『──────進みなさい、エレン』
もう何度聞いたかわからない父の幻聴。
地下独房の中、目を覚ましたエレンはベッドから起き上がる。
牢屋の外にある薄い光を頼りに、上裸な男は洗面台へ近づくと、髪をハーフアップにする。そして顔を乱雑に洗った。
鏡に映るのは、生やしていたヒゲが剃られた顔。年相応に戻っている。
母カルラに似た、キレイな顔立ち。エレン自身に美丈夫の意識はないが、少なくともかわいくはないだろう、とは感じる。
太い眉と鋭い目つきは、子どもに怖がられがちである。
数年前に孤児の施設をヒストリア指示のもと、仲間とともに手伝った時も、男は子どもから遠巻きにされていた。
精神からくる暗い雰囲氣に、子どもが臆していたこともあるだろうが。
「………ねえ、さん」
そんなエレンを──弟を“かわいい”と言ってのける女、アウラ・イェーガー。
飛行船での一部始終が、脳裏に鮮明によぎる。
狂ったように叫んでいたその姿に、エレンはかつて姉が地下室で発狂した日の姿を思い出した。
アウラはたしかに、ジークのことになるとブレーキを失う。
しかして飛行船での狂った様子や地下室での発狂は、もっと質が違うように思える。
もっと、純度の濃い狂気。
それは弟の右足を松葉杖でつついた時に見せた、背筋が寒くなる微笑みを想起させる。
触れれば己まで狂ってしまいそうな、そんな感覚。
距離感が離れたことで見えた姉の姿。
近かった頃のエレンはそれに気づかず接していたのかと思うと、少しゾッとする。
だが同時に、心配の気持ちもある。
銃創については、ハンジがキズ自体は塞がっていないものの、血が止まったことを確認している。
エレンは異常な姉の姿に、終始動けずにいて。
固まったままの弟とは対照的に、兄は必死に妹の名を叫んでいた。
その後ジークはイェレナになだめられるようにして、別室へ運ばれていくアウラの姿を呆然と見ていた。
伸ばす手があった青年に対し、伸ばす手がなかった兄。
動けなかったエレンと、動いたジーク。
その事実が、エレンの心のしこりになってしまったらしい。
過去の青年なら──それこそ15歳の頃のエレン・イェーガーなら、自分の命も惜しまず姉を助けたに違いない。
でも今は姉と接するたびに、心の距離が開いていく感覚がする。
それは果たしてアウラがエレンを遠ざけているのか。それともエレンが遠ざけ、逃げているのか。
どちらでもあるのかもしれない。
浮かんでは消えず、浮かんでは消えない様々な考えを、青年は振り切るように鏡を見つめる。
────戦え、戦え。
自問自答のように繰り返される言葉。
それを突然現れたハンジに聞かれたエレンは、グッ、と息を飲み込んだ。
今回の一件で色々と事情を聞きにきた団長殿は、「キミってまだ、男の子の
エレンは唇を噛み、静かにハンジを睨みつけた。
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一方、地下牢に捕らえられているガビとファルコ。
ガビは姉のように慕っていたアウラを撃ってしまってから、精神的に不安定になっている。
撃ってしまったことへの罪悪感や後悔。
それに対し、悪魔の民への憎悪がこんがらがって、呼吸を乱す原因となっている。
そんな少女に食事を勧め、励ましているのがファルコだ。
初期の少女は「楽園送り」から戻ってきた異例の女に、警戒心を持っていた。しかし女と接するうちにそのやさしさに触れ、すっかり懐いた。
エレンで培われた“おねえちゃん属性”が、存分にガビに発揮されたのである。
ジーク・イェーガーの裏切りを二人が知った今、その妹であるアウラ・イェーガーも怪しい。
ただ彼女が壁内を裏切っている手前、連れ戻したことに疑問がある。
ジークが何らかの取り引きを、パラディ島に持ちかけたのは確かだ。
でなければ、敵と協力を結ぶはずがない。
そして彼と調査兵団が組んでいた以上、その取り引きは成立している。その内容まではわからないものの。
ジークは取り引きの中に妹の身柄も入れたのか。それともアウラも最初から兄と組んでいたのか。
今思えば彼女が突然いなくなったのも、元仲間と接触したからなのではないか?──とも考えられる。
