人殺しに慣れたきっかけを考える時、思い出すのは天使の輪っかだ。
そのラテラーノ人と縁ができたのは、本当にただの偶然だった。おれはまだ名を売り出したばかりの傭兵で、さらに付け加えて言えば、おれはまだ『W』ではなかった。
「あなたは本当に筋金入りの変人ね、
「そうか?」
「そうよ。だって、普通のサルカズはラテラーノ人と仲良くしようなんて思わないもの」
個人の間で結ぶ信頼関係に、種族のしがらみや因縁は些細な問題だ。実際、彼女と言葉を交わしていると、そんなことは本当に些細な問題に思えた。
「おれのことを、信じるか?」
「もちろん。あなたを、愛してるから」
人を信じることは、すばらしい。
人間の関係は、信じることからはじまると言っても過言ではない。
彼女と話していると、戦場の喧騒を忘れることができた。彼女と過ごす時間は、居心地がよく、安心できた。彼女を抱きしめている瞬間は、熱を感じることができた。
だから、
「……ちがうの。ちがうの、Double! わたしは……!」
彼女がおれを裏切って、裏で部隊に関する情報を流していることを知った時。すべてが最初から、仕組まれていたことを知った時。
それはそれで、仕方のないことだと、どこか他人事のように、そんな風に思った。
いつもゆったりと笑顔を浮かべていた顔が、醜く歪んでいる。おれと手を繋いでくれた腕は、今は自分を守ることだけを考えているのか、己の体を抱きすくめている。
人を信じることは、すばらしい。
人間の関係は、信じることからはじまると言っても過言ではない。
ただし、信じた相手が、自分のことも信じてくれているとは、限らない。
そう。こんなことは、本当によくあることだ。
「殺すの? わたしを、殺すの!?」
震える声が、耳に響く。
短剣を手に取って引き抜きながら、明日からどうするかを考える。少し、一緒の時間を過ごしすぎたかもしれないと思った。
彼女にもらったコーヒーカップは、捨てよう。
ベッドのシーツは、取り替えよう。
このソファーは買ったばかりでお気に入りだから、あまり処分したくはない。この部屋を引き払って、新しい家に持っていくことはできるだろうか?
「……あ、悪魔め。この、サルカズの悪魔め!」
ああ。でも、
「戦場で笑っているイカレ野郎が、やさしい人間のふりをして! それだけで、悪魔が愛してもらえるなんて思ったの!?」
きみがおれに向けて構えている、
思い出に欲しい、なんて。
それは、おれのわがままだろうか?
彼女を静かにさせて、しばらく部屋の中を眺めて。それからようやく、おれは彼女の銃を拾い上げて、通信機のスイッチを入れた。
「聞こえるか?」
『終わったのか、Double』
「ああ、終わったよ」
『災難だったな』
「なに、よくあることさ」
きれいな銃だ、と思った。
やはり、ラテラーノ人の所有する武器は、ある種の美しさがある。
記念品には、ちょうど良い。
『しばらく、追われるかもしれないな』
「名前が売れるのは良いことさ。……でも、良い機会だから、名前を変えようと思うんだ」
この日を、誕生日にしようと思った。
おれという人間の、新しい門出の日だ。
『名前を? それは……呼び慣れるまで、時間が掛かりそうだな』
「大丈夫。名前は変えない。綴りをちょっといじるだけだ」
名は体を表す。
しかし、戦場でそれを晒し続けるのは、いつかおれにとって致命的な隙になるかもしれない。
笑いながら人を殺すイカレ野郎だと、仲間はおれを指差す。
戦場で人を信頼し過ぎるイカレ野郎だと、やはり仲間はおれを笑う。
二重にイカレているから、お前は『
だって、鉄と血の臭いに溺れて、本当に狂ってしまうくらいだったら……狂っているふりをしていた方が、ずっとずっと良い。
「……そうだな」
彼女の身体から流れ落ちる、その血が固まる前に。まだ温もりが感じられる赤色で、床をキャンパスにして新しい名を記した。
「『
事情を知る仲間は、おれのことをラテラーノ人にハメられた間抜けだと、また笑った。
どうしてそんなに簡単に人を信じるのか、と。彼らは理解できないものを見るように、おれを見る。
