「うみゅ……うわぉぉん」
「おい、起きろシェナ。おきろー」
「あみゅ」
「いたっ。あー指を噛むなって。べたべただよもう」
僕はふわぁっと欠伸を漏らした。
膝の上ですぴすぴと気持ちよさそうに眠るシェナが、かぷりと僕の人差し指を咥えている。
ぺろぺろと舐めてくるシェナの舌の感触が擽ったい。
一体どんな夢を見ているのだろうか。
どうせ淫魔だからろくな夢じゃない。
「ぐぅ……きもち、いい……かい、すぅ……」
「寝言がいやらしい」
寝顔は本当に無邪気で可愛らしいのにな、と思う。
穏やかな寝息を立てるこの少女が淫魔だなどと言っても、誰も信じないだろう。
僕はゆっくりと、さらさらの銀髪を撫でた。
ふわりとシャンプーの甘い匂いが漂う。
シェナの表情がへにゃりと柔らかくなった。
まるでご主人様に懐く子猫だ。
とてつもなく庇護欲を唆られ、僕はしばらく無言でシェナの頭を撫でていた。
尻尾が嬉しそうに揺れている。
ゆらゆらと規則的に揺れるシェナの尻尾が、催眠術のコインみたいな役割をしたようだ。
なんだか眠くなってきたなと、僕はまた一つ欠伸を漏らす。
いや、いくらなんでも遅くないか?
二年間無遅刻無欠席の桜木が待ち合わせに遅れるなんて、にわかに信じがたい。
しかし「二十分後には着くわ」と電話があってから、かれこれ一時間はたっていた。
なぜか上機嫌にお茶とお菓子を準備し、部屋の掃除をしていたシェナだったが、さっきの甘噛み騒動でかなりの体力を消費していたらしい。
「吸血鬼ちゃんおそいねー」と呟いたのを最後に、ソファに倒れ込んでそのまま眠ってしまった。
歩いて行くと桜木は言っていたから、渋滞にはまったとか、電車が送れたというのは考えられない。
まさか、交通事故に遭ったのでは?とも思ったが、そもそも彼女は人間じゃなかった。
流石に吸血鬼が車に轢かれて死ぬ訳がない。
そんなことを考えていると、テーブルに置いていたスマホがブブブと振動した。
シェナを起こさないようゆっくりとソファから立ち上がり、テーブルの上のスマホを手に取る。
画面には『成田先輩』の表示が。
え!と思わず声が出た。
いけない、シェナが起きてしまう。
僕は振り返った。
そして安堵のため息を吐く。
シェナは相変わらず夢の中だ。
僕はリビングを出て、自室に入った。
ベッドに腰を下ろし、通話ボタンを押す。
「もしもし、僕です」
『おう。今ちょっと時間いいか』
うわ、これは駄目な奴だ。
成田先輩が僕に電話をして来る時は、たいていヤバいことが起こっている。
ヤバいこと言っても、「不審者が出た」なんて生優しいものではない。
『市街地でヒグマ二頭による乱闘が発生』とか、『出刃包丁を両手に持ち、さらにもう一本を口に加えた三刀流の通り魔が暴れている』とか、熱でうなされている時の悪夢みたいな事件が起きているのだ。
そして成田先輩は「ちょっと見に行こうぜ」なんて言って僕を誘う。
おかげで僕は幾度となく死にかけている。ヒグマには馬乗り(熊乗り?)で殴られ、三刀流の通り魔には脇腹を刺された。
通り魔もヒグマも最終的には成田先輩が北米生息のグリズリー用熊スプレーで撃退してくれたのだが、今でもたまにあの光景は夢に見る
今度はいったいなんなんだ。
僕は泣き出したい気分になった。
「一体何があったんですか。もうヒグマとやり合うのは御免ですよ、マジで」
『安心しろ。今回はそっち系じゃなくて、あっち系だ』
「いや、あっち系ってなんですか。もしかして、三刀流ジジイの方ですか?」
『ビンゴ!流石は今日の運勢一位だな』
ベッドの上のめざまし君と目が合った。
とりあえず、一発ストレートをお見舞いする。
「ろぉくじさぁんじゅっぷん!」と、めざまし君のぬいぐるみが奇妙な断末魔を上げたが、特に気にしない。
僕の鬱憤は少し晴れた。
