「よし! 一回休憩にしよう」
「ふぅーようやくか。疲れた」
豊中は伸びをしながら、縁に座り込んだ。その姿を追うように斎川は言葉を発する事もなく、ヨロヨロと縁に倒れ込んだ。
そんな男たちの姿を尻目に若宮がやってきた。
「お疲れ様です。伊丹さん」
「若宮さん。お疲れ様。今日も絶好調ですね」
「はい。本番が近づいていますので、やる気満々です!」
姉が目を覚まして2日が経ち、今日から本番まで後1日まで迫っていた。
学校では冬休みに入ると学校閉鎖になり、その関係で急遽、私の家の道場で練習することになった。
「その意気込みは良し。本番も期待していますよ。ところで氷川さんの姿が見えませんが……」
「サヨさんなら先ほど屋敷の奥に行きました」
「そうですか。お茶を入れるので若宮さんもゆっくりしていてください」
「はい! ありがとうございます」
若宮が去っていくと井波が入れ替わるように近づい来る。
「……無事に何とかなってよかったね。これ返すよ。じゃあ、あとで」
「これは……」
一冊のノートを差し出してきた。中身を見ると一面が古文で埋め尽くされていた。文字からして姉が書いた物と思われる。
顔を上げた頃には井波は姿を消していた。
「香矢さん。お疲れ様です」
井波の代わりに紗夜の姿があった。彼女とはあの日以降、二人きりの時には私の事は本名で呼ぶようになった。
「紗夜。お疲れ様。あと……さん付けはやめてください」
「……呼び捨てにするのには慣れてなくて……」
「そのうち慣れますよ。今からみんなの分のお茶を入れようと思っているけど、少しいい?」
彼女の二つ返事を聞き、台所に入ってから慣れない手つきで湯を沸かす。
「まだ、何か悩んでいる事があるのですか?」
湯呑に適当な茶葉を放り込んでいると何かを察したのか訊ねた。
「明日は雨が降らないかなって心配しているだけだよ。私は雨女だし」
「そんな単純な事ではないのでしょう。もっと深刻な事で悩んでいる。違いますか? ちなみに私も少し前まで自分の事を雨女だと思っていました」
彼女に隠し事は通用しない。名前について悩んでいる事を話した。
「名前ですか?」
「戸籍上では私は兄の一矢になっている。姉曰く、家庭裁判所に行けば名前を変える事が出来るって……でも、名前を変えてしまえば、兄がいた証拠が無くなってしまうそんな気がして……」
私達の正体がバレてしまった以上、兄に残されたのは名前だけ……でも、兄の名前をこれ以上、名乗って人を騙していいのか……
「香矢。吹き零れています」
「ヘぇ? ああっ!? やっちゃた……」
急いで火を止めたが時遅し、私が気がついた頃にはコンロはびちゃびちゃに濡れていた。
その時、脳内で『掃除しろよ』と彼の声が聞こえてきた。
「名前についてですが、それはあなたが決めてることです」
「そうだよね……誰かに甘えてばかりではいけないよね」
「ところで湯呑が1つ多いですが……」
「あぁ、そろそろもう一人のお客さんが来るはずだから」
コンロ周辺の掃除を終え、小さく溜め息を付くと同時にインターホンが鳴った。
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来客とは住職の事だった。香矢さんは住職を客室に通すと何故か私も話を参加するように声を掛けた。
「なぜ、彼女がこの場にいるのですか?」
「今から話には氷川さんも関係しますので、同席をお願いしました」
ふんっと住職は鼻を鳴らしながらメガネを位置を調整すると、お茶を啜る。
この人の態度からして香矢さんを舐めている事が見て取れた。
「それで何かあったのですか。こんなところに呼び出して。拙僧は準備で忙しいのですが」
「その準備は会場に仕掛けですか?」
「! どこでそれを知った?」
住職は目を見開いた後、苦虫を嚙み潰したような顔をした。そして何かブツブツと呟いた後に気が付いた様子を見せた。
「貴様、香矢だな! 今更、引きこもっていた小娘が姿を現すとは何を考えている?」
「私は成し遂げたい事がある。そのために私は戻ってきました」
「身の程を知らぬ小娘が世迷言を……お前には何が出来る? 第一、拙僧の悪巧みの証拠なんてどこに……」
「証拠ならここに……」
彼女はテープレコーダを再生する。それを聞いた瞬間、住職は焦りのあまり額から脂汗が滲み出ていた。
「話してもらいますよ。何を企んでいるのか。さもないと……」
「さもないと、なんだ? 貴殿のような継ぎ接ぎな人間。もう一人の人格のお飾り程度の貴様に何ができる」
