高校を卒業後、両親の薦めに従って司法試験に合格した和。
勉強の重圧から解放されて心が軽くなったのは数日で、日を重ねるたびに東京に転校する前の高校時代の思い出に心が苛まれた。

合格発表から2ヶ月ほどたったある日、和は長野県清澄高校を訪れる。

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高い嶺の頂に咲く花

「変わらないですね……」

 

 ゆるやかな上り坂が続く旧校舎への道の路肩に集められた落ち葉がふわりと舞い上がり、北風が肌にじんじんと突き刺さる。

 ベージュのトレンチコートとニットを着て寒さ対策は万全にしたと思っていたが、この寒さならダウンを着てくるべきだったかもしれない。

 

 指先を温めるために、ほぅと吐いた息は白く濁ってそれから消えていった。

 

 歪に膨れた左手の中指のペンだこが目に入ってしまう。

 

「筆圧をあまり使わない万年筆が合えば良かったのですが」

 

 書いた文字が擦れて滲んでしまうのが嫌で、試験勉強は全てボールペンで通した。考えれば考えるほど手に力がこもって、自分を苦しめた。

 高校時代の麻雀の練習の時にも指先が痛むことがあった。

 どうやら私の指先はあまり強くないらしい。

 

 考え事をしながら坂道を歩いていくと、あっという間に校門まで着いてしまった。

 

 静かで少し寂れている変わらない旧校舎。

 

「麻雀部はまだあるのでしょうか?」

 

 旧校舎の屋根裏の窓は光が消えていて、ここからでは中の様子は窺い知れない。

 鍵のかかっていない簡単な引き戸になっている緑色に塗装された鉄製の校門の取っ手に手をかける。

 掌にひんやりとした感触が伝わってくるのを感じて、私は手を離した。

 

「あまり……良いことではないですね」

 

 敷地内に入るなら教職員の許可をとるべきだろうし、ましてや私はこの学校の卒業生ですらない。

 本校舎に戻って一声かければ中には入れてくれるだろうが、そこまでして麻雀部の存続を確かめたくもなかった。

 ただ、ここにきて。遠くから眺められれば満足なのだから。

 

 ゆっくりと目を閉じると、晩秋の寒さをより強く感じた。

 

 もう、帰ろう。

 そう考えて踵を返そうとすると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「ん? 和じゃないか? ああ、やっぱり和だ。ピンクの髪だから、そうじゃないかと思ったんだ」

 

 すらりと背の高い黒いダウンコートに白いワイシャツ姿の男の人が、人懐っこい笑顔で駆け寄ってくる。

 

「俺のこと覚えてるか? ほら、麻雀部で一緒だった……」

 

「ええ、覚えていますよ須賀くん。お久しぶりです」

 

 私がそう言い終えると、ああ良かったと言ってから須賀くんは旧校舎の屋根裏、麻雀部の部室のほうに視線を向けた。

 

「麻雀部、もうないからさ。俺らの代で最後」

 

「そう……ですか……」

 

 向き合いたくなかった事実を須賀くんにあっさり告げられて、目の前の旧校舎から色が抜けていく。白色の壁には煤が溜まって、壁を伝う蔦の葉の一枚一枚が褪せていった。

 

 だけど、それでいいんだ。

 私が前を向いて歩くには、それでいい。

 

 でも。

 

 俺らの中に、私は含まれているんでしょうか?

 

 喉まででかかったその言葉は鉛のように重くひっかかって、私の心を冷やすには充分だった。

 

「和は電車で来たのか?」

 

「ええ、東京から特急で」

 

「そりゃ大変だったろ、こんなところまで」

 

「4時間くらいでしょうか? 思っていたほど遠くはなかったですよ」

 

「いや、充分遠いだろ。それは」

 

 気がつけば太陽は西に傾いて、2人の影法師を細く長く地面に映していた。

 夕方の北風は、底冷える。

 

「あ、そうだ乗ってけよ! 俺、最近調理師とってさ、駅の近くで食堂やってんだ」

 

「え……あ、いえ……」

 

 須賀くんは、白い軽トラックを左手の親指で指差して乗るように促した。

 

「結婚されていたんですね」

 

「ん? ああ、どうしてわかったんだ?」

 

 プラチナの結婚指輪を堂々と薬指につけているのだから、なぜ分かったのかはわかりそうなものだが、須賀くんはキョトンとした表情でそう言った。

 でも、そんなところも須賀くんらしい。

 

「い、いえ……おめでとうございます」

 

「おう、サンキューな和」

 

