空気の乾いた午後だった。
ようやく慣れ始めた風影としての日常業務をこなしている最中、突然、里に侵入者が現れるという騒ぎが起こった。
里の防衛ラインをいともたやすく突破した、白袴にキツネの面を被った者。その正体は「木ノ葉のいずみナナ」だった。
それはあまりに滅茶苦茶な再会だった。
忍五大国のひとつで、砂漠という絶対防御を得た立地にある砂隠れの里に、たったひとりで侵入を果たすとは……。しかも誰一人として傷をつけずにである。
大勢の精鋭を相手にしたナナ自身も、軽いかすり傷程度だった。
……ナナと最後に会ったのは、サスケ奪還作戦の援護に就いて木ノ葉へ赴いた時だった。
サスケを追っていたナナが、死んだはずの姉とやらに襲われて……。あの死人のような姿は未だ鮮明に覚えていた。
ひと目で深い怨恨とわかる胸の傷は、“人の恨み”を肌で知っていた我愛羅にとっても、背筋が冷たくなるほど恐ろしいものだった。
命の危機……だった。
シカマル、キバ、ネジ、リー……共に戦った仲間たちの顔から、すっかり血の気が失せていた。
彼らの気持ちを、我愛羅も理解した。
これが「心配」という感情。自分でない他の誰かのことを案じる感情なのだ……と。
死なせたくない、と思った。
恩人だったから。自分を救ってくれた人だったから。
それだけじゃない。
ナナは人の優しさを教えてくれた。いや、思い出させてくれた。幼き頃に想像していた母や、夜叉丸のような愛情を……。
だから、任務が終了した後もナナの無事を確かめるまで木ノ葉に滞在したのだ。
そしてその大切な命が助かったことを知って、心が震える感覚に陥った。
テマリとカンクロウが、珍しく素直に喜びの言葉を出していたのを横目に、我愛羅自身は言葉を見つけられなかった。
長い滞在を終えて木ノ葉を去る時に、見送りに来てくれたナナの姿は、再会までの三年間で忘れたことは無かった。
絶対安静を言い渡されているはずのナナが、身も心もボロボロに擦り切れたはずのナナが……、弱々しくも美しく微笑んでいた。
『我愛羅、カンクロウ、テマリ……ほんとうにありがとう』
あの笑みを思い起こすたび、我愛羅はナナの心の深部について考えた。
断じて親しい間柄とはいえない。だが、尾獣を通じての特別な交流はある。
そう……ナナには尾獣を
そして、自分が倒したかったうちはサスケとナナは同じチームだった。
そのサスケを奪還することができなかった。それどころかナナは、姉の亡霊に絶望的なまでに打ちのめされた……。
ナナにとって何が一番辛いのか。
端的な事実を繋ぎ合わせて、何度も、何度も、考えた。そのことで、自分に足りなかった他者への感情が備わっていったのも事実だった。
だが結局、愛情、恩、哀別、怨嗟、力……それらがどういうものか知ることができただけで、ナナにとって何が一番辛いのかという答えには辿り着けなかった。
……そんな中での思わぬ再会だった。
直後に砂で『烈風』という異名をつけられたように、まさに烈しい風を巻き起こし……だが本人は『烈女』とは正反対の穏和な様子であった。
いや……。
穏和というには、あまりに表現が呑気だ。
あれは……あの時のナナは、警戒と防備の二重の鎧をまとっているようだった。
それは何だったのか。
ひとつは、一尾を狙っている『暁』という組織に対しての警戒。もうひとつは、他里の領域に踏み込んでいる状態での当然の防備。
そして……己の心に触れるモノへの警戒と、己の心の防備……だった。
そうして幾日か経った夜。
ナナはぎこちなく話し始めた。
自分が和泉一族の人間であること。その血がもたらした特別な力のこと。それを持つがゆえに与えられた使命のこと。
姉との戦いのこと。
うちはイタチとの関係。
そして、サスケへの想い。
「私、逃げるために木ノ葉を出たんだ」
話し終え、ナナはそう自嘲した。
