A.大丈夫じゃない。
ウォール・マリア奪還作戦から一年後。
パラディ島の巨人はすべて掃討され、ウォール・マリアへの入植許可が出されるとともに、およそ六年ぶりの壁外調査が行われた。
そして調査兵団は地平線まで広がる青い世界を、────“海”を知る。
また同年、マーレから送られてきた第一次調査船団がパラディ島へ到着する。
その中にいたのが、ジーク・イェーガーの協力者である「反マーレ義勇兵」。
偶然船団と鉢合わせた調査兵団は、エレンの巨人の力を使い船を陸へ上げ、一部のマーレ兵を人質に取り話し合いを求めた。しかしそれは失敗に終わり、本格的な戦闘になりかけた。
その時組織のまとめ役である「イェレナ」ら、義勇兵の裏切りによって、残りのマーレ兵は拘束された。
そして義勇兵らは、ジークの目的が「
なぜ戦士長たる男が祖国を裏切るようなマネをするのかと問われれば、彼が父グリシャ・イェーガーの意志を継いだ
この計画において、必要となるのは《始祖の巨人》と王家の血を継ぐ巨人の二つ。
パラディ島を守るため、“抑止力”として「地ならし」の方法が打ち出されたのだ。
そして女王やザックレー総統、三兵団のトップを揃えて話し合いが行われることになった。
ジーク・イェーガーと言えば《獣の巨人》であり、ラガコ村の一件を引き起こした張本人とされている。
当然そんな男を信じられる者は少なく、同様に義勇兵らに不信をいだく者が後を絶たない。
だが今の文化・文明の遅れた壁内人類にとって、義勇兵らが提供せんとする世界事情や技術は、あまりにも目から鱗の話であった。
ジークの要求は王家であり《獣の巨人》の継承者である自分を亡命させ、《始祖の巨人》を持つエレンを引き合わせること。
対価としてパラディ島の安全の保障や、上記でも述べた武器や最新技術の提供。
さらに、エルディア友好国であるヒィズル国の橋渡しやマーレの情報工作の支援など、多くの恩恵をパラディ島は受けることができる。
ジークの計画が本当であるかどうか、信頼に足りるかどうか、肯定する者は中々現れない。
ただこれからも続々と調査船が来る以上、エレンがワッショイした船の無線機が必要となる。
それを操作できるのは捕虜にしたマーレ兵を除いて、義勇兵のみだ。
今回最初の調査船団を止められたのは本当に偶然である。次からいつ、どのタイミングで現れるかわからない調査船を待ち受けるとなると、かなり難しい。
ずっと港周辺で、スタンバってました(ヅラ感)をするわけにもいかない。
また、もし仮に「地ならし」の件が可能だとして、問題となるのは今後のパラディ島について。
仮に地ならしを行ったとして、その効果がどれだけ続くかわからない。
パラディ島の継続した安全性を考えるなら、ジークの寿命が短いと考えられる以上、その代わりに白羽の矢が立つとすればヒストリア。彼女の存在が必須となる。
これまでのレイス家のように、親から子へと巨人の力を継承させていくのか。それも十三年の期限付きで。
ヒストリアと同期だった104期生からすると、酷な話である。
女王と同様に王家の血を継ぐアウラ・イェーガーの存在もあったが、それについては交渉の中に入っていなかった。
ハンジらが事前にイェレナに尋ねたが、ジークの信奉者らしき彼女は眉間に皺を寄せ、調査兵団の裏切り者たるアウラが介入すると交渉の軋轢を生む可能性があるため、その身柄も含めて計画には関わっていないことを明かした。
果たしてそのイェレナの反応が、アウラ・イェーガーが始祖ユミルの「寵愛の子」であることを知った上で、有用な手駒となるため隠しているのか──。
それとも単純にアウラがジークに打ち明けていないのか──判断がつかなかった。
それに思いきって、真意を確かめたハンジ団長。
右にリヴァイが座り、左に腕を組んで仁王立ちしながら事の様子を見守るミケに挟まれ、紅茶を啜るイェレナを見やった。
結果、話を聞いたイェレナの反応は驚愕、といった様子。彼女の隣にいた、同じ義勇兵のオニャンコポンは咽せていたほど。
アウラが兄にも「寵愛の子」の件を話していないことは、百パーセントでないにしろ、一定の確信が持てた。
