「青様、着きましたよ!」
橙の元気な声と共に、様々な人間の声が青の耳へと入って来る。
屋敷を出てから半刻程経っただろうか。青と橙は無事に人里へと到着していた。日頃から寺子屋に通っているおかげだろうか。初めて青の案内をしているのにも関わらず、その足取りには迷いがなかった。
「橙、随分と簡単に入る事が出来た様ですが、この里には門番の様な方はいないのですか?」
「いえ、門番はいますよ。でも橙は門番の人と顔見知りなのですぐに通して貰えるんです」
なるほど。青は心の中で納得する。しかしいくら顔見知りとはいえど、門番にとって自分は未知の存在の筈だ。顔見知りが連れて来たという理由だけで通しては、あまり門番としての意味をなさないのでは無いだろうか。まぁ人間の門番が妖怪相手に意味があるのかというのはまた別の話になるのだが。
「それはわかりました。それで、橙は私を何処に連れて行ってくれるのですか?案内を志願したということは、何処か連れて行きたい場所があるのでしょう?」
「あ、はい!青様には寺子屋に来てもらいたかったんです。今日は授業があるので」
「寺子屋…姉様も仰っていましたね。自ら勉学に励むのは素晴らしいことですよ」
「えへへ…それで青様にはその授業を聞いて欲しいんです。橙は頑張りますから!」
つまり自分の成長を感じて欲しい、彼女はそう言いたいのだろう。昔は藍もその様な時期があったなぁと過去を思い出しつつも、青はニコリと微笑む。
「わかりました。では寺子屋まで案内してください」
「はいっ!任せてください!」
橙は青の言葉に元気に返事をし、彼の手を取って人里を歩いて行く。青としては引っ張られるので少々スリルがあったが、偶にはこういうのも悪く無いだろうと思い、橙に案内を任せるのであった。
「もうそろそろ着きますよ」
「はいはい、別にもっとゆっくりでも構いませんよ?まだ授業が始まる時間では無いのでしょう?」
青の言葉に橙は少し立ち止まって、やがて先程よりもゆっくりと歩き始める。どうやら青の指摘で自分が彼を引っ張って歩いてしまっていることに漸く気づき、興奮が収まった様だ。
「すみません…青様が来てくれるのが嬉しかったので…」
「いえいえ、喜んでくれるのは私としても嬉しいですよ。しかし、常に冷静さを忘れてはいけません。興奮しすぎては、何事も失敗してしまいますよ」
「はい、気をつけます!」
橙の返事に満足そうな笑みを浮かべる青だが、すぐにその表情を崩す。
「青様、どうかなさったんですか?」
「橙、何か匂いませんか?いい香りが…」
「におい、ですか…?」
青の言葉に橙もスンスンと鼻を動かすが、特に普段と変わりない。何だろうと思い周囲をキョロキョロと見回すと、その要因である可能性を持つ物が一つだけ目に入った。
「あ、あそこに花屋さんがありますよ!ひょっとしたら、お花の匂いじゃないですか?」
「花の匂い…確かに、微かに土の香りもしますね。それが原因かもしれません」
「青様は鼻が良いんですね。私はわかりませんでした!」
「えぇ、橙にも以前話しましたが私は視覚が効かない分、他の感覚が鋭いのですよ。人間にも似たようなことがあります」
「そうなんですね…」
「それにしても花を売るなんて、人間は商売に関しては面白いことを考えるものです。花は素晴らしいものですから、利益もあるでしょうし」
「確かに花は綺麗ですけど、その…青様にはわからないじゃないですか」
少し躊躇ったが、橙は言葉を投げかける。青は辛そうな声音の彼女を安心させるように撫でつつ、言葉を返す。
「確かに私は花を見る事は出来ません。しかし花の魅力は見るだけに非ず。その香りも、質感も、内に秘めた強さも、全てが素晴らしく、尊いものなのですよ」
「・・・橙にはわからないです」
「ふふっ、橙には少し難しかったかもしれませんね。花は見るだけでも十分美しい物ですから、中々他の魅力に気づきにくいんです」
ほら、こんな所で立ち止まっていないで寺子屋へ行きましょう?そう言おうと口を開きかけた時、
「やっぱり貴方はいいわね。ここまで私と気が合う人は他にいないわ」
「――!」
