サシャとガビの一件の直後、厨房へと走ってきたハンジ。
彼女はニコロが親しかったはずのジャンやコニーに向けた態度を不審に思ったようで、アルミンと意見を交わしていた。
そして酒が上官らへ優先して振る舞われていた事実を踏まえて、そのワインに大きな違和感を感じたのである。
ハンジがニコロに詰め寄れば、彼は持ったままだった酒を握りしめたじろぐ。
ジャンやコニー、またサシャの向く視線に耐えきれなくなった男は、ついに口を開いた。
曰くその酒は、イェレナに高官たちに優先して振る舞うよう頼まれたらしい。
ワイン自体は第一次調査船から積まれていたもので、ニコロはイェレナの頼みから、それがジークの脊髄液入りだと察していたようである。
だからこそジャンたちがワインを手に取った時に奪ったのだ。
万が一彼らが飲んでは、取り返しのつかないことになるから──と。
義勇兵であるオニャンコポンも、イェレナのその命令をはじめて知ったようだった。
ここで疑問なのは、ワインを飲んでも体が一切硬直する、といった症状が出ていない点。
その情報の出どころはジーク・イェーガー本人によるものである。
仮にその内容が、嘘であるとしたら。
すでにジークの脊髄液入りのワインを摂取済みの人間が、兵団内に複数いることになる。
ラガコ村やウォール・マリア奪還作戦でその脅威を実感しているからこそ、そこらの武器よりよっぽど有効な
皆が衝撃の事実に騒然とする中。
一旦情報を整理しようと、彼らは手狭な厨房からロビーへと移った。
一般の客(と言ってもサシャの家族だが)から離れた一室を使って。
そんな折、新たな客が訪れる。イェーガー派だ。
ワインの事実が発覚して店内が騒がしかった間、ニコロと同じマーレ捕虜である男が有していた連絡手段を用いて、イェーガー派に調査兵団の居場所を密告したのである。
客を人質に取られ、調査兵団は手を上げざるを得なかった。
アルミンとミカサだけ別室へ移動させられる中、イェーガー派の中心であるフロックは、一派が兵団の取り引きに乗らないことを告げた。
この取り引きとはピクシス司令が提案した、ジークの居場所を教える代わりに交渉を図る──というもの。
なぜ交渉に応じないのか、ハンジは尋ねる。
するとフロックは、兵団がエレンの始祖を他者へ移す算段を立てていることを見抜いている旨を話した。
またその判断は、エレン自身のものであると。
どうにか彼らの説得を試みるハンジだが、フロックは聞く耳を持たない。
それどころか彼の一言で、彼女は息を詰まらす。
酒を飲んだ、
話の中でハンジは一言も、憲兵の人間が酒を飲まされたことは語らなかった。しかし、フロックは知っていた。
それすなわち、彼らがジークの脊髄液入りのワインの存在を、以前から知っていたことに他ならない。
人差し指を口に当て歪んだ笑みを浮かべたフロックは、アルミンを上回るゲスを見せつけた。
そして団長であるハンジはジーク・イェーガーの居場所を知る存在として、フロックらに連行された。
また先にフロックがレストランを出た後、エレン・イェーガーもミカサとアルミンと会話し、二人との決別を示した。
二人が聞きたかったレベリオでの行動も、ジークに操られたものではなく、自分の意志で行ったものであるとして。
自由。エレンが選び、そして突き進む道。
超大型を継承して以来、アニ・レオンハートに想いを寄せるようになったアルミンは、ベルトルトに操られているのだと。
ミカサは「アッカーマン」という特殊な血が起因するからこそ、彼女の血が覚醒するきっかけとなったエレンに執着しているのだと。
つまりエレンでなくとも彼女のきっかけとなれば、それは誰でもいい。ミカサの想いは本能によるものでしかない。
さながらそれは、奴隷。
アッカーマンの血に縛られた、従うしか脳のない生き物。
ミカサをそう称し、エレンは続ける。
「自由に生きることができないお前が哀れで────オレはそんなお前が、