まぁ、一度巨人化した母親の腹の中から出てきたと知れれば、
そして「寵愛」の件を受けて、ウォール・マリア陥落当時。彼女がマリア内を重傷で移動したことにも一つ、仮説が立てられた。
それは一度だけでなく、二度───あるいはそれ以上に、アウラが始祖ユミルによって復活させられている、というもの。
これは超大型を継承したアルミンが前継承者のベルトルトの記憶の一部を見たことで分かったことであるが、アウラは一度ベルトルトとアニに遭遇している。それも、壁の上で。
その時のケガの様子から、到底マリア内を単騎で移動するのは不可能に近い、と判断されたのだ。
またベルトルトがアニの身を案じ、彼女に協力を打ち出した時の記憶も一部、アルミンは見た。
兄を、ジークを愛する女の姿。
それはエレンに見せた愛情の比ではなく、ドロドロと全てを溶かす酸のような──存在が許されぬ「愛」の姿。
狂った愛、と言ってよいだろう。
即ち、「狂愛」。
そんな女を好きだったアルミンは鬱屈とした気持ちに追いやられ、エレンの内心の方はもはや想像もできなかった。
ウォール・マリア奪還作戦以来、無自覚シスコンだった少年の姿は消えて、一切姉の話題を口にすることは無くなったのだから。
エレンの心のネジが取れて、そこからドロドロとした感情が漏れていることにアルミンは気づきつつ、具体的な解決策を見出せずにいた。
結局壁内人類は、有用すぎる条件を前にして、呑むことしかできなかった。ただ相手の腹の底が知れない以上、完全に信頼はできない。無論信用も。
ゆえに表面上は友好をみせ、警戒を怠らぬ形で交渉はまとまった。
ただし向こうの意図はともかく、ジークだけでなくアウラも確保する形で。
始祖ユミルに寵愛されし王家の子。今後の展開において、何かキーになる可能性は十分にあった。
特異な存在であるとわかりながらマーレに置いておくのは危険である。
一度裏切った人間を回収するというのは、中々複雑な心境であるが。
アルミンが荒唐無稽であるとしつつ、エレンが
それから無線機を使って第二、第三の調査船団の兵士を無事に捕え、時が経ち、翌年パラディ島に港が完成し、ヒィズル国の特使であるキヨミ・アズマビトが訪れた。
そこで東洋の血を引くミカサの体にある刺青から、彼女がヒィズルの忘れ形見である将軍家の末裔であることも判明しつつ、キヨミはジークの「三つの秘策」を持ち出した。
一つ目は「地鳴らし」を実験的に行い、その脅威を世界に知らしめること。
二つ目はヒィズル国が介入し、パラディ島の軍事力を世界レベルに引き上げること。
そして最後が《始祖の巨人》と、王家の血を引く巨人の二つの持続的な維持。
まずキヨミがパラディ島に訪れたのはジークの介入があったからであり、両者間で事前に話が行われている。
アズマビトの金の匂いに敏感な部分を利用し、ジークはパラディ島の地下に眠る莫大な「氷瀑石」と呼ばれる資源と、ミカサの存在を持ち出してキヨミと取引を結んだのだ。
ミカサの情報については、彼女が「アッカーマン家」ということもあり調べられた中、東洋の血を引く点とかつて将軍家の末裔が巨人大戦の混乱の中、壁内に置き去りにされてしまった事実を踏まえて、将軍家の可能性を見出したと思われる。
もちろん絶対な話ではない。あくまで可能性がある──というだけだ。
そしてやはりと言うべきか、ジークの《獣の巨人》を継承する話がヒストリアにきた。
王家の血を引く彼女は十三年の任期を終えるまで、可能な限り子を産む。
なぜ、ヒストリアなのか。
それは別段、妹でもよいはずだ。
その理由にあるのが、アウラ・イェーガーが子を残すように幼い頃から告げられていた点である。
イェレナ曰く、ジークがそれとなく聞いた限りでは彼女に“子を残す意思”はない。
それは周囲が認める美貌を持ちながらついぞ彼女が恋人を作らなかったことを挙げると、一つの裏付けになる。
だからといって、ヒストリアのみにその重責を押し付けるのはどうなのか。女王はその運命を受け入れたが、簡単に首肯できない者も多い。
