ずっと凍えていた。
この世界には、感覚も感情も存在しないと思っていたのに、大きく当てが外れた。
酷い寒さと、悲しみと、怒り……そして悔恨。長い間、たったひとりでそれらに苛まれて来た。
あれからどのくらいの時間が経ったのかわからない。
お腹の我が子が……陰陽道の術によって、奪われた時から……。
死者が川を渡り行く光景を何度も見てきた。
その中に、知っている者の顔は無かった。
彼らは皆一様に、白い死に装束を着て無言のまま橋を渡って行く。
それは清々と繰り返される儀式だった。
誰も、この“檻”の存在に気づかない。声も届かない。
もちろん、相手に聞こえたとしても、声をかけるような馬鹿な真似はしなかった。
そんな中、遂に現れたのである。
この檻の前に立つ、懐かしい“赤い眼”が……。
「あなたはもしかして……」
“彼”は自分が目にしている光景に驚きつつも、落ち着いた声で話しかけてきた。
「和泉……成葉さん……ではありませんか……?」
彼のことは知っていた。
いや、実際は彼の顔も名も知らなかった。
知っていたのはその眼と……彼の“姓”だ。
「あ、あなたは……?」
自分のことを肯定する前に聞き返す。
久しく使わなかった声帯は、すっかり干からびていた。
「うちはイタチと言います。木ノ葉隠れの里の、うちは一族の者です」
やはり……。
彼は夫のアケルと同じく、写輪眼を扱えるうちは一族の人間だった。
「ど、どうして私のことを……?」
だが、「イタチ」という名をアケルの口から聞いたことはない。
いや、聞いたことがあるはずはないのだ。
もう自分が死んで何年になるのか……。
この、ここへ来るにはまだ年若いイタチという男が、自分の死後に産まれた存在である可能性は大いにあった。
「“ナナ”に、とても良く似ているからですよ」
「ナナ……?」
彼は知らない名前を口にし、懐かしそうな眼差しをこちらに向けた。
「ナナ」という名も、もちろん知らなかった。自分に似ているということは、「ナナ」も和泉一族の人間なのだろうか。
「この封印は誰が……? まさか……あなたが自分で……?」
「え、ええ……」
イタチはあまりに素早い予測をたてると、ため息をついた。
そして急に核心を突いた。
「それは……あなたの子が、うちは一族と和泉一族の両方の血をひいていたせいですか?」
息が止まった。
彼は、思った以上に自分のことを知っている。思わず、腹に両手を置いていた。
「二人目の子は、『産めなかった』のではなく、『産まなかった』のですか?」
答えられるはずはなかった。
カグヤのことは誰も知らないはずだったが、答えてしまえば彼が何かを察してしまうような予感がある。
その聡明さは、アケルを思い出させた……。
「でもその子はもう、“そこ”にはいない……」
彼は目を伏せた。
心が騒ぐ。
彼は何を知っている? どこまで知っている?
思わず、柵から後ずさった。
「この“檻”はもう、必要ないはずですね?」
有無を言わさぬような口調で、彼は言った。
ごくりと唾を呑み込み、ゆっくりとうなずいた。
不思議とそうせざるを得なかった。だが表情は変えなかったつもりだ。
「これは……和泉流陰陽術の封印ですか?」
彼は“檻”の全体を見回した。
どうやら、この“檻”……封印を破るつもりでいるようだった。
その口調も視線も迷いがなく、失敗を予感していることはないようであった。かといって自信家でもなく……冷静で聡明に見えた。
そんなところも、やはり少しアケルに似ている。
「無理よ……。自分自身でも解けない封印だもの」
彼を見て、夫の姿を重ねてしまっている自分に気づいていた。
が、こみ上げる不思議な懐かしさは止めようがなかった。
ここに封じられているがために、彼に会うことも叶わずにいるのだから。
「“天敵”の関係にある自分になら、破れるかもしれません」
「え……?」
「少し、下がっていてください」
「な、なにを……?」
イタチは少しだけ思案して、片手の印を結んだ。
忍の印だ……。
またアケルを思いだした時、イタチが術を発動させた。その術は黒い炎を産み、檻をあっという間に焼き尽くした。
「え?! うそ……」
「良かった。天照が効いたようです」
彼は笑った。
ほんのかすかに無邪気さを残す笑み。歳の頃も……初めて会った時のアケルと同じくらいか。
「あ、あの……」
酷く戸惑った。
この“檻”を破れる者の存在など、全く頭になかった。いや、“檻”が見える眼の存在も知らなかった。
もっとも、彼の眼のことは良く知っている。
夫も持っていた、うちは一族に伝わる「写輪眼」という特別な眼。それはとてつもなく強力な瞳術を扱えるのだ。
だが、あの眼にこれ程の力があることは知らなかった。
「出られますか?」
「は、はい……」
イタチが差し伸べた手に、素直に捕まって焼け焦げた檻を出た。
彼の背丈も、アケルと同じくらいだ。
