フロック・フォルスターはエレン及び104期生の同期である。
当初駐屯兵団に入ったフロックは、数多くの激戦を経て調査兵団に編入した。
その時はまだ、人類のためにウォール・マリア奪還を目指す兵士の一人に過ぎず。
しかして彼は、悪夢を知る。
迫りくる投石。死んでいく仲間。大地に降る血の雨。
共に調査兵団に移った仲間も死に、最後に生き残ったのは自分だけ。
地獄の中、かろうじて生きていたエルヴィン・スミスをリヴァイの元へ運んだのもフロックだ。
地獄を作ったのは《獣の巨人》に他ならないが、兵士を地獄へ招いたのはエルヴィンである。
フロックの団長を救った行動は善意などではなく、むしろ悪意によるものだった。
多くの兵士が死ぬに至った理由を作り出した男への、報復。
それは結局リヴァイの苦渋の決断の末、超大型を仕留めるに至り、全身にヤケドを負ったアルミンに使われることになった。
以来、いち兵士でしかなかったフロック・フォルスターの人格は、大きく歪むことになる。
そのきっかけが兵士を死地へ赴かせたエルヴィンの行動や、仲間の死であったことは言うまでもない。
彼の憎悪の矛先は、マーレに向いている。
同時に過剰すぎる愛国心を、フロックは抱えているのだ。
その意志を見抜いた上で、エレンはイェレナと密会した後、彼に“
パラディ島以外の人間を駆逐していく、究極の排他行為。
おそろしい考えにしかし、フロックは絶句しつつも協力の申し出を飲んだ。
エレンがこのままではユミルの民に未来がないと思っていたように、彼もまた、今後の展望を見据えていたのであろう。
そんなフロックにとって仲間を殺したジーク・イェーガーの妹で、信奉するエレン・イェーガーの姉────アウラ・イェーガーとは、どのような存在であろうか。
ジークと同じく、憎悪を向ける対象であることは確かである。パラディ島を裏切った点を踏まえても。
仮に始祖ユミルの寵愛を受ける女が、兄ではなくパラディ島を愛していれば、もっと多くの人間が救われたはずだ。
しかしアウラ・イェーガーは兄を愛している。
正直言って、アウラの人間性をフロックも理解できていない。
狂った思考を理解しようとしたところで、普通の人間が理解できるわけがなく、ただひたすらの嫌悪感を味わうだろう。
殺すべきなのだ、狂った女は。
だが始祖ユミルは趣味が悪いのか、
アウラ・イェーガーを殺すことはきっと難しい。そもそも飛行船でフロックがアウラにつかみかかったことを知ったエレンは、イェーガー派を脱出させた際に彼に念を押した。
余計なマネはしないように、と。
エレン・イェーガーは姉にひどい仕打ちを受けたにも関わらず、未だ好いていることをフロックは悟った。
エレンが元々シスコンであったことは仲間から聞かされている。調査兵団を目指す中、姉を守る目的があったことも。
だが愛する姉は弟を見ず、兄しか見ていなかった。
「弟のため」と言っていたのも、すべては兄のための虚言でしかない。
エレンがどう考えているかは省くとして、フロックはアウラが弟を愛していなかった──と、思っている。
本当に愛しているなら、エレンを苦しませなかったはずだ。
ウォール・マリア奪還作戦の後、だれよりも苦しんでいた少年。もし上手いやり方がなかったのだとしても、もっと弟を苦しませない方法があったはずである。
仲間を長年欺く演技力や思考があったのだ、そのくらいの芸当はできただろう。
『もし姉さんを殺したら、その時は、オレが──────お前を殺す』
エレンは言った。
面と向かって、ジークに妹を引き合わすことをフロックに任せた時に。
ジークを騙し「地ならし」を利用する予定だったが、エレンはそれを変更して、兄を説得する方向に出た。その方が計画を遂行する上で、成功率が高いと判断した。
ジークが条件として持ち出したのは、妹との対話。それからエレンへ答えを出す。
フロックの目的は、エレンと概ね一致している。
むしろ“悪魔”の手助けがなければ、パラディ島の未来はないとさえ確信している。
だからこそ、邪魔者が疎ましい。
その邪魔者は言わずもがな、アウラ・イェーガーだ。