もし壁内に連れてきたアウラが協力を受け入れるなら、獣の継承の話は彼女に回る可能性もある。無論無理やり…ということはない。
(一部の過激派を除いて)その多くはいくら裏切り者といえど、非人道的な行いを強いるつもりはない。それにした場合、彼女を寵愛する始祖様がどのような反応をするか、想像にできない。
それを言い出したらなぜ彼女はユミルに愛されているのか──と、疑問の沼にズブズブと浸かってしまう。
そもそも計画に加わっていないというが、ジークは妹に計画を話したのか。残る疑問は多かった。
それでも人類は明日へ向けて進むしかなかった。
生きるためには、前へ進撃する他なかった。
それからさらに翌年。港に続き鉄道の開発が進む一方で、アズマビト家と貿易交渉がうまく行かず、アズマビト家を介して他国と貿易を図る策は見送られることになった。
そのためハンジはマーレに拠点を作る作戦を見出し、潜入調査が計画された。
姉の裏切りから三年。その間、瞳から光を失うことが増えたエレンに寄り添ったのは、ミカサ。
少女におせっかいを焼かれれば「やめろよ!」と怒っていた少年の姿はなく、世話を焼くミカサの言動を受け入れるがままのことが増えた。この変化にジャン以外は「おおっ…?」といった反応である。
いよいよ鈍感ボーイもミカサの家族愛ではない感情や、エレン自身の感情に気づいたのか。
ともかく、二人の間で一つの転換点を迎えたのは周囲も気づいていた。
この時期どこかの金髪蒼目の少女が、変態美女よりもこちらを熱く観戦していたかもしれない。神のみぞ知る。
そして、鉄道もようやく完成した頃。
イェレナとの密会を経て、進撃する少年の一歩は仲間から大きく外れる。
鮮やかな翡翠を失った、その闇を含んだ瞳は何を見つめるのか。
少年をこっそり眺める始祖様はそんな表情を見るたび、自分でもわからぬ
変態女の歯牙が、いよいよ彼女に及んできてしまった瞬間である。合掌。
⚪︎⚪︎⚪︎
「まず前提として、ここには盗聴器…音や声をこっそり聞ける機械とかはないから、安心して」
そう言い、ベンチに誘導した少年を隣に座らせるアウラ。
弟の方がわずかに低かった身長は、今やエレンの方が高い。
元より兵士にも関わらず華奢だった女の体は服の下からでもわかる、より細くなっている。列車用のレールを数本かつげるミカサと比べれば天と地の差だ。
突如現れた弟を前にして、姉は取り乱した様子はない。しかしエレンの登場を予期していたわけではないだろう。
まだ少年はジークにはおろか、自身がマーレにいることを仲間にも伝えていないのだから。
彼は視察に訪れた調査兵団に何も告げず行方をくらまし、単独行動のままマーレに留まり潜伏している。
「老けたね。まだ19でしょ?四年どころか十年以上経ってしまった気分だよ」
久しぶりの弟の再会ゆえか、嬉しそうに語るアウラ。その内に何を思っているのかエレンは理解できず、姉もまた、すっかり闇に染まった弟の内心を量りあぐねている。
また、まだジークと接触していないことについても。
「私がここで働いているのは知っていたの?」
「いや。祖父がいるとは思っていた」
「あぁ、なるほど。お祖父さまはレベリオ区の診療医だからね。見当としてはここになるか。それでミカサちゃんとは結婚した?」
「………」
「何だい、ツレないな。前のエレンくんだったらツンツンしながら、デレっとしてくれたのに」
グッピーも逃げ出す二人の温度差。弟は終始無機質な声のトーンである。
ここに三人兄弟の兄が召喚されれば、空気に耐えきれず胃を押さえて、その姿が妹のオカズになるだろう。
「まぁその歳になって、自分の感情に気づかない愚かな弟だとは思わないからね。ミカサちゃんの件は流そうか。ジーク・イェーガーを連れて行こうとしているということはつまり、義勇兵はしっかり仕事をしたんだね」
「お前はどこまで聞かされているんだ」
「お前、か……。兄さんからエルディア人の救済計画については聞いたよ」
「
「…と言っても、それじゃないってなったら、「
計画については全貌を知っているのみで、関わってはいない──と続けるアウラ。
