137.寒救援斗出辺路伏面子.
「ク──」
なんとも、なんとも。
毎度のことながら機会というものを逃し続けるものだ、と思った。
1度目は、既に滅びた世に生まれ出でた瞬間。2度目は夢魔として最上の獲物を見つけた瞬間。3度目は姫としてある国に取り入った後。4度目は──。
いくつもいくつも、己の中には後悔が残っている。
あの時ああしていれば、もっと楽に。もっと面白かっただろうに。もっと早く、欲しいものにありつけただろうに──と。
「それで、どうするつもりかえ? 主さえも昏睡状態となった箱舟──機能自体はしているようだが、時間の問題であろう」
「ならば行けばいいのではないでしょうか。貴女は既に、彼女から魔力を貰っているはず。繋がりは途絶えていないでしょう」
「ククッ、何を言うかと思えば。……吾が夢に囚われるなど、どう転んだとして無理なことよ。夢魔故な」
「無理強いはしません。彼の世界には私の端末が入り込んでいるので、全てが終わった後、その情報の収集は可能です。ゆえ、私自身も行く気がありません。動ける者が貴女しかいなくとも、貴女が行かないのであれば、仕方のない事でしょう」
どうでもいい、という態度ではない。
なるようになることを知っているから焦る必要が無い、という、シエナには無かった余裕だ。
ザグルス。始の点の元主。ヒトから生まれた魔物。ヒトであった魔物。
「仕方のないことでしょう、って。貴女ね、この迷宮の機能が完全復活しないと、私達は窮屈な思いを強いられるままってわかってるの? 肝心な時にウィドアルはいなくなっちゃうし。せめてクロムクラハだけでも起こせないのかしら」
「無理です。事を起こした神の力に敵う存在は此方にはいません。強いて言えば恵理須の三柱が該当しますが、彼女らの助力を願うのは難しいでしょう」
「クク、そも……梓も、クロムクラハも、梓・ライラックを元にしている。たとえ人格に差異があろうと、そんな細かい違いに気付けるような神ではあるまいよ」
「自分達は関係ないからって……ああ、もう」
見るからに苛立っているルルゥ・ガルに、これまた笑うしかない。
まさか彼女が人間の事で腹を立てる日が来ようとは。それも──その安否を考えて。
魔法少女は死なない。
魔法少女は、だ。ただの人間に戻った者達は普通に腹を空かせるし、普通に生理現象を行う。それが眠ったままとなれば、どうなるか、など。
あの日から誰1人起きていないのだ。プリメイラやローグンといった、こういう事態にすぐにでも対処できそうな者達まで。それほど神の力が強い、というのはある。
だが、それ以上に。
「ク──それで、ザグルスよ。
「いいえ。彼女の魂は未だ確認されていません。彼女があった元の位置では、時間が経つにつれ少しずつ大きくなっているキスキルの結晶があるばかり。冥界に溶けたか、夜の使徒になったか。どちらにせよ、彼女が現れたのならばわかるはずなのですが……」
「あの野蛮人もいないんでしょ? ちょっと気になるのよね。ただ夢を見ているだけでなく、肉体まで、となると──どこかに穴が開いている可能性が出てくる」
「【亜空】で移動したのではないのか?」
「別に詳しい事を言うワケじゃないけど、あれは移動のできる魔法じゃないわ。全員格納したら、本人が移動しなきゃいけないはずだし」
「その通りです。ので、消えたのはエリス、梓・ライラック様、そしてレーテー様自身となります」
恵理須──眠りについた世界まで
単純に神に眠らされている、だけではない。
あちらに引き留められる何かがある。
夢魔として、知っている。
誰かを夢の世界に引き留め続けることは案外難しいのだ。その夢に、現実の全てをかなぐり捨ててでも縋りつきたくなるものがあるか、あるいは現実に飽き切っているのでもない限り──夢に居続けるというのは、大きなエネルギーを要する。
目覚めることができない、なんて。
あり得ない。少なくとも健康な彼女らがそうなることはない。
「……やっぱり、コレ?」
「可能性は高いかと」
「クク──そも、名がレーテーであるからなぁ」
コレ、と。
触りたくもない、と言った様子でルルゥ・ガルが指さすのは、ある紋章。
梓がレーテーと呼んでいた……安藤アニマから貰ったという魔道具。
まだ起きていた頃のディミトラ曰く、あり得ない、のだそうで。
