0-1.想いは託された
男は茫然と、それを見ていた。
棺に入った少女は穏やかな表情で眠っている。
その周囲には、彼女を悼む多くの人々。
『なんでだ』
『どうしてお前が、こんな……』
男は絞り出すように声を出す。それが精一杯だった。
葬儀は粛々と進んでいく。やがて棺の窓は閉じられ、外へと運び出された。皆、棺の後を追いかけていく。
棺は霊柩車へと載せられた。参列者がむせび泣く声があちこちから聞こえる。それは、少女が築き上げた絆の賜物だと言えた。
やがて霊柩車は走り出し、去っていく。耳元でまた悲鳴が上がった。
葬儀社の人間が何か指示を出す。参列者たちは彼に従い、ぞろぞろと移動を開始した。男は人々を見送った後、ふと、庭へ視線を向ける。
青い蝶が、どこからともなく迷い込んできた。蝶は羽をはばたかせながら、男の周囲を飛び回る。まるで「元気を出せ」と言っているようだ。
『にいさん』
男が振り返れば、少年がこちらを見上げているところだった。青い瞳が心配そうに男を見上げている。
男がそれに気づいたのと、蝶が男から離れたのはほぼ同時。少年もまた、青い蝶の存在に気づく。
蝶は名残惜しそうに庭を飛び回った後、空の向うへと飛んでいく。男と少年はそれを見送ることしかできなかった。
*
「……あれから、もう2カ月か」
春の終わりを告げるさわやかな風が、男の頬を撫でた。
月光館学園高等部の屋上からは、巌戸台の風景を一望することができた。男はフェンスによりかかり、街並みを見下ろす。紅蓮を帯びた瞳はぼんやりとそれを映していた。
眼下には憎たらしいほどの蒼穹と屹立するビル群が広がっている。あまり開発されていない地区も見えるが、近々再開発されるらしい。
(俺には関係ないか)
男は静かに目を閉じる。
しばし物思いにふけった後、男は足元へと目を向けた。
白い花を基調にした花束や多くの菓子類が供えられている。ここで亡くなった女子生徒を悼む人々が現在でも通い続けてくれているのだ。
彼女の人脈は広かった。学校の生徒だけではなく、商店街の老夫婦や小学生らとも心を通わせ、信頼関係を築いたという。
男は息を吐き、ベンチに置いていた花束と菓子を供える。本当は線香の1本でも焚いてやりたいのだが、屋上は火気厳禁であった。
チャイムが鳴り響き、子どもたちの明るい声が響く。男の脳裏に浮かんだのは、亡くなった家族の笑顔だ。明るく気さくで優しい少女。血は殆ど繋がっていないけれど、大切な義妹だったのに。
急な死を受け入れられなくて泣いていた日々など過ぎ去った。男は自分の手を見つめる。高校生だった頃の手と比べて、傷跡やごつごつした節くれが目立つ。
握った手を青空にかざして、開く。燦々と輝く太陽を掴むことなどできはしない。わかっていると知りながらも尚、男は手を伸ばさずにはいられなかった。
視界の端で、黄色い蝶が空を舞う。男は弾かれたようにそれを凝視した。蝶は男を誘うようにフェンスの向こう側を飛び回った後、巌戸台のコンクリートジャングルへと消えていく。
「……そういうことか、あの野郎!」
男は歯噛みする。本当はもう少し家族の死を悼んでいたかったが、予定変更だ。
慌ただしく階段を駆け下り、事務の人間に帰る旨を伝えた。来客用の出入り口を飛び出し、辰巳ポートアイランドからモノレールに飛び乗る。黄色の蝶は、相変わらず男を姿を現しては消えてを繰り返していた。
男は蝶の後を追い続ける。その果てにたどり着いた場所は、ポロニアンモールの路地裏だった。表通りの明るさと喧騒とは打って変わって、ここは沈黙と薄闇に支配されている。黄色の蝶は行き止まりで羽ばたいていた。
