さもなくば零章 悲劇的結末群──Orbital tragedy── 1-1
始まり。起源は太古。いつか来たる破滅を回避しようと誰もが奔走した。お前もまたその誰かの中の一人だった。
「──覚えがない。そんなこと、知らない」
続く。東に業あり。訪れた呪いの日、全てを諦めてしまった仲間たちの中にも、物わかりの悪い愚か者はいた。お前もまたその愚者の中の一人だった。
「──覚えていない。そんなの、知ったことではない」
続く、続く。最初の
「──覚えてない。そんなもの、知ったところでどうしようもない」
続く、続く、続く。周期的大災害。不滅の災禍に抗うはもう一つの不死。摩耗しては再構築するお前を、看取り続けた誰かがいた。
「──それは、覚えてる、かもしれない。そうではないかもしれない」
続く、続く、続いて、続き続ける。恥を知れと叫んだ誰かはお前のために泣いた。その度にお前は裏切った。
「──どうだろう、ただ胸が満たされたことだけ、覚えてる」
終わり。幾回も繰り返される見覚えのある見たことのない結末。終端なく同じ場所をくるりくるりと回り続ける周回軌道。
終わりの一言で締めくくることのできない、どうしようもない螺旋。
目が覚めたときには泡沫と消えるだろう終わりなき悪夢。
これが夢ではないと知っている。
これが過去の惨劇だと知っている。
これがいつかまた繰り返す未来の形だと知っている。
「──名残惜しい、とは思わない。きっと■は、また同じことを繰り返すから」
──だから、せめて、目が覚めて、また同じ結末を迎えるまでの間。それまでは。
──どうかあなたも、ゆっくりおやすみ。
零章 悲劇的結末群──Orbital tragedy──
──さもなくば
一章 刹那的大転換──Injection──
月の綺麗な夜だった。
ぐったりと意識を取り戻す様子のない少女を背負って逃げる。どたばたとみっともなく走り回って息が苦しい。土地勘のある地元でなければとうに追いつかれているところだ。
勤務先の病院付近の駐車場に転がり込んで息を潜める。車両の影に背負っていた少女を寝かし様子を見る。外傷は見当たらない。だがひどく衰弱し呼吸、脈拍も弱い。呼びかけにも応える様子はない。
とはいえコンディションが最悪なのは俺だって人のことを言えない。勤務終わりに本屋によったはいいものの長居してしまった。膝は疲れからびきびき変な音がしてたのに、ここにきて人ひとり背負って全力疾走だ。心臓は跳ねるように鼓動を刻み脂汗が頬を伝う。疲労と、極度の緊張が原因だ。
特に目眩が酷い。
意識が朦朧としていると言っても、過言ではない。
「ハァッ、くそっ、くそなんなんだよこれは。ハァハァ、ふざけるな、くそっ!」
足音がする。
湿った重たい足音。それが俺たちの方へとだんだん向かってくるのが聞こえている。
その音の主は、先程まで抱えていた少女──魔法少女を降し、殺そうとしていたものであることに間違いはなく。
ただの看護師でしかない俺がこうして逃げ回らざるをえない元凶となったものだ。
時は少し遡る。
◇◆◇
俺──
向上心はなく、人付き合いは苦手。なんでこんな仕事選んでしまったのか。学生の頃の自分に会えたら考え直せと頭を叩いてやりたい。
俺は仕事を終えてその足で本屋に立ち寄っていた。
新作の小説と漫画の続きを買って店外に出たときには、もう外はくらい。秋も暮れにさしかかり身体を芯から冷やすような風が通り抜けていく。
なんの気もなしに自動販売機の前に立ち、カバンをまさぐる。財布から嫌な軽さがして手先が止まった。しまったな。お金おろしてないのに先程本なんて買ってしまったものだから手持ちが寂しい。
だがしかし。
ここで何も買わずに立ち去るのも気に食わない。安い紙マスクに覆われた口元は、少し乾いているし粘つきが気になる。マイ水筒の中身は飲み干している以上、さっさと家に帰るか途中で飲み物を買うべきであるのは確かだ。できれば身体の温まるコーヒーとかポタージュみたいなものだとなお良い。
