交友関係NTRアンハッピーセットを食らって女性不信拗らせた親友と朝起きたら女になってしまった俺 作:北京院
ホームルームが終わった直後、担任が日直の翔太へと紙束と返却物を押しつけてきた。
翔太が紙束を受け取って立ち上がる。
「悪いけど、これ準備室まで運んでおいてくれ」
「わかりました」
「手伝おうか?」
「いや……すぐ済む。先帰るか?」
「待っとく。そうだ、なんなら監督してやろうか?」
「邪魔になるだけだろ」
軽く片手を上げて、翔太は教室を出ていった。
教室のざわめきがゆっくりと薄れていく。
最後の数人が「じゃあなー」と手を振って出ていき、扉が閉まる音が響いた瞬間、教室は一気に放課後の空気に変わった。
静かだ。
窓の外はまだ明るいのに、教室の中だけ時間が止まったみたいに感じる。
俺は自分の席に腰を下ろし、ふぅ、と息を吐いた。
……こうして一人で教室に残るの、久しぶりだな。
最近はこの程度のことでいちいち身構えなくなった。最初の頃なら「一人で待つのも面倒だな」と思ったかもしれないが、今は別にどうということもない。
ふと、窓ガラスに映った自分の姿が目に入った。
セーラー服の襟、胸元のリボン、肩にかかる髪。どこからどう見ても美少女な女子高生がそこにいる。
……いや、俺なんだけども。
スカートの裾がふわっと揺れるたびに、下半身がスースーする。冬服になってタイツを履いたためマシになったとはいえ、座ると太ももにひやっとした空気が触れる感覚は、どうにも落ち着かない。
胸元も、地味に邪魔だ。制服の布が常に押し返されている感じがして、姿勢を変えるたびに微妙に位置がずれる。男の頃には存在しなかった『前方の荷物』が、いちいち意識に引っかかる。
完全に別ジョブだよな。種族から違うってレベルか。
男の頃の俺は、平均よりちょい上くらいのフィジカルだった。体育もそこそこできたし、腕力も普通にあった。
それが今や、序盤のザコモンスター以下だろう。
腕を軽く振ってみる。細い。軽い。力を入れても、昔みたいに筋肉が反応しない。
窓ガラスに映る自分の腕は、どう見ても女子の腕だった。白くて細くて、頼りない。
……まあ、今さら言っても仕方ないか。
教室の静けさが、逆に落ち着かない。窓の外から吹き込む風が、スカートの裾を揺らす。なんとなく、いつもより冷え込んでる気がする。
鞄を持って昇降口へ向かい、靴を履き替えて外に出た。準備室は校舎の一番奥だ。戻ってくるまでにはちょっと時間がかかるだろう。
スマホをいじるふりをしながら、特に何も考えずに突っ立つ。
……平和だ。何も起きない放課後というのも、悪くない。
そう思っていたのが、悪かったのかもしれない。
スマホの画面を意味もなく眺めていたら、誰かに声をかけられた。
「ねぇ、もしかして一年?」
聞き覚えのない声。
顔を上げると、ネクタイの色が違う──上級生だ。整った顔に、余裕のある笑み。見たことのない先輩だった。
声は軽い。けれど、距離が近い。俺のパーソナルスペースに、ためらいなく踏み込んでくる。『慣れてる』やつの顔だ。
「……はい?」
「いやいや、怖がんなくて大丈夫。あ、ちなみに俺、三年ね。ちょっと前から気になってて。名前、聞いてもいい?」
『怖がんなくて大丈夫』と言うやつほど怖い。これは人類共通の真理だ。
知らない先輩からの、わけのわからない理由による接触。ジャンルとしては典型的なナンパってやつか? 初めてされたな、そういうの。そりゃそうか。
というか前から気になってたなら、せめて学年ぐらいはわかっておけよ。二年のリボンしてるだろ、俺。どこに目を付けてるんだ。
「すいません、待ち合わせしてるので」
「誰、彼氏? それとも──」
「友達です」
「ふーん。じゃあちょっとだけ。連絡先教えてよ」
じゃあちょっとだけ、じゃない。『じゃあ』の意味がわからない。
こっちは断ってるのに、会話の流れを勝手に上書きしてくる。なるほど、こういうタイプは初めてだ。「お断りします」のシグナルを一切受信しない仕様らしい。
会話を畳もうとしたが、相手はこちらのテンポを完全に無視してくる。
「いえ、結構です」
きっぱり言って、横を抜けようとした。
そいつの足が、俺の進路を塞ぐように一歩踏み出した。自然な動きに見せかけて、逃げ道を潰す。完全に慣れてるやつの動きだ。
「そんな急がなくてもいいじゃん。ちょっとくらいさ」
声は軽いのに、距離は近い。俺の肩にかかる影が、さっきより濃い。
俺は横へ避けようとした。相手も同じ方向へ動いた。反対へ避ける。また塞がれる。
──あ、これダメなやつだ。
身体が、先に理解した。
男だった頃の俺なら、ここで一歩下がって距離を取れた。でも今は、足がすぐに動かない。スカートの裾がふわっと揺れて、余計に動きづらい。
