行為中、心拍数や血圧が著しく上昇し、心筋梗塞や脳出血、不整脈などが原因で突然死してしまうこと。男の理想な死に方と言われるが、そんなことはない。残される家族のことも考えてみろ。
逝け
「ねえ、一緒に気持ちよくなろ?」
人間を墜とす悪魔のように甘い囁きが、耳を擽った。
いや、正確には「悪魔のように」ではなく「悪魔の囁き」だ。僕は、はむっと耳たぶを甘噛みして来た少女を見て、実感する。
興奮、快感、恐怖。
脳みそが、三つの単語にジャックされている。
これから借りようとしていた本のことなど、思考からは既に吹っ飛んでいた。もはや右手に持ったそれが、古典なのかファンタジーなのか、グラビアアイドルの写真集なのかさえ覚えていない。
高校の昼休み、一階東廊下の突き当たり。市長の寄付のせいでやたらと蔵書数が多い図書室の一番奥のコーナーに、僕はいた。
そこで、出会った。
目も眩むほどに美しい淫魔、つまりサキュバスに。
最初は夢かと思った。
欲求不満の男子高校生にありがちな、性的で素晴らしい妄想の延長線上だと思った。
そりゃそうだろう。
どうして黒山羊の角と蝙蝠の羽を生やしたサキュバスが、現代日本にしれっといるんだ。
僕の記憶上、サキュバスは空想上の悪魔だ。まず、そんな空想上の悪魔が実在することに、驚愕する。そしてそのサキュバスはどう言う訳か、僕をロック・オンしているらしい。
サキュバスは、真夜中の夢の中で搾り取ってくれるから魅力的なのだ。いきなり高校の図書室に出現して、しっぽり×××されるなんて、正直たまったものではない。
というか、色々と危ない。
コトに及んでるとこ教員に見られてみろ、退学だ、一発で。
サキュバスは男の生気を奪い取る悪魔だと、僕はどこかで聞きかじった知識を掘り起こした。サキュバスに喰われた男は大抵、干からびたミイラみたいになって死ぬ。気が狂うほどの快感と引き換えに、自らの命を投げ捨てるという訳だ。
ちょっと待て。
これ退学の危機とか言う前に、そもそも僕の生命が危険じゃないのか。
「なんで、僕は抱き締められてるんだ」
サキュバスから漂う甘ったるい匂いが、理性をじわじわと溶かしている。柔らかな双丘の感触が、しっとりと肌を伝わった。
目の前の少女は人知を超えた悪魔だ。
いつ、正気が音を立てて崩れ去ってもおかしくはない。
サキュバスは、なおも抱き締める力を強めた。そしてそのまま僕を床へと押し倒し、
「逃がさないように、だよ。子猫ちゃん」
ぺろりと、まるで極上の料理を前にしたかのように、舌舐めずりした。
完全に、狙われた。
僕は確信した。
大きな本棚が三つ、正面に立っている。
閲覧スペースに座る生徒からはおそらく、とサキュバスの姿は見えていない筈だ。そして分厚い専門書が並ぶこのコーナーを訪れる生徒は殆どいない。チャイムが鳴るまでの間は、この場所には誰も来ないだろう。
つまり僕は彼女のいう通り、逃げられない。
「恥ずかしがらなくてもいいの。ほら、真面目ぶってるあの子も、その子も、みんな裏ではシテるんだよ?」
淫魔はちらりと後ろを振り向いて、それから僕に向かって微笑んだ。
白磁のように透き通った白い肌に、ほんのりと朱色が差している。どんな女優も到底及ばないであろう整った顔立ちは、どこか猫を思わせた。きっと、鋭く光る紅い瞳のせいだ。宝石の如く輝く彼女の瞳は、抑えがたい欲望に染まっていた。
「どうして、僕なんだ」
僕は目立たないように、されど迫害者にはならぬように生きてきた。
二、三人仲の良い友達を作り、適当に周囲の話に合わせ、嫉妬を喰らわない程度に良い成績を取って、『転校生』というレッテルを上手に使いながら『いても害ナシ、いなくても損ナシ』という最強のポジションを掴み取った。
それなのに、なぜ。
僕の平穏な人生が奪われなければならない?
「君に一目惚れしたって言ったら……信じてくれる?」
サキュバスは人差し指を唇に当てながら、言った。
心の底から、信じられないくらいに、綺麗だなと思った。
悪魔に魅入られた人間に待つのは、破滅だ。どんな御伽話でも、悪魔に憑かれた人間にハッピーエンドはあり得ない。待っているのは、紛れもないバッドエンド。
それでも、俺は目の前の淫魔から目を離せなかった。
くりんと上を向いた長い睫毛も、艶やかな桃色の唇も、全てが、心臓を締め付けるほどに愛らしい。
彼女になら、殺されても。
そう思い始めている自分に、驚いた。
「こんな可愛い女の子に惚れられたらそりゃ嬉しいさ。でも死にたくは、ないな」
「怖がらなくても大丈夫だよ。ゆっくり、ねっとり、優しく吸ってあげる。死の恐怖なんて、絶対に感じさせない」
サキュバスはそう言って、僕の前髪を掻き分けた。
僕はそこまで身嗜みに気を使う人間ではない。
髭は毎日剃っているが、髪は適当に伸ばしっぱなしだった。
長めの睫毛に、どこか猛禽に似た鋭い瞳。見慣れた自分の顔が、サキュバスの瞳に映っている。
「おい、人の顔見て固まるな。おーい、聞こえてる?」
急に黙り込んだサキュバスを見て、僕は首を傾げた。
変貌は、一瞬だった。
「あっ……ごめん、ちょっと我慢できないかも」
突如として、サキュバスの目の色が、変わった。
思ったより僕の顔がタイプだったのか。
サキュバスの呼吸がハァハァと荒くなる。
頬は紅潮し、瞳は熱っぽく潤んでいた。
うわ、これ絶対変なスイッチ入った。
僕は心の中で十字を切った。
アーメン、僕はもう手遅れだ。
「まじで、それは洒落にならーー」
「すき」
瞬間、僕は抵抗する間も無く手足を組み敷かれ、強引に唇を奪われた。生温かい触感が口内を蹂躙する。頭の奥でぴちゃぴちゃと、水音が響いた。
なんとか拘束を逃れようと、僕は「むごー」とくぐもった呻きを上げながら、力の限りもがく。
だが、いくら体を鍛えているからと言って、ただの人間が悪魔の力に叶う筈もない。暴力的なまでの快感が上塗りされているのなら、尚更だった。
手足の言うことが、だんだんと効かなくなってくる。
呼吸すらままならずに、朦朧とした意識の中、僕は覚悟する。
サキュバスの食事はこれからだと。
自分は獲物で、最終的に喰い殺される運命なのだと。
「あはは、ぴくぴくしちゃって、可愛いなぁ」
サキュバスの淫猥な囁きが鼓膜を震わす。
途切れかけた意識の狭間で、僕の脳裏に浮かんだのは、どう言う訳か一年前に死んだ祖父の姿だった。
既に三途の川に片足を突っ込んでいるのか。
死に限りなく近い状態だからこそ、死者を思い出すのかも知れない。
だとしたら手遅れだろうなと、思う。
死というのは、案外気持ちのいいものかもしれない。
温かな微睡みに落ちていく。
瞼の裏で、淡い光がぼんやりと広がった。
直後、「ガンっ」と強い衝撃が僕の頭を揺さぶって、意識はどこかへと飛んだ。