逆だ。
どうしようもない臆病者だから。
人を裏切りたくないから、おれは人を信じ続ける。
▲▽▲▽
「ねえ、W。あなたの銃って、誰かの遺品なの?」
頬杖を突きながら、対面に座るイネスはぼんやりとそんなことを聞いてきた。飲んでいたコーヒーのマグをテーブルに置いて、答える。
「ああ。ヘドリーに聞いたことはなかったか?」
「彼が人のことをペラペラと喋るような性格に思える?」
「べつに隠しているわけじゃないから、聞けば教えてくれると思うぞ」
「あなたのことは、あなた本人の口から聞きたいじゃない」
「おれに惚れてるのか?」
イネスは、無言でおれのマグの中にシュガースティックを2本、まとめて流し込んだ。最悪だ。
「冗談を流せる女の方がモテるぞ」
「くだらない男に腰を振られるくらいなら、遠巻きに見られた方がマシよ」
「いいね。そういう気の強い女の方がおれは好きだ」
「質問。はぐらかしてないではやく答えてくれない?」
「何の話だったっけか?」
「最低」
いい加減、からかい過ぎて席を立たれそうだったので、手を重ねて押し留める。
「わかったわかった。この銃は、ラテラーノ人からもらったものなんだ」
「……もらった? 本当に?」
「おれがお前に嘘を吐いたことがあるか?」
「あなた、いつも嘘しか吐かないじゃない」
「ひどいな。おれはこんなにお前を信じているんだから、おれのことももっと信じてくれ」
両手を広げて、肩をすくめてみせる。
コーヒーのマグをテーブルにまた置いてしまったのがまずかった。イネスは無言で、今度は3本のシュガースティックをおれのコーヒーの中に流し込んだ。これではもう、カフェインではなくただの砂糖の塊である。
しばらく無言でおれのことを睨み据えていたイネスは、しかし何かを諦めたように溜め息を吐くと、彼女にしてはめずらしく、小さな声で呟いた。
「……その銃」
「ん?」
「その銃、あなたが死んだら貰っても良い?」
あまり、想像していなかった提案だった。
「サルカズの慣習は知っているだろ? その場合、お前が『W』になるわけだが、良いのか?」
「それはいや」
「おいおい……わがままな女だな」
「知らなかったの? 女はみんなわがままな生き物なのよ」
これは一本取られてしまった。
仕方ないので、少し正直になるために、おれは居住まいを正して彼女に向き直った。
「この銃をもらった日は、おれの誕生日なんだ」
「誕生日?」
「ああ。だからいつか、祝ってほしいと思っている」
「あなたの誕生日を? 私が?」
「お前だけじゃない。なるべくたくさん、部隊のヤツらみんなに、祝ってほしい」
「……バカじゃないの?」
「バカじゃないさ。おれはみんなのことを信じてるからな」
「その日が来るより、あなたが死ぬ方が早そうね」
「おれは死なないさ」
「よく言うわ」
テーブルから立ち上がって、イネスは吐き捨てた。
「あなたの言うことなんて、信じられるわけないでしょう」
その背中を見送りながら、コーヒーを口に運ぶ。
砂糖の塊は、本当に死ぬほど甘かった。
◇◇◇◆
「ねえ、W。次に帰ってくるのはいつ?」
「そうだな。もう戻るつもりはない」
「え?」
意地の悪い笑みばかり浮かべるようになっていたその顔が、強張るのを見たのはいつぶりだろうか。
ソファーから跳ねるように身体を起こした彼女は、琥珀色の瞳でおれを凝視した。スプリングが、ギシギシといやな音をたてる。おれはほとんど寝ていないのに、このソファーもずいぶんくたびれたな、と。ちょっとだけおかしくなった。
「お前に教えることはもう何もない。これからは、好きに生きていくといい」
「ちょっと……」
「なんてな、冗談だ」
「はぁ!?」
飛んできたクッションを、身をよじって避ける。
「アンタはそうやって……いつまでもあたしを子ども扱いして!」
「悪い。悪かったよ。でも、教えることがもうない、というのは本当だ」
彼女は本当に、素晴らしい戦士に育った。
どんな戦場に放り込まれても、簡単に死ぬことはない。少なくとも、おれがそう太鼓判を押すことができる程度には。
「卒業祝いだ。何か、欲しいものはあるか?」