他の魔道具は、彼女自身が作り得るかは関係なしに技術で再現している。【幽拐】や【槌憶】でさえ魔法少女の核の構造を知り尽くした上での再現だ。
だが、【亜空】の再現となると、話が違うのだと。
そもそも【亜空】──亜空間ポケットは、レーテーが自らの魔法を他の魔法少女らにも使えるようにした、というトンデモ技術。一時期魔法少女だったからこそわかる。魔法とは"わかる"ものであって"扱う"ものではない。
自分の魔法の劣化版を誰もが使えるようにする、など。
それは権能による庇護を与える神が如き行為だ。
その上で、それの再現。
「曰く──誰でも開ける、らしいが。どうだ、入ってみる気はあるか?」
「お断りするわ。私にはみんながいるし」
「私も遠慮します。未知なる空間に浮足立つ程好奇心にあふれてはいませんので」
「ククッ、吾も特に入る理由は無いが──……」
梓やディミトラの読みでは、この中に国や輝きの園がある、とのことだった。
だが、クロムクラハがどれほど探してもそれはなく。
それを探し始めたあたりから、この事件は起き始めた。
まぁ。
どう考えても──原因はコレで。
「クロムクラハが必要なのだろう? 取ってきたらどうだ」
「い・や。私、これでも下準備とかする方なのよねー。何もわかっていない所に突っ込んだりしないわ。あの野蛮人さえいなければ、色々なことがもっと上手く行っていただろうし」
「夢とはいつか目覚めるもの。それまで耐え忍べばよいだけの話でしょう」
「ク、ならば仕方ない」
お、という期待の目。
分身か、式鬼でも飛ばすか、という言葉を待っているのだろうことは目に見えてわかる。嫌々言ってはいるが、事態の解決は早い方が2人にとってもありがたいはずだ。
ゆえ。
「放置で良いだろう。なぁ──ククク、誰も見ていない所で、勝手に行くのは構わぬが」
「……」
「そうですね。どうぞご勝手に」
まぁ、行くのなら。
お守りくらいはつけてやるか、なんて考えながら──、
「キリバチ様、エミリー様。お誕生日おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「うむ、うむ。めでたいめでたい! 今年も我が家は安泰安泰! ということで、どれ、一つ──」
「アナタ? お酒は後で、とさっき言ったばかりでしょう。せめて祝い事の間だけは、素のままのアナタでいて。キリバチもエミリーも……頑張っているのだから」
「む、む。……そうだな。そうだな。それくらいは、自制するか。……よし、よし。話し過ぎたな。さて──では、改めて! キリバチ、エミリー。
「アナタ? 余計なコト言わないの。それじゃ、堅苦しいのはここまで。パーティを始めましょう?」
ぶっ飛んでいった当主様。連れ戻した方が良いかを一瞬考え、今はキリバチ様とエミリー様へご奉仕する方が大事だと判断。
未だこういう催し物に慣れない様子のお2人。彼女らの前の皿に、次々とお料理を取り分けて行きます。
私や姉以外のメイドたちも忙しなく動き始め──。
「こら、ローグン、リヴィル。皆さんも、ダメでしょう?」
「……いえ、ですが」
「口答えしないの! 今日はみんなでパーティを楽しむ日なのだから──働いてはダメ。料理をする必要も無ければ、給仕をする必要もない。そう言ったはずよ?」
「はい。なので、後々……」
「ローグン!」
ビクッとなる。
……幼き頃から聞いている声だけに、大きな反応をしてしまいますね。
「口答え禁止と何度言ったらわかるのかしら。ね、キリバチ。エミリー。ローグンと、今こそこそと働こうとしているリヴィルを、2人の席の隣に座らせてあげてもいいかしら?」
「勿論です、母上」
「ええ、しっかり監視しますね」
「……使用人がお嬢様方のお隣に座る、など……」
「大人しく座れ、ローグン。お前との問答のせいで、折角の料理が冷めてしまうぞ」
「──申し訳ありません。直ちに」
この声には従うしかない。
EDENでの上下関係が抜けていない──だけではないように、最近感じる。
まるで、キリバチ様の下で働いていたことがあるような感覚。今がそうではないかと問われたら、家単位で見ればそうなのだが、私の雇い主はあくまで当主様だ。だからこの感覚はおかしい。
「ローグン?