実際ジークは妹の失踪を知り、本気で焦っていた。その焦りには、アウラがパラディ島勢力に襲われた可能性の「
結局アウラが身を潜めた理由は、わからずじまい。
さらに二人は飛行船にたどり着いた後、中で大きな物音を聞いている。
女の頬が赤くなっていたことからも、殴られた音だったのだろう。
だがもし計画に関わらず、アウラは兄に付いていっているだけなのだとしたら。
その可能性は十分ある。なにせジークと会うためにパラディ島勢力を裏切ってみせた女だ。
どの道アウラ・イェーガーがマーレを裏切っているにしろ、いないにせよ、兄が動けばそれにつきそう。
「大丈夫か、ガビ」
「……大丈夫よ」
ベッドの上で膝を抱えて座るガビ。少女の後ろで背をさするファルコは手に伝わる体温に、はぁ、とかすかな息をこぼした。
温かさを感じるということはつまりガビは生きていて、その熱を感じるファルコもまた、生きている。
そう。まだ、死んではいない。
「これからどうしようか…」
「逃げるに……決まってるでしょ。やらなくちゃいけないことがたくさんある」
壁内の情報収集に、マーレへ戻る方法の調査。首謀者であったジーク・イェーガーの目的や、理由を明るみにするなど。
エレン・イェーガーについては、今にも少女は殺したいところ。
だが始祖の力を中途半端に失わせるわけにはいかない。その力を奪う術があるならまだしも。
ゆえにひとまず、見逃す他ない。
パラディ島勢力によって大打撃を受けたマーレ。
しばらく時間がかかるだろうが、やがて今回の一件を受けて立ち上がった世界連合軍が、この島を潰しにやって来る。それまでになるべく脱出する方法を考えなければなるまい。
「ねぇ、ファルコ」
「…何だ?」
────ヒトの血って、どうして赤いの。
ファルコは少女の背をさすっていた手を止める。
ゴクリと、意図せず鳴ったのは、少年の喉。
ガビもファルコも知らない。撃たれた女が、
敵にわざわざアウラが生きていることを、教える義理もないというものだが。
だからこそアウラ・イェーガーを殺したと信じてやまない少女は、己の震える手を見つめて言う。
撃った時、銃から伝わった手の痺れる感覚。
部屋に広がる鉄くさい匂い。
視界に映る赤い色。
荒い呼吸と、女の狂ったような笑い声。
それと、奥から聞こえた絶叫。アウラのものだった。
時間が経っても消えない鮮烈な映像が、リアルに少女の脳内で再生される。
慕っていた女を撃った罪悪感が腹の中で渦巻いて。
マーレの裏切りものであるはずだと、願う気持ちがあり。
女の狂った姿は少女の理解を超えて、トラウマを残す。
すべてを抱えたガビ・ブラウンは、心臓の部分に手を強く押し当てて、背を丸めた。
「たすけてよ、ライナー…ッ」
少女の憧れるその人は、今はいない。幼少期からブラウン家の誇りとして、両親から教えられていた従兄。
むしろ拒絶されてしまうかもしれない。ガビはライナーの長年の想い人を、殺してしまったのだから。
今、副戦士長の男の代わりにいるのは、一人の少年。
少女を守ると決めた、ファルコ・グライス。
「俺がいる」
「………」
「だから大丈夫だ。俺が絶対に、お前を守る」
「……何よ、それ」
「何って…意思表明だよ」
「なんか告白みたいじゃん」
「えっ?……………………ば、ばっ、そんなんじゃねぇよ!!!」
顔を真っ赤にした少年に、ガビは「何で急に顔を赤くしたんだ?」と、胡乱な目を向ける。
あくまで、告白みたい、という彼女の感想。
そこに少年の想いに気づいた上でからかおう──などという、まるで、性根の腐りきったどこぞのブラコン女のような意思はない。
そして、ガビがまったく自分の気持ちに気づいていないことを察したファルコは、深くうなだれる。
よかった、と思う反面、もだもだとした感情が燻った。
それから二人はガビが迫真の腹痛の演技をし、中に入った兵士の意識を刈り取り、地下牢から脱出する。
逃げた先で二人が出会ったのは、彼らより年が少し上の金髪の少女。
その少女こそ、何の因果か、かつてサシャが助けた少女だった。
そしてガビとファルコは少女を含めた孤児が住まう、“ブラウス厩舎”に引き取られることになる。
