「ここ、お気に入りの公園なんだ」
日陰にある公園には、ぴゅおうと冷たい風が吹いていた。
夏休みだっていうのに、ちびっこ公園には人っ子一人見当たらない。
ポツンと砂場の横に立つ、赤錆が付いたジャングルジムがひどく小さく見える。
僕はふと、いつからだろうと思った。
夢中になって集めたキラキラのレアカードを、単なる紙切れとしか思わなくなったのは、いつからだろうかと。
夕焼けに染まる空。
服に付いた泥。
口の中でざらつく砂粒の味。
僕の記憶の中で、野球帽を被った少年の自転車のタイヤが、アスファルトをキシっと擦る。
「なぁ、チャリでドリフト出来るかな!」なんて言っていたあいつは、確か県で一番の進学校に入った。
僕は思わず空を見上げた。
太陽は増え始めた雲に隠れ始めている。
こう言う天気の時は大抵雨が降って、友達の家に避難する。
そして、据え置き型のゲーム機のリモコンを一心不乱に振る羽目になるのだ。
懐かしいなと、思った。
成長はいつだって、喉に刺さった魚の骨みたいな寂しさを残していく。
そしてその寂しさを抱えて、僕たちは生きて行かなくてはならない。
取り戻せないそのチクリと痛い寂しさを、大人たちはきっと青春と呼ぶのだろう。
ーーなんて、ノスタルジーに浸っている場合じゃないか。
「俺と……ここでやるつもりか」
男はそう少し驚いた様子で呟いた。
チャリチャリと揺れるブランコに一瞬目を向けて、そしてすぐさま僕に視線を戻す。
底無し沼の様にどんよりとした瞳だ。
覇気は無く、その代わりに底冷えするような殺意が込められた瞳。
手にはあのチートスペックのナイフが握られている。
ギラリと、ナイフはまるで男の意思を汲み取ったかのように煌めいた。
冗談じゃない。
僕は少し刃物を舐めていたようだ。
凶暴なまでの殺意が、一直線に自分へと向けられている。
はっきり言おう。
僕は今とてつもなくこの男が怖い。
これまで対峙してきたどんなヤバい奴らよりもだ。
もう、目が違う。
据わってるとか、そう言う次元じゃない。
目薬とアロンアルファ間違えました?ってくらいに、彼の目は泳がない。
人を殺る目だ、見たら分かる。
「カッコわるいだろ。ずっと逃げてるのも」
僕は軽く膝を伸ばしながら応えた。
「絶対に助ける!」なんて恥ずかしい台詞を桜木に吐いてしまった身だ。
逃げることは許されないし、逃げる気もない。
僕が四分間こいつを止めれば、後は成田先輩がなんとかしてくれる……僕はそう信じている。
男はやれやれと肩をすくめ、ため息を吐いた。
そういえば、理科の蒸留実験用の赤ワインをがぶ飲みしてぶっ倒れた生徒がいたが、そいつを指導していた教師もこんな感じのため息を吐いていた。
「お前も不幸だな。吸血鬼などと関わらなければ、もっと長生き出来ただろうに」
「長生きなんてしたくないさ。母さんは死んだし、父親の顔すら知らない。そして将来結婚出来るかも分からないし、ボケて孤独死するよりかは、案外葬式に同級生が来てくれるうちに死んだ方が、ラッキーかもしれないだろ」
僕はぶっきらぼうに言い放った。
死ぬのはもちろん怖いけど、自分の命に未練はそれほど無い。
唯一の気がかりは、シェナが眷属を失って悲しむことくらいだ。
桜木はモテるし、僕よりも良い男を見つけて結婚するだろう。
いいなぁ……吸血プレイ。
そんなことを考えていると、「お前、不幸なんだな」と男が笑った。
それから「俺もだ」と低い声で呟き、突然ポケットから一枚の写真を取り出して、僕に見せた。
それは仲睦まじい家族の記念写真だった。
写っているのは仏頂面の男と、少し頬を赤らめて微笑む美しい女性。
男の腕には、パトカーの玩具を手にした金髪碧眼の美少年が満面の笑みを浮かべながら抱かれていた。後ろには真っ白な砂浜と青い海が見える。
「六歳になる息子と、妻がいた。妻のお腹の中には、三ヶ月後生まれて来る筈だった赤子も」
男がガクリと項垂れる。
同時にナイフが構えられた。
切っ先は寸分違わず僕の左胸、致命的な場所に向けられている。
しかし男は僕への攻撃を始めず、なおも言葉を続けた。
「だが吸血鬼に殺された。そして俺だけが生き残った。『お前の血は不味そうだ』なんて言われてな」
僕は動けなかった。
記憶に浸る男は隙だらけだ。
それなのに、僕は逃げることも仕掛けることも、できない。
彼の言葉には確かな『重み』があったから。
想像出来る。
男が辿って来た物語は悲劇だ。
そうでなければ、あんな目を出来るものか。
あの目は絶望に侵された、神から見放された人間にしか出来ない。
「奴は動かなくなった妻の腹を裂いて、ぬるぬると蠢く胎児を引きずり出した。『デザートは貰っていく』と笑いながら。俺は奴の姿を目に焼き付けた。金髪銀瞳、サファイアの耳飾りを付けた吸血鬼を」
僕は思わず呼吸が止まっていたことに気づいた。
地獄だ。
この男は、地獄を見てきたのだ。
「そして俺は『聖女』の導きで教皇庁教理省《V機関》の異端審問官となった。サファイアの吸血鬼を見つけ出し、殺すためにな」
この男は復讐のために生きている。