 須賀くんが手をかけて、軽トラックの助手席のドアがパコっと軽い音を立てて開く。

 乗るとも言っていないのに、屈託のない表情で扉を開けられてしまうと乗らざるをえなくなってしまった。

 

 リクライニングすらない簡素な作りのシートに腰掛けて、シートベルトを閉める。

 須賀くんが鍵を回すと、エンジンが鈍い音を立てて吹き上がった。

 軽トラックは一速、二速と音を立てて精一杯走りはじめる。

 

「えっと和は大学の……四年生?」

 

「ええ」

 

「卒業したらどうするんだ?」

 

「司法試験に合格したので……」

 

「し、しほうしけん、ですか?」

 

「ええ」

 

「はーやっぱり和はすごいなあ。じゃあ卒業したら弁護士かぁ」

 

 須賀くんが軽快にハンドルを切ると、スッと車が曲がって田んぼの脇を抜けていく。

 

「いえ、1年間は司法修習があるので、裁判所で勉強ですよ」

 

「ふーん、そんなものがあるのか」

 

 司法試験に受かったからといって、全員が弁護士になるわけではない。でも、その話を須賀くんにするのはやめておこう。彼は民事でも刑事でも、裁判所に行くことはないような人だから。

 

「万が一のことがあったら……」

 

 私を頼ってくださいね。

 

 そう伝えたかったはずなのに、不思議と言葉が出てこない。咲さんや須賀くん、清澄高校のメンバーに頼られようなんて私の思い上がり。

 そんな考えが頭をもたげて離れない。

 

「おう、サンキューな」

 

 須賀くんは私の言葉の続きはないと思ったのか、あっさりとそう答えた。ほっとする気持ちと、私にお礼を言わないで欲しい気持ちが入り混じる。

 田んぼの畦道を抜けて、市街地に入って少し走ると車は止まった。駅の中心から少し外れたところにある古びた食堂。

 紺色の暖簾が、営業中であることを知らせている。

 

「なんかご馳走するから、東京に帰る前に食べていけよ」

 

 軽トラックを食堂の脇の駐車場に止めると、須賀くんはそう言った。

 

「い、いえ……悪いですよ。そんなの」

 

「電車急いでるのか?」

 

「そういうわけでは……」

 

「じゃ、食べていってくれよ。合格祝いってことでさ」

 

「おう、帰ったぞーーー」

 

 そう言って須賀くんは、暖簾をまくるとガラガラと入り口の引き戸を開けた。

 清潔に掃除された店内にまばらに常連さんらしいお客さんが座っている。

 

「おかえりなさい、あら?」

 

 派手ではないが優しそうな顔立ちのエプロン姿の女性が、須賀くんからダウンコートを受け取って、ハンガーにかける。

 この人が須賀くんのお嫁さんなのだろう。

 

「高校時代の部活の同級生でさ、原村和っていうんだ。東京からわざわざ来てくれたんだぜ?」

 

 店内の全員に聞こえるような声で須賀くんが私のことを紹介してくれたので、ぺこりと小さく頭を下げた。

 はじめは眉を寄せて強張ったような表情をしていた奥さんも、私が東京に住んでいて司法試験に合格したことを知ると、もとの穏やかで優しそうな表情に戻って、窓際の空いている席を案内してくれた。

 

「へい、お冷。おまちぃっ」

 

 須賀くんは両手に持ったグラスをテーブルにの上に置いて、対面に腰掛けた。

 

「愛されてますね」

 

「ん? まあ、そうかな?」

 

 須賀くんは一瞬、怪訝そうな顔をしてから少し恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。

 

「このお店は須賀くんが購入されたんですか?」

 

「いや、バイト先の爺さんがやってたんだけどさ……いつのまにか俺がやることになっちゃって。それで結婚も」

 

「ああ、なるほど……」

 

 厨房の奥から、じっとこちらの様子を眺めている細君と目を合わせて、相手に視線をはずさせてから私は相槌をうった。

 

「これがメニューなんだけど、好きに頼んでくれよ」

 

 須賀くんが開いて渡してくれたメニュー表をパラパラとめくっていく。揚げ物に野菜炒め、大衆的な料理が並ぶ中に、タコスサンドの記載もあった。

 

「そういえば、ゆーきはどうしていますか?」

 

「ああ、優希なら名古屋のほうに進学してたな……ええっと、なにやるって言ってたかな」

 

 必死に須賀くんが、思い出そうとしてくれている内に注文を決める。

 

「アジフライの定食と食後にブレンドコーヒーを」

 