もしジークが妹と話し合い考えをまとめ、出た答えが「安楽死計画」の続行だったとしよう。
妹はそれに賛同するだろう。
問題は「寵愛の子」という不確定な要素。
始祖ユミルはアウラを寵愛し、アウラは兄を狂愛する。
このプロセスの行き着く場所は、ジーク・イェーガーだ。ゆえにエレンも兄を説得しようと画策した。
これを踏まえてアウラ・イェーガーを殺すなら、どうすればよいだろうか。
一歩間違えれば始祖ユミルの地雷を踏む。本当にそのような存在がいるかは不明であるが、前提として信じなければ話は進まない。
フロックは考え、そして、一つの案を見出す。
別段殺すのは自分でなくともよい。もっと適任者がいる。
アウラが殺してほしい──と望む相手。ジーク・イェーガーに妹を殺させれば、アウラの望みが叶うことになり、始祖の地雷も踏まないと考えた。
無論、直接ジークに妹を殺させることは不可能だろう。
飛行船で発狂する声を聞き、妹を心配する一部始終を見た感想として、エレン以上に兄は妹を愛している。
であれば、間接的な手段を用いるのだ。
幸い、これ以上なく都合の良い道具があった。ジークの脊髄液入りのワインである。
フロックはワインをレストランでくすねた後、数滴ほど水の入った水筒に混入させた。
それを部下に持たせ(飲まないように念を押して)必要となった時、アウラに飲ませられるようにした。
結果、ハンジに怪しまれることなく、咳き込んだ女に脊髄液入りのワインを飲ませることができた。もし女が起きていなければ、ハンジの目が届いていない移動中にでもこっそりと飲ませただろう。
愛してやまない兄の脊髄液を飲めた上に、それが原因となって死ねるのだ。アウラ・イェーガーも本望だろう。
ただいつ巨人化するかは、状況と、ジーク次第。
しかし遠からず、“叫び”を使わざるを得ない状況がくる。大打撃を受けたマーレが、そのまま黙っているとも思えない。
否、すでにその前兆は現れている。
連日の騒動でその調査どころではないが、
また詳しい調査はできずとも、特徴的な四足歩行の痕跡から、《車力の巨人》が壁内に侵入している可能性が高い。
そのため、事は性急に運ばねばならない。
アウラがワインを飲んだことを知る者はごく一部であり、もしジークが叫びそのことが明るみになったとしても、アウラ・イェーガーは巨人化済み。巨人化能力者を食わせる以外、人間に戻る方法はなくなる。
始祖の力と王家の関係を考えればエレンの力を継承させることはできず、ジークの力を継承させたとして、兄を食った事実を知った女が自死の道を選ぶことは想像に難くない。
また、アルミンを差し出すわけにもいくまい。
超大型の力はアルミンだからこそ信頼を置いて任せることができるほどの、脅威的な力を持つ。
それをわざわざ裏切り者に継承させるなど、納得できるわけがない。
エルヴィン・スミスの死を代償に生き残ったのが、アルミンであることを知っているなら尚更。
一連のフロックの行いは、大きなリスクを伴うものである。
そもそもエレンの牽制をまるっきり無視してまで、なぜ彼は殺害を目論むのか。
理由を挙げれば、それこそたくさん出てくるだろう。仲間の死に、裏切り。
だが何より彼は、狂った女の姿を見て、思った。
女の叫び声を聞き目にした、発狂するアウラの姿。
──────
漠然としたそんな考えが、フロック・フォルスターの内によぎったのである。
生かしてはならないと、死体に帰さなければならぬと思った。
その息の根を、一分一秒でも早く止めなければならない。
一種の強迫観念じみた感情を抱え、そして、行動に移したフロック。
企みはほぼ成功した。失敗点──というより予想外の事態は、女が突如巨人化したことだ。
ジークが叫んだ事は間違いない。しかしその叫びにも、ある程度効果の範囲があった。巨大樹の森までにはまだかなり距離がある。仮に現在地の場所で効果があるなら、その他の脊髄液を摂取した人間にも反応が起こりかねない。それもワインを飲んだ人間は複数いる。
一度フロックが目にしたことのある、同時多発的に出現した巨人。
