たわけはいつもそうだな、私のことなんだと思ってるんだ!? 作:織葉 黎旺
四月半ば。あいにくの曇天。重バ場と化したターフを尻目に、ウマ娘たちは室内練に励んでいた。雨だからこそ、筋トレでのパワー上げやプールでのスタミナ増加、雑巾がけに専念することができ、それが捗るのである。……雑巾がけ?
「精が出るな」
練習の音や掛け声を聞いて、エアグルーヴはしみじみ呟く。身体を鈍らせないように、筋トレだけ軽く終わらせた彼女は、ミーティングのためにトレーナー室へとやってきた。
「失礼する」
軽くノックして入室すると、白いソファでカップラーメンを啜っているトレーナーと目が合った。
「ん、来ひゃか」
「啜りながら喋るな! 行儀が悪いぞ、たわけ。絶対に零すなよ」
「え、フリ?」
エアグルーヴの尽力のおかげで未だ白く保たれているソファだが、実際幾度となくトレーナーによって汚されているため、どちらかといえば経験則による警告と警戒だった。
「しょうがねえじゃん、資料漁ってたら昼食い逃しちゃったんだから」
部屋の窓際に置かれたデスクを見れば、パソコンの上に資料が散乱していた。どうやらきちんとレースの対策を行っていたらしい。それなら、まあ──と目を瞑ろうとした矢先、机上の資料に広がる謎の大きなシミと、ウマ娘故感じられるような、微かな臭いが鼻をついた。
眉を顰めたエアグルーヴは言う。
「居眠りして目覚めたら既に昼下がりだった──と、そんなところか?」
「大丈夫、夢の中にも資料出てきたからさ!」
何が大丈夫なのかはよくわからなかったが、トレーナーは元気にサムズアップした。
「はあ、まったく……さっさとミーティングを始めるぞ」
「ういうい」
ちゅるる、と麺を啜り切ったトレーナーがレジュメを並べ始めた。
「んじゃ、次のヴィクトリアマイルの話だけど、まず出走バが──」
出走バのおさらい、戦法の傾向や対策、当日のコンディションやパドックの様子による作戦変更など、諸々話すうちに時はあっという間に過ぎ、気づけば分針は一周していた。
「──なんか真面目な話したら喉乾いたな」
「そうだな」
「なんか喉乾いたな〜〜〜」
含みのある視線を感じて、エアグルーヴは嘆息した。
「人に物を頼む態度を改めなければ、次はないぞ」
「うむ、苦しゅうない」
秒で愛想を尽かしそうな返答に背を向けて、エアグルーヴは湯を沸かしに行く。給湯器の電源を入れ、窓の外に目をやると、先程より明らかに雨量が上がっていた。ウマホを見れば、37mmの豪雨との通知が来ている。更には、分厚い雲に阻まれ、空は最早どす黒く染まり、ゴロゴロと不穏な音が響き始めていた。
「できたぞ」
「ん、ありがとな」
湯気の立ったティーカップを机に置く。アールグレイの仄かな香りが部屋中に広がり始めた。トレーナーはティーカップを口元に運ぶと「あちっ」っと小さく声を上げて、ふうふうと息で冷ました後、微かに音を立てて啜った。
「品がないぞ。貴様は猫舌なのだから、急がずゆっくり飲めばいいだろう」
「出来たてが一番美味えんだから、失礼だろうが」
続く二口目をスムーズに飲んで、トレーナーは角砂糖を投入した。
「……雨、強くなってきたな。ってか雷鳴ってるし」
刹那、閃光が見えた。エアグルーヴが難しそうな顔で瞬きして数秒、ゴロゴロと雷音が聞こえてくる。
「近いな……ん、お前大丈夫か? 顔強ばってるけど」
「……大丈夫だ」
大丈夫じゃなさそうな顔と間だった。いつもよりも何か、圧がある。「茶でも飲んで落ち着けよ」と、トレーナーはカップを勧めた。