なお良い、のだが。
『当たりが出たらもう一本!』
定期的に喋りだすこの声の持ち主を俺はよく知っている。
よくよく自販機のラインナップを見れば『自販機限定ミーワくんサイダー』なる文字が踊っている。
3つの輪っかが重なり合い、それぞれの輪の内の中に目と口が配置されたキモかわいいキャラクター。
これは、買うべきだ。
即断した。
ミーワくんサイダー。どうにもラベルがチンケだし、寒いのにサイダーはどうかと思わないでもないし、ストロベリーとコーヒーの禁断の交わりとか隠しきれない地雷臭が香るのだが、それでも。
「………限定だし、な」
人はその2文字に弱い。
財布の口を開き小銭を漁った。
一枚の百円玉と、5円以下多数。
ミーワくんサイダーは強気の150円。
俺は財布の中身を確認し、小銭がそれ以上ないことと、自販機が受け付けない万札しかないことを何度も確かめた。
「……まじか」
◇◆◇
結局何も買わなかった俺は自宅に向けて歩を進めることにした。
薄ぼんやりとした街頭、人気のない道路を抜けて一人で歩く。いつもと同じ帰路。いつもと同じ日常。
何一つ変わらない、どうということのない帰り道。
そこが俺の人生のターニングポイントだなんて、この時は思ってもみなかった。
前の方からなにか重たそうな音がして、遅れてどしゃりと変なものが飛んできた。スマホを片手にSNSを見ながら歩いていた俺は、その正体を目視していなかった。
最初、なにか生ゴミの袋でも投げられたのかと思った。とはいえここはゴミ捨て場ではないし、人が通る気配もない。ならいったい何が。
躓いたら嫌だなと思って、スマホの画面から目を離した俺が見たのは。
「…あ、れ、人…?なんでこんなところに…?は、早く、逃げて!」
『ガーネット、た、立てるのだ!? 救援は呼んでるのだ。君も速く離脱するのだ!』
「──は?」
一人の少女と、周囲を浮遊する人魂だった。真っ赤な髪に現実味のないドレスのような衣装。そしてそんなことどうでもいいと思えるような負傷。
全身の擦過傷と左の腓骨あたりの開放骨折。体を起こそうとした少女の上半身が奇妙に偏っている。恐らく鎖骨も折れている。右前腕部はなにか大きな爪に引っ掻かれたような裂傷。出血量も尋常ではない。
間違いなくなんらかの高エネルギー外傷。いますぐ処置が必要だとわかる。はやく通報を。119番にかけなくちゃいけない。そう思っていたはずなのに、思考ばかりが空回りして俺は硬直してしまった。
「ポム、その人の避難、誘導を。私はもうちょっと頑張るから」
『無茶なのだガーネット。その怪我じゃ変身も保たないのだ!』
「でも、このまま逃げたら、《マモノ》は他の人を、襲う。そうでしょ?」
デフォルメされた人魂のような赤い玉が飛び回って何事か騒いでいる。大怪我を負った少女は顔を歪ませながら立ち上がろうとする。駄目だ。その怪我でどこへ行こうというのか。
「あ、いやちょっと待って。病院、病院いかないと。救急車、救急車ね、わかる? 今呼ぶから待ってて」
「それは、大丈夫です。それより、はやくここから離れて《マモノ》がまだ近くにッ──」
大丈夫なわけないだろ。それになんだその《マモノ》とやらは。それよりなんでこんな怪我をしている。これほどの大怪我、きっと交通事故だ。交通事故に違いない。そのはずだ。
そのはずだから。
頼む、嘘だと言ってくれ。
『ガーネット、撤退なのだ! 今のキミに勝ち目はないのだ。 死んじゃうのだ!』
「大丈夫、です。少しは時間稼ぎしないと、ですから」
ステッキを支えに立ち上がった少女。その視線の先には、巨大な狼としか思えない異形の存在が立っていた。
体高2メートル程度だろうか。見上げなくてはならない位置にある頭は人の上半身くらい丸呑みにできそうなほど大きい。長く伸びた金属のような爪からは、赤い滴がたらたらと垂れて削がれた肉片がこびりついている。
