たわけはいつもそうだな、私のことなんだと思ってるんだ!? 作:織葉 黎旺
「はあ、はあ……!」
エアグルーヴは肩で息をしながら、額の汗を拭き、飲料の入ったボトルを口にした。傍らでトレーニングの様子を見守っていたメジロドーベルが、心配そうに言葉をかけた。
「エアグルーヴ先輩、少し休んだ方が……」
「ありがとう、だが大丈夫だ」
微笑んだエアグルーヴは、軽く体を動かしながら、ターフの逆側に目を遣る。猫背の男が、多数の生徒に指導していた。皆、彼からの指示を聞き漏らすまいと真剣な表情で頷いており、
「……あの中の誰かと走ることになるんだな」
自分とあの男との問題に、後輩を巻き込むのは本意ではないが、指導を受ける彼女ら自身がそれを望んでいるというのならば、エアグルーヴには何も言えない。実際、彼女たちからすれば、トレーナーの指導を受けた上で『女帝』と勝負できる可能性があるのだから、一石二鳥だろう。
「すまないなドーベル、走りを見てやれる時間が減ってしまって」
「いえ、私のことは大丈夫です! 先輩自身のことを優先してください」
レース開催は三日後。しかしエアグルーヴは、己の調整にまだ満足していなかった。もっと疾く、もっと鋭く走れるはずだと──そう信じて疑わない。
「……でなければ、恐らく」
奴の戦略に
◇
当日。調布は春先の麗らかな陽気に包まれ、ともすれば観客の眠りを誘うようなのどかな気候であった。そんな中、芝の上には鋭い目付きでゴールを見つめる、金の卵たちの姿があった。その中でも一際尖った空気を放つ、ショートカットのウマ娘の様子を、周りは密かに窺っていた。
「……エアグルーヴ先輩」
「……お前は」
彼女の元に、一人のウマ娘が近づいていった。例のトレーナーから指導を受けていた一人である。
「今日はよろしくお願いします」
「ああ。巻き込んでしまって悪いな」
「いえ。むしろ感謝してるくらいです」
負ける気はないので、と彼女は歯を見せて笑った。
各自、自分の枠番の位置に着く。先程の彼女は3枠、内枠である。対するエアグルーヴは7枠、外枠であった。やや不利と見られる位置である。
ゲート入りして、エアグルーヴは深く息を吐いた。脳裏に浮かぶのは、奴の厳しい瞳。
──それは傲慢だよ。
否、と首を振る。それは責務なのだと、それこそ
ゲートが開いた。
「先輩、頑張ってください!」
応援を耳に、エアグルーヴは先頭集団の後方について様子を窺う。彼女の持ち味はその抜群の末脚にある。それを活かすべく、有利な位置についてレース全体の流れを窺うという作戦だ。
先頭は一人、逃げでの振り切りを狙っているようだが、あまり差をつけられていないところを見ると、途中で飲まれるかスタミナ切れを起こすだろう。
その後ろに、例の後輩を含めた五人ほどがつき、その後ろにエアグルーヴ、更に後方に続くといった様相である。エアグルーヴの後ろにも数名いるが、足音から見るに既に追いつけない位置にいる。
距離は中距離、2000m。既にその半分は過ぎた。戦況は未だ変わらず。残り800m、誰が、どこで抜け出すかに勝負がかかっている。
「いくよ……!」
最初に勝負を仕掛けたのは、二番手に控えていたウマ娘だった。先頭が失速してきたのを見て、素早くスパートをかける。つられて、後ろのウマ娘たちも徐々にギアを入れていく。
「ここだ……ッ!」
前のウマ娘を抜こうと列がバラけ始めたのを見て、エアグルーヴは強く芝を蹴る。狙うは、内側に開いた隙間。力溢れる走りで一人、二人と抜いたが、件の後輩がエアグルーヴを前に行かせんと立ちはだかる。
「いかせませんよ……っ!」
的確なブロック。他のウマ娘もエアグルーヴを警戒しているようで、先頭への隙間は埋められてしまった。
「甘い!」
スペースがないなら作ればいい。エアグルーヴは溜めていた足を解放し、一気に大外に回る。そうして一歩、前に抜きん出た。
「うおおおお!!」
そんなエアグルーヴに、後輩は必死に食らいつく。足を貯めていたのは彼女も同じらしく、差は一向に広がらない。併走の形で、スタミナ切れで落ちてきた逃げウマ娘のところまで上がってきた。観客からのざわめきが広がる。
「負けるか……ッ!?」
──それは一瞬の出来事だった。
逃げウマ娘の横を、エアグルーヴが一瞬早く通り過ぎ、それに追随して後輩が抜かそうとした時。後輩が少しでも前に行こうとインサイドを攻めてしまったことと、スタミナ切れの逃げウマ娘の体がふらついたこと、悪い偶然が重なり合った結果、彼女らの体が接触してしまった。
「きゃあっ!」
言うまでもなく、ウマ娘は車並みの高速でターフを駆けている。その勢いで走る物体が接触すれば、ただではすまない。
