思慕
そこは川のほとりだった。
日暮れ時のような、いや、夜明け前のように薄暗い。
目を凝らすと、向こう岸は森が広がっているようだが、霞がかかっていてあまりよく見えない。
振り返って見ると、こちら側も同じように森があった。木ノ葉の里では見たことのない種類の木々が、整然と立ち並んでいる。
風は無かった。寒さも暑さも感じなかった。
そして、痛みもなかった。
ただ、川の流れる音だけが耳に響いた。
「ごめんね……サスケ……」
そっと呟いた。
自然とうつむいたから、視界には自分の姿が入り込んだ。
丈の短い草を踏みしめる足。草履を履いている。身に着けているのは、いつもの白い装束。布のどこにも汚れた“赤”は無い。
そして、自ら切り落としたはずの左腕もちゃんとある。
その手を胸に置いた。
サスケが開けた穴も、そこには無かった。
だが。
「サスケ……」
どうしてだろうか。
傷はすっかり無くなったのに、まだそこに在り続ける“心”。傷の痛みは消えたのに、胸の奥はひどく痛む。
(ごめん……ごめんね……サスケ……)
涙が流れた。
“これ”から解放されなかったことに失望した。
“これ”を抱えたまま、この先も過ごさなければならないのか……。
いったいどのくらい?
永遠に続くのだろうか?
もう、決して許されることはないのか……?
その時。
「ナナ……」
絶望に憑りつかれた背に、声がかかった。
「え……?」
ここで“人”に会うとは思いもよらなかった。ましてや、自分の名を呼ぶ者など……。
ナナは涙を拭って振り返った。
そこに居たのは。
「ナナ、やっと会えたわね」
にこりと笑う、若い女。
彼女を、知っていた。
「お母……さん……?」
過去に飛んだ時に会った、和泉成葉。その人が、目の前に立っていた。
この霞のなかでもはっきりと、その姿が目に映る。
「お母さん……!」
記憶と憧憬、そして思慕。それらが一気に混ざり混ざって、ナナの足を動かした。
「お母さん!」
「ナナ!」
しがみついていた。
小柄な、だがナナよりも少し背の高い、母の身体にしっかりと。
「お母さん、お母さん……!」
想いを母の胸に押し付けるように、ナナは何度もそう呼んだ。今まで一度も、口にできなかったその名を。
「『お母さん』って、呼んでくれるのね」
母は嬉しそうに息をついて、しっかりと抱きしめてくれた。
とても温かかった。
「『ナナ』……とても良い名を授かったわね」
もう実体などないはずのこの身体で、母のぬくもりを感じていた。
「ちゃんと……あなたを産んであげられなくて……ごめんね……」
母の手が、頭をなぜた。
「お母さん……私っ……」
話したいことがたくさんあった。
母につけられたのではないこの名の由来も、その名を背負いながらどうやって生きて来たのかも。
聞きたいことも山ほどあった。
自分がちゃんと産まれなかった訳、母の一生……。母の口から聞きたかった。そして何より、父のことを……。
「私、私ねっ……」
だから、まず初めに言う言葉が見つからなかった。
今ここに居る理由を伝えるべきだと思ったのだが、何ひとつうまく言葉にならないのだ。
まだはっきりと感じるサスケの愛情が、胸を締め付けているから。とても、痛むから。
「わかってるわ、ナナ」
母はなだめるように言った。
「よく……がんばったわね……」
見上げると、母の目には涙があった。
「あなたは、立派に生き抜いたわ……」
その粒が、滑らかに頬を伝った時、思った。
ああ……少しだけ、許された……。
母が認めてくれた。あの自分の決断を、認めてくれた。自分の生を、そして死を、母は「立派」だと言ってくれた。
「お母さん……見ていて……くれたの……?」
母はうなずきながら、溢れ出る涙を拭ってくれた。
「辛かったわね、ナナ」
止まらないそれを、何度も何度も、拭ってくれた。
「本当に、よく頑張ったわ」
そして、もう一度しっかりと、抱きしめてくれた。
「おかあさん……!」
それは初めての感覚だった。