「回答によって、今回の件は目を瞑ろうと考えていたが、もういいです。今回の件を踏まえて寺への出資を停止します」
その言葉が彼女の癪に障り、姿からも苛立ちの気配があった。
「な! ふざけるな! そんなこと出来るはずが──」
唐突に住職はグッと言葉を堪えた。彼女の方に目を移すと一枚の紙を住職に見えるように広げていた。後にテーブルの上に置いた。その紙には任命状と書かれていた。
「状況を理解出来たようですね。あなたに残されたのは全て話すだけ。それ以外に何をもって貴様の不義理に報いる」
その言葉は冷たくて棘があり、住職を睨みつける青色の瞳には、静かだが抑えきれぬ激情があった。
勢いに気圧されて黙り込む住職。しばらくすると口を開いた。
住職が運営している寺は孤児院の役割を持っており、ここ近年で後継ぎ問題が浮上していた。他の人が来ても数ヶ月すれば出ていってしまう。そんなことが繰り返されていた。
そこで昔、寺にいた香矢さんを欲しがった。
ただそれだけの理由の為に理矢さんを……剰え、香矢さんを危険な目に遭った。
「拙僧はあの男の話に乗っただけで、仕掛けについては何も知らない。ただ、的の作成には時間が掛かったと言っていた」
期待外れだった。と言わんばかりに彼女は小さくため息をついた。
「それなら白髪のじいさんの事も何も知らないのですね」
彼女の問いに対して、住職は頷いた。
「そうですか……本日は結構です。お引き取り願います」
彼女は立ち上がると客室を出て行く。その後ろを追いかけていくと彼女は倉庫の中に入って何かを探していた。
「あれでよかったのですか?」
「えぇ、あの人は主犯じゃない事が確認できたので用無しです」
「それならどうするのですか? 本番まで時間がありませんが……」
「正直なところ言うと打つ手なしです。そうとなればやることは決まっています。あった」
彼女の手には埃にまみれた矢が三本握られていた。しかし、その矢は普通の矢より一回り、いや、二回りほど大きかった。
「香矢さん。これは何ですか?」
「見たまんま矢だよ」
きょとんとした顔をしながら彼女はそう答えた。
矢についた埃を払うと私の後ろに立てかけていた布を取った。そこには大きな弓があった。
「これは祖父が残した家宝。姉は私が知らない間に直していた。本来、これは大切な儀式の時に使うもので普段使うことを設計されていない弓。ほら、下部には弓には必要無いものが付いているでしょう」
弓の下部には鉄製の杭みたいなものが付いていた。
「これはアンカー。これがないと姿勢が安定しなくて危ないからね」
彼女は外に出ると大弓を地面に突き立て、的を見据えて弦に指をかける。素引きを行うと風を切る大きな音が響いた。
「痛った!」
手を確認すると指の皮は剥がれていないが真っ赤になっていた。
「大丈夫ですか⁉」
「平気ですよ。これくらい……」
「先ほど、その弓が弓道を始めるきっかけっと云っていましたが……」
「この家宝は継承の証。家督を継ぐ人物が力の証明として重鎮の前で射る。私は幼い時に一度だけこの目で見たことがあった。その一連の動作は半月のから流れ落ちる流星のように輝きを放っていた」
私は彼女の横に並び大弓を眺めた。
その大弓は特殊な装飾はなく、太陽に照らされて漆黒に塗られた身が光を反射していた。
「さっきの話だけど、打つ手がない以上はこのまま臨むしかない。ほら、ことわざにもあるでしょう。虎穴に入らざれば虎子を得ずって」
彼女は満面の笑みを浮かべながらそう言った。私や理矢さんが危険だと。止めた所で彼女は考えを改めないだろう。
「私の意思は──この矢はどんな輝きを放つのだろう」
どこまで飛ぶんだろう」
「それはあなた次第で変わるはずです。足元に落ちる石になるのか。亡き一矢さんの遺志を継ぎ、その二人の……いえ、三人の思いが籠った流星になるのか」
「遺志を継ぐ……そうだね。よし! 決めた」
何かを決意した彼女は三本の矢を手にし、腕を高く上げた。
「私は兄さんの遺志を継ぐ。兄が成し遂げられなかった夢を叶える。その時は私達の傍にいてくれるかな?」
誰もが公平な世。それが香矢さんから聞いた。一矢さんが弓を伝えで成し遂げたかった事。神事や家の仕来りとは関係なく純粋な願い。
私を見つめる彼女の目。その姿からは静謐な覚悟と灼熱の気迫を感じられた。
「分かりました。この先、あなた方がどんな道を進むのか。見届けさせていただきます」