ギャルねーちゃんを克服したい 作:Valkyrie
かすかな喧騒に、ぼくは目を覚ました。
陽も少し落ちてきた一階のリビング。寝ぼけ辺りを見ても誰もいない。角に設置された薄型テレビの画面は真っ暗で、照明の電気もついていなかった。
身じろぎすると手の指先に何かが触れた。小さな文庫本だった。カバーはところどころ薄汚れていて、ページの角が折れてる部分もある。
そうだ。確かぼくは、昼ご飯の後にリビングで本を読んでて、どうやら読んでる間に寝落ちしてしまったみたいだ。
ケホ、ケホと、掠れた声で咳き込む。布団もかけずに寝てしまったからか、少し冷えてしまった。安静にするように言われていたけれど、ベッドの中に一日中いるのもつまらない。だからこうして抜け出して一階のリビングまで降りて来た。だけど、未だに身体が慣れてくれない。ままならない自分の身体を恨み続ける日々だ。
壁に掛けられた大きめの時計が示す時刻は放課後。今日も一日中家にいた。
小学生のときも、中学生に上がった今も。それは変わらない。
「──」
玄関の方から話し声が聴こえてくる。何人かの女の子の声だった。ここら辺は学生の通学路になっていて、朝と夕方はよく話し声が聴こえてくるのだ。
甲高い笑い声が玄関付近で止まり、しばらく話し声がこだまする。放課後の今、学校の人たちも下校する時間。
その声の一部は、恐らくぼくのよく知る人のモノだった。
話し声が止んだ。するとほぼ同時に、玄関のドアが開く音が聴こえてきた。靴を脱ぐ音の後、足音はどんどんこちらに近づいてきて、リビングのドアが開かれた。
「ただいま」
──部屋の空気が、急に冷え込む。
薄く輝くセミロングの金髪。アイシャドウの施された瞼の内には、力のある気が強そうな瞳。胸も大きくスタイルのいい身体。軽くはだけた胸元からは白い肌が映っていて、スタイルの良い身体をさらけ出すようにしていた。
乾きそうな喉に力を入れて、ぼくは声を出した。
「おかえり、お姉ちゃん」
お姉ちゃんはいわゆるギャルと言えばいいのだろうか。うっすらとしたメイクではあるけれど、見た目はとても派手で近所ではやんちゃな女の子がいると噂されるくらいだった。
これがいつも通りのぼくのお姉ちゃんの姿だ。
お姉ちゃんはスクールバッグを肩から下ろしながら、髪をかき上げてだるそうに歩く。家族構成は父、母、姉、そしてぼく。ありふれた4人家族だ。ただ、両親は共働きで家にいることはあまりない。だからこの時間帯は基本的に、ぼくとお姉ちゃんしかいない。
「ハル。何してんの」
「……ソファでちょっと寝てた。今は別に体調も悪くないから」
「ふーん、そ」
お姉ちゃんはチラリとぼくを見てからそれだけ言うと、冷蔵庫から飲み物を取り出して麦茶をコップにコポコポと注いだ。
お姉ちゃんは麦茶を注ぎ終えると『つっかれたー』と言いながらぐっと背伸びをした。それと同時に、カーディガンの下の大きな胸が強調された。
「……」
「……」
チラリとお姉ちゃんの方に目を向ける。麦茶をあおるお姉ちゃんは、ぼくに見られていることに気づくと、スッと目を細めて冷たい視線をぼくに返した。お姉ちゃんは視線に敏感だ。ぼくがお姉ちゃんを見るときは、大抵お姉ちゃんはすぐに気づく。
コトッとコップを置く音が響く。お姉ちゃんはムスッとした顔をぼくに向けながら、薄くリップの塗られた唇を開いた。
「……何見てんのよ」
「……ごめん」
「……」
思わず委縮してしまったぼくを見て、お姉ちゃんは小さく嘆息した。その吐き出した息には、ぼくに対する呆れが混ざっているような気がした。
ぼくはお姉ちゃんが苦手だ。
昔は姉弟のじゃれ合いの延長線上としてぼくに意地悪したり、からかわれたり、それくらいのことは何度も経験した。だから当時は特に苦手とも思っていなかった。
でも、そういうことさえもなくなったのは、お姉ちゃんが中学生に上がった頃だった。思春期特有のイライラといえば良いのか。あの頃のお姉ちゃんは荒れに荒れていた。お父さんとはいつも喧嘩してたし、物に当たることも多かった。
そしてもちろん、その矛先が弟であるぼくに向くことも度々あった。何回か大喧嘩したこともある。でも、幼いぼくが力でお姉ちゃんに勝てるわけもなくて。そのときの記憶が強烈に残っているせいか、今のぼくはお姉ちゃんが苦手だった。
お姉ちゃんはコップを片付けると、ぼくの斜向かいにあるソファにどかっと座った。短めのスカートからは、肉付きのいい白い太ももが覗く。寒そうな格好だな、といつも思う。テレビでは女の子はおしゃれするために頑張って寒いのを我慢してスカートを履くことがあると言う。お姉ちゃんもそういう類のものなのだろう。
