「ねえ、ちょっと首を見せてもらってもいいかな」
朝食を完食し洗い物をしようと席を立ったところで、僕はフリーズした。
後ろからとんでもない殺気が放たれているのである。
漫画とかアニメだと空間が陽炎みたいに揺らめく、あれ。
今まさに僕はあれを体験している。殺気の主はシェナだ。いうまでも無く。
「ど、どうしてさ」
「昨日からずっと気になってたんだけど。なんか、君から他の雌犬の匂いがしてね」
僕はあまりの恐怖に声を発することが出来なかった。
女性が男性よりも嗅覚が鋭いというのは聞いたことがある。
なんでも遺伝子レベルで相性の良い男を探そうとしているのだそうだ。
現在の状況から考えるに、おそらくその情報は間違いじゃない。
「そりゃ、学校に行ってるからさ。まあ、僕ってば案外モテ男だから、ね?女の子に声くらい掛けられることはあーー」
「嘘は付かないで欲しかったな」
ぐるんと、いきなり視界が一回転した。
身体が宙に浮いたかと思えば、僕はいつの間にかソファの上に寝かされていて、シェナが僕の上に跨っている。
シェナは完全に怒っていた。
淫魔の象徴である蝙蝠の翼が完全に開かれているのに加え、ハート型の尾は槍のように僕の額へと突きつけられている。
美しい白銀の髪があまりの怒気に少し逆立ってすら見えた。
「君から漂って来たのは魔力の匂いだ。それもキツイ香水みたいで、下品な魔力のね。ボクは君を幸せにしてあげたい。だからこそ、君の権利をこれまで尊重してあげて来た。本当は君を部屋に閉じ込めて一日中じゅぽじゅぽしたいんだよ?でも、それをしないのは君の自由を奪ってしまうからだ。でもね、君は越えちゃいけない一線を超えた」
ゾッと、背筋が凍るような声だった。
シェナの瞳が鋭い光を放つ。
その姿は獲物に狙いを定める獣を思わせた。
ーーどうするどうするどうする!?
僕の思考は沸騰する。
どうやったら彼女の怒りは治ってくれるんだ。
本当のことを話せばいいのか?
いいや無駄だ。シェナは僕が桜木にお手付きされたことに怒っているんだ。
自分だけの玩具に、勝手にベタベタと触られた挙句、傷まで付けられたのだ。
イラッと来ない、訳がない。
「君はボク以外の魔族に血を与えたね?」
これから始まるのは拷問だ。
僕は今、シェナに生殺与奪の権を握られている。
ガクガクと、僕は全身全霊で頷いた。
「こんなに震えちゃって……さて、お仕置きの時間だ。理性も記憶もぜんぶ消え去るくらいの快感を、今から二十四時間休憩なしで君に与えよう。僕の尾から分泌される粘液は快楽物資の分泌を異常に増加させてしまうんだ。脳みそがぐちゅって、焼き切れちゃうくらいね」
シェナが舌舐めずりをすると同時に、妖しく蠢く尾からねっとりとした桃色の液体が僕の腕に垂れた。
瞬間、まるで腕の一部分だけに電気ショックを受けたかのような衝撃が走った。
「ーーあぐっ、なんだよ、これ」
「すごいでしょ?もしその液体が君の大事な場所に触れたら、どうなっちゃうと思う?」
これには僕も思わず生命の危険を感じ、なんとかシェナの拘束から逃れようともがいた。
しかし、いくら悪魔の血を取り込んだからと言っても、僕が主人であるシェナに敵う筈もない。
「ボクが間違っていた。ボクの考えが甘かったんだ。本当に申し訳なく思っているよ。最初から君の理性を溶かしていれば、野良犬に傷を付けられる事もなかった。でも、もう大丈夫だ。君がこれから感じるのは温もりと、柔らかさと、気が狂っちゃうほどの快感だけだから」
動け動け動け動け!!
