弓取りと雨女   作:hirag

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36話

 

 私が中学生に入って初めての夏休みの出来事だった。

 当時、姉の理矢は大学受験を控え弓道はしばらくの間活動を休止していた。実兄は夏祭りに備えてこの山で流鏑馬の練習をしていた。

 私と姉はそんな兄に差し入れを持っていくために練習場所に向かっていた。7月の後半の割に山中は涼しく、運動不足の姉にもいい運動になると思い、私達は車に乗らずに山道を歩み続けた。

 

「まだ着かないね」

 

「歩き始めて5分しか経ってないよ。お姉ちゃん」

 

「足が棒になりそう……」

 

 傾斜は穏やかだが、木の根や石と岩が歩く道を邪魔をする。歩き慣れていない姉が根を上げるのは無理もなかった。

 ぼやく姉の言葉をスルーしながら歩き続けると何の前触れもなく脇道の茂みが震えていた。

 私が待ったをかけるよりも早く一匹の熊が現れた。クマよけの装備や知識もなく、私達に出来るのは出きるだけ早く逃げるために走る事だけだった。

 時折、後ろを見ると熊は私達を追いかけていた。その瞬間、木の根に足を取られた姉が転んだ。私は転んだ姉と熊の間に入る形に立った。

 

「逃げなさい! 香矢!」

 

「でも、それじゃあ! お姉ちゃんが!」

 

 そんな押し問答をしている間にも、ジリジリ……とにじり寄る。私は姉を背負いながら逃げようとするが、恐怖のせいか足が動かなかった。

 

 熊がさらに寄ってくる。私はもう死んだと思ったその時。風を切る音と同時に蹄鉄の音が近づくのが聞こえた。目を開けると、私達の前に実兄とカゲの姿があった。

 

 兄はカゲから降りて、私達に逃げるように言い聞かせながら弓を引き絞る。弓で熊を倒せるわけない。恐らく、兄もそんなこと知ってるはずだった。

 

 手を伸ばす。しかし、あと少しの所で届かなかった。あと少しで届きそうになったその瞬間、体の所有権は私の中にいる彼に奪われた。私の体は意思とは関係なく。兄から離れていく……

 

 いくら叫んでも、私の声は外にいる皆には聞こえない。引き返そうと手を動かそうとするが、いうことが利かない。

 

 もし、彼が私の体を奪う前に兄の手を無理矢理引いていれば……私が危険予測して、しっかり準備をしていれば、最悪な状況を回避できたはずなのに……後悔の言葉だけが私を包んだ。

 

 私が次に兄の姿を見た時はどす黒い血にまみれた姿だった。

 

______________________

 

俺が覚えている中で一番古い記憶は4歳の時。暗く、気持ち悪いほど静かな部屋で横になっていた。幼い頃から俺には自由な時間なんてなかった。俺が活動出来る時間帯はいつも夜と決まっていた。

 

「香矢。もうすぐ寝る時間でしょう。おいで」

 

氷のように冷ややかな母の言葉が合図。手を引かれて暗く冷たい牢がある部屋に押し込められる。部屋を出ることを許されず、まるで罪人のように部屋に閉じ込められた生活をしていた。

 そんな俺を見かねた香矢は昼間の楽しそうな出来事を話していた。もちろん、記憶を共有している故全て知っていた。彼女が恥ずかしい話や友人の事も……

羨ましい…話を聞いているとそんな感情が沸々と沸いていた。俺だって外を駆け回ったり、アイツらとつまらない話をしたい。そんなことを毎日考えていた。

 

中学になった頃、夜な夜な会いに来る人物がいた。それは実兄の一矢だった。

普通、牢の中にいる人を見ると関わらないようにするはずなのに、兄は俺の所に来ては下らない話や勉強にゲーム機を持ってくるようになった。

どうしていつも牢に来るのか。一度だけ聞いてみた。

一矢は『僕たちが楽しい思いをしているのに、君だけがこんな目に遭っているのは不公平だと思わないか』と答えた。

本当に変わった人だと思った。不公平も何も俺は香矢と同じ景色を見ているのも知っている。

 

 山に行ったあの日、俺は香矢の身体を奪いって逃げた。いや、本能がそうするように突き動かした。

 逃げて逃げて、着いたのは三田牧場。三田さんにありのまま起こったことを伝えると直ぐに猟友会が兄とその熊の探索が始まった。

 三田さんから家で待っているように言われたが俺も参加した。兄と最後に分かれた場所に向かうとそこには血痕と折れた矢が落ちていた。

 そこから数m離れたところに、瀕死の兄の姿が見つかった。救急車で搬送されてから間もなく息を引き取った。

 

 兄は最後に「香矢と共に幸せに生きろ」と云って、俺に香矢の事を託して息絶えた。この日から、香矢は表に出てくることもなく、静かな部屋で耳を澄ますと泣いている声が聞こえてきた。

 

 その後、家の方では家督をどうするのか親戚共が揉めに揉めていた。

当時、家督は長男が継ぐ古い習慣が根付いていた。しかし、その一矢が亡くなった後、有力者が出来るまでは長女の理矢が代理の跡継ぎになった。

 

一方、俺達は親戚や僧侶たちの手により、山寺に送り込まれた。そこでは礼儀作法や勉学など今までの生活が一変するような厳しい教育を受ける事になった。そして、男として生きるように言い聞かされた。

そして、ある日に住職から話があると呼び出しを受けた。

その話とは世間についてだった。

”外では親戚関係者が香矢は急死をして、一矢はショックで山籠もったと友人や関係者に言い広めた。だからそのつもりで生活をしろ”と言った。

 