『久しぶりに原チャリでドライブしてたらよ、信じられるか?聞こえたんだよ』
「何がですか?」
『銃声』
「そんな訳ないですって。絶対かけっこのよーいどんのピストルですよそれ」
日本は馬鹿みたいに銃規制が厳しい。
警察官が普段着用しているのが防弾ではなく防刃ベストであることからも、それは明らかだ。
ましてや、繁華街とはかけ離れた閑静な住宅街で銃撃事件など起こるはずが無い。
百歩譲ってヤクザの事務所が近くにあるのなら分かる。
だが、この辺りはヤクザは愚かチンピラすら見かけない。
『いや、俺はバッチリと目撃したぞ』
「まさか……発砲の瞬間をですか?」
『流石の俺もビビったぜ。マジもんのチャカは初めて見た』
「ち、ちょっとその話詳しく!」
おいおい嘘だろ。
出刃包丁三刀流で殺人鬼はもうお腹いっぱいなんだよ。
一年に一回の周期でクレイジーな凶悪犯罪者と向かい合う僕の気持ちにもなってくれ。
だが、僕の胸中にある種のワクワクが芽生えているのも事実だった。
非日常への扉を、スリルへの階段を、成田先輩はひょいっと僕に持って来る。
『外国人の男だ。高そうなスーツに黒いネクタイをしてた。そいつが、お洒落な一軒家から出てきた美人ママの口ん中に銃口を押し込んで、バン!』
「殺したってことですよね」
『ああそうだ。あいつは間違いなくプロだ。俺の直感がそう言ってる』
「警察に通報は?」
『まだに決まってんだろ』
成田先輩は電話越しに鼻で笑った。
いや、笑い事じゃ無いでしょ絶対。
「どうしてですか!」
『やっつけるんだよ、俺たちが』
「すみません。やっつけるんだよ俺が、って言いましたよね。そうですよね」
『違うな。俺たちで、だ』
僕は天を仰いだ。
ほら見たことか。
やっぱりそうなる。
いつだって成田先輩は予想を裏切らない。
「今回は無理です。マジで無理です。包丁で死にかけたんですよ?銃なんて、撃つぞ!うわ!撃たれた!死んだ!のコンボで終了です、終了」
『お前、聖女とかいうもっとヤバい奴に命狙われてるだろうが』
「うっ、忘れていた」
『ちなみにいいニュースと悪いニュースがあるが、どっちから聞きたい?』
「どうせ上げて落とすのが成田先輩の趣味なんですよね。分かってますって。悪い情報からでお願いします」
『じゃあ悪い情報。一軒家の表札が「桜木」だった』
呼吸が、止まった。
思考が追いつかなかったからだ。
撃たれたのは、桜木のお母さんということなのか?
僕は反射的にベッドから飛び起き、パーカーを羽織った。
護身用に買ったタクティカルペンをポケットに挿す。
いくら吸血鬼と言えど弱点は必ずあるはずだ。
相手が成田先輩の言うとおり、プロ。
つまり殺し屋とか、ヴァンパイアハンターだった場合、彼女の命の保証はどこにもない。
結論はひとつだけ。
ーー桜木が、危ない。
「クソっ、成田先輩今どこにいるんですか!?」
『そこで良いニュースだ。俺はもうお前のアパートの前にいるぜ』
「すぐ行きます!」
僕はすぐさま電話を切ると、スマホを握りしめたまま自室の扉を蹴飛ばした。
リビングを覗けば、シェナがまだ眠っている。
「すぐに戻るよ」と、おそらく彼女には聞こえてはいないだろうけど呟いて、僕は玄関へと走った。
履き慣れたナイキ・ペガサスに両足を突っ込む。絶対に脱げないよう、紐をきつく縛った。
ドアを開く。
外は清々しいほどの晴天だった。
アパートの階段を二段飛ばしで駆け下り、駐車場に出る。
「遅かったじゃねえか」
スイカのヘルメットを被った成田先輩が、白い歯を見せて笑った。
Tシャツはいつもどおり『瞬殺のガンディー・マハトマ』だ。
非暴力はどこに行った。
獰猛な笑みを浮かべる、デフォルメされたガンジーを見るたび、僕はそう思う。
「後ろに乗れ。お姫様がお待ちだ」
成田先輩が決め台詞を放った。