「みんなには『姉を倒すため』なんて言ったけど、本当は逃げるためだった」
強烈に“孤独”が香った。
それは嗅ぎ慣れた香りだった。
だからナナが『逃げた』訳も、今“ここ”でそれを語った訳も、わかるような気がした。
「ナナ、“ここ”ではお前はひとりじゃない」
だから、そんなセリフがおのずと流れ出た。
会話が噛み合っていないことは承知だった。
だが、ただただも打ち壊してやりたかった。背負いきれないものに潰されることもなく、三年間たったひとりで過ごしてきたナナに付き纏う“孤独”の影……それだけでも打ち壊してやりたかった。
今、この瞬間はヒトリじゃないと、そういう時を与えたかった。
「私、アナタに会えてよかった」
ナナはそう応えた。
「““ここ”は……なんだか居心地がいい」
と。
言葉は出なかった。
本当にナナの“孤独”を打ち壊せたという自惚れはなかった。が、胸が詰まったのだ。
窓の外を見上げるナナの横顔が、あまりに美しく壊れそうだったから。
「砂漠の月は、綺麗だね……」
月など見られなかった。ただナナを見ていた。
そして、こみ上げて来た感情が自然と言葉になった、
だが……それすら口にはできなかった。
「我愛羅……、私、アナタを護りたい……」
ナナが先にそれを言った。
そうしてこちらを見た。その目に浮かぶ光は、儚くも強かった。
「オレも護りたいんだ、お前を」
立場が逆だと笑うナナに、ちゃんと言葉を贈った。
「オレはお前の心も護りたいんだ、ナナ」
壊れそうな心を。それでも負けない心を。慈愛に満ちた穢れのないその心を。
「だったら……今、私はアナタに護られてると思う……」
くれたのは、心そのものだった。何も纏わず、素直な心を返してくれた。
胸が熱くなった。何かが溢れ出しそうに……。
だが決して、それを今溢れさせてはいけないような気がして……、そっと蓋を落とした。
“静”でいることが、ナナにとっては良かった。
変幻自在の砂のごとく……整然と広がる砂漠のごとく……。
きっとナナは安心したのだ。
凍結させた空気をすっかり融解させ、まどろんだ。月光と蝋燭の灯火に溶けてしまいそうな細い身体を、こちらに預けて来た。
触れ合う肩から伝わるもの。それは等しくナナにも伝わっている。
今、ナナが最も必要とするものだ……。そう思った。そして自分も……。
この夜のことは、一生忘れないだろうと思った。一粒も残さず、心に留め置かれるだろうと。
月の明るさ、灯火の色、クッションの柔らかさ、絨毯の手触り、ナナの寝顔、そして朝日の眩しさ。情景と触感と、己の感情。
全てを、死ぬまで忘れないだろうとわかっている。
ナナの心を癒せた……そんなものではない。与えただけではない夜だった。
だからこそ、幸福で満たされただけではなかった。温もりの中に少しの悲しみがあったのも事実。
その中で二人の心を通わせ合ったことが、何より深い思い出となって刻まれている。
そんな危うくも幸福な日々が長く続くはずもなく……その後、結局自分は暁に捕らわれることとなった。
里と、それからナナを護ることができたのだから悔いは無かった。里の行く末は心配だったが、風影はなにも自分じゃなくても良いと思った。
ただひとつ、ナナの心に傷を負わせてしまったことが哀しかった。
だが、チヨバアのおかげで、再びこの世界に舞い戻ることができた。
ナナも喜んでくれると思った。
だが……ナナは『烈風』となって現れた日よりも、もっと擦り切れた表情をしていた。
自分が死の淵にあったとき、ナナの身に何があったかは知らない。どうしてそんなにも極限まで追い詰められたような顔をしているのかも、何故、それを隠すすべさえも失ってしまったのかもわからなかった。
ナナの周りには木ノ葉の仲間が集っていた。自分を救いに来てくれたナルトたちだった。
彼らとナナとの再会は明るいもののはず……だった。