「おう、少し待っててな。ご飯は大盛りにもできるけど?」

 

「むしろ、少なめがいいです」

 

「あいよ」

 

 そう言うと須賀くんは、暗くなっていたブラウン管テレビの電源を入れてから、厨房の方へと消えていった。

 厨房から、パチパチとフライを揚げる小気味のいい音が聞こえてくる。

 アナログ放送は終了したと聞いていたが、その大きなカラーテレビは昔と変わらず、真面目そうなアナウンサーさんの顔を写し続けている。

 

「このテレビ、まだ映るんですね」

 

 ほんのり湯気の立ち上るお味噌汁と揚げたてのアジフライの定食を持ってきてくれた須賀くんに、私はそう問いかけた。

 

「何故かわからないけど見れてるんだ。ケーブルテレビだからかな? 壊れたら買い替えようと爺さんも言ってたけど壊れなくてなあ」

 

 たまに映らなくても叩けば治るしと言って、須賀くんはおかしそうに笑った。

 テレビ番組はいつのまにか切り替わっていて、ニュースキャスターからプロ麻雀中継に変わっていた。

 満員の観客席の様子と試合前のがらんとした無人の雀卓が映し出されてから、牌譜を無表情で眺めやる同級生の姿が映る。

 

「お、今日は咲が先鋒なんだな」

 

「そ、そうですね……」

 

 目尻を下げて上機嫌な須賀くんとは対照的に、声がかたくなっているのが自分でもわかった。

 

 今すぐに、テレビを消してしまいたいくらい。

 でも、それもできなくて……

 

 ただ、咲さんが雀卓に向かっていく様子を瞬きをせずに私はじっと見つめていた。

 

「あ、ほら冷めるぞ?」

 

「は、はい」

 

 食堂のテーブルに置かれた割り箸を手にとって、アジフライを口の中にいれる。

 きっとおいしいはずなのに、味は全くわからない。

 目に入るのは、咲さんの麻雀だけ。

 

「咲もすごいよな。プロ麻雀選手だぜ?プロ麻雀。 まさか、うちの部から出るなんて思ってもなかったよ。俺がカモってやるつもりで麻雀部に誘ったのに」

 

 須賀くんは、嬉しそうに咲さんの活躍を褒めた。

 

「咲さんは、団体戦はあれからでていませんでしたよね?」

 

「ああ、そうだな。ただ、個人戦はでていたから……」

 

 須賀くんがそこまで言いかけた時、テレビ画面に映る咲さんが、嶺上開花で跳満を決めて先行した。感情を伺わせないようなポーカーフェイスで牌を倒して点棒を受け取る。

 

「うわあ、すげえな。そういや、和はまだ麻雀はやってるのか?」

 

「いえ、私はもう、麻雀はずっと……やっていませんから」

 

「そっか」

 

 そう言うと須賀くんは私の気持ちを察してくれたのか、テーブルの脇から厨房の方に戻っていった。

 定食を食べながら私は上の空で、咲さんの麻雀を眺めていた。

 

 私もっと頑張るから……

 原村さん、一緒に全国に行こう!!

 

 昔の約束。

 交わした左手の小指にそっと唇を寄せるとブラウン管の中の咲さんは、滲んでぼやけて……それでも彼女は麻雀を続けていた。

 

「コーヒーはいったよ」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 目を上げて、須賀くんから受けとったホットコーヒーに角砂糖を2つ入れるとすっと溶けて、消えていった。

 口に含んだコーヒーの苦味もちょうどよい。

 

「咲さんの麻雀。綺麗ですね」

 

「ん? 綺麗?」

 

「ええ、綺麗ですよ。高校時代からずっと、咲さんの麻雀は綺麗なんです」

 

「そういえば和は高校でもそう言ってた気がするな、咲が聞いたら喜ぶと思うぜ」

 

 須賀くんはそう言ってから、いつの間にか空になっていたお皿を下げに、厨房のほうへと歩いていった。

 

 ブラウン管のテレビに映る咲さんの姿。

 山から牌をツモって河へと切り出す。そんな自然な動作を眺めているだけでも、美術品を鑑賞するような幸せな気持ちになれた。

 

 高い嶺の頂に咲く花が綺麗なのは——

 

 どれだけ手を伸ばしても届かないから、綺麗なんだ。

 

 窓の外の景色はすっかり暗くなって、食堂の柔らかい電球色の光が私を包んでいた。

 

 このコーヒーを飲んだら。

 東京に帰ろう。

 


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