眩い光が起こってもおかしくはないが、空に変化はなかった。
ハンジも状況が掴めていないが、フロックもまた状況を理解できていない。
巨人の様子を見るが、動く気配はない。その巨体は空を仰ぐような体勢で、地面に転がっている。
巨人化したのは、王家の血筋が関係しているのか。はたまた始祖ユミルの所業であるのか。
疑問は尽きぬまま、一行は一旦その巨人を置き去りに、巨大樹の森へ急いだ。
異変が起こっていることはまず間違いない。ハンジの鋭い視線が向く中で、フロックは深いため息をつく。
「俺を疑うのは別にかまいません。ですが裏切り者に、あなたは同情でもしているというのですか?」
フロックは、アウラが兄以外に向ける感情に、中身はないものだ──と考えている。
だがその他の中では、未だに女に“正”の感情を向ける者もいる。サシャを助けた点で、よりアウラの人物像が不明瞭となった。
隣で並走するハンジは前を向いたまま瞳を伏せ、沈黙を選ぶ。
彼女もまたアウラ・イェーガーと長く共に戦った人間であり、悩むところは多い。
「こんな時エルヴィン団長なら……どうしたでしょうね」
皮肉を混じえて呟かれたフロックの言葉に、ハンジは小さく「…わからない」と答えた。
◼︎◼︎◼︎
空の色。
空。
そこにある。
知っている。遠い。届かない。
なぜ空が青いのか、わからない。
赤い。
体にまとわりつく赤い色。
肌を、肉を、骨を、内臓を、侵すおびただしい赤色。
それに浸って、感じる痛みに意図せず口から声が漏れて。
その時私は、「私」が生きているのだと知る。
「私」ではない私は死んでいる。
私である私たちは悲劇の中で死ぬ。
痛みに溺れて、苦痛の中で生より死を望んで、そしてその死すら果てがないことを知る。
不幸が降りかかるのではなく、不幸が私を中心に回っている。
私のはじまりがなんだったのか、わからない。
私の終わりがどこにあるのかわからない。
死にたい。死にたくない。生きたい。生きたくない。
死んでも絶望で死ぬ思いがして、生きても絶望で死ぬ思いがする。
飽和する絶望。
呼吸ができない。
私がなぜ存在するのか聞いた。
上で回っているヤツに聞いた。
上で回っているヤツはクソヤロウだ。
理由はわからない。けれど私の本能が言っている。
きっとこれまで不幸を刻み込まれて、肉塊になった私たちが言っていた。
おなかががすいた────。
言っていた。回るクソヤロウは言っていた。
クソヤロウは教えてくれる。
クソヤロウは捕食者で。
無機質の中にしか生きられない不完全な生き物で。
ニンゲンとは違うベクトルで存在していて。
厳密に言えば、
ただ、存在するだけ。
いや、存在さえしていないのかもしれない。
だってクソヤロウは無機質な物体だから。
文字どおり、「ない」。
コイツがかわいそうだとは思わない。
だって私の下には、私たちが転がっているから。
私たちは死んでいる。
クソヤロウは求めてきた。
私に求めることを求めてきた。
何を求めればいいというのだろう。
私は私たちの中へ還って、私はまた私であることをはじめる。
そんな私が求めることなどない。
クソヤロウは言う。
新たな望み。
──────新たな望み?
私の願いは、叶ったのだと言う。
私に願いなどあったのだろうか。
それはいったいどんな願いだったのだろう。
それは「私」がはじまったことのキッカケだったのだろうか。
ともかく、私は還らなければならない。
“無”に、還らなければならない。
ソイツはけれど、還してくれないようだった。
お腹が空いているから、還してくれないそうだ。
なら私を食べれば私もクソヤロウも、ウィンウィンだと思った。
けれど私はもう飽きたらしい。
同じものは流石に、飽きるらしい。
コイツは私を食べていたのか?
だから私たちは転がっているのだろうか。
わからなかった。
そもそもどうして私がクソヤロウがいるこの場所にいるのか、わからない。
私は私の願いをわからないけれど、願わなければならないそうだ。
私は何を願おうか。
私は私の願うことの私の願いを私は私願う。
私は。
私は?