俺には納得がいかなかった。それは一矢の存在自体を否定するような事。

住職には兄が亡くなった事は公にするべき、と意見を述べたが聞き入れてもらえなかった。

 

 後日、姉が何をやっているか気になって、俺は住職の目を盗んで寺から抜け出した。町に戻るとすぐに姉を見つけることは出来た。しかし、姉は派手に着飾って知らない男に身を寄せていた。俺は怒った。俺たちがこんな苦しい目に合っているのに、どうして姉貴がのうのうと遊んでいるのか。

 

 その日から、俺は怒りに任せて生きてきた。怒りのままに弓を練習を続けて、礼儀作法を学んび、一矢と同じ段まで上り詰めた。いつか、姉貴を超えて俺が上だと照明する。その考えに至った。

 

しかし、それは無駄でしかなかった。

元々、姉が寺に行くつもりだった事や姉貴は俺達のために、その身を犠牲にして俺達の居場所を作っていたことを後々知った。

 

______________________

 

「本当に馬鹿らしい話ですよ。何も知らずに姉に嫉妬して、そして気が付いたらどうしようもない状況になっていた」

 

ぼやくように彼は呟いた。

私自身、初めは彼と同じく怒り心頭だった。しかし、姉の日記を見てからは誤解をしているのではないかと感づいた。

 

「あなたのお母様はあなたの存在を気取られないように座敷牢に閉じ込めていたのでしょう。羽沢さん達を遠ざけたのは、罪悪感のせいですか?」

 

蘭たちからしたら、私はもういない存在。彼女たちの目には背格好が似ている兄さんしか映っていない。真実を知れば、兄を慕っていた彼女達…特にひまりが一番傷がつく。

 

「仕方がないって割り切った。香矢はずっと今までと変わらない関係を望んでいた。しかし、それは叶わない。重鎮が噂を広めた段階で彼女は日の光の元を歩くことも難しい事になった。結局、俺は何ひとつ成し遂げる事も出来なかった。加えて兄の約束すらも守れなかった」

 

「あなたはこれからはどうするつもりなのですか?このまま言われるがままに従うのですか?」

「そうだと言ったら?」

「それは最良の選択ですか?その選択はあなた達は住職の傀儡になるかもしれないです」

「どういう意味ですか?」

「住職があなた達に固執する理由。これを聞いて下さい」

 

彼女は自身のスマホから音声を再生した。スマホからは醜悪な住職と聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 

「嘘だ…伯父まで裏切っていたのか…」

 

住職と話をしていたのは伯父の伊丹景矢の声だった。伯父は姉が事故に遭う前から補佐をしていた人物。その人が私達を騙していたことを信じられなかった。

 

「伯父の狙いは俺達を失脚させてる事か」

「このままではあなたはあの人達の言いなりです。今まで理矢さんが守っていたものが無駄になります。今からでも遅くはありません」

 

「今から遅くない?今更、すべてを話したとして何が変わるんだ!お前は!俺たちがどんな思いをして生きていたと分かるか!慕っていた兄を碌に看取ることも、悲しみに暮れることも許されず、望んでもいない生き方を強いられてきた。姉に負けないために、何もない空っぽの心を埋めるために技術を磨いてきたが、結局、何の成果も得られなかった。信じていた人にも裏切られて。もう、全部!全部!うんざりだ!今更、真っ当に生きたとしても腫れ物のような存在の俺たちを誰が受け入れてくれるんだ⁉」

 

 乾いた声で叫んだ。今更、私が生きている事や兄が亡くなっている事を公にしたとしても、みんなそう簡単に受け入れてくれる訳がない。

 

「目を反らしているだけじゃないですか」

「は?」

 

 顔を上げると彼女は真剣な目をしていた。私はその目を見覚えがあった──瞳の色は違えど、その目から懐かしい感じがした。

 

「伊丹さん。あなたは現実から目を反らしているだけです。傷つくことを恐れ、ただ言われたことだけに従い、抗う事を知らない操り人形。自分自身を見失っている。私にはいまのあなた方がそんな風にしか見えません」

 

「お前はあの人たちの恐ろしさを知らないからそんなことが言える。あの人達は血も涙もない…小さな抵抗も直ぐに押しつぶされる。ましてや相手は祖父の代からの重鎮。俺なんかそこら辺に転がっている石ころ程度の価値しか…いや、俺に価値なんてものはない」

 

「価値がなんです! 価値がない人間なんて誰一人もいません! あなた方はそれに気が付いていないだけです!伊丹さん。この一年であなた方がどれだけの人に影響を与えたか。知っていますか?あなた方から救われた人。あなた方を目指して鍛錬に励む人。あなた方に本当の事を打ち明けて欲しいと待ち続ける人。あなた方と仲直りしたい人。みんな、あなたの事をそんな目で見ていません。改めて言います。あなた方は価値がない人間ではありません。二度と同じような事を言わないでください」

 

 命を軽蔑している私に無価値だと言う彼に。彼女の言葉に重みを感じる。いや、重みだけじゃない。

 

「香矢さん。もう一度、恐怖に…いえ、運命に抗いましょう。あなたはもう一人ではないのです」

 

 哀れみや共感。彼女からは兄の…一矢と同じ眼差しと温もりがあった。

 

「全く、他人の事に首を突っ込んだと思ったらかき乱す。そういう所は日菜さんとそっくりですよ。氷川さん」

「そうかもしれません。お節介だと思われても構いません。それでもあなた達が私にしたように私はあなた達を支えたい」

「ありがとう。氷川さん。俺達はもう少し抗ってみます。最後までありのままに生きて、死んでやろうと思います。だけど、先ずは一矢報いてやらないと」

 

 彼は彼女と握手を交わした。私達ならこの先に何が起こっても、私達なら越えていける。そんな気がした。

 

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