「……はい、エミリー様」
これもまた、おかしなこと。
今の言葉に──どこか、胸の痛くなる要素があっただろうか。
祝い事。その最中に、悲しいことなど1つもないはずなのに。
お2人のお誕生日。当主様が失言なさった通り──養子であるエミリー様の誕生日が、キリバチ様と同じであったのは凄まじい偶然だ。さる家が無くなった時に、そこの当主様より託されたというエミリー様。幼き頃より共にあったがために、その事実を知ったのはつい最近のこと。
それにしては、似ているけど。
成程確かに、名前の響きは違う。
ただ、失言といえど、それは別に悲しい事ではないはずだ。
少なくともエミリー様にとっても、私達にとっても、養子である、という蟠りは存在しないはずで。
ならばこの痛みは。
「そういえば、エミリー? 貴女、好きな人はできたの?」
「え? え……えと、お母さま。エデンは女学園ですよ? 男の人など……」
「別に女の子でもいいのよ? キリバチにそういう浮ついた話がないのだもの。エミリーは可愛らしいのだし、そういう恋の……ラブの話を聞きたいわぁ」
「おや、母上。それは、私は可愛らしくないと。そういう事でしょうか」
「だぁって、キリバチったら口を開けば教育ガー勉学ガー発展ガーで、恋の話なんてこれっぽちも出してくれないんだもの。勿論貴女は自慢の娘だけれど、親心としては恋愛の1つくらいしてほしいわ」
──自分のことなど隅にでも置いておいて。
夫人様──カンザキ様の言葉に高速で頷く。
「ローグン、その肯定は、私が可愛らしくない、というのを認めている──と言う事で良いのだな?」
「い、いえ。そちらではなく、エミリー様がやキリバチ様が恋愛をすべき、という方で……」
「ふむ。それを言うのなら、ローグン。お前、確か恋人がいたな」
「え」
「え!?」
「それ、本当? リヴィル……こっそり。こっそりよ。私に名前を教えて?」
「リヴィル、ダメです。カンザキ様に伝わると、1日後には家中に広まってしまいます……!」
「否定しないという事は、本当なの?」
「あ、いえ。その」
とてもマズい事に気が付く。
姉を含め──この場での弄られ役は、私だ。いつもは弄る側であるだけに、防御が。
「……本当です」
「まぁ! まぁまぁまぁ!」
「ほう……等と顎を撫でつつ、実は知っている私ですが」
「キリバチ、教えて。一生のお願いよ!」
「母上、貴女は今までに何度一生のお願いを使いましたか?」
「月に3度は言っているわね……」
「お母さま、ご安心ください。リヴィルは押しに弱いです」
「いえ、別に隠し立てする事でもないので言いますが、えるるーですよ。ほら、私達が学生だった頃、たまに遊びに来ていた……」
「──へぇ~。へぇ、へぇ~」
後で姉には仕返しをするとして。
まずい。少しだけ頬が赤熱しているのを感じる。早く冷静にならなければ、更に弄られる。
「顔赤くしちゃって、可愛いのねぇ。うんうん、うんうんうん! やっぱり女の子同士でもいいのよ。恋愛というのはするだけで心が豊かになるのだから……だから、ね? エミリーも、そしてキリバチも。恋愛なさい! 人生はまだまだ長いのだから……結婚まで行かなくていいから、こう、大恋愛を!」
「ちなみにですが、ローグンはたまに理由をつけて学園に行ってはえるるーとイチャイチャしてますよ。先日新聞部を名乗る少女らからこんな写真を頂きました」
渡されるのは──奪おうとして、にっこりと笑うエミリー様に止められる。
ああ。ああ。
「まぁ! こんな熱烈に抱き合って……これ、もしかしてキスしてるのかしら?」
「い、いえ。この時は抱き合っただけで……」
「こ・の・時・は! つまり!? つまり!? 他の時は……どこまで?」
「カンザキ様、流石にそれは下世話というもので」