テレビのリモコンを手に取ったお姉ちゃんは、ピッとボタンを押して適当な番組を点けると、つまらなそうな顔をしながら体育座りになって膝に顎をのせた。横から見ると、アイシャドウの乗った長いまつ毛や髪の毛先が綺麗に整えられているのがはっきりと分かる。そして、気の強そうな力のある瞳は今は気だるそうに伏せられていて、心ここにあらずと言った感じだった。
「……っくしゅん」
鼻がムズムズしてくしゃみが出た。そして思い出したように体が震えた。何も羽織らずにリビングでうたたねしてしまったからか、すっかり冷え込んでしまった。さっきはお姉ちゃんに大丈夫と言ったけれど、それは半分だけ虚勢も含まれていた。ぼくの身体はコロコロと体調が変わってしまう。体質なのだから仕方ないのだけれど。鼻をすすっていると、また小さなため息が聴こえてきた。
「寝てなよ」
お姉ちゃんはテレビの方に目を向けたままぼくを見ずに、ボソッと呟いた。テレビの中からはニュースキャスターの声が聴こえてくる。ありきたりな天気予報のニュース。今夜は雨が降るらしい。
外を見れば、先ほどまでそこにあったはずの夕方の光があっという間に身を潜めている。空の上の方は雲で覆われていて、天気予報の通りの空模様が来ていた。
「うん……」
ギスギスした空気じゃないけれど、穏やかな雰囲気とも言えない。ぼくがここにいようがいなかろうが、お姉ちゃんにとっては関係ないことだし、かといって目の前で体調不良の人にいられても困る。きっとそんなところだろう。
「そう言えばハル。あんた薬は飲んだの?」
「え……あ」
お姉ちゃんに言われて、ぼくは思い出した。お母さんが作り置きしてくれたおかゆを温めて食べた後、ちゃんと薬を飲むように言われていたんだった。
ぼくの様子に察したのか、お姉ちゃんは呆れ混じりのため息を漏らした。そしてゆっくりと立ちあがると、キッチンに向かい戸棚から薬を取り出した。
「ご、ごめん」
「……しっかりしなさいよね」
お姉ちゃんはちらりとぼくを見ると、カップを取り出してポットからお湯を注いだ。コポコポと湯気が立ったマグカップを、水道の水で温めにしてから、お姉ちゃんはマグカップと薬をテーブルまで持ってきた。
「ありがとう……」
お姉ちゃんは特に反応せず、そのまま再びソファに腰掛けた。
パキっとパッケージを折って、白い錠剤を白湯と共に流し込む。もう食後じゃないけど、飲まないという選択もしづらかった。
ソファに置きっぱなしだった文庫本を手に取って階段に向かう。そこでぼくは、一つ伝え忘れたことがあったことを思い出した。
「……お姉ちゃん」
「……なによ」
「晩御飯。冷蔵庫に入ってるから先に食べてなさいってお母さんが言ってたよ」
「……あっそ」
こちらを見ないまま、お姉ちゃんはつまらなそうに言った。その声には落胆の色も無ければ悲しみの色もない。無色透明なその感情を、ぼくは未だに上手く言葉にできずにいた。
勉強机の上で、カリカリとペンを走らせる。学校に中々いけてないぼくだけど、それは勉強しなくてもいいということではない。学校を休みがちなぼくは、送られてくる各教科のプリントを解くことでなんとか授業の内容についていけていた。
本当だったら勉強が得意じゃないぼくは、授業もなしに内容を理解出来やしない。
けれど、そんなぼくを助けてくれる存在が一人だけいた。
プリントを解き終えて、小休止とばかりにベッドに仰向けに寝転がる。
ぼくは傍らの勉強机から一枚の紙を手に取った。
『神木くんへ
体調はいかがですか? 神木くんに会えなくて寂しいです。
神木くんがまた元気になったら、一緒に学校に通いたいです。
お大事にね。
三階堂より』
達筆な文字で書かれた一通の手紙。プリントと共に封されていたその手紙は、クラスの委員長から定期的に送られてくるものだ。彼女こそが、ぼくの勉強を見てくれてる先生のような存在だった。
クラスの委員長である三階堂さんとは、実は小学校からずっと同じクラスの仲で、中学校に上がってからも同じだった。だから三階堂さんはぼくの身体についてもある程度知っているし、こうして度々気にかけてくれる。
古いお寺を実家に持つ彼女は、美しい漆黒の髪と端正な顔立ちで、いつでもリーダーシップを発揮するような人だった。文武両道を地で行く彼女はみんなの憧れであり、誇りでもある。もちろん、それはぼくも含めて。学業はもちろん優秀で部活は剣道をやっているらしく、大会でも活躍してると言うのは彼女自身から聞いた話だ。
羨ましいな、と思う。元気に学校に通えて、部活もできて。そんな世間では当たり前と呼ばれるような日常を送れる幸せを、ぼくは未だに味わえたことがない。
「……」
……そう言えば、お姉ちゃんはどうなのだろう。部活には所属してないだろうし、成績がどうのこうのといった話も特に聞かない。希薄な姉弟関係なのだから知らないのも当然かもしれないけれど。