与えられるぬくもりに全てを委ねることを、許されると感じるのは。
イタチにさえ、あるがままの心を押し付けることができなかった。我愛羅にも、カカシにも、シカマルにも、全部を吐き出すことはできなかった。
サスケには、ひとかけらの真実を口にすることさえも怖気づいていた。
だが、母の前では……。
「私っ……私ね……サスケを……!」
胸を締め付けるどうしようもない塊を、そのまま母にさらけ出した。
「サスケに全部を……背負わせたっ……!」
痛みも、後悔も、懺悔も……。そして、諦めも、少しの誇りも。
「全部、サスケにっ……」
彼への想いも、全部。もてあますほどの想いを、全部。
「ナナ……」
苦しくて苦しくて仕方がなかった。
こんなところまで来て、こんな痛みを引きずらなければならないことも、やり場のない怒りだった。
それも、母は受け止めてくれていた。
しばらく黙って、嗚咽をなだめてくれていた。
静かに頭を滑る手が、ほんの少しだけ痛みを和らげていくようだった。
「あなたたち二人は……」
やがて、母は温かい声で言った。
「とても深く、想い合っていたのね……」
慰めるような、優しい、どこか嬉しそうでもある声だった。
「あなたとサスケ君の魂は、とても強く結ばれていたのね」
そして、そうやってナナとサスケのことを表わした。
深く想い合って……。魂はとても強く結ばれて……。
母の口からそう表現されて、まるで初めてわかったような気がした。
自分とサスケ……二人の関係が“何”だったのか。自分がサスケをどう思って、サスケが自分をどう思っていたのか。自分にとってサスケがどういう存在で、サスケにとって自分がどういう存在だったのか。
そして、自分がどれだけサスケを愛し、サスケもまたどれほど自分を愛してくれていたのかも。
そう……今さら、自覚した。
『アナタを愛せて幸せだった』
サスケに押し付けた台詞が蘇った。
あれは、真実の言葉。
苦しいばかりでも、痛いだけの想いでも、最期は幸せだったと思えたから。
サスケの愛も、今さら心を熱く満たした。
最期の願いを叶えてくれた、ただ一人の人。全部を背負う覚悟で、死をくれた人。
最期の時、サスケの眼に自分が映っているのが見えた。
その顔は満足していた。
「別れ」ではなかった。ただ感謝と……愛を伝えたかった。
サスケを、愛し抜いた……
そんな自分を、自分でも認められた気がした。
「お母さん……」
顔を上げた。
母の優しい微笑に、こう尋ねた。
「お母さんと、お父さんも……そうだった……?」
おそるおそる……。
父のことをあまり想像すらしなかったから、わからなかった。ミナトと静葉の言葉だけでは、二人を思い描くことができなかった。
そもそも、幸せな夫婦なんて知らない。
だが、自分とサスケがはぐくんだものが「愛」だったのなら、父と母にもそれがあったのかを知りたかった。
それを知ることで、自分とサスケのそれが、より客観的にわかる気がしたから。
「ナナ……」
母は微笑した。
それだけで、答えがわかった。
「もちろんよ!」
その笑みが、とても幸福そうだったから。
「あなたももう知ってると思うけど、私たちの関係は、和泉の里にとっても木ノ葉の里にとっても、あまり歓迎されるものでもなかったの」
母は遠い記憶を見つめながら話してくれた。
「でもね……、それでもどうしようもないくらい、お互いに惹かれ合っていた……」
ドクンと胸が鳴った。
「まるで、自分とサスケみたい……」と思えた自分に驚いた。
「お、お父さんて……うちはの……?」
サスケの残像が浮かんで、そう聞いた。
「そうよ」
母は楽しげに答えた。
「うちはアケル……。うちは一族の人で、立派な木ノ葉の忍だったわ」
そしてとても誇らしげだった。
「うちは……アケル……」
父の名をつぶやきながら、今度はイタチの面影が浮かんだ。
イタチとサスケ……二人と同じ一族の男。それが自分の父だった。
だからやっぱり、この身体には彼らと同じ血が流れていたのだと改めて実感した。