「万華鏡写輪眼といいます。写輪眼が少し進化した眼で……より強い瞳力が備わっています。だからあなたのことが見えました」
イタチは成葉の疑問を少しずつ解消するように、先回りして淡々と答えた。
「写輪眼は御存じですね?」
「ええ……」
「うちはの力と和泉の力が、時に相殺することも?」
「そ、そうだったわね……」
彼の眼は漆黒に変わり、まっすぐにこちらを見つめてきた。
「どうやらオレも、さっさと“向こう”に渡らなければならないようなので、あまり時間はなさそうですが……。ここであなたに出会えたのなら、どうしても話しておきたいことがあります」
その視線は強く、わずかに熱を帯びているように思えた。
初めて聞こえる川の流れにのって、彼の低い声が耳に届く。
「あなたの娘……『ナナ』のことです」
無意識のうち、また腹に手を添えた。
そこからいなくなった我が子。一族の者たちの術によって、奪われてしまった娘。
「『ナナ』……」
自分が産むはずだった子の名を、呟いた。
「あなたがお腹の子供とともに亡くなった翌年、本家の娘として『和泉菜々葉』が転生しました。オレは『ナナ』と、そう呼んでいました」
イタチは『ナナ』を語った。
言葉に感情は込められてはいなかった。ただ淡々と、『ナナ』の生を伝えるだけ。
が、声からはしっかりと、『ナナ』への想いが滲み出ているのがわかった。
「そう……だったの……」
娘の許嫁だったという彼の話は、強く胸を打った。そして、真実味があった。
我が子を一度も抱くことが叶わなかった自分が、初めてほんの少しだけ母親としての実感が持てた気がした。
「ちゃんと、友達もできたのね……」
涙が流れた。
“檻”の中で、どんなに苦しくても、悲しくても、流れなかった涙は温かかった。
「辛かったでしょうに……頑張って生きて来たのね……」
イタチから聞かされる娘の生き様が誇らしかった。淡白な事実でも、娘の気持ちがよくわかった。
そして、語るイタチの想いも。
それから……彼が話してくれた娘の友達……。『ナルト』と、そして『サスケ』という少年たちとの交流も。
「おそらくまだ、“戦争”は終わっていないでしょう……」
イタチは一番近い現世の記憶を語った。
「ナナは……オレがまたひどく傷つけたので、泣いているかもしれません……」
そして彼は、最後に見たナナの姿を思い浮かべているようだった。
「それでもまだ、きっと……ナナは戦うと思います」
彼の『ナナ』を信じる言葉は、『ナナ』の本質を余すことなく伝えてくれていた。
それがとても嬉しく、側にいてあげられなかったことが悲しかった。
「ナナは……」
イタチは霞がかった川面に視線を滑らせながら、呟いた。
「儚く、強く、美しかった……」
イタチの想いの深さに、また涙が流れた。
「オレが知っているナナを、あなたに伝えられてよかった……」
イタチは笑んだ。
「もう行きます。橋が消え始めましたから」
彼には“橋”が見えていた。
もう、現世に未練はないのだ。
その橋も、こちら側に長居をしすぎると消えて行ってしまうようだ。そうなれば、魂は黄泉へ逝けずに彷徨うことになるのだろう。
「ええ……」
手の甲で頬に伝う涙を拭った。
自分にはまだ、向こうへ渡る橋は見えない。
「できればまだ、ナナがここに来ないといいですね」
「あなたの弟さんもね」
彼が語ってくれた戦争のことは、正直、うまく想像ができなかった。
だが、忍の世界の過酷さは少し知っている。
あっけなく奪われる命。「また今度」の約束が、果たせないままに破られることも。
「イタチ君……ありがとう」
川の方へ歩き出した彼に言った。
「娘のことを教えてくれて、本当にありがとう」
イタチは振り返った。
その足はもう、橋にかかっている。
「ナナを……愛してくれて、ありがとう」
返された笑みは、とても穏やかだった。
彼のナナへの愛情が、胸いっぱいに広がった。
ゆっくりと、イタチの背は霞に溶けた。
それを見届けてから、もう一度、腹に手を置いた。
「ナナ……」
誰かがつけたその名も、もうすっかり自分の娘の名になっている。
「ナナ……強く生きてくれて、ありがとう……」
残酷な使命を背負わされ、それでも父と同じ忍の道を選び、強く、たくましく生きていた。
和泉一族の者としては考えられないほどたくさんの絆を結び、愛し、愛された……。
今まさに、戦場で戦っているかもしれない娘を想い、手を合わせる。
「ナナ……どうか、無事でいて……無事で……。まだこっちに来ちゃだめよ。まだ……。イタチ君も、まだ再会を望んでいないから……。だから……お母さんもあなたに逢いたいけれど……それはまだ先でいいの……。ナナ……どうか、幸せに……。サスケ君と……どうか……」
思いっきり願いを詰め込んだ風が、成葉の身体を吹き抜けて川面へと流れ込んだ。
目を開けると、そこに、自分とよく似た娘の姿があった。