で、チビで、細っこくて、ナルトとドベ争いすんのが可愛そうだったからよ……。あ、赤丸も珍しく最初っから懐いてたし……」
思わず口ごもる。
「うれしかった……」
ナナは呟くように続けた。
「いのちゃんやサクラちゃんも……みんな私の面倒をみてくれて……。ヒナちゃんやシノ君、チョウジも、私のこと、心配して声をかけてくれた……」
賑やかしい忍者学校での最後の一年が、キバの脳裏によみがえる。
「みんなが、私の初めての友達なんだ……」
あの時のナナを思い出して、そして今のナナを見る。
「初めての友達」と言われて、それが大げさでも嘘でもないことはもうわかっていた。
だから、嬉しくて悲しかった。
「だから、私は……」
「ああ、わかってるよ……!」
ナナの想いをくみ取って、そう告げた。
その時、赤丸が大きく跳ねた。
大きな岩が点々と転がる川辺に辿り着いていた。
赤丸には何も告げていないから、最初からずっと赤丸自身の判断で走り続けている。臭いと勘を頼りに戦場から、いや、マダラから逃げている。
赤丸はこのまま岩を避けつつ、上流へと上るつもりらしかった。
「ナナ、しばらくは足場が悪い。しっかり捕まれ」
手を離せば、軽いナナの身体はすぐに転げ落ちてしまいそうだった。
キバは腕をナナの腰にしっかりと回し、片手で赤丸の毛を掴みなおす。
ナナは、一瞬ためらった。
が、素直にうなずいて……その手をようやく、キバの首に回した。
だが……。
キバがそのかすかなぬくもりを感じることはなかった。冷たい身体を、今度こそちゃんと抱きしめてやることはできなかった。
ナナの存在が、突然腕の中から消えたのである。
「え……?」
たった今までしっかりと抱えていたはずのナナのが、こつ然と消えたのである。
「あ、赤丸!!」
赤丸が気づきもしないほど、唐突に……音もなく……。
「ナナ……?!」
急いで辺りを見回した。
赤丸が立ち止まるより早く、来た方向へ走った。
が、ナナはどこにもいない。
だいたい、しっかりと抱きかかえていたのに落とすはずはない。
もともと臭いの薄いナナを、懸命に感知しようとした。
が、赤丸の嗅覚をもってしても、ナナを見つけることができなかった。
「ナナ?!」
声を張り上げた。赤丸も流水音をかき消すほど大声で吠えた。
下流へ向けて走った。
猛スピードで走りながら、岩の影にも、川面にも、そして闇の向こうへも目を凝らした。
「ナナ?! どこだ?!」
それでも、初めからその存在など無かったかのように、何の痕跡も得られない。
「ナナ?!」
ナナは、完全に彼らの前から消え失せた。