「……いただこう」
いただくも何も、エアグルーヴの稼ぎで買った茶葉であり、彼女自身が淹れたお茶なのだが、その辺りは言葉の綾だった。
香りを少し楽しんでから、一口含み、喉に流した彼女は、身体が温まり落ち着く感覚に一息吐いたが、同時に弾けた閃光に、ビクッと身体を震わせ、持っていたカップを落とした。
「すまない、今片付け──!」
言いかけた矢先、雷鳴と閃光が同時に襲った。部屋のブレーカーも落ち、夕暮れの室内は薄闇に包まれる。それを受けたエアグルーヴはソファにへたり込み、身体を丸めるようにして、荒い息を抑えるように呼吸をした。
「……グルーヴ?」
訝しげに彼女の様子を窺ったトレーナーは、ああ、と手を叩いた。
「そういやお前、カメラのフラッシュとか苦手だもんな。だから雷もダメなのか」
「……ッ、ああ」
悔しそうな声音だった。天下の女帝として、汚点とも言える苦手なものを知られたことが恥ずかしかったのか、はたまたトレーナーに弱みを握られたことが悔しかったのか。多分どっちもだろうなぁ、とトレーナーは嘆息した。
「…………ふむ」
数秒、トレーナーは黙った。悩むような様子だけが伝わってくる。ようやく息を整えたエアグルーヴが、少し顔を上げると同時に、頭頂部にがっしりとした手の平の感触があった。
「雷、普通に怖ぇよな。五月蝿いし眩しいし、俺も子供の頃死ぬほど苦手だったわ」
優しい声音が滔々と響きながら、温かな感触が前後する。
「……まあ、気休め程度にしかならねえと思うけど」
緩急をつけて、手の動きは続く。
「動揺した時はこうやって人に触れてもらうのがいいらしい。俺も雷にビビって泣いた時、めっちゃお袋に撫で回されたわ」
言いながら、エアグルーヴの髪の毛をわしゃわしゃと掻き回した。手櫛を容易に通す、サラサラとした手触りは、よく手入れされていることの証であり、平時であれば間違いなく遊ばれていただろう。
「むしろ動揺するわ、たわけ」
顔を上げたエアグルーヴが、ぽつりと零した。暗闇のため表情は見えないが、先程よりは些か平静を取り戻したようだった。
「おら、茶でも飲んで落ち着け」
「それしか語彙がないのか、貴様は。……先程の停電でカップを落としてしまったから、復旧してから入れ直しだな」
「あー、そっか。んじゃ俺のヤツ、やるよ」
ほい、と何の意識もなさそうに、トレーナーはティーカップを渡した。エアグルーヴはカップを一瞥して、一拍置いてから、一口飲んだ。
「……甘すぎるぞ」
「甘い方が美味えだろ。ストレス解消とかになるし」
ゴロゴロゴロ、と、遠くで雷鳴が聞こえる。
「……うん、そろそろ大丈夫じゃねえか?」
「そう……だな」
蛍光灯が小さく明滅して、室内の明かりが戻った。エアグルーヴは、疲れたような表情をしているものの、それ以外はほとんどいつも通りの状態だった。トレーナーはテキパキと割れた破片を集めて捨てると、ひと仕事終えたように息を吐き「また雨強くなってきてもだりぃし、今日はこの辺で切り上げるか。ん? むしろ今だと帰宅ラッシュと被ってだるい……?」と唸った。
「──貴様さえよければ、もう一杯だけお茶を淹れてやる」
まばらに雨の降り続く窓辺に目をやって、エアグルーヴはぽつりと呟いた。フッと息を漏らす。
「んじゃ、おかわりもらおっかな」
トレーナーはカップを差し出した。視界の端で、「ああ」と素っ気なく受け取った彼女の、尻尾が靡いていることに微笑んで、ソファにゆっくりと体重を預けた。窓の外では、傘の群れが折り目正しく歩いていた。