今この推敲してる時は、熱出してくたばってます。コロナくんじゃねぇけど辛い。
アウラ・イェーガーは、ジーク・イェーガーの3つ歳の離れた妹である。
まだジーク少年が物心付いたばかりの頃、母に抱かれた妹の姿を今でもハッキリと覚えている。真っ赤な顔をしわくちゃにさせ大泣きする赤ん坊は、本で見た「サル」という生き物そっくりで。
少年が母親に促されおずおずと手を伸ばして頭を撫でれば、まだ薄い髪は柔らかかった。頰を触れば、フニフニしている。やめられなくなった突っつきの手を止めたのは、小さな手。少年の人差し指を握る赤子の手の小ささよ。
「あら、お兄ちゃんが触ったら泣き止んじゃったわね」
微笑ましげにそう呟く母親。両親とも似つかない赤児の灰色の瞳は、真っ直ぐにジークを見つめる。
妙な緊張感に少年がゴクリ、と喉を鳴らしたその時。
「あぅぁ」
先まで大泣きしていたのが嘘のように、笑った。美人な母親に似た──「綺麗」というよりは、「愛らしい」という表現が正しい──顔が、キャッキャと声を上げる。
少年はその瞬間、この妹を、アウラ・イェーガーを守ろうと誓った。
それは兄として、初めて彼の中で芽生えた感情であった。
⚪︎⚪︎⚪︎
それから時は数年流れる。
三歳になったばかりのアウラは、未だ言葉が喋れなかった。容姿は母親に似て愛らしく、しかし髪色は父親に似た。背中まである長い髪を撫でてやることが、戦士を目指す訓練を始めたばかりの少年の休息の場でもあった。
「アウラ、一緒に遊ぼう」
「あーぅ」
言葉はおろか、少女はまだ立つこともままならない。
そのため両親はアウラに付きっきりなことが多く、ジークは寂しい思いをすることがよくあった。何かに付け「お兄ちゃんだから」と言われるたび、育つ心のしこり。
「あう、あい」
それでも、四つんばいで懸命に這いながら兄の元へ来ようとする妹のことを、嫌いになれるはずもなく。
少女の屈託のない微笑みが自分に向けられることに、少年の心は救われていた。
マーレへの“スパイ”として育てるため、父グリシャと母ダイナによる物心つく前から行われた洗脳教育。「エルディアの誇り」を抱かせつつ、敵であるマーレに忠誠を誓うよう教育を受けたジークはこの時すでに、のしかかる重圧に心が悲鳴を上げていた。
「アウラ…僕、頑張るから」
「あぅ」
ジークは、妹を抱きしめる。
普通の子供とは違い、発達が著しく遅れている妹。グリシャはこれが“障害”であるとし、一定以上の成長は難しいと判断していた。医者ゆえにその事実が誰よりわかっているからこそ、父親は娘に過剰に愛情を注いでいるのだろう。
「お前も、かわいそうだね」
外に出してもらえない妹。壁の中に囲われているエルディア人よりももっと狭い世界しか、この妹は知らない。しかし、知らない方がきっと幸せなこともある。蓋を開けてみれば自分たちがマーレ人に虐げられていて、その上この世界には戦争しかないことを知ったら、妹は何を思うのだろうか。そんなことを考えることすら、アウラはできないのだろうが。
「大丈夫……僕が、守ってあげるから」
何もできない妹────。
両親の愛情の比重がアウラにばかり向き、そして“使命”と称し両親に洗脳教育を受けてきたジークの精神は、歪み始めていた。
自分よりも劣っている存在がいる。そう考えることで、少年は崩れそうな心の均衡を保っていた。
しかし数ヶ月後、妹は高熱を出して以降、急速に成長を見せることになる。
グリシャは「奇跡だ」と喜んだ。その言葉の中には同時に、死の淵から生還した意味合いも含む。
ダイナもジークが見たことがないほど泣いた。そして「おかーた」と呼んだ娘を抱きしめた。
ならジーク少年は、この時どんな心境であったのか。
心の逃げ場として無意識に使っていた妹。何もできなかった妹が、急速に
羨ましい、と思った。憎くも感じたし、「そのままでいればよかったのに」とも思った。
しかし決して死んで欲しいとは思わなかった。彼は、妹が好きだったから。兄に積極的に突進し、そして言葉にならなくても笑いかけるその姿が、ひどく愛おしかったから。
────おにーた…?