「……そうね。じゃあ……」
人差し指を、ぴんと伸ばして。
彼女はまるで、銃口を突きつけるように、その指先をおれに向けた。
「……わかったよ。適当な土産を買って、なるべく早く帰る」
本当に。この行儀の悪さは、誰に似たのだろうか。
彼女はいつの間にか、少女から女になっていた。
「ええ。信じて待ってるわ、W」
その屈託のない笑顔を見て。
少し、一緒の時間を過ごしすぎたのかもしれないと思った。
◇◇◆
紛争エリアの西部辺境。楽とまでは言わないまでも、そこまで難しい仕事でもない。そんな任務のはずだった。
「ヘドリー、よく聞け」
思っていたより、付き合いの長くなった相棒の肩を叩く。
図体はでかいくせに慎重で、誰よりも用心を怠らない、信頼できる相棒だ。
「こちらの通信は切断された。敵の兵は、明らかにこちらを待ち伏せていた動き……まあ、控えめに言っても最悪の状況だ。おれの長い傭兵人生の中でも、ワーストワンに入ると言っていい」
「そうだな。どうする?」
「だから、おれが殿をやる」
「W、お前……」
「勘違いするな。べつにおれはこんなところで死ぬつもりはない。ただ、お前らが逃げる隙をちょっと作るだけだ」
「だが、それは……」
「ぐだぐだ言ってないでさっさと残りの連中をまとめて脱出の準備を整えろ」
こいつは、いつも難しい顔をしている。おれがいくら笑いかけても、つまらない仏頂面でいることがほとんどだ。
しかし、だからこそ信頼できる。
「あとは頼む」
「……W!」
背中に刺さる声には、はじめて聞く感情があった。
「死ぬなよ」
あまりにも臭い台詞に、吹き出しそうになる。
「ばーか。おれは絶対に死なないさ」
「……信じている」
人を信じたからといって、自分も信じられるとは限らない。
だからその一言が、おれは嬉しかった。
◇◆
絶対に死なない人間などいない。
戦場に立つ限り、人はいつか必ず死ぬ。
ここまでだな、と。命を取られる寸前になって、おれの心の中には静かな納得があった。
「投降しろ」
「ご厚情、感謝するよ」
「なら……」
「だが、悪いな」
血気盛んに、いかにも「戦うことが楽しいのだ」とその目で主張している彼らに向けて。
あくまでも、飄々と。おどけてみせる。
「おれは死んでも、他人に命を弄ばれる気はない」
涙は見せない。
焦りはしない。
「だって、他人の命を好きなように弄ぶ方が、楽しいからな」
おれは最後の瞬間まで、笑っていよう。笑顔で、おれの死神を歓迎しよう。
「お前、まさか……」
「ご明察だよ」
こちらを取り囲んだ間抜け共は、仕掛けておいた爆発物の気配にようやく気づいたようだった。
まあ、人生というのは得てしてそんなものだ。本当に大切なことには、死の間際にならないと気付けない。
「投降しろ、だって? そりゃ、逆だろ」
見せびらかすように、起爆のスイッチを高く掲げる。
「三つ数える間に、投降のチャンスをやるよ」
それが、おれの命の最後のカウントダウンだった。
下半身の感覚がない。
全身が、血を流し過ぎていて冷たい。声が出ない。喉が焼けている。目が見えない。片目はおそらく、落石で潰れている。耳が聞こえない。爆発物のプロを自認しておきながら、最後の最後に爆発の轟音で自分の耳を潰してしまうなんて、本当に馬鹿みたいだ。
どうして、おれはまだ生かされているのだろう、と。大声で神様に文句を言ってみたくなったが、本当に死ぬ直前にまで至ると、口を開くことすら難しいらしい。
「……ぁ」
人の気配がした。
不思議と、敵の生き残りではないと思った。足音は聞こえなかったが、背中で振動を感じることはできた。少しずつ、探るようにその気配は近づいてきて、おれの姿を見つけた瞬間に、警戒も何もなく、馬鹿のように駆け寄ってきたのがわかった。
手を握られる。その瞬間に、どうしてこんな状態になってまで、自分が生かされているのかを理解した。
握られた手の温かさを、おれは知っている。
ここまで来たのか、という思いと。
ここまで来れるのは当然だという、安堵があった。
焼けついたはずの喉が、自然と動く。