化け物だ。
なんだ。なんなんだあれは。
明らかに日本にいていいような存在ではない。いや日本なんかにとどまらずこんな巨大なイヌ科の生き物が存在するわけがない。
『だめなのだガーネット! いくらなんでも
俺は動けない。
人魂が甲高い悲鳴を上げて、ガーネットと呼ばれる少女は振り向いて微笑んだ。
俺は、動けなかった。
「ダメ、なんて、こっちのセリフだよ。私はここで、退かない。やるべきことを、ここでやる!」
『ガーネット!』
「そう、ガーネット。私の、名前。私は、魔法少女ガーネットだから!」
そして、なにか聞いたことのない言語が少女から発せられた。
『煌めきは烈火の如く』
そのように聞こえた気がした。
赤い粒子を撒き散らし、少女が突貫した。とても走れる状態ではない。それでも彼女は折れた足をステッキで庇うように大きく跳躍していた。音さえ置き去りにせんとする速度で彼女は走り、血が流線を描いて取り残されていた。
ああ、正に烈火のようだと回らない頭が目の前の光景を追認ふる。
さもなくば、闇夜に溶け落ちていく一筋の流星。
「──おい、いや、だめだろそれは」
ひどく直線的な突撃。捨て身としか思えないそれは、予想を過たない。迎え撃つように振るわれる狼の右前腕、そこに真正面からぶつかりながら、彼女のもつステッキが極光を放つ。
赤い閃光に目を灼かれながらも、俺は確かに見た。光に焼かれ断裂した狼の腕。そして一度激しく地面に叩きつけられ、ゴム鞠みたいに跳ね上がって、そのまま力なく放物線を描いて吹き飛ばされてきた少女を、俺は見た。
再びどしゃりと生なましい音がした。
『──が、ガーネットっ!!』
赤い人魂が倒れ伏した少女の周囲を慌ただしく旋回する。
致命傷だ。
肩に振り下ろされた爪は鎖骨、肋骨を粉砕し臓器を引き裂いた。だくだくと溢れる血。もはや助からない。
「──んで」
彼女は何者なのだろう。
知らない、といえば嘘になる。
なぜ今の今まで
一つ言えるのは、彼女は間違いなく《魔法少女》と呼ばれる存在だということ。
世界中に現れる怪物を人知れず倒す少女たち。SNSや人の噂でまことしやかに囁かれる存在。まさか実在するなんて知らなかったけど。
そんな《魔法少女》が、今目の前で命を落とそうとしている。
『でも、このまま逃げたら、《マモノ》は他の人を、襲う。そうでしょ?』
それも、俺や見ず知らずの誰かを守ろうとしてだ。
まだ中学生、それか高校生だろうか。そんな子どもが命をかけていた。
なのに、俺は。
俺は。
「──なんで、俺なんだよ」
期待するような目だった。
正確には目ではなかったけれど、視線を感じた。
『そ、んな、ガーネット』
光の失われていく少女の視線と、浮遊する赤い人魂からだ。
『あ、あぁ───キミ、そうだ、そこのお兄さん。《マモノ》がくるのだ。あれは傷を負ったけど健在なのだ。早く逃げないといけないのだ』
言葉は出ない。
縋るような口ぶりだった。
『けど、お願いなのだ。ガーネットを、
パッと赤い光が散った。
少女を起点に光が咲いて、その後にはどこかの中学校の制服を着た
ああ、これが変身が解けるってやつなのか。素の姿には負傷を持ち越さないんだな。
どうにも現実味のない光景に思考が空転。
右腕を失った狼がぎゃんぎゃんと吠え立てて耳障りだ。
今は痛みに耐えかねて地面を這いつくばる狼も、いずれは動き出すだろう。《魔法少女》なんてふざけた存在はアレに対抗できるのかもしれないが、少女は倒れたまま起き上がらない。
早く逃げないと俺も襲われるかもしれない。
自分の安全を考えるなら、このままさっさと逃げるべきだ。《マモノ》とやらは《魔法少女》を優先的に狙うかもしれないし、少女を連れて行くのはやめたほうがいい。
何より気を失った人間を抱えて逃げるなんて、どう考えても自殺行為だ。体力は消耗するし、遅くなる。
