「シカマル」
つい先ほど別れたはずのナナの声がした。
振り向くと、にこりと笑ったナナ本人が立っていた。
「もう少しだけ、話……いい?」
わずかに首を傾ける。
その仕草に、思わず身構えた。いや、怖気づいた。
「じゃあボクは先に帰るね」
並んでいたはずの親友は、この怖れを知っていたかのように、自分を置いて先へ行く。
「バイバイ、ナナ」
「また明日ね、チョウジ。今日はありがとう」
手を振るナナに聞こえないように、チョウジがささやいた。
「ちゃんと、話し聞いてあげなよね」
親友の後押しで、やっと……覚悟が決まった。
二人で近くの公園に移動した。
子供の頃、チョウジとよく遊んだ公園だ。
もっとも、ペインの襲撃でここも破壊されてしまったから、今はただの荒地になっている。壊れた遊具は撤去されているから、一時よりはずいぶんましな様子だが、馴染みの場所が瓦礫の山と化した光景は胸が痛んだ。
が、今でもここは好きな場所だった。
ここは少し高台になっていて、里を流れる川の流れを見下ろせる。昔から、ここのベンチに寝そべって雲を眺めるのが好きだった。
宅地の復興が優先で公園は後回しになっているが、できればまた、この場所を子供たちが集まる公園にして欲しいと願っている。
その場所へ、ナナを連れて来た。
ナナと向き合う覚悟を決めて、なんとなくこの場所を選んだ。
誰かが気をきかせて設置した古ぼけたベンチがひとつ、荒れた地面の片隅に置いてある。
そこへ、並んで座った。
「ねぇ、シカマル……シカクさんのこと……」
ナナが躊躇うことなく先に口を開いた。
その横顔を見る。街灯はまだ無いが、優しい横顔が良く見えた。
「作戦本部、十尾にやられちゃったんだってね。いのちゃんのお父さんも……」
「ああ……。真っ先に組織の“頭”が狙われるのは仕方ねぇ」
声を出したのが、久しぶりのように感じた。
「私、知らなくて……」
「お前が参戦する前の話だ。気にすんな。それより……」
「知らなかった」とナナは悲しげに言うが、終戦直後にカカシか誰かにそのことを聞いていたようだった。
忍連合軍の解散前、雷影が主となって即席の追悼式を執り行った。
その時、ナナは雷影から“祈り”の役目を依頼されたらしい。
それをナナは断った。
もともと、和泉流陰陽術は宗教とは違う。死者とか魂とか、そういったものに関わってはいるが、特に自分はそういった『本格派の陰陽師』としての修業はしていないから……という、自虐的かつ生真面目な理由で。
それでもナナは、式では自分たちと同じ列に加わりながらも、誰よりも熱心に祈りを捧げているように見えた。
ネジ、父親、いのの父……親しい者たちの安らぎを、
だからきっとナナは……こうして自分に直接“お悔み”を言う機会が遅れたことを、気にかけているのだろう。
だがもちろん、そんな必要はなかった。
「お前、親父の墓にも花を供えてくれたんだろ?」
ネジの墓前にあったのと同じ花が、父の墓の前でも可憐に揺れていたのだ。
「うん、だって……」
ナナは少しうつむいて、懐かしそうな顔をしながら言った。
「シカクさんは私の……、ええと……『保証人』になってくれたから」
そういえば……と、シカマルも今さらながら思い出す。
中忍試験が混乱の中で中止になったにもかかわらず、二人だけが中忍昇格と認められたのだ。
あの時は、本来ナナに付き添うはずであった上司のカカシが伏せていた。
だから父がその役目を買って出たのだ。
今思えば、父はナナの事情を良く知っていたのだろう。
アレでも一応、三代目に信頼されていた上忍だった。きっとナナのことを知っていたうえで、保証人役を名乗り出たのだ。
そう……ああ見えて情に厚い男だったから、ナナのことを放っておけない気持ちがあったのだろう。
「あの時、カカシ先生は寝込んじゃってたしね」
