実力至上主義の学校にオリキャラを追加したらどうなるのか。 作:2100
速野知幸の独白
「人間は平等か。平等とはなにか」
これは、俺がある人物から受けた問いだ。
問われたときには質問者の意図が読めず、「いきなりどうしたんだ」と問い返した。
すると相手は「いや、なんでもない。忘れてくれ」と言って引き下がった。
それで俺もこの質問に関しては気に留めないことにしていたが……いま、なぜか急に思い出した。
せっかくの機会だ。ここで、その問いについて少し真剣に考えてみることにする。
まず一つ目、人間は平等であるかどうか。
これに関しては断言してもいい。
平等であるはずがない、と。
では、仮に人間が平等であるとして。
なぜ「平等であるべきだ」なる言説が賞賛される? なぜ人々は必死に「平等」を訴える?
平等であるべきだ、という主張は、平等でない現状を前提として、それを改善していくべきだ、という意味に他ならない。
したがって、人間は間違いなく平等ではない。
いや、こんな回りくどい言い方をしなくても、少し考えればわかることだ。
性別、年齢、容姿、声質、出自、能力、所得、エトセトラエトセトラ。
不平等が生じる要因なんて、そこら中に転がっているのだから。
では次の問い、平等とは何か。
これは非常に難しい問いだ。
まず一口に平等といっても、大きく分けて二つの種類が存在する。
弱者に補助を与えることによる、結果の平等。
一切の操作を加えないことによる、機会の平等。
これはしばしば、野球観戦の様子を描いた絵で例えられる。
身長175センチの成人と、身長130センチにも満たない幼い子供が、スタンドの向こう側から野球を観戦している。
スタンドの高さを考慮すれば、子どもはゲームの様子を観ることはできない。
そのため、子どもに箱を与えてそれに乗せ、観戦できるようにしてやる。
結果として、成人も子どもも野球観戦ができる。これが結果の平等だ。
しかし見方を変えると、この操作によって、子どもには箱を与えて、成人の方には何も与えていない、という不平等が生じているとも解釈できる。
つまり、双方ともに箱を与えず、放置しておくこと。これもある意味では平等であるということだ。これが「機会の平等」である。
平等に寄って不平等が生まれ、不平等に寄って平等が生まれる。
このようにして考えてみると、「平等」とは非常に面白い概念であると思う。
しかしこのような矛盾を含んだままでは、少々気持ちが悪いだろう。
そこで、俺は一つ、自分の中での答えを示そうと思う。
平等とは、無である。
宇宙始まってこのかた、平等であった空間など存在しない。
しかし、約138億年以上前、ビッグバン理論による宇宙誕生よりも前。そこは無であったという。
ならば、それこそが真の意味での平等ではないだろうか。
何かが存在する時点で、平等であることなどありえない。
本当に平等でありたいなら、全てを消滅させるしかない。
しかし、そんなことはできはしない。
つまり、平等に関する思考はおおよそ全て無意味だと思う。
結局、平等を求める声というのも、所詮は不平不満の噴出に過ぎない。
平等という言葉は、その旗印として有用であるから使っているだけだろう。
俺たち人間に考えるべきことがあるとすれば、それは「いかにして平等を実現するか」ではない。
いかにして不平不満を解消するか、ということだ。
平等な社会はいらない。人間は不満のない社会を欲している。
他人と同じことではなく、自身の不満の解消を欲している。
そしてその不満を解消するのに、非常に有用なものが現代社会には存在する。
それは何か。決まっている。
マネーだよマネー。
はじめましての方ははじめまして。お久しぶりの方はお久しぶりです。2100と申します。
あらすじにも書かせていただきましたが、この作品は以前投稿していた「実力至上主義の教室に数人追加したらどうなるのか。」をリメイクした作品となっております。前作は1年生編まで完結しましたが、展開や描写に納得いかない点が少なからずあることを途中から感じはじめ、なら1年生編を終わらせたらリメイク書いてやろう! という発想に至った次第です。
2年生編にもしっかりと力を入れていくつもりですが、1年生編と比べるとかなり複雑かつ高難度になっており、新巻が出るたびに嬉しさと難しさで悲鳴を上げております。もちろんそれは巻を追うごとに「よう実」という作品の素晴らしさが増しているということでもあるので、一読者としてこれほどうれしいことはなのですが……。
こちらの方で1年生編が完結した場合、2年生編もこちらで引き続き投稿することになると思います。
ということで、よろしくお願いいたします!