妻と息子の命を奪った吸血鬼という存在を憎悪し、この世から抹殺すべく戦っている。
「僕が……異端認定されたのも知ってるのか?」
「ああ、だが管轄が違う。俺は《V機関》の所属だから悪魔以外の神に仇を為す存在である『異形』への対処が任務だ。『悪魔』が関する件は『聖女』と教理省《別班》の管轄だ」
だが、僕は桜木を救おうとしている。
吸血鬼を庇うというのは神に対する反逆であり重罪。
つまり僕は淫魔の眷属であると同時に、吸血鬼を助けたということでも教皇庁に目を付けられてしまった訳だ。
「そういえばお前、母親を亡くしたと言ったな」
「え、ああ、うん。癌でね。ステージ4。気がついた時には、余命三ヶ月だった」
母は一ヶ月と二十五日で死んだから、案外余命宣告は信憑性に欠ける。
全身に転移が進んでいたらしい。
施せる治療法は皆無に等しかった。
今でも鮮明に、「ごめんな……」と僕の頭を撫でて来た医師の泣き顔を、思い出す。
「俺はお前を簡単に殺すことが出来る……が。もし、宝くじが当たるくらいの確率を引き当て、逆に俺を殺し、あの吸血鬼を救うことが出来たのなら。何がなんでも生き残れよ。『別班』の連中、俺はあんまり好きじゃあねえんだ」
「急に優しいなおっさん。でも、心配いらないさ。きっと僕はあんたを殺して、我が高校自慢の生徒会長を救ってやる」
「ほう。淫魔の眷属に選ばれただけのことはある……保有する魔力量も桁違いか」
「それの使い方は知らないけど。まあ、やってみるしかないさ」
腕時計を見る。
まだ、一分ほどしか経っていないようだった。
「おっと、名乗るのを忘れていた」
男はナイフを手に、礼儀正しく一礼する。
「ーー狩人だ」
狩
口から深く息を吐き、そして静かに吸った。
瞼を閉じる。
脳裏に響くのは規則正しいリズムを刻む心音と、風に揺れる木のざわめきだけ。
両足を肩幅に開き、左膝を軽く曲げ、やや右足を前に出す。
剣道の構えだ。
身体に染み付いた『構え』。
重心を落とし、瞬時に動作へと移行できるような体を作れ。
下半身には力を溜め、上半身は脱力しろ。
ポケットからタクティカルペンを引き抜き、逆手で構える。
スミス&ウェッソン社製の護身用のペン。
護身と謳っているものの、破壊力はお墨付きだ。
ガラスすらも簡単に打ち砕くコイツを喰らえば、無事では済まされない。
「四分間にあのガンジーが何をしているかは知らないが、それまでに殺せばいいだけのことだ」
狩人が地面を蹴り飛ばし、高速で僕に接近する。
刺すか斬るかによって、回避行動は変えなければならない。
狩人はナイフをストレートのパンチを放つように刺してきた。
狙いは僕の心臓、一切の無駄を削ぎ落とした一撃はもはや消えてすら見えた。
瞬時に、左足に掛かった体重を抜く。
『膝抜き』と呼ばれる古武術の技術。
瞬時に脱力させることによって身体を斜め左へと落下させ、僕はナイフの軌跡から離脱した。
そしてそのまま、タクティカルペンを力の限り狩人の腹へと突き刺したーーが。
刺さらなかった。
ペンは弾かれ、衝撃をまともに食らった腕が痺れる。
岩のような感触、人間の腹筋がここまで硬くなるはずは、ない。
僕の思考はぐるぐると回転する。
こいつ、人間じゃないのか?
「クソっ、なんで刺さらない」
「魔法みたいだろ?狩人に獣の爪は通らないぜ」
「あんたも魔力持ってんのか」
「極めて微弱ながらな。お前の足元にも及ばない量だ」
ニヤリと笑った狩人がナイフを振り上げた。
ピカリと、柄に嵌め込まれた真紅の宝石が煌めく。
脳裏にフラッシュバックするのはテレビを真っ二つに両断した、射程ガン無視の斬撃。
僕は咄嗟に地面を転がった。
砂利と皮膚が擦れて鈍い痛みが走る。
そのコンマ数秒の後にズガン!とてつもない衝撃が地面を媒介して伝わった。
衝撃波を受けた樹木がミシミシと悲鳴を上げる。
隣を見れば、地面がパックリと大口を開けて割れていた。
かなりの深さだ、地下水が流れる音がする。
擦り剥けた肘から血が垂れたが、僕はまだ生きている。
僕はすぐさま飛び起きた。
狩人の足音がすぐ後ろで聞こえたからだ。
地面を思い切り蹴ると、身体がふわりという感覚と共に重力から解放された。
「なんか飛べたんだけど」
「おいマジかよ。そんなもありか!?」
五メートルほど一気に跳んだだろうか。
そのまま僕はジャングルジムの天辺に着地する。
そこで僕は「あれ?」と思った。
心臓が、四肢が焼けるように熱かった。
バクバクと心臓が血液を全身に送り出すたびに、熱い血液が流れているのを感じる。
熱い血というのは比喩表現ではない。
ホットココアくらいの、ちょっと舌を火傷するくらいに熱い血が、確かに流れている。
下を見れば、狩人が唖然とした様子で、僕を見上げていた。
「眷属の身体能力、恐ろしいな」
「そうそう。僕ってば人間やめちゃったからっ」
これ、ヤバイ。
僕、実はちょっと強いかも知れない。
胸が高鳴る。
戦闘の高揚が、さらに血液を沸騰させる。
全身が火照り、肉体が暴力に飢えているのが分かる。
僕は邪魔なペンをポケットにしまい、代わりに右拳を握った。
腕時計を見る。
ーー残り、二分三十秒。