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壁内は着実に、内部波乱の動きを見せていた。
レベリオ区での勝利を導いたエレン・イェーガーが、独房へ収監された情報が世間に広まった件。
それをリークした、フロック含めた数名の兵士の存在。彼らはハンジの命令で処罰として、懲罰房へと入れられた。
フロックを抜いたその数名の兵士は新兵であり、ペトラたちがリストにあげていた中の一部だった。
この反乱因子の見極めは難しく、フロックのようにオモテに出している者もいれば、そういった発言を一切行わず、隠している者もいる。全体像をつかみ取るのは非常に困難とされた。
また、エレンが単独行動を行うようになった時期に、彼が義勇兵と接触した可能性が浮上するなど、付けられた導火線の火が、少しずつ進んでいる。
エレンと義勇兵の接触が明らかとなったことで、彼と会い話し合おうとする望みが、絶たれたミカサとアルミン。
ザックレーによると、現在エレンとの密会を企てた首謀者や、その近辺の調査中である──らしい。
ゆえにどのような可能性があるかわからない以上、総統も信頼を置く二人とて、今は面会を許可することができなかった。
現在はエレンがジークに操られている可能性が高いとみて、総統らは調査に及んでいる。
義勇兵から得た脊髄液入りの注射器が、兵団にわたっていることを知っているミカサとアルミンは、ひとつの可能性を思い至った。
それは《始祖の巨人》を、別の人間へ移す可能性。
だからこそエレンの真意を聞くべく話し合いを求めたが、その方法ができない。
それから総統の部屋を二人が退室した後、起こった爆発。
これによりダリス・ザックレーと、居合わせた数名の憲兵が死亡した。
二人が総統の元を訪れる前に、本部で見かけた調査兵団の新兵。
そして爆発した本体と思われる、新調されたイスを運んだのが新兵であった────という内容をザックレー本人から聞かされていたアルミンの証言から、今回の犯行がエレンが捕まった情報を外部へ漏らした、フロックらによるものではないか──と判断された。
さらに訪れた、エレン・イェーガーが戦鎚の力を使い、地下牢から逃亡した一報。
兵士を総動員し捜索が始まる中、ミカサとアルミンはガラガラと、何かが崩壊する音を聞いた。
それはかつての、自分たちの姿。
幼かった三人が過ごした時間。
馬車に揺られたミカサが空を見上げれば、そこにはあの頃と変わらない青空が広がっている。
「エレン…どうして……」
二人を置いて、走って行ってしまう少年の後ろ姿。
俯いたミカサの横でアルミンもまた、唇を強く噛む。
空の上では一匹の白い鳥が、木から羽ばたいた。
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対しマーレでも、両手足の肉片しか見つからない不自然なジークの遺体から、彼が敵の協力者である──と判断された。
死をよそおい、パラディ島勢力とともに逃げた、と。
立体機動装置についてはマーレの技術が取り入れられており、ピークがジークの信奉者であったイェレナをはじめの調査船団で目撃していたことからも、ジークが同志を忍ばせたのだろう──と推測できる。
さらに逃走用に敵に奪われた飛行船についても、訓練された人間でなければ操縦ができない。
壁内人類には不可能なものであり、これについても同志がおこなったのだろう、と考えられた。
ガビとファルコについては、パラディ島に侵攻した際に保護する。
二名は特に優秀な戦士候補生である。候補生の育成に多大な時間と金がかかることを踏まえると、失うわけにはいかない。
そしてそれ以上に“元帥”の立場となったマガトとしては、大切な教え子をみすみす死なせるわけにはいかなかった。
現在ほかの候補生は、ポルコが重傷につき入院。ゾフィアもまた精神的なショックが大きく、しばらくは治療が必要とされる。
ウドはパラディ島の侵攻作戦への同行を願い出ていたが、待機となる。ガビとファルコの身を案じての言葉だったのだろう。
また敵兵に何かしら言葉をかけられ、その内容を沈黙したままのアニ。
彼女はマガトに問い詰められても下を向くばかりで、答えなかった。
