たわけはいつもそうだな、私のことなんだと思ってるんだ!? 作:織葉 黎旺
「よし、余裕を持って着けたぜ」
「ああ」
頷くだけでそれ以外の反応を示さないエアグルーヴを見て、トレーナーは首を傾げた。普段の彼女であれば、『当たり前だ、たわけ』くらいは言いかねない。それを思えばだいぶ柔らかい方だった。
「……いよいよだな」
「……ああ」
スタンドを見上げ、エアグルーヴは小さく頷く。早朝の東京レース場は人気がまばらで、嵐の前の静けさを思わせた。
「早めに控室入りしてのんびりアップすっぞ」
「……いや、悪いが少し時間をもらいたい」
エアグルーヴの言葉にトレーナーは目を丸くした。
「走る前に一度、会場の空気を感じておきたいと思ってな。まだ余裕はあるだろう?」
「んなもん俺の財布くらいにはあるぜ」
二人はスタンドに上がり、観客席からターフを眺める。何度か来ているというのに、選手や観客の静かな熱気によって、蜃気楼のごとく表情を変えたような錯覚を味わう。
「なあ、今日はどの娘が勝つと思う?」
「やっぱりエアグルーヴだろ! 母娘二冠の瞬間が見たいし!」
近くの観客が、酒缶片手に盛り上がっている。実際、事前の予想でもエアグルーヴは一番人気だった。既にクラシックの一冠目──桜花賞を征していることもあり、大本命といえる。
「お、噂されてるぜ。こりゃきっちり期待に応えてやんないとな」
「そうだな」
いまいち生返事なエアグルーヴに、トレーナーは首を傾げた。
「緊張してんのか? それともなんか考え事でもしてんのか?」
「そのどちらもだ。……母が、どんな気持ちでオークスに臨んだのかと考えていた」
エアグルーヴの母は、名バと呼ばれるような立派な競技ウマ娘だった。数々の重賞で入賞し、華々しい記録を残しているが――その中でも一際目立っているのが、オークスの入賞である。
名バの娘として、エアグルーヴは
だが母にとっては、どうだったのだろうか。G1レースの一つに過ぎなかったのか、それとも何か大きな想いがあったのか――
「んなの、難しく考える必要はねえべ。走ればわかんだろ」
それは奇しくも、エアグルーヴが母に尋ねた際に返ってきた答えと似ていた。トレーナーの言葉に一瞬、エアグルーヴは虚を突かれたような表情を浮かべ、そして笑った。
「……ふっ、まさか貴様に指摘されるとはな」
「そりゃトレーナーだからな、一応」
「だがその通りだ」
頷き、軽く身体を解しながら、彼女は静かに闘気を滾らせ始める。
「私は今日、全身全霊をかけてオークスに挑む。そして――」
――女王を越える。
そう強く宣言した。
「やってやれ、“女帝“」
叩かれた肩に熱が籠もるのを感じながら、彼女は頷いた。
『若葉の頃、美しさだけが危険なまでに輝きを増す季節。選ばれしウマ娘たちが、たった1つしかない女王の座をかけて争います。東京芝2400m、冠に辿り着くのは一体誰だ!?』
火照る身体を落ち着かせるように、排熱するように深く息を吐く。見据えるのはただひとつ、ゴールラインのその向こうだけ。
「いま、ゲートが開きました……!」