シェナに悪気はない。
それは僕だって分かっている。
彼女はいつも僕のことを最優先に考えてくれる。
大切な眷属だから、傷がつくのが許せない。
だが僕は人間でありたいのだ。
考えて悩んで馬鹿をやる、そんな人間でいたい。
僕はシェナのペットでもいい。
だけど、彼女の人形になるのはまっぴら御免だ。
「一緒に、壊れちゃお♡」
シェナの息を呑むほどの美貌が、桜色の唇が僕の元へとやって来る。
しゅるりと、彼女の尻尾がまるで意思を持つかのように僕の口元へと這い寄って来た。
かぱぁっと、シェナの尻尾が口を開くみたいに割れた。
中からはとろとろと粘液が止めどなく溢れている。
シェナはこの粘液を僕に飲ませるつもりだ。
そしてこの媚薬粘液を飲んだら最後、僕はへっぽこ野郎に成り下がる。
僕は呼吸を止め、腹筋に力を込めた。
チャンスは一瞬、ミスったら僕は廃人コースまっしぐら。
僕はこれまで読んできたサキュバス系同人誌の伝統を信じることにした。
頼むぜ、性癖の先駆者たちッッ。
「あむっと」
僕はシェナの尻尾を噛んだ。
ただし、舌は絶対に付けないように引っ込めて。
前歯と犬歯だけを使って、噛んだ。
蛇の毒を口で吸うと、虫歯から神経を通って毒素が吸収される。
よって絶対にやってはいけないのだが、僕は生まれてこの方虫歯ゼロ。
媚薬物質が吸収される心配はない。
「ーーかはっ♡」
シェナがビクンと身体を硬直させてのけ反った。
ぱくぱくと意味もなく開閉を繰り返す口からはだらしなく涎が垂れ、瞳からは意志の光が消え去る。
尻尾はピンッと一直線に伸びて、やがて力を無くしたように倒れた。
計画通りだ。
大抵尻尾が生えてるキャラは掴まれたり撫でられたりすると過剰反応する。
すなわち、その場所に神経細胞が集合しているということ。
触れただけでも■■なところを、もしも噛んだりしてしまえば、一体どうなるか。
あとは、想像にお任せしよう。
とりあえず、形成逆転!
「なまっ♡いきなこと……♡するなぁぁぁ♡」
「断る。いいか?今まで隠してきたけどーー」
ここで一つカミング・アウトだ。
よく聞いておくんだな。多分頭に入れる余裕ないだろうけど。
「ーー僕はかなりのSだぞ」
今度はかなり強めに、尻尾を噛んだ。
「かひゅっ♡あっ……♡へぁっ♡」
白目を剥き、小刻みに痙攣を繰り返すシェナ。
すると突然操り人形の糸が切れたみたいに、僕の胸へと崩れ落ちた。
既に意識が消失していることは明らかだった。
「とりあえず、目が覚めたら謝るか」
ぐったりと脱力した彼女の身体を優しくソファに横たえると、僕は腕と服に付着した粘液をティッシュで拭き取り、ゴミ箱に放り投げた。
問題は山積みだ。
この状態でシェナと桜木を合わせたら、おそらくここら一帯は焼け野原になる。
なんなら日本すら危ない。
喉が乾いたことに気付き、冷蔵庫に行こうとした時、電話がなった。
僕は天を仰ぎ、絶望した。
▼
「ーーどう、落ち着いた?」
聞くもの全てを落ち着かせるだろう、穏やかなテノールがボクの鼓膜に響いた。
耳元で囁かれていたら、きっとボクは腰砕けになっていた。
例えるなら、森の中で風に揺れる木々の騒めき。
澄み渡った大海に浮かぶ船の上で聞く波の音。
彼の声はもはや自然の神秘すら感じさせるほど、魅惑的だ。
本人が自覚していない分、ボクは彼の不意打ちに気を付けなければならなかった。
そうでもしなければ、主人として情けない痴態を曝け出しかねないのだ。