反応のないエレンは「そうか」とだけ呟いて、姉の、白銅色の瞳を見つめた。
「なぜ、調査兵団を裏切った」
オレを、とは言わない少年。アウラの口角は下がり、瞳を伏せて沈黙する。
そして「兄のため」と返した。
「私は兄さんに、会いたかった」
「それが理由か」
「えぇ。兄さんに会いたくて、兄さんに殺されたくて、兄さんに愛されたくて、兄さんと一緒になりたくて、私は兄さんで構成されていて、兄さんしか目が入らない。私の世界に区別があるとしたら、“兄”と“その他”。その二つに分けられる。エレンくんは後者よ」
「…そうか」
「お父さまの本は見たのでしょう?なら私の家族への固執────延いてはお兄さまへの執着も、書かれていたんじゃない?」
「全部知ってたんだな。壁外のことも、巨人のことも」
「概ねは、ね。十年以上いなかったツケというのは大きくて、マーレに来てから知識を付けるのは大変だったけれど、同時に面白くもあったわ」
「あの日、ウォール・マリアの奪還作戦の時、どうやって現れた」
「……うん。まぁ、その話になるよねぇ」
アウラとしては、マーレには私兵を作って逃げる時に協力させた──と話している。
だが当然、壁内で彼女の協力者がいないことはわかっているはず。
ゆえに持ち合わせる解答がない。矛盾点が露見し、事が大きくなる前には死ねる算段だったが、エレンの予期せぬ登場により、今「why?」の部分が突きつけられている。
弟の死んだ表情を見ると、イェレナは彼女の思惑通り上手くやってくれたのは確かだ。
アウラがイェレナに頼んだのは至極シンプルなもので、壁内にいる間それとなくエレンに姉がジークと幸せそうに暮らしている──というような内容を、伝えてほしい、というものだった。
そのため敢えてイェレナとアウラの二人はジークの事で、互いに嫌悪し合う間柄とした。
一方は信奉者で、一方はブラコン女。
そうすればアウラの話が出た時、イェレナなら「ジークにベタベタしているブラコン野郎」、アウラなら「兄にベタベタするアバ◯レ女」────という風に、話すことができる。さらにアウラの企みも、イェレナを通してバレにくくなる。
イェレナの演技力を見抜いた上での、アウラの頼みだった。
そして弟を差し置いて、しかも人類を裏切った中で兄と楽しく過ごしている妹の図というのは、当然弟には憎々しく映るだろう。
それをアウラは狙った。
全ては、最高の最期を迎えるために。
黒い感情を抑えきれなくなった愛しい弟が、姉と再会した後に、激情に任せて殺すよう仕向けるために。
もちろん激情を誘うためなら、彼女は
死ぬ舞台は無論主役であるジークがいなくては始まらない。
兄を前に殺され、弟によって殺される。
どんな表情を兄は浮かべてくれるのか。弟はどれほどの激情を見せて自身を殺すのか。想像するだけで変態は脳内絶頂をキメる。
だが弟の出会いとは突然で、兄の居ない間に出会ってしまった。予想外の事態である。流石にこの場で殺されては元も子もない。
「────ユミル」
それにアウラは、瞳を見開く。
「私が王家の人間であることはバレていると思っていたけど、どうしてユミル・フリッツの名前が出るの?」
「とぼけるな。始祖ユミルの「
「………お父さまの、記述にあったのか」
「母親の腹から再び生まれた寵愛の子。それがアウラ・イェーガー、26歳」
「何で年齢を言うのよ」
「26歳」
「お黙りなさい、老け顔小僧」
また可能性として立てられていたウォール・マリア陥落時の仮説について聞かれた姉は、存外簡単に認める。
「もう隠しても仕方ないことだものね。戦士が来たなら、お兄さまも来たと思ったのだけれどいなくてね。美味しく巨人の皆さんにいただかれたわ。復活……?というか目覚めたのはそれからしばらく後で、お母さまの時と同じように巨人のお腹から出てきた。ここら辺は神のさじ加減というか、私も図りあぐねている部分ではある。アニの時も少し手順は複雑になるけど、エルディア人が繋がる“道”のようなものを通って、気づいたらマリア内に居た」
「なぜアニも一緒に行った?」