そこへ、青い蝶が近づく。2匹の蝶は踊るようにくるくると飛んでいたが、黄色い蝶は青い蝶から離れ、空へ向かって飛んでいく。役目は果たしたと言わんばかりに。
青い蝶は男の周囲を飛び回った後、壁の向う側へと消えてしまった。刹那、目が覚めるような青が路地裏を照らし出す。
行き止まりだったはずの壁には、青い扉が鎮座している。
その扉が何か、男は知っていた。男は人生で2度、扉の向こうにある部屋に関わったことがある。並行世界の出来事を加えれば3度だ。戦いの記憶が去来する。
男はじっと扉を見つめていたが、意を決したように扉を睨みつけた。扉を通して、その向こうにいるであろう存在を睨んでいるといっていい。
「……よし」
男は軽くストレッチをした後、扉に向き直った。
タイミングを合わせるかのように男はジャンプを繰り返す。
ローヒールのブーツがレンガを打つ、小粋な音が周囲を満たした。その動きに合わせて、左耳だけにつけられた星のイヤリングが揺れる。
そして――
「こんにちわ、久しぶりだなイゴォォォォォォル!!」
充分に助走をつけた後、男は迷うことなく扉めがけて飛び蹴りを叩きこんだ。
*
ぶちぬかれた青い扉は不自然に凹んでいたものの、何事もなく元通りに修理されていた。部屋の主である老人は、所在なさ気に椅子に座っている。
「お、お久しぶりですなぁ」
口では確かにそう言ったが、老人の表情はげっそりしてた。『どうしてここに来たんだ。二度と来ないと思っていたのに』と言いたげな眼差しが男に降り注ぐ。
老人の脇に突っ立っていたベルボーイはおどおど視線を彷徨わせていた。おそらく、主がここまで追い詰められている光景を見るのが初めてなのだろう。
そして、“かつてのお客様”が“あの時のお客様”と関わっているという事実も。
久々に足を踏み入れたこの部屋は閑散としていた。ピアノもアトリエもない、ただ椅子とテーブルと柱時計があるだけの小さな部屋。
部屋を見回したが、住人は彼等しかいないようだった。こんな小部屋に男2人とは、随分とむさくるしいと言うか、寂しい光景である。
男がこの部屋に出入りをしていたときは小さな店舗くらいの広さがあった。しかしこの部屋は、応接室程度の広さしかない。
ライヴ用のステージ、グランドピアノ、アトリエ――見慣れたものは何一つ残っていなかった。
「
部屋の主は居心地悪そうに、そっと自分から視線を逸らした。
沈黙が続く。ややあって、老人は絞り出すように声を出した。
「彼らは“成すべきことを成すため”に、この部屋を後にしました。しばらくは戻ってこないでしょう」
どうやらあの3人は事実上の“お暇”を出されてしまったらしい。
ベルボーイは首をかしげている。自分以外にも住人がいたことに、純粋に驚いているようだった。
2人をしばし見つめた後、男はテーブルの上に置いてあったグラスに手を伸ばした。慣れた手つきで氷を入れて、水差しから水をなみなみと注ぐ。
勝手知ったる他人の家。もとい、勝手知ったる他人のベルベットルームだ。御影町の事件や珠閒瑠市での一件で何度も出入りした経験がある。
住人の数が減っても、物の置き場所はあの頃から変わっていないらしい。グラスの水を一気に飲み干し、テーブルの上に叩きつける。
「して、何用ですかな? 貴方様はもう」
「珠閒瑠の一件でイケメンに整形した元・骨格崩壊肩幅なパピヨンマスクと最近変なものに感化されつつある絶望大好きな這い寄る黒い触手プレイのタッグによる、人類を使った壮大な実験」
「……あぁ、成程。かつての“主”と“這い寄る混沌”絡みですか」