「いいじゃない、いいじゃない。どうせ今あの人はいないし、侍従も女の子しかいないんだから──話してよぅ。聞きたい、聞きたいわ。ね、どこまで行ったの? ううん──どこまでヤったの?」
「キリバチ様、エミリー様、お助けを……」
「私は知っているからな。エミリー次第だ」
「えと、その……きょ、興味がありますね」
ああ、最後の救いが。
糸は断たれました。私を守る方はここにはいらっしゃらないようで。
「ふむ、ふむ。なんとか帰って来てみれば盛り上がっている様子。どれ、どれ。私も宴会を──ヌワーッ!?」
「……カンザキ様。何も魔法を使ってまで追い払わなくても……」
「今良いトコロなのよ! ──恥ずかしいのなら、後で私の部屋に来て。それで……どこまで進んだのか教えて?」
「き、キスだけです! そんな、変な事はしていません!」
「嘘吐け。この前早朝にこそこそと帰って来たくせに」
「リヴィル!」
キャー! キャー! なんて騒いでいるカンザキ様とエミリー様。
抱き合って……ああ、仲のよろしいことで、よかったです。私をダシにお誕生日会を楽しんでいただけるのであれば、それに越したことはありませんよ。はいはい。
「母上、少し席を外します。存分にローグンを詰めてください」
「? ええ、わかったわ。あ、あの人の事なら気にしないでいいわよ?」
「はは、大丈夫です。一切気にしていません」
「それはそれで少し可哀想ね……」
席を立つキリバチ様。
姉に目配せをする。勿論、ついていけ、という意味で。
しかし姉は首を振った。
?
これは、途中抜けすることも、ついてくるな、ということも言い含められている?
「……その、話すのは、構わないのですが。少しだけ心の準備のお時間をいただけないでしょうか。その間、お食事をしていていただいて……」
「そう言って逃げる気でしょう? 大丈夫よ、エミリーだってもう大人だもの。少しくらい過激なコトだって……ねぇ?」
「は……はい。きょ、興味があります」
「そうよね、そうよね! ──そうよ、エミリー。もっとガツガツ行っていいのよ。大丈夫、押せば話してくれるわ。いい? こういうのを職権乱用、パワーハラスメントというの。覚えておきなさい。そして有効活用しなさい。セクハラでもいいわ」
「は、はい! では……その、リヴィルには、ないんですか?」
「えっ」
「ふん、これは自分に来るとは欠片も思っていなかった反応ですね」
「そうね、リヴィルだって長いんだし、それに薬学に通じているんだから……媚薬とか、詳しいんじゃないかしら」
「媚薬……!」
よし。矛先がずれた。
最高の援護射撃ですエミリー様。
「あ、では、必ずお話はしますので、私はすこしお花摘みに」
「──必ず話すのよ。必ずね」
「も、勿論でございます!」
こうして。
私は猛禽類の巣から抜け出すことに成功したのだった。
「……そうか。ああ、わかった。手配はしておく」
「けど、いいのか? ザ・幸せって感じじゃねェか。──失うンだぜ、ソレ」
「すでに失ったものだ。……元気な母上、父上を見ることができたのは、少しばかり嬉しかったがな。こうして……昔のようにはしゃいでいる母上を見る事もできた。年相応のエミリーもだ。十分さ」
思わず気配を消してしまった。
家の裏。高い生垣に隠れたそこで、キリバチ様と誰かがしゃべっている。
聞いたことがあるような、ないような。そんな声。
「今」
「……?」
「アンディスガル……鬼教官が一番よく知ってるだろう梓が、この即時蘇生の仕組みを解除しに行ってる。その間俺達にできることは、少しでも皆に"前"を思い出させること。そのパターン……誰が思い出し、誰が思い出さないのか、何故そうなるのか、を調べること」
「魔法を奪われた者、ではないのか?」
「それなら暴走繭が思い出してるはずだろ」
また──胸の奥が痛くなる。
恋心、などではない。──これは、魔力?