アニ・レオンハートの精神性を知るマガトは、尋問に切り替えても意味はない──と判断した。
だからといって拘束はしなかった。何か秘密を隠したままでも、彼女はマーレへの忠義をしっかりと示している。エレン・イェーガーの一件もそうだ。その身を呈して、戦いに臨んだ。
仮に彼女も裏切っていたならば、ジークとともにマーレを去っていただろう。しかし彼女は残っている。
ジークらに彼女がハメられた可能性も視野に入れ、元帥殿は思案する。
軍艦や兵士など大打撃を受けたマーレは、すぐにはパラディ島侵攻に乗り出すことができない。
戦力が大幅に削られている。だからこそマーレの戦力のカナメたる巨人の力を持つアニを、まだ疑惑は残れど失うわけにはいかないのだ。
一応戦士候補生に継承させる手はある。
だがすぐに戦力として使うとなると、やはり実戦経験を積んでから戦わせたい。そもパラディ島侵攻となれば、今回のレベリオ以上の激戦が予想される。超大型に引き続き女型まで失えば、いよいよマーレの
少なくとも、アニの弱みが義父であるとわかっている内は、彼女も裏切らないだろう。
はたしてアニが隠し持つ秘密────
ふいにマガトの中でよぎったのは、故タイバー公の言葉。
聞いた時少し不自然に思った、その内容。
『神は罪深き
神、神。
エルディア帝国の民族浄化の歴史があったものの、現代でも宗教や民族によって、信仰する神とはそれぞれ異なる。だからこそ戦争は起こるべくして起こってしまうのだが。
タイバー公が語る“神”を指すのは、おそらくユミル・フリッツ。
同時にマガトの脳裏に浮かぶ、戦鎚の結晶が不自然に溶けた事実。
結晶さえ砕ける
それこそ戦鎚の本体が意思を持って操作しなければ、結晶は解除されないはずだ。
その後ラーラ・タイバーは側にいたエレン・イェーガーによって捕まり、捕食された。
不可解なこの一件は、タイバー公が残した「神」の発言も相まって、マガトに大きな引っかかりを残す。
そしてタイバー家といえば、当日護衛を伴って訪れていたらしいアウラ・イェーガーも、護衛についていた男の死体と、使っていたであろう車椅子を残して消えている。
護衛の男の死体は、首を折られて殺された形跡があった。
彼女についても、ジークとともにパラディ島へ渡った可能性が高い。
しかし裏切り者の女を元仲間が受け入れるのだろうか。
あるいは兄が先に交渉の中で、妹の身柄の安全を含めて入れていたのか。
ならば女をタイバー家が保護した件はどうなる?
ヴィリー・タイバーが嘘をつくとも考えにくい。たかが一人の女を擁護する理由もないはずだからだ。
妹が失踪した時のジークの反応も、マガトが見るかぎり本物だった。
ゆえにジークを怪しみつつも、「協力者」の存在は彼ではないのだろう──と考えていた。
だが実際その協力者こそ、ジーク・イェーガーで。
まさかアウラ・イェーガーはタイバー家まで手中に入れてみせたのか。
──否、それはない。ヴィリー・タイバーと組んだマガトは、一人の人間の内情に彼が動かされないことを知っている。
「神……か」
会議中、小さくつぶやいたマガト。
同席するのはパラディ島侵攻作戦へ向け話し合っていた元帥や戦士に、候補生のコルト。
その後ライナーの提言により、早急のパラディ島奇襲の作戦が出された。
曰く、ジークはマーレが世界連合軍を待ち動くのを予想しているはずであり、マーレを出し抜いてみせた男が、何の策もなしに待っているはずはない。
そのため敵に準備をさせず、パラディ島へ侵攻する。
一時期誰より精神的に落ち込んでいた、ライナー・ブラウン。
彼はガビとファルコの身や、傷ついた仲間。
そして切断せざるを得なかった足で訪れた、「いつまで寝てんだ、クソドベ」というポルコの言葉を受け、拳を強くにぎった。
戦わなければならない────と。
このライナーの発言に、肯定をみせたマガトやピーク。
新たな戦いの火蓋が、切られようとしていた。
【とある病室での会話】
泣き腫らした顔で病人の手を握っている女。
男のなだめる声も耳に入らず、彼女は言う。
「わだじ、がっ………ポッコのごど、およめ゛にもらってあげるから……ぁ!!」
「お、おう………え?」