老人は一瞬呆気にとられたようだが、自分の言葉が何を指しているかは一瞬で理解できたようだ。
この老人、普段は不遜な笑い方をする。しかし、その笑いは出てこなかった。代わりにげんなりとした表情を浮かべ、どこか遠いところを見つめている。
流石は人類で実験していた奴の元・部下的存在である。いや、そもそも、
パピヨンマスクの質問に名前を答えた後、真っ先に「あなたの間接はどこですか? そもそもその体格はおかしくないですか?(意訳)」と問いかけたのは、今でも鮮明に覚えている。
その後もこのネタを引っ張っては、弟や仲間達から突っ込みを入れられていたっけ。特に、皇帝のアルカナを所持する弟と法王のアルカナを所持する御曹司から。
当時は『こんな』目に合うだなんて、微塵も予想できていなかった。普遍的無意識の表裏一体存在に目を付けられたのが運の尽きなのか、と、男は苦い表情を浮かべた。
奴らの人類実験はこれからも続いていくのだろう。
勿論、這い寄る何かがもたらす“破滅と絶望”に屈するつもりは毛頭ない。だからといって、パピヨンマスクの“証明”に、ただ使われてやるつもりも毛頭ない。
むしろ、普遍的無意識どもの思惑通りになど動いてやるものか。動かしてなんかやらない。決意を新たにグラスを煽る。2杯目の冷水は、一気に喉を通り過ぎた。
「ウチの可愛い可愛い妹分にお前らが接触したことはわかってるんだ。……言い逃れはさせないぜ、イゴール?」
「ついでに青い蝶の導きだ」と付け加えれば。
「相変わらず、貴方様は恐ろしいお方ですなぁ。
幾何の間をおいて、老人――イゴールは観念したようにため息をついた。
不意に思い出したのは、悪魔と塔のアルカナを所持する友人。「お前、本当は悪魔にも適正あるだろ」と言いながら浮かべた苦い表情と同じものだ。
イゴールとベルボーイは、丁度その友人と似たような表情を浮かべて男――空本 至を見ていた。
*
暗闇の果て。普遍的無意識の宇宙。
その最奥に、至と青い髪の少年は佇んでいた。
「……おい、いいのか?」
「当たり前じゃないですか、至にいさん」
至の心配事を吹き飛ばすような笑みを浮かべ、少年は頷いた。
「そもそも、僕を置いて行こうなんて水臭いんですよ。直接的に血が繋がってなくとも、僕たちは家族でしょ?」
「チカ……」
感極まって口を真一文字に結んだ至に、少年――
その瞳には、ゆるぎない決意が燃えている。もう、言葉はいらなかった。
浮かんでは消える心の光。映し出されるのは、少女を想う人々の姿。
あるいは、少女と彼女が愛した男を想う人々の姿。
『こんな運命など認めない』
『生きて、幸せになってほしい』
彼らの声が、悲痛なまでに響き渡っていた。
それは人々だけではなく、2人の叫びそのものだ。だからこそ、2人はそうすることを選ぶ。
ある少年たちが『罪』を償い『罰』を受けたように、至や千影も『業』を背負うのだ。
「「その嘆きを、その叫びを、その想いを、受け取ろう」」
2人は静かに手を上げる。
足元から青い光が立ち上り、どこからともなく風が吹き荒れた。
「「そして、新しい可能性を――ここに示す」」
その言葉と同時に、タロットカードが浮かび上がる。愚者から世界までの絵が描かれたそれらは、鮮やかな光を放った。
眩いばかりの閃光。この場が青に覆い尽くされたと思った刹那、弾けるようにして消える。光が晴れたとき、最奥にはもう2人の姿はなかった。
代わりに、2匹の青い蝶が飛んでいく。やがて蝶の姿も見えなくなり、普遍的無意識の宇宙は沈黙だけが残った。
――そして。
誰もいなくなった普遍的無意識の宇宙で。
「さて、これからどうするかな」