『────アウラ、死なないで』
誰かが泣いていた。
いったい誰が、泣いているのだろう。
⚪︎⚪︎⚪︎
ポツポツと降り始めた雨。
葉の上に落ちた水滴は緑の表面をすべり、地面へ落ちてゆく。
馬が荷車を引く中、顔に落ちた雨粒を受けて男の意識が戻った。
その側で監視をしていたのはリヴァイ。フードをかぶった兵長はいつでも男を殺せるように、ブレードを握りしめたままである。
ところどころ血が付着し、刃こぼれの目立つそれは、荷車の上で上裸で寝転がる男に振る舞われた。
すでにリヴァイ以外の仲間は死んだ。
彼が殺した、という表現が正しいが。
巨大樹の森で一つの貴重な娯楽として、兵士らが兵長に飲酒の許可を求めたワイン。
そこにジークの脊髄液が入っているなど、誰も想像だにしなかった。
隙をついて逃走したジーク・イェーガーが叫び兵士が巨人化して、そんな彼らを自らの手でリヴァイは殺した。そして兵士長は巨人化した男を雷槍で打ち倒し、今に至る。
一度ジークが目覚めた時、静かな激情をたぎらせた兵士長は、男の足を細切れにしている。
四年前の雪辱が、ようやく果たされた。
亡きエルヴィンとの約束。
《獣の巨人》を倒した男の内によぎるのは、底の見えない怒りと、空虚。
何度も仲間を失ってきた。その穴の溝が埋まったことなど、一度とてない。それでもリヴァイが進み続けるのは、ひとえに死んでいった仲間たちのためである。
人類の希望のために、進み続ける。
だが肝心の
ピクシスらは、エレンがジークに利用されていると考えている。その上でレベリオ区の襲撃を実行させたエレンの始祖を、他の者へ移す案がまさに今、進んでいる。
兵長はしかしエレンを犠牲にするならば、ジークの命を差し出すことを選ぶ。
イェーガー兄弟の計画が何であれ、王家の血を引く巨人を奪ってしまえばすべてが頓挫する。
「地ならし」も行えなくなってしまうが、その時はその時。今はまず、目先の脅威を摘まねばならない。
「汚ねぇツラだ…」
ジークの腹には現在、行動を制限させるための雷槍が突き刺さっている。
当の男は足を切られた痛みで、気を失っていた。意識が戻った顔の周囲では、吐いた跡がある。普段かけていたメガネは、戦いの最中で無くなってしまっていた。
「ううっ……」
青い瞳が開き、朦朧と辺りをさまよう。
意識を取り戻したジークはメガネを探し、無いとわかるとリヴァイ──ではなく、雨粒を降らす空を見上げた。
「テメェ、どこを見てやがる」
走馬灯、という奴なのかもしれない。
人類最強たる男も、人生で何度も体験したことがある。
ジークの瞳は正確に外界を認識できていないように見える。だがそれでも死ぬことはない。巨人化能力者なのだから。
「そ、ら」
「ア?」
「いろ……ウ、ラ」
焦点の合わない瞳は、フラフラと揺れ動く。
ついで漏れた、死にたい、という言葉。
その内容がリヴァイの逆鱗に触れた。
多くの兵士の命を奪っておきながら、簡単に死なせるわけがない。
最低でも自分が食われる咀嚼音を聞かせながら、巨人のエサにする。
「安らかな死を、テメェが送れると思うなよ」
「やすら、か……死」
「……さっきからテメェ、何をブツブツと言ってやがる」
「うまれな……うが、よかった?」
「生まれない?」
「しめい……クサヴァー、さん」
クサヴァーとは、ジークと関わりのある人間だろうか。
思考を回しながら、リヴァイはブレードを伸びてきた足へ向ける。
「ぼくは…わからないよ」
再び振り落とされた刃は、まるでそれが元の形だと言わんばかりに切り刻んでいく。
先ほどの激痛でもはや絶叫する力も弱まっているジークは、とぎれとぎれに落ちる意識の中、曇天を眺めた。
妹の色だ。白銅色の、濁った瞳。
痛みによる生理的なものなのか、はたまたただの雨の雫なのか。
彼のこめかみを伝って、水滴が落ちる。
この残酷な世界で生きることは、それだけで苦痛だ。
苦痛から逃れる方法は、“死”しかない。
そうして彼はどれだけの数の人間を殺して────
エルディア人でなければもっと違う、幸福に満ちた人生を送ることができたかもしれない。誰かと結婚して子を作り、ありふれた幸せを手に入れる。
だがその“もしも”は叶うことがなく。
非情な現実はエルディア人でなくとも争い合うということを、戦争を通して彼は嫌というほど学んだ。
どうすればよいのかわからず、このまま死んだ方がラクだと思える。
使命も果たさず死ぬことは許されない。
しかし彼はとっくの昔から、限界を迎えている。ずっともう無理であることを騙して、騙し続けて生きてきた。
「ご、めん」
ジークの首に付けられていた、雷槍の信管につながるワイヤー。
それが引っ張られ、大きな爆発が起こった。
雨が降っている。
雨は、降り続けている。