ポタリとテーブルに落ちた涙。それはミカサの色白な肌を伝い、落ちている。
「……っ、エレンッ!!!」
アルミンは一瞬のうちに呼吸をすべて吐き出し、衝動的に目の前に座るエレンに掴みかかっていた。
だが、それを止めたのはミカサ。彼女は無意識に動き、アルミンを止めていた。
その事実が先に説明されたアッカーマンの性質と相まって、余計に彼女の頭を熱くする。
そして激情収まらぬアルミンがエレンに拳を繰り出したことで、ケンカが勃発する。しかしその拳は数度当たったのみで、本気を出したエレンには敵わない。
徹底的に殴られ、鳩尾を蹴られ、大量の血を噴き出したアルミン。
彼にかけ寄ったミカサは、悲痛な目でエレンを見つめた。
長らく曇っていた翡翠の瞳は、鋭い色を放っていた。静かに二人を見下ろすその目に、ミカサは唇を震わせる。
「エレン、どうして…」
「………」
「
「それが何だ」
「仲間が大切だとも、言っていた。なのに……どうして?」
「………」
「私は、あなたのことが────」
言葉を続けようとしたミカサの横を通り過ぎて、エレンは去っていく。
座り込む二人に、ケンカの騒音を聞き駆けつけていたイェーガー派の兵士は、ミカサとアルミンを立たせ連行する。
廊下を出た二人が見た、幼なじみの後ろ姿。
小さくなっていくその姿に、ミカサもアルミンも、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
⚪︎⚪︎⚪︎
とある地下へと続く階段。
その奥にあるかつて中央憲兵が使っていた尋問部屋にアウラ・イェーガーが収容されていた。その先頭を歩くのは、背後から銃を突きつけられたハンジである。
傍にランプが付けられているとはいえ、薄暗い道を進む一行。
ピクシス司令の命を受け、女王などの警備がより一層強化された今。眠り姫の警護に当たっていたのは、ミケ班。
部屋の前にいた男はハンジとフロックたちが現れたのを見るなり、腰にあったブレードに手をかける。
しかしハンジがそれを手で制し、武装を解くよう頼んだ。
「頼むミケ、私の指示に従ってくれ」
「……わかった」
それから武装を解いたミケが数名の兵士に銃口を向けられている間、ハンジはフロックらと共に部屋に入る。
薄暗い部屋の中、ベッドの上で眠り続ける女の白い肌と髪が異様に目につく。
思わず男の兵士が、息を呑んだ。
例えるならその光景は、夜を照らす淡い月光であろうか。
ヒトを魅了するその蠱惑さは、アウラが元より持つもの。
しかしてそれは目覚めている時よりも、今死んだように眠っているこの時の方が、より如実に感じられる。
「……君たちがどういうつもりでアウラ・イェーガーを連れて行くのかわからないが、彼女はこうして寝たままだ。連れて行ったところで、何もすることができないんじゃないかな?」
「いや、エレンの命令だ。連れて行く」
「へぇー…、エレンの命令なんだ」
「…ッチ、口が滑ったな」
眉を寄せアウラを見ていたフロックは、思わず舌を打つ。
しかしそのことがハンジに知れたところで、どうもすることもできまい。このまま連れていく算段だったが、まだ眠り続けていたのは予想外だった。
レベリオの一件から、それなりに日が経つ。
パラディ島も世界情勢も大きく動く中で、ひとり眠り呆けたままだとは。
「何をやっても起きないのか?」
「………………
「はい?」
「いくら何でもエッチなことをしたら、許さないからね」
「…………」
そういうつもりで言ったわけではないフロック。
対し、そういうつもりでフロックが言っていなかったことに気づいたゾエ。
静寂………。
身じろぎ一つがイヤに聞こえるほど部屋が静まり返った後、眠る女に近づいたフロックは銃口でその体をつついた。目覚める様子はない。
「無駄だと思うよ。くすぐったり色々しても起きなかったから」
「……何をしているのはあなたの方じゃないですか、ハンジ・ゾエ」