何か、ある。
自分のものとは違う、何者かの魔力。真っ黒で、どす黒く、夜の色をした魔力。
「それと……」
「ああ、少し待て。──ローグン。盗み聞きはやめておけ。そのまま疾く立ち去るか、こちらへ来い」
「ン? あァ冷静メイドだったのか。誰かいるなァとは思ってたが」
「思っていたのなら言え。私もローグンがいるなぁとは思っていたが」
「思ってたンじゃねェか言えよ」
「言っただろう今」
随分と。
仲がよろしい様子。
──壁裏から、出る。
そこには。
「ッ、キリバチ様、お下がりください!」
「む?」
「コイツは──魔物です!」
魔物に攻撃を仕掛ける、のではなく、キリバチ様の前に立つ。
私達の役目はキリバチ様、エミリー様の護衛。魔物の討伐ではない。
「……ハハ、今更過ぎて今何言われたのか分からなかったよ」
「ああ、ローグン。そんなことは知っている。それともなんだ、私はそこまで耄碌したと、そう言いたいのか」
「してンじゃねェの? 少なくとも平和ボケはしてそォなモンだが」
「【痛烈】……チッ、精神体か」
「あァよ」
それは──見るからに高位の魔物だった。
最小限に隠してはいるが、魔力純度も魔力密度も格上。翼を含む全身が半透明でありながら、その存在感はそこにあるだけで圧されてしましそうなほどに濃い。
ヒトガタで、言葉を操り──何より人里に寄りつくような魔物。
顔は。
「──ライラック、様?」
「あァまァその辺の話長ェからいーよ。俺はクロムクラハってンだ。梓の仲間さ」
「クロムクラハを見ても、ローグンは思い出さないか」
「だな。ま、魔法も奪われちゃいねェ、死んでもいねェ奴だ。他の思い出してない奴らと同じなンだろ」
黒い魔力が揺らめく。
発すべき言葉がある。聞かなくてはならない言葉がある。
必要なコト、だろうか。
それとも。
「──問題ありません」
「お?」
「ふむ」
多分。これは──私の口癖だった気がする。
今もたまにいうけれど。
忘れてしまった何かの中で、私は。
黒い魔力を掴む。
わからない。これはなんだろう。私の中にあって、私のものでなく。
私について離れない。私にくっついて離れない。
「──
呟くと、どこかがズキりと痛む。
今の言葉はなんだろう。知らない言葉だ。
目の前の魔物が大きく目を見開くのはわかった。
「無理するな、冷静メイド。知らないままに使うにゃ、リスクが高い」
「ローグン。別に、思い出さずとも良いんだ。お前が忘れていようと、元通りの働きを期待している。お前もそれだけで十分だろう」
「
まただ。
痛い。この痛みは経験したことが無い。脳から脊髄の全てに針で穴を開けるかのような痛み。
「馬鹿、ダメだって。つかンなことしたって思い出せやしねェよ。それはただの、俺からのアンカーっつか、お願いなんだから」
「
「おいおい……」
痛み。痛み。
痛み痛み痛み。
ふざけるな。
たとえ今が戦時でなかろうと、災禍になかろうと。
私を変えた──エミリー様を救った、キリバチ様を改めさせたあの方を。
忘れる、など。そのために。痛みなどのために、立ち止まるなど。
「私の、名前は」
「やめておけ」
気配。近づくまでわからなかった。
生垣を越えて──その方は。
「おい、何ナイフなど構えている。こちとらお巡りさんだぞ。国家権力に歯向かう気か?」
あと少し、だったのに。
妙な方が現れました……。
「ニヤニヤ丸眼鏡……」
「む、なんだこの魔物は。国家権力に対して失礼な。お巡りさんだぞ。逮捕するぞ」
「うるせェな似合ってねェんだよ。何がお巡りさんだ気色悪ィ」
「そのようなことを言われてもな。職業差別か、ん? たとえ魔物であっても逮捕はできるぞ。手錠は反魔鉱石でできている」
うぜェ。
単純にうぜェ。まァ冷静メイドの暴挙ともいえる世界言語の連続使用を止めてくれたのァありがたいけど、なんだこのノリ。ノリっつかキャラ。うぜェ。
……マジでサツなのか? コイツが"前"を覚えてねェってことあり得るか?