胸の奥がざわつく。嫌な汗が背中にじわっと滲む。
「ほんとにちょっとでいいからさ。ね?」
その『ね?』が、妙に粘ついて聞こえた。
俺はもう一度、はっきり言った。
「いいえ、結構です」
今度こそ抜けようとした──その瞬間、手首を掴まれた。
「ちょっとちょっと、そんな急がなくても」
軽い力のはずだ。少なくとも、向こうはそう思っているんだろう。
だが、振り払えない。
力を込めても、指がするりと滑るだけで、捕まった手首はちっとも自由にならない。男だった頃の感覚が、的外れなアラートを鳴らし続けている。こんな力、振り切れないはずがないのに。
たぶん、男だった頃の俺なら本当に振り切れていた。
腕を振って、距離を取って、「何なんですか」と睨み返すくらいはできたはずだ。
けれど今は違う。
向こうは別に本気で力を入れているようにも見えない。それなのに、手首ひとつ引き戻せない。
ゲームだったら能力値を見直したくなる場面だ。ステ振りを間違えたどころか、どこかに基礎ポイントを落っことしてしまったらしい。
心臓が、嫌な音を立てて速くなっていく。
「離っ……して……ください」
喉の奥がきゅっと縮まって、言葉が細くなる。男の頃の俺なら、絶対に出なかった声だ。
その声に、ナンパ男の目がわずかに細くなる。
「そんなに怯えなくてもさ。ちょっと話すだけだって」
『怯えてる』なんて言われたくなかった。怯えてるつもりなんてなかった。ただ、身体が勝手に反応しているだけだ。
でも、相手にはそんな事情は関係ない。むしろ、その反応を面白がっているように見えた。
胸の奥が、ぞわりと冷たくなる。
ヤバい。頭のどこかで、冷静な自分が言った。
逃げられない。足が動かない。
「……何してる」
低い声がした。振り返らなくても、誰のものかわかる。……思っていた以上に緊張していたらしい。その瞬間、肩の力が少し抜けた。
翔太の視線が一度だけ俺の方へ向いた。何も言わないまま、ナンパ男のほうを向きなおした。
表情はほとんど変わっていない。けれど、目だけが違う光を持っていた。普段の翔太からは見たことのない、静かな圧だった。
「は? お前、誰?」
「連れ」
短く言うと、翔太はこちらに歩み寄り、躊躇なくナンパ男の手首を握った。
俺を捕まえている手とは、まるで質の違う握り方だった。
「離せよ」
「お前が先に離せ」
声量は変わらない。それなのに、空気だけが急速に冷えていくのがわかった。
ナンパ男は一瞬鼻白んだような顔をしたが、すぐにつまらなそうに肩をすくめ、手を離した。
「……チッ、別に、本気でもなかったし」
吐き捨てるように言ったその目だけが、笑っていなかった。
踵を返して去っていく。後ろ姿を見送るまで、翔太はその場から一歩も動かなかった。
足音が完全に聞こえなくなったところで、ようやく翔太がこちらを向いた。
何も言わず、俺の手首にそっと触れる。さっき掴まれていたほうの手だ。
赤くなっているわけでも、痛むわけでもない。なのに、翔太はそこをしばらく確かめるように見ていた。
「……大丈夫か」
翔太が最初に言ったのはそれだった。返事をしようとしたつもりだったけれど、声が出なかった。
「樹」
「……うん」
もう一度呼びかけられて、なんとか応えられた。
翔太はそれ以上、何も聞いてこなかった。
歩き出してからも、しばらく足元が落ち着かなかった。手首にまだ何かが残っているような感覚がある。
痛くはない。跡もついていない。軽く撫でてみたけれど、何も変わらない。
手首を見下ろす。白くて細くて、頼りない。なるほど、と謎の納得感があった。
帰り道、しばらく言葉もなく並んで歩いた。気まずいわけではなく、いつもの距離感に戻っていく途中、という感じだった。
「……次からは監督するか?」
ぽつりと、翔太が言った。さっきの件を引き合いに出しているのは、すぐにわかった。
ふ、と声を出して返事をしてやる。
「サボらないように見張っといてやろうか」
「誰がサボるか」
軽口の応酬。さっきまでの静かな圧が嘘みたいに、いつもの調子に戻っている。
それが、なんだかありがたかった。
手をぶらぶらと振りながら歩く。自分の小さい手を見た。まるっこくて可愛らしい、美少女の手だ。
「やっぱり作業員って感じじゃないよな、うん」
「……俺が監督してお前が運ぶ役でもいいんだぞ」
納得している俺に、翔太が余計なことをいう。
バカいうなよ、適材適所だろ?
「向き不向きがあるだろ、力仕事はお前だ」
「……頭脳担当にしては足らないだろ」
「はぁー? 頭の中身は変わらないが?」
「だからだろ。お前は監督にも向いてない」
「なぁにをぉ!?」
言ってくれるじゃないか、と笑いながらいう。
帰り道は晴れていた。