何より高熱ながら、声をかけたジークに向けた妹のその言葉が、微笑む表情が、心に残っているから。
少年はアウラ・イェーガーの「おにーたん」だ。少女が成長しても、それは変わらない。むしろ成長した妹が無闇に傷つかないように、
両親のために、己の“使命”のために────そして、妹のために。
少年はまた一つ、重荷を背負った。
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ジークはより一層努力した。自分にかかる重圧に耐えながら、訓練に勤しんだ。
成績の悪い己。ならば常人以上に練習をしなければならない。戦士を目指す子供たちを教育するマガトも、「またイェーガーか」とため息を吐きながら、内心では応援していた。だが同時に、危うさも感じていたのである。
何かに取り憑かれたように練習に明け暮れる少年の姿は、もはや狂気的ですらあったのだ。
────ジーク、今日はアウラがお兄ちゃんのために、夕食作りを手伝ったのよ。
母が嬉しそうに言う。妹の頑張りに対して浮かべる表情であって、彼に向くものではない。訓練を頑張ったこと以外でジーク自身にそのような笑みが向けられたのは、いったいいつ頃だったろうか。上手く思い出せない。
────ジークも見たかい、さっきアウラが走っていただろう?今日私が帰ってきた時も、家の中で元気に走り回っていたんだ。…心配だなぁ。
父が眉を下げて語る。自力で歩けるようになり、あっという間に走り回れるようになった娘の成長を見つめ、心配そうに見つめる。ジークの努力は妹の成長の前になると、途端に霞となって消えてしまう。
ならもっと、努力すれば自分を見てもらえる。褒めて、頭を撫でてくれるはずだ。
────容姿はあまり似ていないけど、あの元気さは子供の頃のフェイにそっくりだ。
そう語っていた祖父に、瞳を細めて小さく頷いていた祖母。
彼らは孫息子を労ってくれたが、それ以上に孫娘を目にかけている様子だった。
ジークは少しずつ、でも着実に、追い込まれていった。
彼が喉から欲しているものは両親からの“愛”に他ならない。まだ6歳の子供であれば例えエルディア人であれど、親から与えられて当然のものである。
思い出すのは焦りが失敗を生み、成績が思ったように上がらない中、見かけたボール遊びをするエルディア人の親子の姿。彼と年の近い子供が父のボールをキャッチし、父に「よくできた」と褒められる。
己でもわからない暗い濁流が、その身の中で渦巻くのを少年は感じた。
後日成績が悪くマガトから叱責を受けた彼は、その日ばかりは残って練習をする気力がなく、早めの帰宅となった。
「おーい、そこの君!そのボールを投げてくれないか?」
そしてジーク少年は彼の運命を大きく変えるトム・クサヴァー、────マーレの戦士であり“獣の巨人”の力を有する人物と出会うことになる。
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クサヴァーと出会い、束の間のキャッチボールを楽しんだジーク。
血の繋がりはない。しかし本当の親子のように過ごした時間は、彼にとってかけがえのないものとなった。
だが一歩足を踏み出せば、待っているのは非情な現実。
すっかり暗くなり帰った彼を待っていたのは、両親と、エルディア復権を目指す二人の仲間である男の会話。家の中から微かに漏れる明かりが少年を照らす中、その内容を扉の前に立ち聞いてしまったジークは、一歩上った階段から後ろへ突き飛ばされたかのような心境に至る。
彼らが小声で話していたのは、ジークがマーレの戦士になれるか否かについて。仲間の男は少年が本当に戦士になれるのか、懐疑的な様子だった。
(僕が、いらなくなる?)