が、そこには目に見えない“隔たり”が確かに存在していた。
それを、自分は見て見ぬふりをした。
いや……。それを知っていて、ナナの手を離した。ナナの望みを知っていて、叶えることを拒否した。
ただ一方的にナナに
勝手な想いを、苦しむナナに押し付けた。
身を斬られるような思いだった。
死と直面した時よりも、もっと……もっと辛い……。
「私はただ、アナタにすがっただけ……!!」
ナルトたちとではなく、自分の目の前に居るナナが、そう言った。
「だから……そんなふうに言わないでっ……」
逃げ出したい、どこへも行けない、“ここ”にいたい、消えてしまいたい……、そんなふうに乱れたナナの心が見えた。
だから、反対に自身の心は静かだった。
強がりではない。胸を裂くような強烈な痛みを自覚しながらも、いたって冷静でいられた。
熱くもなく、強くなく、そっとナナを抱きしめることができた。
「すがることは、傷つけることじゃない……」
だからこそ残酷に、ただナナに必要な言葉だけを言うことができた。
「誰かにすがることを、恐れるな」
後悔、痛み、混乱……、背負いきれないそれらに押し潰されそうになっているナナに、言うべき言葉だけを。
腕の中のナナは、消え入りそうな声でつぶやいた。
「我愛羅……私……ここに……いてもいい……?」
その震えた声を耳にして、やはり衝動がなかったと言えば嘘になる。
砕けてしまった心を手離したくはなかった。身体を離した瞬間に、床に散らばって溶けてしまいそうで怖かった。このままずっと、もっと強く抱きしめていたかった。
だが、自分がどうすればよいのかの答えは出ていた。
どんなにナナを支えたくても、頼られたくても、どれほどナナを愛しても……、この砂の籠には捕らえられない。
ナナがどうしたいのかも、ナナがどう生きればよいのかも、よくわかっていた。
それほどまでに……、ナナはもう、心から大切な存在になっていたから。
だから、
「オレは、ナナとここで過ごせて、ナナを愛すことができてよかったと思っている」
と、愚かなほど冷静に言った。
「これからもお前が望むなら、ここで共に生きよう」
陳腐な条件を。
「だが……、ちゃんと別れを告げて来い。“木ノ葉の忍”に。
ナナが進むべき道を。
「それができたら、ここに来てくれ、ナナ」
少しの祈りを密かに込めて。
「ナナ。お前が何を選んでも、オレはずっとお前を“護る”」
そして、本当の約束を……。
ナナは失望を隠しもしなかった。青ざめた頬に冷たい雫が流れた。
衝動はいっそう強くなった。が、ナナの答えを奪うことはできなかった。
だから、苦し紛れに涙を拭いて、誓いのつもりでナナの指先に口づけた。
そんなやり方が格好良かったとは思わない。むしろ名残惜しさを隠しもできず、哀れで愚かだったと思う。
だが、ナナがこれ以上後悔を重ねないように……、自分がそうさせるわけにはいかないから……、立ち尽くすナナを置き去りにして部屋を出た。
ドアは己の砂が閉めた。わざわざそうしなければならないほど、今にも取って返してナナを抱きしめたかった。
後悔していない訳じゃなかった。ナナに相応しい道を選べた自分を誇りに思うことで、情けない自分を押し殺した。
身勝手だったと思う。冷たい男だと思う。
何度も思った。もう一度あの瞬間に戻れるのなら、開口一番『ずっとここにいろ』と言うのだ……と。
だが、時を戻すことなどできるはずもなく。
それでも無様に後悔だけして生きて来たわけじゃないのは、やはり、ナナの本当の望みを知っていたからで……。それが知ったかぶりだとか強がりだとかではなく、真実だと自信を持てたからで……。
つまりはそれほどに、ナナのことをよく知ることができたという証だった。
その証こそが……、今、目の前に咲く和らな笑みだと、そう思えた。
月下美人……あでやかな美人、はかない恋