「マーレに行くにも何の土産もなしじゃ、遅かれ早かれ「楽園送り」から帰ってきた異例の、それもパラディ島育ちの兵士なんて殺されていたからね。始祖ユミルの粋な計らい、とでも言えばいいのかしら」
「………」
「何て言えばいいのかな……エレンくんだけでなく調査兵団も、「何でユミルがお前に寵愛を?」って感想なのだろうね。例えるなら彼女は私で、私は彼女なの」
「……は?」
「見れば一目瞭然だよ。ユミルは私とそっくりなんだ。驚くくらいにね。初めて会ったのはお母さまに食べられて、意識を失った後。それからはたまに夢の中に現れた。私は“血”の繋がりとは別に、同じ容姿を持つ娘だから彼女がエコ贔屓しているんじゃないかと考えている」
「………」
熟考し始めたエレンの長い沈黙が続き、それに耐えかねたアウラが洗濯物を取り込もうとした矢先、立とうとした彼女の膝が重くなった。
太ももに置かれた弟の手が、これ見よがしに圧力をかけている。
「エレンくんのえっち♡」の言葉には流石に、絶対零度のヒスイ光線が女に突き刺さった。
「ユミルの……生まれ変わり?」
「そこは私もわからないから、ご想像にお任せするしかない。ただ「寵愛」の事実はホンモノ。…で、そんな寵愛の子をパラディ島の人たちはどうするつもりなのかしら?」
「持ち帰る」
「ふふ、そう。複雑だね、裏切り者を回収しなくちゃいけないなんて」
「ジークは知っているのか、寵愛のことを」
「知らないわよ。教えたら
「………」
「大丈夫よエレンくん。あなたも私の、家族だから」
ゆっくりと弧を描く口角。微笑んだ女の口元は柔らかい楕円を描き、慈悲を覗かせた瞳で弟を見た。
愛情をたっぷりと染み込ませて、弟の傷口に塩を塗る。さらにキズが悪化するように。
「…ジークの計画も、ユミルを通せばすぐに叶いそうだな」
「叶うでしょうね」
「兄が好きなら、どうして計画を実行に移さない?」
「移さないわ。だってお兄さまの意思を私は肯定して協力もしたいけど、兄の目的=私の目的ではないもの。それに自分の足でこの地獄を突き進まない者に、褒美を受ける資格はない」
「進む……か」
「エレンくんも進んでいる。ジークお兄さまも進んでいる。私も進んでいる。みなそれぞれ己の指針に沿って進んでいる。時に衝突しながらも。動かない者はずっと、止まったままなのよ」
「……オレは」
──────どうして、進んでいるのか。
わからない、とエレンは言う。
「“自由”のため、でしょう?」
「あぁ、自由になりたい。だからオレは進み続けている。でもわからない」
「壁が壊されたその日から──いや、その前からエレン・イェーガーは巨人の
「親父はオレに脊髄液を注射する時に、「進みなさい、エレン」と言った。なぜ、言ったんだ?継承したのが《
「じゃあ誰の意思だっていうの?」
「…ユミル・フリッツ。それか、お前」
「私の全ては兄だ、って言ったじゃん。そうなるとエレンくんの行き着く場所も“自由”じゃなくて、ジーク・イェーガーになっちゃうよ」
「じゃあ始祖ユミルなのか?」
「さぁ、私に聞かれてもわからないよ。「私」は
不意にアウラの膝に圧力をかけていた手が離れ、ベンチに置かれていた彼女の手の上に重ねられた。
熱い体温に一瞬引っ込みかけた彼女の手は、そのまま掴まり手を繋ぐ。
相変わらず、その犯人の無表情は変わらない。ユミルを相手にでもしている気分だ。
「冷たいな」
「女性は男性より体温が低いらしいよ」
「冷たいけど死体じゃないんだな」
「生きているからね」
「死体なら、よかったのにな」
「随分と、怖いことをいう弟だねぇ」
「ヒストリアに触れた時だ」
「うん?」
元「対人制圧部隊」に捕まりヒストリアとロッドに触れられた時、エレンは父親の記憶の一部を見た。
王家の血とは一種の“鍵”のような役目を果たしているのか、接触した場合巨人化能力者の“錠”が緩みやすくなる傾向が強いらしい。
ただそれとはまったく別口で、アルミンもベルトルトの記憶の一部を見た。
そのためか今のアルミンは、初恋拗らせミンから、アニ拗らせミンに進化している。ベルトルトが彼女に想いを寄せていた影響だろう。