「起きないんだから仕方ないだろう。私も団長として、事情聴取しなければならなかったんだ」
「ジークの名前を口にしても起きなかったんですか?」
「アウラ・イェーガーを、「お兄ちゃん大好き狂人野郎」と思ってないかい、君?彼女の大好きな巨人の話をしても、なぜか唸るばかりで起きなかったというのに」
巨人が大好きなのはハンジ・ゾエの方だろう。
全員の意見が一致したが、誰もこの状況で口にはしなかった。代表の鈍感ボーイと違って、空気の読める子イェーガー派である。
「でしたら……」
ベッドに近づいたフロックは、腰を屈めて女の耳元でボソボソと、何かを語る。
その一瞬アウラの表情が歪んだが、起きない。
「何を言ったんだい?」
「「ハンジ・ゾエの巨人語りがこれから開催される」──と」
「え、もしかしてイェーガー派のみんなは巨人について私と語り合いたいの!?」
「違います」
瞳を煌めかせたハンジは、すぐにその光を失う。
フロックはついでまた、何か耳元で話す。
するとアウラの閉じられていた瞳が、ゆっくりと開いた。
何かをつぶやいたフロックもハンジも、ウロウロとさまよう白銅色の瞳を目に留めて、固まる。
「な、何を話したんだ、フロック」
「……結婚する、と」
「ケッコン?誰と誰が」
「あなたとジークが」
「………はぁ?」
すっとんきょうな声を上げた団長殿の声が部屋に響いた中、アウラはベッドから起きあがろうとした。
しかしずっと寝たきりで体力が極端に落ちているようで、起き上がるのにも手こずっている。
見かけた兵士の一人が手を差し出し、体勢を起こさせる。
ゆっくりと彼女は瞬きすると、深い呼吸を何度か繰り返した。
そして部屋を見渡すように一周させ、その視線が最後にハンジで止まる。
無表情なアウラの顔に、ハンジは首を振った。彼女は無罪である。
《獣の巨人》の毛を採取したり、触れたり、舐めたりしたい気持ちはあれど、本体にはまったく興味がない。
「────ゴホッ」
だがその視線は、女が咳き込んだことで逸れる。
そのまま何度か咳を繰り返すアウラにフロックは仲間に声をかけ、兵士が携帯する紐がついた平たい形の水筒を取り出させ、蓋をあけてゆっくりと飲ませる。
数口飲んだのちに、咳はおさまった。
ハンジは何とも言えない表情で、目を覚ました女へ視線を向ける。
「……アウラ」
視線はぼんやりと、宙をさまよっている。フロックが声をかけているが、反応する様子はなし。
「名前は答えられますか?」
「………」
「ここがどこかは?今のご自分の状況を理解できていますか?」
「………」
ベッドを椅子代わりにしている状態で、女の体は右へ左へ小さく揺れる。
ダメだな、とフロックは呟いた。先ほどの反応は偶然だったのだろう。
一方ハンジが無言ののち「ジーク」と呟けば、虚空を眺めていた視線が彼女へ向く。
「ジーク・イェーガー」
「………」
「君のお兄さんだ、わかるかい?」
「………」
「私のことはわかるかい?」
「………」
「うーん……一時的に記憶が混濁してるのかな」
ひとまず仕方ないと、ろくに立てない女は一人の兵士が背負い、次の目的地へ移動することになった。
ここからは二手に分かれ、兵団本部を制圧する人員と、ジークの元へ向かう兵士で行動する。
後者にはフロックと彼が選んだ仲間、そしてハンジとアウラが赴く。
幸いアウラ・イェーガーが監視されていた場所は、不穏分子を側に置いておきたい意図がはたらいたのか、さほど兵団本部から離れてはいない。
イェーガー派がハンジらを捕まえたことがピクシス指令に伝わり、時間を稼げれば、何かしら手は打てるかもしれない。
────いや、ワインの件が明るみになった以上、すでに上官たちはエレンやジークに逆らえない。
(このままどうすることもできないのか?私はどうしたらいい、エルヴィン……)
背負われる時もされるがままのアウラを見ていたハンジは、深いため息を吐いた。
自分が不甲斐ない団長であると、しみじみと感じながら。