それほどボクの眷属の声は……男の色気と幼さが混じりあっていて、なんというかこう……お腹にきゅんと来る。
「まったく、淫魔の尻尾を噛むなんて、君は悪魔かい?」
ズキズキと頭が痛み、身体が鉛でも背負っているかのように怠い。
意識が消失する直前に味わった、文字通り脳が焼き切れるほどの快感を思い出して、思わず下半身に甘い疼きが走る。
でも、今のボクには火照った身体を慰める余力なんて微塵も残っていなかった。
呼吸をするのさえ、辛い。
「でも、あれしかシェナを止める方法が思いつかなかった」
あの時のボクは、大切な眷属が他の雌に汚されたことに怒り、少し正気を失っていたようにも思う。
あのままボクが彼を壊していたら……そう思うと、今になって恐怖が襲って来た。
独占欲が強いのは淫魔の悪い癖だ。
何せ彼の肉体で最も神聖な部位を介して魔力を吸うのだから、他の雌に手を付けられては聖なるその場所に穢れが付いてしまう。
ボクはそれが許せなかった。
でも目が覚めてから、ボクは彼から全てを聞いた。
ーー同級生の女子が、本当は吸血鬼だった。
彼は『食事』のために少量の血を吸われ、『眷属』であるのを見破られた。
そして、彼はボクのことを『彼女』だと紹介し、吸血鬼はどういう訳かボクと会いたがっているらしい。
聖なる子じゃなくて血液だったから、今回は百歩譲ってセーフ!
血液の魔力濃度なんてたかが知れてる。
彼の、あの摂取した瞬間身の毛もよだつような甘美なる魔力を味わったことがあるのは、この世界でボクけなのだ。
本当は嫌だけど、ここは主人として寛大な心で許してやらんでもない。
それにしても、吸血鬼なんて久しぶりに聞く単語だ。
吸血鬼が魔族かと聞かれると、非常に返答に困る。
『吸血鬼』と言っても彼ら彼女らはもともとは人間だ。
人間が吸血鬼へと変貌する理由には色々と諸説があるのだが、どれも『生への渇望』がキーワードになる。
ーー末期ガンの患者が急に看護師を襲い、五階の窓から飛び降りた。
ーー飛び降り自殺した人の死体が動き出し、夜の空に消えて行った。
死にたくないという強い気持ちが、人間の血を吸い生き延びる異形の存在へと変えてしまうのだろうか。
詳しいことは魔族のボクでも分からない。
でも一つ、わかっていることがある。
その吸血鬼は、きっとボクの眷属のことが好きだ。
これは間違いない。
彼は息をしているだけで魔族や異形を惹きつける。
『じゃにーず』とやらが街を歩けば大勢の若い女に囲まれるように、彼にもそういう性質がある。
猫にまたたび、魔族にイナミと言っても過言じゃない。
「怖かったよね。尻尾使って洗脳しようとしたり、強引に押し倒したりしちゃって… …ごめん。ボクのこと、嫌いになった?」
「いいやぜんぜん。むしろ愛されてるなぁって」
息も絶え絶えと言った様子のボクを、彼は優しく抱き締めてくれた。
甘い柔軟剤の香りと彼の匂いが混ざり合って、ボクの鼻腔を突き抜ける。
まったく、本当にボクの眷属はずるい。
主人がやられて喜ぶことを、全部知っているんだから。
貴族種のボクだから耐えられているんだ。
低位の淫魔なら理性崩壊とろとろセ■■スまっしぐらに違いない。
「その吸血鬼、君の同級生なんだろう?」
「うん。ちなみに、生徒会長」
「じゃあ、ボクも挨拶しないとだ。『彼氏がいつもお世話になってます♡』ってね」
「めっちゃ恥ずかしいんだけど、それ」
まあお茶とお菓子ぐらいは、出してやってもいいかな。
主人公の伊波君はSです。
責めるの大好き人間。