友達はいるみたいだし、遊びに出かけることもあるみたいだけれど、家に連れてくるようなことはない。
こうして列挙すると、ぼくはお姉ちゃんのことをよく知らないのだと実感する。今隣の部屋にいるであろうお姉ちゃんが、何をして過ごしてるのかもぼくは知らない。お姉ちゃんの部屋には鍵が掛けられているし、そもそも部屋に行く用事もない。
三階堂さんからの手紙を枕元に置いて、窓のカーテン越しに外を見た。
外はやっぱり、雨が降りそうな天気だった。
……
……
やることもなくなって、部屋を出て手すり伝いに一階に降りる。夜も深まる時間のリビングには、電気がついておらず誰もいない。
ポケットの中のスマートフォンを手に取って見ると、いつの間にか二つのメッセージ。それぞれお父さんとお母さんからだった。どうやら泊りがけで仕事しなきゃいけないらしい。
「……またか」
これももう、すっかり慣れてしまったことだ。最後に食卓を家族で囲んだのなんて、いったいどれくらい前のことだろう。お姉ちゃんがあんな感じである以上、自然とその機会は減っていった。
冷え込んだ家庭環境、とまでは言わないけれど、一抹の寂しさはどうしようもなくぼくの心の中に残り続けていた。
「……あ」
コトン、と音が聴こえた。
その方向はお風呂のある場所。耳を澄ませばドライヤーの流れる音。どうやらお姉ちゃんがお風呂に入るときにリビングの電気を消したらしい。
そう言えば、熱を出してからお風呂にも入ってない。かすかに汗ばんだ体に、ぼくは今更気が付いた。熱はもう下がったし、ぼくも後でお風呂に入りたい。
そんなことを考えていると、ドライヤーの音が消えた。そしてペタペタとフローリングの床を歩く音がリビングに近づいてくる。
「……電気くらいつけてよ」
ぼくが暗闇の中で突っ立っていると、お姉ちゃんは驚くわけでもなくそう言った。パチッとスイッチの入る音と共にリビングに光が広がる。
お風呂から上がりたてのお姉ちゃんの髪は、今は真っすぐ下ろされていて、メイクの落ちた自然な顔立ちをしていた。
「ごめん……」
「……」
お姉ちゃんは軽く『ちっ』と舌打ちすると、ぼくの目の前に立ちはだかるように見下ろしてきた。お姉ちゃんはぼくよりも、ちょっとだけ背が高いのだ。
「ハル、それやめてくれない。いっつもいっつもビクビクしてて。男として恥ずかしいと思わないの?」
鋭く細められた目からは、厳寒な冬の訪れを感じた。お姉ちゃんのそんな様子を見ていると、喉が冷たくなって、胃がキリキリとし出して。ぼくは身体が震えそうになるのを、ぐっと堪えた。
……何か言い返さなきゃ。
腕を組んでぼくを見下ろすお姉ちゃんは、その大きな胸越しにじっとぼくを見つめたまま。今がチャンスだった。
……それなのに。
「……あ……ぅ」
ぼくの口は、やっぱり動いてくれない。言い返す言葉も取るべき態度も。今のぼくには何も持ち合わせていない。
お姉ちゃんは、ぼくのことをあまりよく思ってないのだと思う。気まぐれにキツかったり、気まぐれに冷たくて。ぼくのことを蔑んでるようにさえ見えてしまう。でも、これじゃあそれも仕方ないことかもしれない。
いつの間にか伏せてしまった目の先には、綺麗に掃除されたフローリングの床。足元に伸びるぼくとお姉ちゃんの影。呼吸の音しか聴こえない。でも、それがぼくにはどうしようもなく怖い静寂だった。
「……」
影が動いて、足音がぼくの横を通り過ぎる。お風呂上りの良い香りが鼻をかすめた。
でも、横切る風が嫌に重たく感じた。
ベッドに身を投げ出す。
お風呂のおかげでぽかぽかとした身体が、ひんやりとしたシーツの肌触りとともに少しずつ冷めてくる。
今日も一日家にこもったままだった。ぼくはいつになったら体が丈夫になるのだろう。医者は今はまだ体が出来上がっていない時期だから仕方ないことだと言っていたけれど、納得できるわけじゃない。
どうしてお姉ちゃんは健康な体なのに、ぼくだけ体が弱いのか。
そうやって思うたびに、そういう風に考える自分が途端にあさましく思えてくる。いつもその繰り返しだ。自分にできることは、ただ安静に過ごすことだけ。その意味は、何もしないということ。そんなの、あんまりだ。
「……」
仰向けに転がる。天井の照明がいやにまぶしくて、ぼくは目を細めた。
「……もう寝よう」
電気を消して、毛布を上からかぶった。すぐさま真っ暗な闇が広がる。早く眠ってしまえば嫌なことも忘れて、いい気持ちで明日という日を迎えられる。きっとそうだと信じて、ぼくは今日も早く眠る。
「……」
身体に染み付いた習慣通り、微睡が少しずつ誘う。
一つあくびをして、ぼくはそのままゆっくりと眠りに落ちた。