「うっ……!」
勢いそのままに倒れ込む逃げウマ娘、それに巻き込まれ、後輩も転倒しかける。が、それを寸でのところで支え、彼女らの勢いを軽減したウマ娘がいた。
「せ、先輩……ッ! だ、誰か救急車を!」
どうやら大事に至ったウマ娘はいないらしい、と、エアグルーヴは静かに胸を撫で下ろし、ゆっくりと瞬きした。
◇
「打撲ですね」
医師が眼鏡の位置を直しながら言った。
「周りの子たちも単純骨折に捻挫と、レース中の接触事故にしては軽く済んだ方ですよ。一週間ほど安静にしていれば問題ないでしょう」
「ありがとうございました」
湿布を貼り、テーピングで脚を固定され、エアグルーヴは診察室を後にする。待合室には浮かない顔をした男が待っていた。
「よう」
「……貴様」
顰められた眉は、頭を下げた男を見て少し上げられることとなった。
「すまなかった」
「何故貴様が謝る」
腕を組んだエアグルーヴは、無事な右足で小さく床を叩きながら問う。
「接触事故を起こせ、と指示したわけでもないだろう。あれが事故だったのは走っていた私が一番知っている。わかった上で止めに入ったのだから、貴様にどうこう言われる筋合いはない」
「そういうわけにもいかねえだろ。発端は俺のくだらない提案だ、それによって前途有望な
真剣な表情だった。軽薄で軽口で軽率な、最初の印象とは違って見えた。故にエアグルーヴは、小さな疑問を抱く。
「……ならば責任を取ってもらおうか」
「ああ。トレセン学園を去ってもいいし、お前に付き従うトレーナーになったって、なんでもいい」
「話せ」
と、エアグルーヴは端的にそれだけ告げた。目を丸くする男に対し、エアグルーヴは言葉を続けた。
「貴様が勝負を提案した理由をだ。私が
「それは、言っても聞かねえと思ったから」
「そういうことを言っているのではない」
もっと根本的な部分の話をしているのだと、そう言った。
「貴様がそうなった理由、それこそを語らなければ責任を果たしたことにならんだろう」
「……ただの大人げねえ八つ当たりだよ。自分の憤りを、丁度その辺にいたお前にぶつけた。それだけだ」
「今更そんな嘘をつくな」
「いいや、本当のことだよ。
「アレは嫌だ、コレも嫌だと……貴様は聞き分けの悪い子供か? たわけ、子供でももう少し大人しいぞ」
「そうだな」
エアグルーヴは深く嘆息してこめかみを撫でた。数秒そうした後、おもむろに口を開く。
「これからどうするつもりだ」
「お前が何も求めないなら、トレーナーをやめるよ。言ったと思うが、トレーナーになったのも大した理由はない。むしろ、今回のでなるべきじゃなかったってことが判っちまった」
「それは貴様の本心か?」
「ああ、そうだよ」
「くだらんことを言うな!」
女帝は強く男を睨んだ。その瞳は憎しみではなく、怒りの色を強く映している。
「あれだけのウマ娘を同時に、的確に指導し、慕われる男がトレーナーに向いていないはずがないだろう」
「それは、あいつらにとって俺が唯一のトレーナーだったから──」
「それが違うのは貴様が一番わかっているはずだろう。それに、貴様だって──」
──あんなに楽しそうに、笑っていたのだから。
「指導が上手くいった時、タイムが縮まった時、壁を乗り越えた時。嬉しそうに微笑んで、よくやったと頭を撫でていただろう」
「……見てたのかよ」
「敵情視察は戦いの基本だろう、たわけ」
趣味悪ぃよ、とバツが悪そうに男は言った。
「自分の思いにまで嘘をつくな。いくら
「返す言葉もねえ」
お手上げと言わんばかりに、男は両手を上げた。その様子を見たエアグルーヴは眉を顰めて、重い口を開いた。
「貴様に、責任を取らせる」
「……ああ」
「私の杖となれ」
きょとんとした顔の男を他所に、エアグルーヴは続ける。
「貴様の言う通り、学園には『選ばれる』ウマ娘より『選ばれない』ウマ娘の方が多い。故に、貴様のようなフリーのトレーナーを遊ばせておく余裕はない。無論、
後輩への指導。女帝としての責務を、『杖』として共に担えと、エアグルーヴはそういった。
「……いいのか?」
「何度も言わせるな。責任を取るのだからいい悪いの問題ではない、やるのだ。それに貴様のようなたわけに、いきなり他のウマ娘を任せるわけにもいかないからな」
話は以上だ、とエアグルーヴは片足を引き摺って廊下を進む。男の隣を過ぎたところで、「待て」と声が聞こえた。
「──すまない、ありがとう」
「礼などいらん。そんな暇があったら、復帰後の練習メニューでも考えておけ。もしくは彼女たちを見ておけ」
「ああ」
足並みは揃わなくとも、彼らは共に、ひとつの場所に向けて歩き始めた。
「これからよろしくな」