あの時の思い出を、ナナは積極的に語り出した。
そこで……止めるべきだった。今、目の前のナナに意識を合わせすぎていて、あの頃のナナを思い浮かべることを失念してしまった。
「イタチにやられちゃってたから」
ナナはただの思い出話のようにそう言った。
次々と、あの時のことが蘇る。
カカシが里に現れたといううちはイタチと戦って臥せっていたこと。後を追ったサスケもまた、イタチによって重傷を負わされたこと。ナナはサスケの見舞いにも行かずに、河原でひとり、膝を抱えていたこと……。
「あの時……」
あの時、ナナが泣くこともできずに、胸の痛みを持て余していたその理由が、今夜、はっきりとわかった。
「お前がどういう状態だったのか、やっとわかった」
ようやく、わかることができた。
『私……、どうしたらいいのか、わかんなくて……』
消えてしまいそうなほど、弱々しい声音。
『サスケには、サクラちゃんがいるから……』
孤独に染まった台詞。
『だけど、私は……あんなふうに、まっすぐではいられない……』
背負ったモノの重さで、押しつぶされたような姿。
『……
「
『それをっ……私は……信じないことなんて、できなくて……』
あの時のナナは、初夏の陽気とは正反対の、どす黒い空気に覆われていた。それに包まれ、飲み込まれ、まるで……奈落の底に落ちて行くようだった。
ナナを護りたい……。
あの時に、はっきりと意識した。
ナナを救いたい。助けになりたい。
そんな思いで、言ったのだ。
『お前が道に迷ったときの休憩所くらいには、なってやるよ……』
打算も予測もない言葉に、ナナは唇を噛みしめながら両腕でしがみついてきた。
ナナを襲う問題を、解決してやることも、助言することも、わかってやることすらできなかったあの時。
あのもどかしさが、今、やっと解消されたのだ。
「イタチは……カカシやサスケを傷つけて、ナルトを狙ってて……でも、私はやっぱり、イタチを憎むことができなかった」
ナナは懐かしそうに、宙をみつめて微笑んだ。
あれから数年……。見た目はあまり変わらないが、その表情はずいぶんと大人びて見えた。
「あの時シカマルは……」
みとれていると、ナナが言った。
「私が道に迷ったときの『休憩所』になってくれるって言ったよね。面倒くさくなったら、いっしょにのんびりしようっ……て」
自分の過去の想いをなぞられるのは恥ずかしかったが、ナナから目を逸らせなかった。
「あ、ああ……言ったな」
「嬉しかった」
ナナは笑った。
今度は一転、あどけない笑みで。
「イタチのことは誰にも話せないことだったから……、あんなになってもまだ、私はアナタに話すことができなかった……」
ナナの事情はわかっている。
和泉とうちはが秘密裡に手を組んでクーデターを企んでいた“証拠”こそが、イタチとナナの関係だった。だから、ナナの口から「うちはイタチ」の名が出てはいけなかった。
だがそれは、決して和泉の里を守るためじゃない。
ナナ自身が……話すことを恐れたのだ。
和泉の人間としての罪や、里からの罰を恐れていたわけじゃなく……ただ、サスケに知られたくなかったのだ。サスケに知られれば……拒絶されてしまうから、恐かった……。
「何にも言えなかったのに、アナタは許してくれた」
ほんの少し、後ろ暗かった。
真実を知ったわけじゃないのに、偉ぶって、強がって、言った言葉。心からの本音ではあったけれど、ナナの全てをわかって贈った言葉ではなかった。
が、ナナは嬉しそうに笑う。
「私が……『サスケに殺してもらう』ことだけを願っていたことも、アナタは……」
かすかにはにかみながら、無慈悲に笑う。
「アナタだけが、それを許してくれた」
それしか選択肢がなかったことを知ってか知らずか……。
「だから……」
ナナの漆黒の瞳が、あの時の星空のように煌めいた。