人をひとり見捨てることにはなるが、助けようとしたところで死体が一つから二つになるだけ。やめたほうがいい。
ああそういえばなにか言ってたな。救援は呼んであるんだったか。
それならこのまま少女を放置していっても、もしかしたら助かるかもしれない。
だから、このまま逃げなくては。早くこの場から離れなくてはならない。
ならないのに。
なんで俺は。
「──動かしても」
『──え?』
「動かしても大丈夫なのか。酷い怪我をしていたように見えた。担いでいくリスクがどの程度か判断できない」
『あ、だ、大丈夫なのだ。
「安全な場所は。いつまで逃げればいい?」
『わ、わからないのだ。結界が維持されている以上、とりあえず広くて遮蔽物があるところで身を隠すのがいいと思うのだ』
俺は、何をやってるんだろう。
馬鹿なことをしている自覚がある。
意識のない少女を背中に担いで立ちあがる。
けれど、だめだろう。ここで一人で逃げちゃ。
子どもが命賭けてたんだぞ。
無理だ。
俺にはあんなことできない。
俺にそんな勇気はない。
彼女にはできた。
だから、助けなくちゃいけない。俺なんかより間違いなく彼女のほうが価値のある存在だ。
理屈ではない。
直感だった。
少なくともその時の俺は、俺ではなく少女を助けたいとそう思えた。
◇◆◇
膝が笑っている。ふくらはぎも腕も痙攣を起こしていて息は上がったまま。
助けを呼ぼうとしてスマホを取り出す。110番にかけようとして圏外の表示に気づいた。なんだよそれは。
『ここは現実から隔離された《疑似幽世結界》の内部なのだ。一般人が入ってくることは基本ないのだ』
じゃあ俺はなんなんだよと反射的に言い返しそうになったが堪える。そんなこと言ってる場合ではない。
すでにそれなりの距離を走ってきた。駐車場にはいくつか車が止まっていてその影に隠れることはできている。しかしどうやらこの車は置物というか、本物ではないように見える。
『この結界は現実を参考に《マモノ》を閉じ込めるために作られた偽物なのだ。ここにあるものはぜんぶ精巧な作り物なのだ』
「そういう、ことは、早く、言えよな」
この車を盗んで足にすれば逃げ切れるかと思ったがそう上手くいかないらしい。そもそも盗んだ車って動くのか?動いたにしてもペーパードライバーの俺がまともに運転できるのか怪しい。
上着を脱いでカバンの上に敷き、それを少女の頭の下へ添える。枕代わりにしては薄すぎるがこれで我慢してほしい。
ついでにカバンの中から取り出したものをいくつかポケットに差し込んで息を整える。
…。
あーくそっ。また馬鹿なこと考えてる。
「救援、とやらは、まだ、来ないのか?」
『そろそろ来てもいいはずなのだが…』
「そうか──フゥ、じゃあ、もう少し頑張ればいいんだな」
『なにか、する気なのだ?』
俺は答えなかった。
答える余裕がなかった。
水筒を握りしめて震えを抑え込む。緊張している。恐怖している。馬鹿なことをしようとしている。
重い足音は徐々に近づいてきていた。あの狼のような《マモノ》とやらは逃げる俺から一定の距離を保ったまま着いてきていた。やろうと思えば一気に接近できるだろうに。
遊ばれているという確信がある。逃げる獲物を追いかける昏い愉悦があの《マモノ》からは滲み出ていた。そしてそれももう終わる。駐車場に逃げ込んだ時点でこの鬼ごっこに飽きられたのだろう。わざわざでかい足音を立てながらこちらににじり寄っている。
追いつかれるのは時間の問題、というよりやつの気分の問題だ。
赤い人魂は救援を呼んだとのことでそいつらさえ到着すれば状況は好転する。好転するはずなのだが遅い。まだ来ない。このままでは追いつかれる。
追いつかれてしまうなら、俺がなんとかしないと。
『キミ、何する気なのだ?』
「同じことだ」
『なにを言ってるのだ』
「そこの嬢ちゃんと同じことだよ!わかるだろ?」