それだけは、絶対に。おれの武器を持っていく彼女に、伝えなければいけないと思ったから。
「……誰にも、その人がいないと、ダメなんて相手はいない」
そう、誰にも。
だから、おれがいなくなっても、彼女は大丈夫だ。
握られた手が、ほんの僅かに震えた。
それから、手のひらが、そっと地面に置かれた。
武器を拾い上げる音がした。剣を、取り上げる気配がした。
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
ああ、けれど。
おれは死なない。
なぜなら──
◆
「戦死者の武器を受け継ぐことが何を意味するか、わかっているのだろう?」
「もちろん」
「では、撤退の準備を優先しろ。細かい話は後だ」
彼の武器を持って現れた、ボロボロのサルカズの女に向けて、ヘドリーは言った。
「ひとまず、お前には我々の部隊に帰属してもらう。W」
彼女は、ただ頷いた。
◆
「それで、そのWってのは、どんな人だったの?」
他人には、まるで興味のない女だと思っていた。
だから、新しいWが、かつてのWの話を聞きたがったことを、ヘドリーは少し意外に思った。
「そんなに気になるのか。奴とは長い付き合いだったが、相当変わっていたな。奇人と言ってもいいかもしれない」
ヘドリーは、彼女に向けて語った。
彼が、いつも仕事に精を出していたこと。
彼が、とても優秀だったこと。
彼が、自分たちのリーダーになろうとしていたこと。
「奴は、我々のリーダーになろうとしていたんだ。我々に、自分の誕生日を祝わせるためにな」
「誕生日? サルカズがそんなもの気にしてたの?」
「まさか。いくら奴が奇人とはいえ、そこまで変なことはしないさ」
サルカズに、誕生日を祝う習慣はない。
彼が言う誕生日とは、ラテラーノ人を殺して銃を手に入れた日のことだ。ただし、その詳しい顛末をヘドリーは聞かされているわけではない。
生きていれば、聞くことができたのかもしれない。どんなくだらない話でも、聞いておけばよかったと思った。
同じように、ヘドリーの目の前にいるWも「ラテラーノ人を狩って楽しむ傭兵なら、生きていれば仲良くなれたかもしれない」などと、嘯いた。
「サルカズとラテラーノには、長きに渡る確執があるとはいえ……」
一般的な価値観と、歴史認識に基づいた、型通りのつまらない返答をしようとしたヘドリーは、しかしそこで言葉を止めた。
この女は今、なんと言った?
「楽しむ、だと?」
「違うの? 少なくとも、あたしは楽しんでいるわよ」
この女に、Wの代わりが務まるのか。
ヘドリーはずっと疑問だった。だが、彼女は今、彼と同じことを言った。
「そうか」
ならば彼女には、やはりWを名乗る資格があるのだろう。
「Wも、楽しんでいた」
絶望しか残されていない、この大地で。
命が何の意味もなく使い潰されていく、戦場で。
彼はいつもあっけらかんと笑いながら、裏があるような含みのある口調で人を欺いて、そのくせ誰よりも人を信じやすかった。
「なんか、ただの馬鹿みたいだけど。まぁわかったわ」
「ああ、お前にはよくわかるだろう」
ヘドリーは笑った。生前、隣に立つ相棒がそうしたように。
「お前達は、似た者同士だからな。偽装に秀で、自信があり、自分の思うままに動く」
「あたしが?」
はじめて。
ヘドリーの隣に立つ彼女は、言葉を紡ぐのをやめて、口を閉ざした。
「……」
その沈黙の中に、何があるのか。ヘドリーは知らない。知ろうとも思わない。
傭兵の戦争に、終わりはない。
彼女が彼の名前を引き継ぐのであれば、心を麻痺させてはならない。
彼のように存ることを望むのであれば、心を殺すことは許されない。
狂ってはならない。狂人に成り果ててはならない。
なぜならそれは、彼が最も大切にしたもの。己という存在への執着の喪失に他ならない。
だから、
「フフッ」
やはり、彼女は笑う。
ヘドリーは、はじめて彼女のそんな表情を見た。
──彼と同じ笑顔だった。
闇夜を生きる命に、区別はない。
戦場で語る名に、意味などないのかもしれない。
それでも。
この日から、WはWになった。