話を戻して、エレンがレイス親子に触れられた時に記憶の扉が開いたのは、“王家の血筋”が関係しているのだろう──ということは、既に分かっているわけで。
それが正しいならば、エレンはなぜ始祖を持っている間に姉に触れた時、何も起こらなかったのだろうか。
それは巨人の力に目覚めなかった「五年」の時を含め、一つの疑問を残している。
開拓地で重労働をした中、ケガをしたことは何度もあった。訓練兵時代もだ。意図的にケガを留めておける方法を知らなかったにも関わらず、彼のキズが急速に治る──なんて、人間離れしたことはなかった。
仮に訓練兵時代ライナーらにバレていれば、その時点でエレンは捕まっていただろう。
その不可思議な点や、王家の血を引く姉に触れてもヒストリアと違って何も起きない点。
何なら父親の記憶を覗いたのは一回きりで、アルミンのように何度も前継承者の記憶を見ていない。
人によってバラつきがあるのかもしれないが、まるで
それこそ始祖ユミルの介入────そして、彼女が寵愛するアウラ・イェーガーの意思が絡んでいるのではないか、と。
「人を黒幕扱いしちゃうんだ。血も涙もない弟だ」
「ジークの内容が正しいとして、王家の血を継ぐ巨人と接触していないオレが一時的に始祖の力を使えたのも、お前の仕業なんじゃないのか」
「……私はそんな大それたことはできないよ。「
「じゃあ何ができる」
「人を誑かすのは上手だよ?」
「何をしたいんだ、お前は」
「私の目的は兄さんと一緒にいる時点で叶っているようなものよ」
「…裏切った壁の人類には、仲間には、何も抱いていないのか」
「申し訳ないとは思っている。最初の頃は結構引きずっていたよ。調査兵団のこと、お世話になった人のこと、エレンくんのことだって考えていた」
「……オレはお前に…
「愛」されて、いたのだろうか────。
無機質だった表情の中にその一瞬、エレンの感情が浮上する。
ずっと抱え続けていた感情。ずっと姉が兄を追いかけ続けていたとわかってしまった時、少年に笑いかけていた姉の像にはヒビが入って、粉々に砕けてしまった。
そして散らばったガラスの中を素足のまま歩き、体をボロボロに傷つけ、身も心も至るところから出血し始めた。
その傷を止めようとアルミンやジャンたちがフォローする中で、誰よりも親身になって接したのがミカサである。
仲間がいなければ今エレンはどうなっていたのか、想像すらできない。否、想像もしたくない。
「愛していたと私が言って、エレンは信じられるのか?」
「…わからねェ」
「自分の心を紛らわすためにウソでもいいから聞きたいっていうのなら、やめておきなよ」
「……それが、答えか」
「バカだね。まだ話の途中だから」
「でもジークが一番なんだろ」
「そうだよ。「愛」しているのは兄さんだけよ。私が「愛」の感情を抱けるのはジーク・イェーガーだけ」
「……は」
「で、エレンくんは大好きだ。お父さまもお母さまも大好きで、ミカサちゃんもカルラも好きだ。あの飲んだくれハンネスも好きだったし、キースおじさんも、妖怪メシくれ少女も、誠に遺憾ではありますがハンジという変人も好きだ。好きだけれど、私はでも、裏切ってしまう。
「…何だよ、それ」
「お姉ちゃんは頭のネジが数本外れてしまっているから、仕方ないと思って。私と距離を置いた方が、その方が幸せに生きられるのよ」
「………」
「それに君はもう、自分の足で歩けるだろう」
物理的に、という意味ではない。欠けている少年の右足はこの際問題ではない。
激動の15歳という中でエレンは一人の訓練兵から、人類の希望を背負う存在へと変わった。
正しく「
いずれ雛は巣立って、空を己が羽で飛び回る。“自由”を手にして、時に自分を狙う脅威にさらされながらも生きる。
「君は15歳の時から、子どもではなく立派な大人だったよ。よっぽど私より、自分のためにしか生きられないアウラ・イェーガーより」
「………」
「黒幕だなんだと疑うのは結構だが、君のやりたい事を私が一度でも否定したことがあったか?