あれ、つか。
コイツ、メイアートに異空間送りにされたンじゃなかったっけ。
なんでいるんだ?
「何用だ、ジャハンナム」
「今はゲヘナとしてここにきている。キリバチ。お前の家から成人男性が飛んできたと通報が入った。幸い被害という被害は出ていないが、このまま続くのであれば通行人に被害がでかねない。ゆえの注意だ」
「……わかった。強く言って聞かせる」
「そうか。ならいい。それでは私は戻る。何が楽しくて定時終わりから新たな仕事を請け負わなければならないのか」
言って生垣から去ろうとするニヤニヤ丸眼鏡。
……まァ待てって。
「【移様】」
「……何用だ、魔物」
「なーンも知らねェってな無理があるだろうよ。冷静メイドの乱用を止めておいて、一般人のフリなんざかなうかっての」
「いいか、魔物。国では飼育用とされた魔物以外の侵入を禁じている。お前は不法侵入なんだ。翼を見るに飛んで侵入してきたようだが、しょっ引かれたくなかったらとっとと出ていけ。私はこれ以上仕事をしたくないんだ」
「いい加減そのうぜェキャラやめろ。何も知らねェフリするにァ無理があンだよ。てめェ、どーやって異空から出てきた。メイアートが封じたはずだぞ」
「初対面だぞ。初対面のお巡りさんにうぜェとは教育のなってない魔物だな。教育のなっている魔物の方が珍しいが。で、なんだ。異空? ファンタジーに現を抜かすお年頃か? 魔物だからな。魔法が使えないのが悔しいか。メイアート? 名画をそう訳する事はないぞ」
うっぜェ。
ぶん殴っていいか。
「何かは知らんが、私は帰るぞ。……あぁ、だが1つだけ」
「だから、逃がさねェって──」
「──服は着た方がいいぞ。魔物には無い文化だろうが、人間は服を着るものだ。その年頃の少女が全裸でいる、というのは一部の大きなお友達にとって格好の的におっと。それではさらばだキリバチ」
うるせェな。
ぼやけてンだからいーだろ。
それよか、アイツ今【移様】避けたか? 権能だぞ?
……だよな。避けられるモンじゃないよな。じゃあアイツ、やっぱニヤニヤ丸眼鏡か。
「すまねェ、取り乱した」
「いや、大丈夫だ。私も奴と初めて会った……私を思い出してから奴と会った時は驚いたものだ。だが、どうやら奴は本当にこちらの奴らしい。思い出す思い出さない以前に、奴はそもそも眠っていない、というのが正しいのではないかと思っている」
「……あー。なるほど。だから、あのニヤニヤ丸眼鏡はこの世界のニヤニヤ丸眼鏡本人って……いや、だったらなンで世界言語やら権能を……」
「わからんが、奴は学園長にさえ顔が利く。昔何かあったのかもしれん」
学園長。
……そうか。そォいや安藤さんとか学園長殿と知り合いみてェな事言ってたし、なんかあるのかもな。学園長殿に、安藤さん側……
「クロムクラハ。とりあえず私達は戻る。……ローグン、立てるか?」
「……はい。申し訳ありません。お見苦しい姿を見せました」
「そうだな。護衛が、守るべき者の前で自らに刃を向けるなどあってはならない。そんなことをして何かを得たとして、私やエミリーは悲しむだけだぞ。無論、父上と母上もな」
「……はい」
その諭し文句に。
ちょいとまァ、思う事はある。
だって。
「──良い夜を。鬼教官殿」
「お前もな。会いに行っておけ。想う相手がいるのなら」
彼女の両親は既に亡くなっていると──知っているから。