「だから、アナタに頼んだの」
同時に、胸がチクリと痛んだ。
辟易するほど、感じすぎたあの痛み。
「サスケやナルトでもなく。カカシ先生やサクラちゃんでもなく……シカマルに」
悲痛な叫びも。血走った眼も。真っ青な頬も。全身に纏う死の影も。
全部、鮮明に覚えている。
あの「願い」は、自分にしか頼めなかったとナナは言う。
本当に、残酷に。
だが、心からの信頼が伝わった。
「酷いことをお願いして、本当に……ごめんなさい」
「もう……」
かすれた声が、無様に闇に漂った。
「……お前の『ごめん』は聞き飽きたぜ」
それが滑稽で、少し笑った。
「シカマル……」
「結局オレは、お前に対して何もできなかった」
思いのほか、なだらかになった心のままを吐き出す。
「お前の願いを、何ひとつ叶えてやれなかった」
ナナの心の「休憩所」になることも。サスケに殺されたいとしか願えなくなったナナを導くことも。寄り添うことも。助言することも。最期の望みを、この手で叶えることも……。
何ひとつできなかった。
だから、こんなふうに、わざわざナナから言葉をもらう資格などなかった。
特別に気にかけてくれなくても良い。「ごめん」も要らない。
だが……。
「でも、ありがとう」
ナナは熱を込めた声を響かせた。
「私、なんていうか……」
コドモみたいな、オトナみたいな表情で、とっておきの台詞をくれた。
「この世界で一番、シカマルのことを信頼してる」
それは突拍子もない言葉だった。
が、意外と面食らうことはなく……反射的に噴き出した。
「なんだよ、いきなり」
「いきなりじゃないもん」
ナナは両の拳を力いっぱい握りしめて言った。
「たとえ自分自身すら信じられなくなった時でも、きっと……シカマルの言葉なら信じられる! シカマルは私にとって、そういう存在なんだもん」
視線にも、声音にも、偽りはない。
あのナルトですらたじろぐかと思われるほどの、まっすぐな想いが向けられている。
「ナナ……」
「シカマルは頭がよくて、絶対に一番正しい答えを知ってて、すごく仲間思いで、それに……」
だんだんと、忘れていた感情が蘇る。
「お、おい、ナナ……」
「それに、一緒にいて落ち着くし、ちゃんと怒ってもくれるし」
だがナナは、本気で恥ずかしくなるような言葉を容赦なく零し続ける。
「なにより……」
「ナナ、も、もういいって」
ナナは一度、口を引き結び……それからフッと笑った。
「シカマルは、私の側に居てくれた」
わずかに息を呑んだ。
まるでとどめの一刺しだ……。
身動き取れずに固まる自分に向かって、ナナはそう古くもない記憶をさらさらと辿る。
最初はそう……やはりあの河原だ。
イタチとサスケのことで、やり切れない想いを持て余していた時。膝を抱える情けない自分の隣に、そっと寄り添ってくれたとナナは言う。
それから、サスケが里を抜けた朝。
「サスケがキライ」だと言ってサクラにぶたれ、頑なにサスケ奪還作戦の任務を拒否したあの時。突き放さずに側に居て、「逃げるな」「負けるな」と叱ってくれた……と。
そして。
サスケの手による死を願う自分を許し……朝まで一緒に居てくれた……と。
もちろん、全てを鮮明に覚えている。
だが、それらが正しい行動だったのかはわからない。
もっと何か言えたはず……もっと何かしてやれたはず……。“ナナの事情”を言い訳にして、手をめいっぱい差し伸べられなかった後悔は否めない。
それでもナナは、無邪気に笑い、礼を言う。
本当に嬉しかった。全部が大切な想い出だ。全ては、その時に必要だった……と。
その信頼の証が……あの最期の願いか……。
ようやく実感する。
カカシでも、サクラでも、ナルトでも……サスケでもなく。
恋じゃない。愛じゃない。
ふと、思い浮かんだ。
これが、“信頼”という絆……。