「さて、彼らはどうするだろうね」
茶髪の少年が嗤った。金色の目が不気味に細められる。
彼の隣には、仮面をつけた青年が佇んでいた。青年は静かな面持ちで、宇宙の底を見つめる。
2人の想いを魂に刻まれた『彼ら』は、一体どんな道を辿るのか。少年も青年も、その答えを待っていた。
少年は鼻歌を歌いながら去っていく。
男は無言のまま、少年が去っていった方向とは反対へ進み始めた。
少年が去った暗闇の向こうでは、夜闇色の触手がうごめいた。
青年の去った暗闇の向こうでは、黄色の蝶が瞬いた。
2人が去った後の暗闇には、ぼろぼろの人形が転がっている。
「「さあ、どうか示しておくれ。我々が見込んだ、我々だけの――」」
*
――これは、ひとつの可能性。
『生きてみたいと思ったんだ』
桜吹雪の舞う学校の屋上に、少年の声がこだまする。
『お前が、俺を生かしてくれたんだぞ』
なのになぜ。
少年の嘆きがこだまする。
『なぁ、いつまで寝てるんだ。……起きろよ』
少年は少女を抱きしめていた。
彼女は、彼の声に反応する様子はない。
『一緒に学校行ってやるから。お前の行きたいとこ、どこでも連れてってやるから。お前の好きなモン、なんでも作ってやるから』
『もう二度と、お前を置いて、勝手にいっちまったりしねェから……』
だから、と。
少年は少女を抱きしめる腕に力を込めた。彼女の左手首に巻かれた腕時計の針は、既に止まっている。
まるで、時を刻むことを止めてしまったかのようだ。
否。もう、少女が時を刻むことは、未来を生きることはない。
その事実を、少年は認めなかった。認められるはずがなかったのだ。
『……頼む。……俺を置いて、いくなよ……!』
悲痛な叫びが、こだまする。
少年は、自分が少女を置いて行くとばかり思っていた。自分がいなくなった世界でも、少女が生きていてくれるとばかり思っていた。
それ故に、“自分が置いて行かれる”可能性など微塵も考えていなかったのだ。“彼女がいない世界”など、存在するとすら思わなかった。
しかし無情にも世界は示す。残酷なまでに、少年につきつける。『彼女の死は、どうしようもないことなのだ』――と。
響く慟哭。変えられない運命。
少年が抱えていた唯一の想いは、大切にしていたかった想いは、彼の手から零れ落ちて消えていった。
――これは、ひとつの可能性。
『ねえ、どうして』
桜吹雪の舞う学校の屋上に、少年少女の嘆きがこだまする。
彼らの視線の先には、穏やかな微笑を浮かべて寄り添う恋人たち。
『2人とも、いつまで寝てるの? ……起きてよ』
肩をゆすろうと伸ばしかけた手は空を彷徨い、誰も何もできやしない。
寄り添う2人は、まるで完成された美術品のような神々しさを放っている。
故に、うかつに触れられないのだ。触れてしまえば、何もかもが崩れてしまいそうで。
呆然と2人を見つめる少年少女の眼前を、青い蝶の群れが飛んでいく。どこか遠くへ、飛んでいく。
幻想的な光景。神聖にして誰も犯せない、あまりにも美しく尊いもの。まるでそれは“絶対の運命”とでもいうかのように、彼らの前に突きつけられる。
『寄り添う2人が永遠の眠りにつくのは、どうしようもないことなのだ』――と。
『ねぇ、どうして』
『2人は、生きて幸せになることが許されないの』
2人を見守りつづけた仲間たちの慟哭。運命に対する問いかけ。
それに答えるべき存在は、どこにもいない。わかっていても、彼らは問いかけずにいられなかった。
――その可能性を、胸に抱いて。
――新しい可能性を、そして未来を切り開く。
想いは託された。
そして、彼らのための