トイレを我慢しているのを知りつつ「やめろ」………お日さまの匂いのする洗濯物の誘惑に負けて、寝てしまった時も。
刺さり具合が甘い「やめろおい」………馬糞を振り回していた時も。
虫の卵をこっそり持ち込ん「やめ…」………でいるのを見かけても黙ってあげて、その後怒髪天のカルラに正座させられてい──」
「────やめろって言ってんだろ!!!」
「って、いう話を兄さんに」
「ハ?………殺す」
「…は、してないから安心してね」
負傷兵に胸ぐらを掴まれ、手加減なしに揺すられるナースという奇妙な光景。
姉の最後の一言で、一気に気が削がれたエレンは突き飛ばした。勢い余った彼女はそのままベンチをすり抜け、地べたに尻餅をつく。
ハァ、ハァと顔を真っ赤にして、荒い息を上げる少年は痛みに呻いた姉に、わずかに表情を歪める。
「ふぇぇん…負傷兵さんに乱暴されちゃった。アウラちゃんもうお嫁に行けない」
「何が「ふぇぇん」だよ、キモ。……あ、謝らねぇからな」
「えー反抗期?……いや、ずっと反抗期か」
真面目な顔でそう呟いたアウラは、地べたに転がった拍子に落ちた松葉杖を拾い立ち上がる。
「結局エレンくんってさ、私と会って何を話したかったの?…いや、何を一番に聞きたかったの?」
「……「愛」されていたのか、どうかについてだよ」
「そう。まぁ、出会いが本当に偶然なのか否かにしろ、元気じゃなさそうでよかったよ」
「あ?」
「むしろこれで元気いっぱいで私に会っていたら、精神状態を疑ったからね」
「………」
「私としてはエレンの邪魔をする気はないし、兄の計画に加担する気もないし、私は私として「生」きる。ただそれだけだよ」
「
「可愛くないからヤだよ、今は。よく鏡を見てご覧?映るのは目の死んだヒゲ面の不精な男の姿だから。本気で最初誰かわからなかったから」
「ッチ」
「ははぁ、でもやっぱり、私を巻き込む算段でここに来た節もあったのね。そりゃあ「寵愛の子」となっちゃ、引き入れたくもなるか」
「…オレの目的は聞かないんだな」
「聞かないよ。むしろ教えないで。これから弟が起こす“未来”というものが楽しみになったからさ」
「………死ね」
どこで覚えたのか、ジェスチャー付きで姉への思いを伝えたエレン。
それに対してアウラは、可愛くない見た目の弟のかわいい仕草に、キュン、としてしまった。
コピペしたような笑顔を貼り付けた彼女は、持っていた松葉杖を弟の右足に近づけ、縛ってある裾の部分を先でつつく。
「
普段の笑みとは違う、種類の違う微笑。
眉間に皺を寄せたエレンから離れ、アウラは弟の存在は誰にも他言しない事を伝え、そのまま洗濯物を取りこみに戻る。
その後ろ姿を見つめていたエレンは、無性な気持ち悪さを覚えた。
白銅色の瞳の中にうず巻く粘着質な、ナニカの存在を感じて。
距離を置いた中で見えた姉の一瞬の姿は、少年にはまるで別の生き物のように感じられたのだった。