戦士になれなければ、両親の期待に応えられなければ、自分が存在する理由がなくなってしまう。
ジークは恐れた。呆然と扉の前で立ちすくんでいた彼が正気に戻ったのは、息子が帰ってきていたのを気づいたグリシャたちの足音が近づいてきた時。
六つの驚きと困惑を混ぜた目が、彼を見つめる。
「ごめんな、さい…」
直後、父に肩を掴まれ涙ながらに言われる。ジークならできる、と信じて疑わない──否、父親の
この時母に寝かしつけられ、夢の国の住人になっていた
この一件もあり、ジークはマーレの公開訓練を受けることにした。両親にしっかりした成績を収める自身の姿を見せ、同時にマーレへの忠誠を軍に示す意図だ。
だが結果は散々なものであった。両親は途中で見学をやめ、マガトにはいつも以上に辛い罵声を浴びせられる。
そして何より、来ると思っていなかったはずの妹が自身を見つめていたという事実。
薄いグレーの瞳をまん丸にして、妹はただジークを見つめていた。父に抱かれながら遠ざかっていっても尚、その瞳が彼から外れることはなく。両親の絶望した表情とは違う、目以外は作り物のように無表情だったその顔がどこか不気味で。けれどやはり、愛らしかった。
縦え両親や祖父母が彼を視界に入れることはなくても、いつだって妹だけは兄を見ている。きっと彼が訓練で活躍していれば、嬉しそうに微笑んでいたかもしれない。無様な姿を見せてしまった。
さまざまな感情が、公開訓練の終わったジークの内側には残っていた。
それでも、────それでも。
彼は
他人に課せられた“使命”を背負い、または自分で背負った重荷を持って進まなければならない。そこにジークの意思があるのかと問われれば、難しいところだ。
所詮アウラの兄であることも、両親から妹が生まれてきた時から「お兄ちゃん」と言われ続けてきたが故の感情かもしれない。
だがやはり彼が、────ジーク・イェーガーがアウラ・イェーガーの“兄”であり、
少年は妹の小さな手に握られた時から「兄」で、その手を振り払おうとは思わない。
「わたちも、“せんし”になる!」
妹が、そう言うまでは。
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公開訓練が終わり、夜もすっかり深まってから自宅に着いたジーク。鬱々とした気持ちながら扉を開ければ、何やら騒がしい室内。家に入れば両親は夕食も途中で床を転げ回り、大泣きしている娘に戸惑っていた。これが別名、「ギャン泣きクソ幼女」である。
「ど、どうしたのアウラ!?」
「やだやだ───ッ!!!」
「あ、お帰りジーク。あの、えっとね…」
息子が帰ってきたことにようやく気がつく母。それも仕方ないだろう。拡声器でも使ったように、室内は少女の声で鬼騒音状態なのだから。
「わたちもおにーたんとおなじ“せんし”になる!!!」
「え……?」
ジークは固まった。戦士にアウラがなる?
いや、意味はわかる。そして両親が困り果てている理由もわかった。
ただアウラにはいずれ、フリッツの血を残す、という使命がある。女が家を守り男が働くのは、例外もあるが一般的な考えだ。
ひとまず今日の兄の訓練を見て、妹は何か思うことがあったらしい。幼い子供の気持ちを測るのは難しいものの、「兄の力になりたい」とでも思ったのだろう。
「おにーた、いいでしょ?おにーたのために、わたちがんばりたい!」
立ち上がった妹が、ジークに突っ込んでくる。体の制御がうまくいかず、そのまま尻餅をつく形で倒れ込んだ彼は、灰色を覗かす妹の瞳をじっと見た。散々泣きじゃくったのか、顔は真っ赤で目元は腫れている。
「……ダメ」
「なんで?わたち、おにーたのために……」
「ダメだよ!!」
だってアウラには、子を残す役割がある。戦士になりエルディア復権を目指す役目はジークのものだ。
それを妹が背負っていいわけがない。傷つくに決まっている。死んでしまう可能性だってあるんだ。
……いや、それは建前だ。
別に逆の立場でも問題はない。エルディア復権を成し遂げられる力が妹にあるのなら、彼がフリッツの血を繋ぐ立場でもいい。しかしそれを受け入れられるか否かでは、話が違ってくる。
戦士になろうとする妹は、少年からすれば両親から与えられた“使命”という彼の
事実ジークはそのような感情を抱いてしまっている。
そしてその感情は、今まで溜まっていた妹が家族の中心だった不満も相まって爆発する。
愛されない自分に、愛される妹。いつだって苦しいのは彼で、妹は両親に囲まれながら楽しそうに笑っていた。
同じ腹の中で生まれたにも関わらず、背負う運命がこうも大きく違うのは残酷でしかない。
────そうだ、少年は知っていたはずだ。
戦争ばかりのこの世界。ある人種は、別の人種に虐げられ生活を余儀なくされる世界。一方は両親から愛をもらえるにも関わらず、もう一方は愛をもらうことができない。
不平等で、残酷な世界だ。
バチン、と乾いた音が鳴る。
ジークは今、自分がどんな顔をしているかわからなかった。ただ頭が沸騰したように熱く、視界はぐちゃぐちゃでろくに見えない。
手のひらがジワジワ痛みだし、そこでようやく彼は妹を叩いてしまったことに気づいた。咄嗟に衝撃で後ろに転がった妹を見れば、叩かれた頬を押さえて瞳を丸くしている。
「……あ」
呆然としたままの妹を見、彼は声にならない声を上げた。
「アウラ、大丈夫!?」
「急に何をするんだ、ジーク!!」
一瞬遅れて両親が駆け寄ったのは、妹の方。ジークは痺れる手を見つめ、立ち上がり逃げ出すように家を出た。
途方もない感情の濁流が、ひっきりなしに脳内に流れ込む。そうして走り続け、暗い路地裏で膝を抱えた。
「僕は……いらないんだよ、クサヴァーさん…」
静かに涙を溢す少年を照らすのは、淡く輝く月夜だけであった。