じゃりっとアスファルトを踏みしめて走り出した。少女と人魂をその場に残して。
「くそっ、くそ、まじで何やってんだよ俺は!」
車の影から飛び出した俺は遮蔽物のない道路へ。バカみたいにデカい狼の脇を通り抜けるように走る。振り向きざまに、水筒を鼻面に投げつけた。
馬鹿なことをした。
ひょうと風を切る音とともに水筒が4つにバラされる。ステンレス製の水筒が簡単にばらばらになった。恐ろしい切れ味。
狼の口元が三日月のように釣り上がり、俺を見据える。
馬鹿なことをしたと、再度思った。
狼の巨体は駐車場に入り込んだばかりで、反転するには少し手狭だろう。料金所の機械を挟んで反対の出口から逃げる俺を追うには時間がかかる。
その隙に少しでも距離を。
「ちくしょう、俺だって、こんなことしたくてしてんじゃねぇのに」
本音が口から漏れる。恐怖を少しでも紛らわせようといい加減な台詞が勝手に出てくる。
狼は俺を目標に定めて追ってきた。
狙い通りだ。俺が囮になって時間を稼ぐ。正気なら間違っても出てこないバカの考えだ。
俺だっていつもどおりならこんな馬鹿なことはしない。見ず知らずの人間のためにわざわざ危険を冒したりなんてしない。
「けど、ちくしょう! 悔しいじゃねぇか! くそっ!」
そういう馬鹿なことをやった少女がいた。名前も知らない誰かのために命を懸けようとしていた、本物の馬鹿を目の前で見た。
そして俺はそんなものに感化された本物の馬鹿第二号というわけだ。
なりふり構わずに走る。薄ぼんやりとした街頭と月に照らされる道を全力疾走する。後ろから迫る気配はどんどんと勢いを増していて、追い立てられた俺は必死になって足を回す。
とはいえただの一般男性に過ぎない俺と、いかにも化け物でございと言わんばかりの狼には──たとえやつが前足を一本失っていたとして──覆しようのない運動性能の差があるわけで。
不意に足に熱い、熱いなんだろう。とにかく鋭く熱いなにかを感じたと思ったら。視界がしっちゃかめっちゃかに揺れた。
転倒したのだと気付いたときには、俺は狼に正面から見下されていて。ふと視線を向けたふくらはぎの肉がごっそりと失われていた。
「──ッ、ハッ、ハッ、こん、なの、くそっ」
逃げてる間に救援とやらが駆けつけてくれないかなという希望的観測が全く無かったといえば嘘になる。でもどうにか俺も少女も助かる道がないだろうかと思えなければ、こんな馬鹿なことをやらなかった。やれなかった。
二度とまともに歩けることはないんだろうという冷たい確信が走り、血の上っていた頭からどっと血が抜ける。虚脱感。俺は後悔していた。
死を目の当たりにして青ざめた俺を、狼はニヤニヤと笑うように見つめ。
──何もせずに反転していった。
「──おい、おいおいおい、待て、待てよくそっ!」
一瞬とはいえ、俺は
脅威度の高い魔法少女を先に殺そうとしたのか、そのほうが俺の反応がいいと思ったからなのかは分からない。ただ殺す順番が少女と俺で入れ替わって、俺は後で死ぬ。
もしかしたら、少女が殺されてる間に救援が駆けつけて俺は助かるかもしれない。この期に及んでその可能性に思い至った俺はたしかに期待を持った。
「くそっ、待てよ! おい! これじゃ俺が、なんのために、ちくしょう!」
浅ましくて最低な期待をしたことを否定したくて必死に声を張り上げる。足は全然動かないから手当たりしだいにものを拾って投げる。石、砂利、ポケットのボールペン、スマホ。コントロールなんてものつかないし、そもそも届かないのがほとんどだったけど、地面で跳ねたスマホが後ろ足にあたった。
ちらりとこちらを振り向いた狼は、それでも無視をして歩いていく。
殺される。殺されてしまう。あの少女が。
なのに、俺は何をしている。ただ地面に這いつくばって必死に声を出すだけで、いったい何を。
悔しかった。
誰かのために必死になれる人間に簡単に感化されて、なのに俺にはそういう人のようになれる要素なんか一つもない。