もう、この“身体”は実体ではないのだけれど……。
「お母さん……私、お父さんに会いたい……!」
涙を止めて、そう言った。
思い描いたことすらなかった“父”に会いたかった。
「どこにいるの? すぐに会える?」
久方ぶりに、心が躍動していた。
「
今になって初めて、自分の“家族”というものを意識した。懐かしい“期待”というものが押し寄せた。
「ナナ」
母は笑った。
そして、漆黒の瞳にほんの少しだけ影を浮かべて、こう言った。
「お父さんに会いに行く前に……まだ、やらなくちゃいけないことが残っているわよ」
「え……?」
思わず母の袖を握りなおした。
「見届けなくていいの?」
「え?」
母は両頬を包んで言った。
「あなたが護ったあの世界の行く末を、見届けなくていいの?」
「あの世界……?」
「そう……あなたが遺して来た人たちの戦いを……」
再び胸がドクンと揺れた。
「わ、私にも見られるの?!」
そして深く考える間もなく、口を突いて出た言葉。
母はそれにうなずいた。
「ここからでも見られるわ。あなたなら」
見える……。あの世界が。少し前まで、自分がいたあの世界が。
あの後、どうなっただろう。
神樹の暴挙は止めたはず。この命と、サスケの心とを引き換えにして……。
だが、戦争はまだ終わっていない。
マダラはまだ生きていたし、樹に吸われたチャクラを返したとはいえ、忍の皆の力は弱まっている。樹も、完全に枯らせたわけではないだろう。
まだ、マダラの計画は止まっていないのではないか……。
「ナナ……でも、もう終わりにしたのなら、このままお父さんのところへ行きましょう」
母は寛大だった。何も語っていないのに、心の迷いに気づいてくれた。
そして、別の道を示してくれた。
「お母さん……」
「あなたは最期まで立派に戦った。だからもう、終わりにしてもいいのよ」
母が気遣ってくれていることが嬉しかった。
もう、終わりにしたい……。
それを強く思っていた自分がいるのを、知っていたから。
だが。
あの後……サスケはどうなっただろう……
そう考えずにいられなかった。
自分が傷つけた彼の姿を見るのは怖い。とても怖いのだ。
だが、せめて彼の戦いを見届けなくてはと、思わないはずもなかった。
まだ、ここには来てほしくないから。
「私……ちゃんと、見届ける」
涙一粒と引き換えに、そう告げた。
「戦争を……サスケを……見届ける」
たとえ、ここからではもう何もできなくとも。
だからこれは使命なんかじゃない。それはもう果たしたはずだ。
ここからは、ただ無責任に覗き見るのだ。遠く離れたこの場所から、ただ傍観するのだ。
せめて、彼らがここに来ることが無いよう……祈ることはできるから。
「お母さんも、一緒に居てくれる……?」
「もちろんよ」
心細さをそのまま表すと、母はぎゅっと手を握ってくれた。
そして、川の方へ歩き出す。
「川の流れは時の流れ……」
まるで呪文のように母は言った。
「あなたのいた“時”も、この川の流れの中にあるの」
促されるまま、つるばみ色の川面を見た。
この川が、何というか知っている。
あの故郷の川と似ているのは、きっと偶然ではないのだ。
「だから、あの世界のことを思い浮かべて、川の流れに映すようにすればいいのよ……って、これじゃあわかんないわよね」
母は自身の言葉に少し笑った。
が、ナナにはすでにどうすればよいのかイメージができていた。
同じような術を、見たことがあったからである。
そう……姉の琴葉が、終末の谷近くの川に、ナルトとサスケの姿を映し出したあの術だ。
「やってみる」
目を閉じて、少し強く母の手を握った。
そして、想う。あの世界……いや、サスケのことを。
(サスケ……サスケ……)
アタナはまだ、戦っている?
まだ、無事でいるよね?
ナルトと一緒に、戦っているよね?
いろいろな想いが渦巻いて……。
(ごめんね……)
やっぱりそう想った時、川面にはあの戦場が浮かび上がっていた。