「ねぇ、シカマル。だから……」
ナナは初めて言いよどんで、下を向いた。
「いつか、あの時のこと……」
親の許しを請う幼い少女のように、ナナは言った。
「わかってほしい」
聞き終えたその瞬間……胃の底に在ったモノが、スーッとその下の下まで落ちて行くようだった。
ずっと抱えていた、痛み……。迷い、戸惑い、憤り、嫉妬、もどかしさ、後悔、そして……無力感。
それらが、身体から抜けていくような感覚だった。
「はーっ……」
その感覚に身を任せ、ため息をついた。
「シカマル……」
不安げな顔をしたナナの不安をあおるように、もう一度、ため息。
「お前なぁ……」
この感覚の正体は、まぎれもなく“呆れ”だった。
正直、拍子抜けした。
わざわざ会合の後に呼び止めて、さんざん気恥ずかしいことを珍しく熱く語って、とびきり嬉しい言葉をくれて……その最後が“それ”か……と。
そして、そんなナナが好きだったのだと、改めて気づいた自分にも呆れてしまったのだ。
「『いつか』っつーか、もうわかったから」
「ほ、ほんと……?」
「許して欲しい」でもなく、「ごめん」を重ねるでもなく、これからも仲間でいてほしい……でもなく。「いつかわかってほしい」だなんて、本当に“ナナらしい”と思った。
人一倍情が深くて、人とは少し違う空気を持っている。
だから……。
「つーかお前、そんなふうにオレのこと想っててくれたんだな」
こくりとうなずいたナナはまだ、こちらの心情をうかがっている。
必死で世界を救おうとした結果、自分なんかを傷つけたことをナナがいつまでも後悔しているのは、割に合わない。
かといって、これからナナに「もう気にするな」とか、「もう平気だから」とか言っても、意味はない。
ナナにはそんな言葉じゃ意味がないのだ。
「ナナ。オレたちは……」
だから、それがわかるまで寄り添えたナナの心に、光を差す。
「これからも、“親友”だ」
星明りのように控えめで、だけど、確かな想いを……。
「シカマル……!」
ナナの顔が輝いた。
(ああ……ずっと……こんな顔が見たかった)
「ありがとう!」
自然と、その頭に手を置いた。
ナナは嬉しそうに笑っている。
そのナナに気づかれないよう、秘かに息をついた。
この距離感が、とても自然であることが不思議だった。
自ら「親友」という言葉を使ったとおり、この先のナナとの絆が、心地よいものに感じられた。
だからこそ、今まで聞けずにいたことが流れ出た。
「ナナ、ひとつ聞いていいか?」
「うん、なに?」
自分だけでなく、他の仲間たちが聞きたかったこと。ナナの口から聞きたかったこと。皆がずっと、聞きそびれていたこと……。
それを封じることはもうなかった。
「お前、生き返って幸せか?」
答えに身構えることも、もうなかった。
「うん!」
ナナはすぐにうなずいた。
その瞳に影はなく、清らかな光が浮かんでいた。
「私だけ生き返っちゃって申し訳ないとは思うけど……でも」
その目をこちらにまっすぐ向けて、ナナは言った。
「また、みんなに会えて本当に嬉しい」
安堵はしなかった。
自分にはもう、ナナの答えがちゃんと理解できていた。
「オレも他のヤツらもみんな、同じ気持ちだ」
そして、ナナに必要な言葉も。
「私、ちゃんと『生き直す』から」
「ああ。そうしてくれ」
もう一度、頭を撫でた。面倒くさそうに。
その仕草が「いつもどおり」だと、ナナは苦笑した。そしてナナ自身もいつもどおり肩をすくめてこう言った。
「でも、それに疲れた時は、シカマルが『休憩所』になってくれるんでしょう?」
二人で、声を上げて笑った。
あの夜より季節が進んで肌寒いはずの風が、優しく吹き抜けていく。あの夜より透き通った空気が、二人を包んでいる。
空の星は……いつのまにか、あの夜よりずっと明るく、颯然と瞬いていた。