聞き覚えのある声と共に、青は突然背後に凄まじい気配を感じる。一体いつから、その存在は自分の後ろにいたのだろうか。
咄嗟に後ろを振り向くと、それを予測していたのか目の前の彼女は顎から手を滑らせ、青の頬を撫でる。
「・・・やはりこの里の警戒の薄さには些か問題がありますね。貴女の様な妖怪が平然といるのだから」
「それに関しては同意するわ。それにしても、貴方と太陽の下で会うなんて思ってもみなかった。随分と久しぶりね、青」
「えぇ、本当に久しぶりですね。幽香」
自分の目の前にいるであろう人物は風見幽香。友好度極低、危険度極高の妖怪だった。その存在は妖怪にすら恐れられており、紫や青達大妖怪クラス以外に彼女と関わりがある者は殆どいない。一般的には彼女は花だけを愛し、それを汚す者には容赦はしない残忍な性格として知られている。
「青様…」
「大丈夫ですよ、橙」
すっかり委縮してしまっている橙を自分の方に寄せながら、青は幽香を見上げる。
「紫から外出許可でも出されたのかしら?信じられないわ」
「つい一昨日のこと…ですがね。幽香は一体何をしにここへ?」
「私は特に用なんて無いわ。ただ当てもなくフラついていただけよ」
「・・・貴女ってそんなに放浪癖のある妖怪でしたっけ」
「そういう貴方は何を――式神のお守りかしら?」
「違いますよ。私がこの子に案内されているんです」
「へぇ…」
ニヤリ、と。彼女の口が歪んだのを彼は何となく察した。あぁ、もの凄く嫌な予感がする。彼女は何処かの土着神の様に粘着質なのだ。
「なら、私の家に来ないかしら?」
「人の話を聞いていましたか?」
「えぇ、聞いた上で誘っているのよ。大丈夫、ただ夜になるまで一緒に紅茶を飲むだけよ」
「それ、絶対に適当に理由つけて朝までコースですよね?紅茶だけで済むんですか?」
「私、自分の欲を抑えるのは嫌いなの」
「貴女と言う人は本当に…何処までも妖怪らしい」
「ふふっ、誉め言葉として受け取っておくわ」
さて、どうすれば彼女から逃れられるだろうか。仮に青一人だったのなら、彼女の誘いを受けても構わなかったのだが、今は自分のことを楽しみにしていた橙がいる。やはり身内として、彼女を優先したい。
そう考えていた時、彼の横を何か――誰かが通った。今の自分の近くにいる者は目の前の風見幽香と橙しかいない。つまり、橙は自分の後ろから自分の前、風見幽香の前に立ったのだ。
「青様は橙と一緒に寺子屋に行くんです…!」
青としても、橙のこの行動は予想外だった。先程まで本当に猫の様に縮こまっていた彼女が自分の前に立つなど、誰が想像しようか。
「・・・愚かな化け猫。彼に貴女程度の頭脳しか無いとでも?」
不味い。幽香の声は、先程と比べて明らかにトーンが下がっている。ここで戦闘になるのは非常に勘弁して欲しい。自分も橙も、里を出禁になる訳には行かない。
「青様に私の頑張っている所を見て貰いたいんです…!だから、青様を渡す訳には行きません!橙は今は、青様をお守りする立場ですから…!」
「橙…」
あぁ、この子はこんなにも成長していたのか。青は心の中で感動した。彼女も紫から、藍から、風見幽香の凶悪性は聞いていたはずだ。その恐怖を知ったうえで、彼女は自分を守ろうとしている。
暫くの間辺りは静寂に包まれるが、やがて幽香のはぁ、という溜め息が聞こえた。
「・・・いいわ。彼女の蛮勇に免じて、今日は大人しく帰りましょう。青、いつか必ず貴方を私の物にしてあげるわ」
出来れば身内の前で、その話はしないでいただきたいのだが。
「私は誰の物にもなる気は無いんですけどねぇ――」
「――少なくとも今は。でしょう?」
クスリという笑みが聞こえた後、目の前から幽香の気配が消える。恐らくは空を飛んで帰ったのだろう。
「橙、ありがとうございました。私を守ろうとしてくれたこと。とても嬉しかったですよ」
「い、いえ!橙は藍様の代理ですから!」
「さて、命がけでお願いされてしまった訳ですし、行きましょうか。寺子屋へ」
「はいっ!」
青の言葉に橙は元気よく返事をし、再び彼の手を引いて寺子屋へと向かって行く。式神としての役目を初めて果たすことが出来た彼女はいつもよりも誇らしげで、上機嫌だった。