頑張った、はずだ。
柄にもなく必死に誰かを助けようとして。こんな怪我して。きっともう歩けない。きっと殺される。
そんなに頑張ったのに、子ども一人助けられずにこうして這いつくばっている。
悔しい。悔しくてたまらなかった。
「くそっ、くそっ! この、ちくしょう!」
ヤケになってポケットに残っていたボールペンを投げつけて。
それが不意に空中で静止した。
体がぴしりと動かなくなり、世界が停滞した。
時が止まったかのようで、思考だけが常の速度で駆けていた。
『──らしいな』
「──は?」
声が聞こえた。
回転しながら飛んでいたペンが止まっている。歩を進めていた狼も止まっている。狼が足で蹴り飛ばした石ころも止まっている。
全てが静止している。その中で、一つ動く影。
『いかにもお前らしいなと言ったんだ』
黒猫だ。
どこからともなく現れた猫がたしかに俺を見ている。声はこの猫が発したものだと、理屈じゃないなにかで理解する。
『自責か、後悔か、憎悪か。そのいずれでもいい。お前は最もお前らしいことをした。故に私が顕現した』
「なん、だ、それ」
混乱のあまり意味のある言葉がでてこない。
今日は多くのことがありすぎた。頭がパンクしそうだ。
こんなことをしている場合ではない。このままでは少女が殺され、俺もまた殺される。
救援とやらはまだなのか。
『──来ないぞ、救援は。少なくともすぐには』
「お前、何を」
『助けは来ないと言ったんだ。お前自身がなんとかするしかないぞ。東郷ハルカ』
なんで俺の名前をなんて聞き返さなかった。今日だけで超常現象はいくつも見たから感覚が麻痺しているのだろう。
ただ、黒猫の言いぶりが気になった。
俺がなんとかするしかない。
こんな両足が使い物にならなくなったただの男にできることなんてなにもないのに。それでも俺がやるしかないと。
「俺に、なにができる?」
『──ク、クク、全てだ。全てだよハルカ。お前には全てができる。
ぶわりと、黒猫の足元から闇が拡散した。それを不思議だとは思わなかった。
ただ確信がある。
これは悪魔の誘いだ。
俺はなにか致命的なものに手を出していて、きっといつかこの選択を後悔する。
けれど。なに。いつものことだ。
『私が力を貸そう。必ずやお前を勝利に導く』
『名前を呼べ、ハルカ。他の誰でもないお前自身の名を』
『お前は
膨れ上がった闇が俺の周囲を包み込み、凍った時間が動き出す。異常に気づいた狼がこちらを振り返り。
俺の手には一つの注射器──いやシリンジが握られていた。固体のように明確な形を取る闇が針を象る。その大きさは使い慣れた22
薬液の正体は知らない。
でもやるべきことはわかる。
自分の腕になんてやったことはないけれど、染み付いた手技は確実。あるべき確認事項をあえて無視。必要がないことを本能が理解している。
俺は右手に注射器を握りしめ、薄く角度をつけた。
ぶすりと、真っ黒の注射針が正中皮静脈へ差し込まれ薬液が注入される。
『ふ、ふはははは!この恐れ知らずめ、感心したぞハルカ! それでこそお前だ!それでこそ《魔法少女》を名乗るにふさわしい!』
ドクンと心臓が跳ねる。頭に血がのぼりチカチカと視界が爆ぜる。身体が分解され再構築されていくような違和感が全身を駆け抜けて、なのにそれが不快ではない。ある種の心地よさ、解放感さえ感じる。
なにか、黒猫が騒いでいるが聞いていられない。
痛みが引く。負の感情は熱量をそのままに、冷静さが相殺していく。
頭が軽い。体が軽い。全身を全能感が支配する。今なら何でもできそうだ。
そんな脳髄が爛れそうなほどの灼熱の恍惚の最中、俺は俺を理解する。
俺の名前。
俺の在り方。
俺のすべきこと。
今理解した。
俺は──
『それでいい東郷ハルカ』
噴き上がる闇が、暗い路地を埋め尽くす。
闇の奔流が過ぎ去っていき。
『いやこう呼ぶべきか──
俺は、俺のすべきことだけを理解していた。